取り調べ
日常のめくるめく繰り返しのなかで、ふと些細な事柄によってぽっかりとした心の穴が生まれるようなときがある。大概の穴は時間によって埋め合わされて消失するが、心の闇に敏感な者たちにはその穴が人並みの何倍にも広がってしまう。特に他人にとってはどうでもいいことに限って本人にとっては人生をかけたような出来事であることがよくある。時が過ぎゆけば、あのときの自分はなぜあんなに小さいことで悩んでいたのかと不思議に思うが、当時の自分にはその当時の状況しか与えられないのだから、当然だが悩む対象はその状況に限られている。つまり私たちの生きる目的はすべて目の前の状況に依存する問題を解決することにあり、その解決のためにはやる前から結果論のように楽になって思い悩むことを放棄することなど到底かなわないのである。だからわたしたちはときにわざと無為の時間をつくり、自己に直面する処世上の苦痛を結果論として逃げるように見つめている。逆にそうしなければ苦悩によって自己が破壊されるのを指をくわえてみていることにほかならず、わたしたちは極端に弱い存在だから今まさに起きている事象が一体何なのかさえ十分に認識できない。たとえ自分に関係のある出来事であっても半ば他人事のように冷徹な視線を向ける残酷さがわたしたちの本質であり、そうしなければ自己を守ることさえ容易ではない。
ところがここに登場する一人の痩せこけた青年はそういう人間の冷たさをよく知っていて、この世に腐った悪質な人間しかいないと真に思い込んでいるおめでたい人であるから、汚さに落ちていく自分を自覚するのに心底毛嫌いしている。悪質であるから偽りであるとか現実から離れているということなど誰も言えないし、むしろ実際は逆で穢土こそ真実で浄土はどこにもないというのが本当のところだと思うが、彼は穢土の中にある浄土の性質を信じてやまない誠に清潔で美しい観念を有しているのだ。しかし皮肉にもそういった空白の美しさが彼をあまりに表面的で実のないつまらない人間へと変貌させており、彼は気づいていないかもしれないが世俗的な人間よりもよっぽど現実味がない。思考を深めれば深めるほど彼がもたらした穴は徐々に大きくなり、ついにその穴に落っこちて人間になれないようなところにまで来てしまった。彼は今絶望の淵にいる。
何が、何の影響が青年をここまで落としたのかそれは誰にもわからない。しかしもっとも高潔な人間になりたいと世界中の誰よりも切望しているにもかかわらず、彼はもっとも低俗で人格を蔑まれる行為をしたといえよう。見ず知らず、縁もゆかりもない人を傷つけてしまったのだ。大学からの帰り道、夜空を見上げながら空想にふけっていた彼は、自分の宇宙に引きこもっていた。安らかないい気持に浸っていると突然後ろから肩をたたかれてこう話しかけられた。
「すいません、ちょっと道をお尋ねしたいのですが。」
今まで自分だけの世界の中にいた彼は、突然もとのつまらない世界に真っ逆さまに落ちてきたような気がした。具体的で目に見えるすべてのものに彼はうんざりしていたのだ。現実世界の中の美に心酔していたはずの彼は、いつのまにかあまりに現実的なものを自身の精神から排斥するようになっていた。道を教える。そんな単純で具体的な欲求がただただうっとうしかった。瞬間、彼は自分に話しかけてきた小太りで品のよさそうなおじさんの横っ面を思いっきり殴っていた。しかしそれは別に誰でもよかったのだ。おじさんには怒りの感情など一つも抱いていなかった。ただ、彼は目の前の現実を破壊する欲求に駆られていた。それだけにすぎない。
