第四章 ジェラード・アイスラーム ⑰
view:ジェラード・アイスラーム
time:五年前
体が重い。まるで底のない沼に肩まで漬かっているようだ。動かそうともがいても、体は動かない。そして、どんどんと沈んでいく。ゆっくりと沼の淵は俺の首を飲み込んでいき、顎へと迫る。このまま、頭の先まで埋まってしまうとどうなるのだろうか。しかし、俺には『それ』に対する恐怖感はなかった。とうとう、その日が来たか、と迎え入れるような気持ちだった。口が埋まり、鼻が漬かる。息苦しさが襲い掛かってくるが、気にならない。そして、目が覆われ、闇に沈む。『それ』は、もうすぐ目の前まで迫っていた。
しかし、
「ジェラっ!帰っといで!」
姐さん口調と胸に圧迫感を感じた。痛みはない。ただ、圧迫感を感じるだけ。しかし、それだけなのに俺の顔は『沼の淵』から出た。息も再び出来るようになった。
「なんで、こんなところに倒れてんだい!?ジェラっ!」
「キャンサーさん!まだここは危ないですよ!」
「うるさいよっ!絶対に、死なせないからねっ!ジェラっ!」
『沼の淵』から胸が出た。徐々に体は浮上を始める。姐さんが俺を呼ぶたびに、体は様々な機能を取り戻していく。
「動いたっ、ジェラっ!」
肺が酸素を取り込み、心臓が運ぶ。それからの浮上は早かった。腰、膝と『沼』から抜けていく。
「運ぶよっ!担架こっちに!」
しかし、足は沼の中に入ったままだった。自分の力で引き抜けばいいものを、それができなかった。足は再び沈み始める。その様を、俺はただただ見ていた。
「何してんのよ?」
「あ?」
突然、誰かが俺に話しかけてきた。声の方へと目を向ける。
「ティア?」
「バカな事してんじゃないわよ、ほら」
俺に手を差し伸べる彼女。その手とティアを交互に見やる。
「なんで、お前がここに居んだよ?」
「うっさい!早くする!パッとしなさい、パッと!」
言われるがままに、俺はティアの手を掴んだ。すると彼女からは想像できないほどの力で引き上げられる。『沼』から完全に抜け出した。
「つっ!」
『沼』から全身抜け出した途端、全身に激痛が走った。立って居られなくなり、地面にしゃがみ込む。更に眩暈、吐き気に見舞われ、呼吸すら苦しくなってきた。
「………、頑張ったわね。もう『そっち』に行っちゃ駄目だからね?」
「ティ……ア?お前……」
頭がガンガンとして、顔が上がらない。
「じゃあね、最期に会えてよかったよ」
「何を……、言っ──つぅ!」
痛みが治まらず、顔が上がらない。
しかし、ティアが遠くに離れていくのは、感じ取ることができた。
「どこ行くんだ!おい!」
彼女は振り返らない。歩を止めずに歩き続ける。
「何で……ここに居たんだよ……、うっ、っっっうああああああああ──っ」
「──うっ」
「っ!ジェラ?」
目を開くと、そこには真っ白な天井が広がっていた。ここはどこなのだろうか。
「~~~っ、ジェラ……」
「ここは……?」
「あたしの部屋だよ?分かるかい?」
焦点の合わない視界の中、それでも、キャンサーが俺の手を握っているのは分かった。それが分かっても、記憶の中の『キャンサークリニック』とは一致しなかった。
「ここが……?」
「あぁ、ちょっと待ってな。みんな呼んでくるからな」
そう言って、キャンサーは問いの答えを半ばに、ドアの方へと向かっていく。首は何かに固定されているのか、動かなかったが、視界の隅に見える窓からは空は見えず、瓦礫しか見えなかった。思えばこのベッドも少し傾いている気がする。
「ジェラ」
ドアが開けられる音と共に、男の声が聞こえてきた。よく知った、聞き馴染んだ声。
「クリ、ス」
「よく帰ってきてくれたな」
俺の傍にまで近づくと、クリスは俺の手を握った。俺の知るクリスとは別人のように彼は衰弱していた。
「何が、あった?」
クリスの手を握り返しながら聞くと、「それはこっちの台詞だ」と覇気のない声が返ってきた。しかし、俺は続けて尋ねる。
「クリス」
「いいんだ、今は……」
いつものこいつらしくない。覇気も力も感じられない。
「よくねぇよ」
