第四.五章 ティア ④
view:リザ・ピャートニツキイ
time:十一年前
「リザ、これを……」
兄さんはどこから取り出したのか、突然私に『あるもの』を突き付けた。それは、私たちが持つことのできないはずの『スマートフォン』だった。電源の入っている液晶の画面には、ただ一つだけアイコンがあった。
『Over Land』と書かれたアイコン。私たちが『携帯電話』を持てなくなった原因のもの。
「兄さん?これをどこで?」
「俺を指名してくる客を垂らし込んだんだよ、これで、自由になれる」
兄さんは優しく微笑んで私に『スマートフォン』を手渡す。これで、自由になれる……。これで……。
「兄さんは?」
「大丈夫、もう一つあるんだ」
そう言って、もう一つ『木目調のもの』を私に見せる。それに、私はホッとした。
「もうリザの情報は入れてあるよ」
「え?」
兄さんは私の手を握ると、私の人差し指でアイコンをタップさせる。画面はロード画面へと移行し、左から右へとゲージが溜まっていく。近づいてくる『自由』への時。その時はまだ、自由な未来に希望を持てていた。
「兄さん」
ゲージが七割方溜まる頃、私は嬉しくて兄さんの顔を見た。とても、優しい顔をしていた。
「戻ってきてはいけないよ」
「え?」
ゲージは九割を超え、転送が始まろうとしていた。兄さんの手に握られていた『木目調のもの』は、『木目調の板』だった。
「え?」
「ごめんな……、リザ……。遅くなって……っ」
私の体は青白く発光し、徐々に五感が鈍くなっていく。兄さんの目からは、涙が流れていた。
「にいさ──っ!」
「自由になるんだよ、リザ」
私の存在は、『現実世界』から消え失せた。
その後、しばらく『現実世界』に戻るかどうかの葛藤があったが、私には戻る勇気がなかった。兄さんが『現実世界』でどんな仕打ちを受けているか、想像するだけで、体が震え、涙が止まらなかった。『現実世界』に戻って兄さんを助ける方が良いのは分かっている。しかし、私にはそのボタンをどうしてもタップすることができなかった。
なんて最低な妹なんだろう。兄さんに助けてもらって、恩返しもできないなんて……。そんなのっ……。
長い葛藤を経て、結局、私は『この世界』で生きることを決心した。一つだけ、自分自身に制約を懸けることで、自分を無理やり納得させた。
リザは、『現実世界』で死んだ、と。
今、生きているのは──、
「あんた、名前は?」
「……『ティア』よ」
ティアゴ兄さんだ、と。
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view:ティア
time:七年前
「さぁ、こっちに」
スーツを着た男が私に手を差し出した。グレーのスーツに白いシャツ、よく磨かれたチャコールブラウンの靴。袖にはマットな仕上がりでありながら、見るものを凍り付かせるエンブレムが刻まれたカフリンクスがチラリ、と見える。紳士のような装いをしているが、中身は残虐な男である。
「まったく世話を掛けさせやがって」
私は地面を見つめて、黙ってスーツ姿の連中の後へと続く。もう、終わりだ。『みんな』に私の素性が知れてしまった。私は『ファルクリーズの女』、ファルクリーズに飼われた人形。まさか、自分で殺したはずの『リザ』に戻る日が来るなんて……。いや、違う。『リザ』の隣に、『ティアゴ兄さん』はもういない。
「まさか、自分から名乗り出てくるとはな。何人か弟分が死んだが、お前が戻ればファミリーにも活気が戻るだろう」
男は言う。『お前はもはや奴隷なのだ』と。疲弊したファミリーに身を捧げ、身体を使って金を稼げ、と。
終わるんだ──、
──兄さんがくれた、夢のような時間は。
兄さんが長い拷問の果てに殺された記事を読んだ後、私はすぐに知っているファミリーの番号に電話をかけた。私を探すために『風の町:ランダ』は焼き払われた。以前、クリスたちと一緒に冒険した時にお世話になった人たちは、『ファルクリーズ』の手によって殺された。
次は『火の町:レア』か『田舎町:マチ』か、それとも『海の町:グランシャリエ』か。私を『ティア』として接してくれた人たちが『ファルクリーズ』に殺される。考えるだけで息が苦しくなり、耐えられなくなった。だから、私は言ったのだ。
「私は雪山の麓の町にいる。逃げも隠れもしないから、もう誰にも手を出さないでほしい」
そして、数日後の今。迎えが来た。
楽しかった『ティア』の日々は、終わる。
建設中の『壁』との間にトタンのバリケードが設置されており、その隙間からは、寒々しい雪原が広がっていた。そして、『外』へと足を踏み出す。
「ティアっ!」
大きな──聞き馴染んだ──声が、私を呼び止めた。足を止めると、男が私を『彼』から隠すように立ちはだかる。
「『ティア』とは誰のことだ?」
男の手には黒光りする鉄の塊が握られている。『彼』、クリスが来てくれたのは、本当に嬉しく思う。でも、今さら事を荒立てないでほしい。私は、もう覚悟したのだから。
「ここにいるのは『リザ』だ。人違いだ、青年」
男がクリスに言うと、周囲の男たちは吹き出して、笑った。
「足が震えているぞ、青年。早く帰った方がいいんじゃないか?」
今度は大きな声を上げて笑い出す男たち。私は目を強く閉じて、何も感じないように努める。そう、『リザ』はいつもそうやってやり過ごしてきたんだ。今度だって……。