おじさんは不意打ちを食らって頭から後ろへ倒れそうになった。青年はなお自らの利己的な衝動に耐えることができず、倒れそうなおじさんの脇腹に右足で思いっきり蹴りを入れた。瞬間、おじさんの骨が折れる鈍い音が微かにした。おじさんは後ろへ仰向けに倒れた。頭をしたたかに打って気絶しているようであった。自らの欲求に身を任せ動物的になっていた彼がわれに返ったとき、そこには白目を剥いて泡をふいて倒れているおじさんの姿があった。彼は狼狽した。微塵も、人に危害を加えようなどとそんなことは意識してなかった。驚くべきことに、彼は自分が何をしたのか全く覚えていなかった。安らかな天国にいたような気がするのに、いつのまにか目の前に人が倒れていたというのが彼の記憶の本音であった。ただ、右足に残っている骨を折ったときの確かな感触だけが彼が犯人だということを示していた。
その感触にはどこにも人間的なものが感じられなかった。そこには無意識の自分に対してあまりにも従順になっている愚かな動物性がどうしようもない程溢れだしていた。彼は自分が人外の獣になったことをようやく自覚し、取り返しのつかない絶望を自分に与えてしまったことを悟った。しかしむしろ自分の中に野生児がいるということがはっきりしたからだろうか、彼は幾分冷静に野生の自分自身に問いかけた。もはや、僕たちに残された道は一つしかない。この軽はずみの、何の理性も思慮もない罪を自らに裁くことだ。死んでしまうことだ。もとよりこの世界にはなんの未練もなかったのだ。警察なんていう国家組織に自分の罪の重さを任せてはならない。自分がしたことは、一番僕がわかっている。人間でなくなった以上、人間が気持ちの悪いほどうようよいるこの世界で生きていけるはずがないではないか。彼はなんとなく快活になっていた。さあ、どんな方法で死んでやろうか。そのどす黒い濁った目でどれも一度しか使うことができない膨大な数のカードの中から何を選ぼうかと、彼は一心にのぞいていた。もう現実を破壊したから、自己を破壊するしか選択肢がなかったのである。長い熟考の末舌を切ってやろう、そう思い立った瞬間パトカーの鳴り響く音がした。だれかが彼の犯行を発見し、通報したのであった。間もなくして彼は警察官に連れられてパトカーの中にいる自分を見出だした。
青年は全く興ざめの思いであった。この世はなんと窮屈であることか、死ぬことすら自分で自由に選ぶことはできないのである。社会というのは助け合いだと聞くが、彼に言わせれば個人の崩壊であり、ただのお節介であった。何事もなすことはできないように感じていた。特に大人というのが極端に嫌いだった。大人はもちろん口うるさく言ってくるような者もいたが、大概が沈黙を介して彼を罵倒していた。沈黙の恐るべき圧力が大人たちの脅威であり、大人は自身が十分に汚れているにもかかわらず、そういうことを自覚せず、いやむしろ自覚するということを意図的に忘れて、立場に守られながら必死に権威を示そうとする。彼は欺瞞が大嫌いで、だからパトカーに乗せられているいま、隣にいる警察官の沈黙を憎んでいた。沈黙という行為が、警察官を全く印象のない社会の一部に変えてしまい、人物像がつかめない個性のない、ただの立場に操られる人形に変えてしまったような気がした。話してくれれば、つけ入る隙はあるのに。青年は落胆の思いであった。誰だかわからないという不安が、警察官を立場以上の化け物に変貌させていた。だから沈黙という嘘が彼は大嫌いだった。
しばらくしてパトカーは警察署に着き、青年は取り調べを受けることになった。警察官に連れられて、小さな一室に彼は通された。そこには、頭頂部が禿げかかった偏屈で気難しそうなオヤジーおそらく刑事さんであろうーが椅子に座っていて、横柄に渋い顔をしていた。刑事さんの前には小さな机があり、ちょうど刑事さんからみて向かいの椅子に彼は座るように言われた。