俺はクリスの手を握り返す。
「何で『ここ』が瓦礫で埋まってんだ?それに……」
俺はほんの少し首を回して部屋を見回す。ドア付近にはフェルトが立っており、部屋の中央のソファにはポールとキャンサーが座っていた。そして、ベッドの足元にはキムが立ち、スマートフォンに目を落としている。
俺は全力でクリスの手を握りしめた。
「ティアは?アランは?ンバは?圭一は?」
矢継ぎ早に言い放つ。認めたくない答えを、俺は持っているにも関わらず、クリスに尋ねた。
「……っ、ジェラ……」
「なんて顔してんだよ、おいっ!」
俺は力いっぱいクリスの手を握りしめ、体を起こす。キャンサーは、「止めなさい!ジェラ!」と声を荒げたが、クリスの補助もあり、俺は体を起こした。
そして、クリスから手を放し、胸倉を掴む。
「お前が!お前が付いていながら!」
「ジェラ……、やめなさい……」
クリスの胸倉を掴む手を握ってきたキャンサーが涙ながらに抑止してきた。しかし、その言葉には俺を抑止しきれるほどの力はなかった。
そして──
「~~~っ、っっっ、すまん」
胸倉を掴む俺の手に、大粒の涙が落ちてきた。とても熱く、幾粒も、止めどなく、俺の手を濡らした。
「俺は……、~~~っ、ティアを……、みんなをっ、守……まも……」
クリスの言葉はそれ以上言葉にならなかった。俺に胸倉を掴まれたまま、抵抗もせずに、クリスは立っていた。
「お前が……、ついて……、いながら……」
俺は、その言葉を繰り返した。しかし、その言葉はクリスに向けたものではなかった。
「お前が……、お前が……」
クリスの胸倉から手が剥がれ落ち、俺は姿勢を保てなくなった。ベッドに倒れ込む直前でキャンサーに抱き留められた。
「俺が……ついていながら……」
「ジェラ?」
「あいつらを……、死なせてしまった……」
俺の目からも涙が零れ、視界が滲んだ。それとほぼ同時に、俺を温かな何かが包んだ。
「もうやめとくれ、ジェラード」
温かな何かは、俺を包んだまま言う。
しかし、
「キャンサー、まだだ」
ひどく冷静に、淡々とした口調が『キャンサークリニック』を切り裂いた。発せられたのはベッドの足元、キムだ。
「クリス、ジェラード。お前たちに伝えなければならない『数字』がある」
さっきまで眺めていたスマートフォンをこちらに向けて、キムは言う。それを見て何かを察したのだろう。キャンサーは悲鳴に近い声で、キムに吠えた。
「やめとくれ!今じゃなくてもいいだろ!」
「よくない」
その悲鳴を受け止めて尚、キムは続ける。
「クリスとジェラードは聞かなければならない。受け止めなければならない『数字』だ。特にお前たち二人…はな」
キムの言葉が不自然に途切れた。必死に感情を噛み殺していたのだろう。言葉が徐々に震え出したのを止めるために、冷徹を装うために。
それが分かり、キャンサーは俺を包み込んだまま、口を噤んだ。
「三千五十二万一千十二、これが、昨晩失われた『ナインクロス』の数字だ」
三千五十二万一千十二、あまりにも大きすぎて現実味がない。しかし、目を閉じれば浮かび上がる町の人々。工事現場の人々。町行く人々。すれ違った人々。俺たちに感謝してくれた人々。そのほとんどの人々の数字。
「はっ!ははははっ!」
「ジェラード?」
気が付けば俺は笑っていた。『何に』?『何で』?
「は、ははははっ、俺は、くっ、ははは、必要と、ふはっ、され、され、くははははっ!信じ、て、くくく、くれてた、のに、っははははは!」
俺は何なんだ?『町』を作り、『町』に期待され、それなのに、肝心な時に、傍にいない。俺は何なんだ?『町』の為に『世界』に出て、その成果は?俺を慕ってくれた四人の少年たちの死?俺は何なんだ?何の為にいるんだ?何の為にやってきたんだ?失う為にか?俺は何なんだ?何なんだ?俺は──。
「ジェラ……、もういい……」
キャンサーは湿った布を、俺の鼻に押し当てた。仄かに甘い香りが鼻に付く。次第に意識は遠のいていった。
「もう……いいよ……」
意識が遠のく中、俺は一瞬だけ少年達の姿が見えた気がした。