「青年、ここにいるのは『一億の女』だ。お前の手に届く物ではない」
そう言い放つと、男は私の背中を押して、先を促す。それに逆らうことなく、歩を進める。
「『ティア』、お前が吐いた嘘な……」
「っ!」
「本当、最っ低な嘘だ──」
私にそれを告げるために、ここまで来てくれたのだろうか。一瞬でも『ティア』に戻りそうだった私の心が少しずつ壊れ始めた。周囲の男たちは、それを面白く感じたのだろうか。自分勝手に私を引き留めると、クリスに向かって口を開いた。
「どんな嘘を聞いた?貴族だとでも言われたか?それとも──」
「──……『現実世界』ならな」
「あ?」
彼は、男の言葉を遮って自分の言葉を貫いた。その意味を理解するには、少し時間が必要だった。しかし、私の理解を待つことなく、彼は続ける。
「『名家の令嬢』だろうが、『スポーツ選手』だろうが、何にだってなればいい!」
男たちは彼の言葉に圧倒されたように押し黙り、彼の言葉を障害することなく、私に届けた。
「ここは『Over Land』だ!それも、町の恩恵もない『最底辺の地』だ!」
そして、それは口調こそ違うが、以前に一度聞いたことのある言葉だった。
「ここでは、お前の嘘は肯定される!少なくとも!俺は肯定してやる!」
──自由になるんだよ、リザ──
その言葉に、自然と涙が溢れてきた。涙は止まらなくなり、情けなく裏返ったしゃくり声が漏れる。
「お前がもし、俺の知ってる『ティア』なら──」
彼の言葉が、力強く耳に届く──、
「こっちを向けぇ!」
──帰って来い、と。
私は、顔を拭うことなく、彼の方へと向き直る。すると、彼は怒ったような目つきで私を捉えたが、口元は少し緩み、私に告げた。
「分かった、少し待ってな。助け出してやる」
「小僧がっ!何を勝手なことをっ!」
それまで黙っていた男たちが、無粋にも割り込んできた。しかし、その無粋も力が伴っていれば『正』となる。男たちは次々とマシンガン、ハンドガン、ショットガンなどの銃火器を取り出し、彼に照準を合わせる。
「やれ!」
その一言が号令となり、一斉に銃弾が放たれる。耳に届く不快な銃声と振動、そして硝煙の向こうに消えた彼の姿。しかし、私は知っている。その弾丸が彼に届くことはないことを。
「ぐあっ!」
「どうした!」
硝煙に包まれた一帯が、『風速十メートル』により視界が取り戻される。その先に、彼の姿はなかった。死体としても。あったのは、自分たちの足元。しかも、自分たちと同じくスーツに身を包んだ同胞が血の海に沈んだ姿だった。
「くっ!おい、リザを連れ出せ!」
怒号と共に私の肩は力ずくで抱きかかえられ、引っ張られる。しかし、私はそれを振り払う。
クリスは言ったんだ。私を助ける、と。だったら、簡単に連れて行かれるわけにはいかない。
「おい、クリス。やるのか?」
「あぁ」
その声は、意外にも近くから聞こえた。言い例えるならば、私のすぐ隣から──。
「じゃあ、ティアを連れ出してくれ」
「分かった」
私の手は誰かに握られた。その手は嫌悪を抱くものではなく、力強く、私を自由へと導く力を感じた。引っ張られ、私もその方向へと走る。振り返り、さっきまで立っていた場所に目を向けると、『黒装束』がそこに立っていた。
「なっ!お前、いつからそこに!」
「結構、最初から居たよ。存在感は薄い方でね」
『スキル:隠密』を使用しているフェルトを見つけることは、例え身内の集まりの場であっても難しい。ましてや、『黒装束』に身を包み、戦闘モードに入っているフェルトならば、尚更だ。
「ここから先は息子に見せたくないのでね、すぐに終わらせる」
フェルトは大きな鎌を取り出すと、一薙いだ。
「フェルトなら大丈夫だ、一旦離れるぞ」
「く、クリスっ」
私の手を強く握り、そばのプレハブ小屋の影まで引っ張ると、彼はようやく立ち止まった。私はもう、感情の限界だった。全てを諦めていたのに、『全て』を取り戻してくれた。私は、自由に生きていいのだろうか?
「あ、ありっ~~~っ」
言葉が出てこない。どうしていいのか分からない。そんな私を、彼は抱きしめてくれた。
「お前は『ティア』だ」
耳元で彼が囁く。胸の中で、その言葉が反芻されていく。
私は、『ティア』だ、と。
「もう見失うな、いいな」
何度も彼の腕の中で頷く。もう見失わない。自由な自分。
すると、彼は私を離し、頭を撫でる。
「終わらせてくる、二度と『俺たち』から『仲間』奪えなくしてやる」
彼はそう告げると、銃声の鳴り響く方へと向き直り、剣を『取り出した』。行かないでほしい、と思うのは私の我儘だ。だから、一言だけ。
「クリスも……、私のところに、帰ってきて……」
酷く憔悴した声だった。しかし、彼はその言葉に頷くと、「分かった」と微笑んで、走り出した。
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その後、『ファルクリーズ』は報復として幾度となく『この町』にテロを仕掛けてきたが、その全てを『みんな』で追い返した。いくら『現実世界』で最悪のマフィア『ファルクリーズ』とは言え、『Over Land』においては未熟であった。『スキル』を上手く使用できず、『私たち』に完膚なきまでに返り討ちにされ、『ファルクリーズ』は『Over Land』から撤退していった。