青年はこの取り調べの場面で、もとより何も言う気はなかった。この汚いオヤジがざっくばらんにありとあらゆる説教を垂れて、ただ自分の権威を誇示し、青年の罪を認めさせる、事実として認識させるだけなのだ。存外つまらない話だ。オヤジが醸し出しているとてつもない緊張感というのに萎縮しながらも、彼は内なる沈黙という暴力によって必死に自己を守ろうとしていた。本心を言わない。それだけが彼の持ちうる権利で、自己を封印し、閉じ込め、他者との隔絶を遂行することが皮肉にも彼自身を認識する消極的な手段であった。彼が椅子に座ると、刑事さんは次のように切り出した。
「今日18時にお前は見ず知らずの中年男性の左の頬を殴り、右の腰の部分を足で蹴った。間違いないな?」
刑事さんは睨み付けるような目で青年をみた。青年はその恐ろしさに押されたが、小さな声ではい、っと答えた。
「その行為はな、立派な傷害罪だ。お前が傷つけたオヤジは一家の大黒柱だぞ。そのオヤジが3ヶ月の間病院にいなくちゃいけないんだ。その罪のでかさが、お前にはわかるか?」
刑事さんの言葉に青年は思わずうつむいた。だから、生きたくなかったのだ。自分の罪の重さが自分そのものの価値に釣り合わない。そのアンバランスなど、わかりきっていた。ここに来るつもりはなかったのだ。彼は逃げ出したかった。何の脚色も含まれていない、ありのままの現実ほど人を残酷に追い詰めるものはない。彼は自分の罪の窮屈さに辟易していた。自分自身の存在さえ誰にも必要とされていないと思うようになっていた。自分の内側からあふれでてくる激情を必死に抑えながら彼は次のように答えた。
「僕がやったことは一番僕がわかっています。軽はずみの気持ちで他人に危害を加えてしまいました。その罪はそれ相応に償いたいと思います。」
できるだけ感情をわざと排して真面目くさった物言いができるように彼は努めた。彼の本心が、誰にも気づかれないように。怯えながら、必死に守る自己を彼は感じていた。なぜだろう?こんなに死にたいのに。彼は自分の行動の不可解さ、不思議さに呆然とした。どうせなくなる、滅びる自分をどうして守る必要があろうか?それならいっそ、このオヤジに自分もろともすべてを破壊してもらった方がよいのではないか。この世で起こっている何もかも。自分の罪も、残酷な現実も、すべてまやかしに帰ってくれ。彼は刑事さんの言葉を期待して待っていた。できるだけ辛辣な言葉がほしい。自分自身の根源的な悲しみを代弁してほしいと強く願っていた。しかし刑事さんが放った次の一言はまったく予想外のことであった。
「ああ、つまらんつまらん。そんな真面目くさった顔で真面目くさったことを言われてもなんも面白くないわ。なあ、なんであんなことしたんだよ、俺に教えてくれないか。」
彼は自分の耳を、それから目を疑った。刑事さんの態度はがらりと一変していた。先程までは緊張感が張りつめていた尖った目をしていたのに、眉毛が突然おおらかな曲線を描く優しげな目になり、今まで足を組んで遠くから彼を見るような横柄な態度をしていたのに、それが足を組むのをやめて腰まできちんと座り直している。今までの取り調べでは厳しい印象を受けていたが、彼はいきなり刑事さんに優しい口調で話されて当惑した。しかしすぐさま、すべてを了解した。これは巧妙な罠にちがいない、犯人の本心を聞き出すための。張りつめた緊張感の中、それがいきなり緩んだときほど人を安心させるものはない。しかしそういう人間の特質なんて彼は十分に理解していたから、先程よりもよりぶっきらぼうで、まるで赤の他人がやったことかのようにこう返答した。
「自分のそのときの心情なんて僕は何も知りません。動機なんていうのもよくわからないです。衝動的にやったものです。」
彼は内心幾分得意になった。なんだ、刑事なんて大したことないじゃないかよ。こういう具合に奥歯にものが挟まったような塩梅でごまかしていけばよいのだ。実際簡単なものだ。彼はすべてに無気力な自分をそのままに演じていた。
「だよなあ。自分がやったことの動機なんてよくわからんよなあ。自分の過ちほど、その出所がわからんものはない。行為にはすべからく因果があると、そう思うのが世の常で、とりわけ俺たちみたいな職業じゃ、そういう論理でしか現実を見れない病的な奴がいるもんだが、考えてみたらよ、容疑者君。そんな風に自分の行為の原因を克明に、論理的に、残酷に打ち明けることができる奴が犯罪なんて起こすわけはねえんだよ。冷静に自分の行為を見つめることができる奴は理性的な世界の申し子で、一番厳しく自分を統制できるんだ。そんな奴が、犯罪なんて犯すわけはねえ。そうだよな?」
刑事さんはそう言って彼に同意を求めてきた。彼はそのとき痛烈に思った。この人は、変な人だ。自分が刑事である癖に、動機というものの存在を疑っている。そして一番刑事らしい人が病的だと豪語している。異端、という印象が彼の心を捉えていた。何を言っているんだ。犯罪を犯している僕自身がよっぽど異端じゃないか。彼は自身を省みて、そしてふと自分の内からこみあげてくる笑いを制することができなくなっていた。彼は明らかにこの場面において、刑事さんよりも社会的に立場が低く弱い存在であるのに、刑事さんはまったく自分と同じ人間であるような気がしたのだ。この場において、ただ刑事さんに虐げられるだけの哀れな存在であるはずなのに、まるで旧友に久しぶりに会ったかのように懐かしい思いで、彼は刑事の彫りの深い顔を見つめていた。彼がにっこりと微笑すると、刑事さんもつられてにっこりと笑った。彼はこの人になら何を話してもいいように思った。
「実は僕、大学の同じサークルで知り合った女の子にふられてしまって。それでむしゃくしゃしていたんです。もう何も信じられなくなって、目の前の現実がぐちゃぐちゃとした何かわけのわからぬ渦巻きのように見えてしまって。他人の顔が歪んで見えるんですよ。生きる確かな感触が全然失われてしまったのです。一体何のために生きているのか皆目わからなくなってしまって、ただ何も感傷を抱かない獣の目で日常の雑務をこなすことだけが僕の生きる意味でした。しかしそんなこと意味なんてないようなもので僕は生きる屍だったんですよ。でもそうなってしまってもどうしようもないではありませんか。自分の思考をやめなければいつだってふられた子の笑顔を思い出してしまうのですから。最近になって帰り道に夜空を見上げるのが好きになったのです。こうしていれば、すべて忘れられるような気持ちがしていて。夜空の暗闇に我を失って飛び込んでいるときだけ、生きていると感じることができるのです。その感触を中年の男性に邪魔されました。それで、暴行をしたのです。」
彼は自身が理解できる範囲において過去の彼の行動を詳細に分析した。刑事さんに話しながら、自分のどうしようもない弱さ、それに対する悲しみに彼は打ちひしがれそうになった。どうしてつまらない自分たった一人の意識の変化のためにまったく関係のないおじさんが被害を受けなければならなかったのだろうか。彼は刑事さんの叱責を望んでいた。自分なんか消えてなくなればいいと思っていた。
青年は刑事さんの顔を見た。すると刑事さんは女子高生が恋バナをしているときのようなキラキラした目をして、うんうんとうなづいているのである。すっかり彼は度肝を抜かれてしまった。いま自分に起こっている罪の意識を刑事さんの鋭い声によっていっそう強めてほしいと彼は思っていたのだ。しかし刑事さんは、そういう彼の生存に対する根源的な不安を若者が青春時代において持つ一過性の特別な感情であると了解しているようであった。
「おれも君くらいのときには、あらゆる自分の周りに蔓延している矛盾に腹が立ったものだよ。自分の幸せを願って生きているのに、どうしてどこにも幸せがないのだろうとね。実際、焦った。なんとかかんとか、がむしゃらに自分を幸せにしようとしているのに不幸になるばかりだ。わけのわからなさを感じたよ。でも容疑者君、あるときようやくわかった。自分の幸せが手にはいるようになんてこの世界はできていないのだということをね。自分自身の幸福を求めるなんてことはあまりにも自分勝手な願望だということをね。実のところ、おれたちはこの世界を自分からしか見ることができないから、勘違いしてしまうのかもしれない。この世界は自分のもので、自分が幸せになるためにあるとね。でも本当のところは、まったくちがっているんだ。おれたちは、誰かのために生きるしかない。他人が幸せになるために行動しなければいけない。
なあ、容疑者君、もう見栄を張るな。虚栄を張るな。楽になろう。自分の檻から脱出しよう。自分が、唯一無二の独立した存在だという思い込みはやめろ。必ず君は誰かとつながっているということをわかってほしい。自分が、自分という存在が、ただ一人きりしかいないなんてことは絶対にないんだ。」
青年は刑事さんの言葉をにわかには信じることができなかった。あらゆる自身の感覚を否定しても唯一本当にあると感じることができる自我を捨てて、いるのかいないのかわからない他者に奉仕をすることが真実の人間の人生なのだろうか。自分を確固としてもち、自らを幸福へと導くことは人生の間違った道なのだろうか。彼にはなにもわからなかった。
しかし結局、他者というのが自分の意識の産物であるのと同様に、自分というのも自分の意識の産物でしかないような気が、彼にはしてきた。そしておそらく、自分の目から何かを見るというのでは何も理解することができないのであろう。この世界のことを、そして自分のことでさえも少しでもわかろうと思えば、他者の視点が必要になるのだ。自分に閉じ籠っていてはすべてが幻のように無意味に見えてしまう。
頭ではそのように理解できても、彼はまだ、経験としては混沌としたものとしか現実を認識することができなかった。しかしそれでよいではないか。いつかはっきりと、この世界が他者への幸福にあると、そしてその幸福こそが自分の幸せなのだとわかるときが来る。そのときまでは、できるだけ自分を排して他人のために生きなければなるまい。その努力の先に本当の世界があるにちがいない。
彼は十分に自分の未来の指針が見えてきたように思えたが、しかしそれでも自信はなかった。こんな情けない自分、人に自らの不幸を押し付けるような自分が、一体他人の奉仕などすることができるのか。そうだ、僕は獣だ。彼は心のなかで叫んだ。もはや人ではない僕が人に尽くすことなど不可能なのではないか。
「刑事さんの言っていることはよくわかります。僕はこれから他人のために献身しなければならないのだと思います。しかしそんな資格、僕にはあるのでしょうか。この手で、この汚ならしい手で人を傷つけたこの僕が。僕にはできない、僕にはできないのだと思います。人を愛するという人間の尊厳を失ったのだから、人として生きていくことは恥なのだと思います。死んでしまった方がいい。生きていることは人間への冒涜にほかならないでしょう。」
青年は言いながら頬に涙が伝ってきた。この意識の根源から涌き出てくる不安。もういいじゃないか。彼は苦しみから死によって解放されたかった。自分が犯したことはどうにも取り返しがつかないことだ。そして自分の生存自体ももう取り返しのつかない失敗にしか思えなかった。
「ばかやろう!めそめそ泣くな!」
悲鳴にも似た怒号が彼の耳に響いた。みると刑事さんは激怒しながら、泣いていた。さめざめと泣いていた。刑事さんは青年にというよりも、自分に言い聞かせるように続けた。
「人間は生きているからこそ恥を感じるものだ。恥こそが人間の尊厳なんだよ。誰もが恥を知ったとき、己に対して叫ぶ。だめだ、だめだ、もっと自分を捨てないと。自身を戒めながら、だれもが生きているんだよ。もっと人のために生きようと、必死に自己の不安にさらされながら歯を食いしばって生きてるんだよ。苦しんでいるのはお前だけだと思うなよ。甘ったれたことは考えるな。過去なんて関係ねえ。誰もが同じなんだよ。お前だけじゃねえ、別に逮捕なんかされなくても、人は罪を背負って生きているんだ。どうしたって自己中心的にならざるをえない自分に嫌悪を感じなから、その殼を突き破ろうとしてるんだ。おれにしたってそうだ。」
刑事さんはさめざめと泣いていた。そして青年も泣いていた。しかし青年の涙は、希望の涙であった。この世界に存在している住人は皆同等であるという希望で彼の胸はいっぱいになった。いくらでも自分は生まれ変わることができるのだ。人生は、いま始まる。人間が過ちを起こした瞬間、そこから人間の本当の人生が始まるのだ。彼は希望に満ち満ちていた。自分の五感で感じているありとあらゆるものすべてに感謝をささげたくなった。彼は涙を流している刑事さんを愛おしい目で見つめていた。こんなにも人間はかわいらしくて、弱くてはかなくて美しい存在なのか。そして彼もその人間という存在にほかならないのだ。彼はその喜びを全世界の人々に伝えたくなった。自慢したくなった。
刑事さんは机の下から日本酒の一升瓶と猪口を取り出して、机の上において器用に猪口に日本酒を注ぎ酒を飲み始めた。そして青年にも日本酒を飲むように勧めた。彼も猪口を刑事さんからもらい、酒を飲み始めた。刑事さんは訥々と語り始めた。
「おれにも妻と子供が二人いるが、数々の事件に追われ仕事を尊重して生きてきたせいで家族とほとんど会っていない。夜遅くに帰ってきてもう寝床に入っている家族の寝顔を見るたびにときどき思うよ。いま追いかけている犯人やその事件の真相を解明することと、家族のためにもっと楽で暇をもらえる職業につくこと、どちらがおれの人生において大事なのかとね。自分が他者にささげることができる奉仕をきわめて組織的な社会の利益に向けるべきか、あるいは家族に向けるべきか迷うのだ。そしていつもおれは仕事のために生きているにすぎない。それが本当に愛を注いでいることになるのか。おれはどこに愛を献上すればいいのだ。不安にさいなやまれる。おれは社会を愛してはいるが、家族を本当に愛しているわけではないのだ。」
刑事さんは大粒の涙を流していた。そして日本酒を飲む手はどんどん早くなっていくのだ。彼は刑事さんの涙に濡れた顔をみながら考えていた。自分もそのように他人に愛を注ぐことができる人になりたい。そしておそらくは、この世界に存在しているすべてに愛を与えなくてはいけないのだ。家族にも、国にも、自然にも、彼が憎んでいる敵にさえも。だから刑事さんはもちろん社会にも家族にも愛を与えなくてはならない。時間や空間に縛られながらも、なんとかして愛の絶妙なバランスを維持しながら人間は生きていなくてはならないのだ。
青年と刑事さんは取り調べが終了するギリギリの時間まで楽しく酒を飲みかわしながら会話をしていた。二人は自分の生い立ちや恋愛や絶望、希望何もかもを話し合った。その経験は青年にとって人生の教師になるだろう。そして刑事さんはみずみずしい純白な青年の思考に触れて内に秘める純粋な愛に目覚めるにちがいない。二人はお互いを尊重しあい、そこには立場というものは全く存在していなかった。青年は自分がときどき刑事になっているような感覚がしていた。二人は話しながら、ひとつに溶け合ってしまってどこにも区別は見当たらなかった。ああ、これが真実の友情なのだな。青年はふと人間の情念がわかったような気がした。青年はこの取り調べで、自分の罪を償い消してしまおうという意識はなくなってしまった。罪とともに生きていこう。そう信じていた。まずは裁判が終わったら、自分が何の意味もなく傷つけてしまったオヤジさんに謝罪をしよう。彼は新たな人生への目覚めに心を躍らせていた。