第四.五章 ティア ①
view:リザ・ピャートニツキイ
time:十二年前
薄暗い部屋、冷たい石畳、寒々しい藁葺き屋根、馬小屋かと見紛うほど、貧乏臭くカビ臭い、この部屋が私と兄さんに割り振られた部屋だった。与えられるものは、ボロの布切れと、一日一食の食事。仕事の時間になれば、男が私か兄さんを呼びに来て、現場に連れていく。その時だけは、化粧をしてもらえ、綺麗な衣装に身を包むことができる。
「……兄さん」
冷たい石畳の上に敷かれた藁布団に身を包みながら、隣で背中合わせて寝ているであろう兄に話しかける。部屋の明かりは壁に掛かる消えかけの蝋燭が一つ。ほとんど真っ暗で回りはよく見えないけど、見えないからこそ背中に温もりを強く感じる。
「どうした?」
優しい声と、のそり、と動く背中の温もり。それを感じることができることを、私は幸せに思う。
「明後日、どこに行こっか?」
薄暗くカビ臭い部屋で思い描く楽しみ。週に一度、私たちは部屋から出られる。太陽の下に出られる。その日だけが、今の私たちに残された楽しみだ。ろくに貰えない給料で買えるものは何もないけれど、兄さんと一緒に外に出られるだけで、十分だと思えていた。
「リザはどこへ行きたい?」
聞かれれば困る質問。どこでもいいなんて答えれば、それだけで折角の外出日が台無しになってしまいそうに思えてくる。だったら、夢に満ちた話をしよう。
「南の島に行きたいなぁ」
「南の島かぁ、遠いなぁ」
地理的に言えば、ユーラシア大陸北西部、ロシア連邦、サンクトペテルブルクの中でもフィンランドとの国境にほど近い田舎だ。空港は近くにあるが、飛行機に乗るにはお金が足りない。上にパスポートもない。南の島は、夢のまた夢だ。
「南の島に行っても、リザは泳げないだろ?」
「お、泳げるよ!そ、それに海は泳ぐものでもないし」
眺めたり、浮き輪でも使って波に揺られたり、砂浜で寝転んだり。そう、海は別に泳ぐだけの場所ではない。それが分からないなんて、兄さんはロマンのない人だ。
「そーか、そーか。でも、リザは日焼けしたら駄目だろう?」
「いいもん、外出日くらい自由にしたっていいじゃん」
ロマンの分からない兄さんとこれ以上、夢の話をしたって仕方がない。少し怒ってみせるが、兄さんは至って現実的だ。
「自由もいいけど、日焼けすると『お仕置き』されちゃうぞ?」
「……折角、夢の話をしてるのに……、本当、兄さんはロマンがない」
布団の中では夢を見るものだ。なのに、兄さんは……。
「夢の話もいいけど、俺はリザが痛い目に遭うのは嫌だからな」
「………」
そう言われてしまうと、何も反論できなくなってしまう。たった一人、唯一の家族からそう言われてしまうと……。
兄さんと会話に詰まっていると、突然、部屋の外の廊下のドアが開く音がした。石畳の上を硬い靴底が叩く音が、徐々に私たちの部屋へと近づいてくる。私たちは無駄だと分かっていても、息を潜めずにはいられなかった。
「……リザ」
こちらに近づいてくる足音に紛れるような声で兄さんは言った。
「……ごめんな」
「兄さんは、悪くないよ」
私も小声で返す。足音は私たちの部屋のすぐ外まで迫っていた。
「いつか、必ず……、助けてやるから……」
「うん……」
とうとうドアがノックされ、返事もしていないのに、ドアが開け放たれる。
「リザ、指名だ」
男の無骨な声に、私はすぐに起き上がった。ボロ布に貼りついた藁を叩き落として、顔を上げる。すると、男は私の顔を見てふん、と鼻で笑った。
「フェルノーム男爵家の次男坊だ。時間は一日、しっかり奉仕するんだぞ」
「……はい」
私は部屋を出る前に一度兄さんの方へと振り返る。兄さんは顔まで藁で隠し、震えていた。
「行ってきます、ティアゴ兄さん」
私は、ドアを閉めた。
━━━━━━━━━━
view:クリストフ・アルバー
time:七年前
朝、寝ていると、壁の建設地からの騒音によって起こされた。今日はどうやら生コンの打設日だそうだ。大勢の人の声と、型枠を叩く音、バイブレーターで生コンを均す音、騒音のオーケストラが奏でられていた。昨日は遅くまで飲んでいたってのに、建設チームの体力には頭が下がる。ンバあたりは、このバイブレーターの音は辛いんじゃないだろうか。
「ちょっと腹減ったな」
とはいう俺も、昨日は遅くまでドラゴンを相手に戦った。このまま惰眠を貪っていても文句は言われない立場ではあるが、どうにも目が冴えてしまった。皆が働いているのに、寝る気にはなれない。ぎしり、とソファを軋ませて立ち上がると、両腕がズキリ、と痛んだ。『この世界』で作られた薬は本当によく効く。ドラゴンの血飛沫により焼け爛れた腕は、一晩で皮膚を修復するにまで至っていた。少し腕に黒ずみが残っている程度にまで回復しての痛みだ。もし、ヤブ医者の作った薬がなければ、一体どんな激痛に苛まれていたことだろうか。
「カマ野郎はまだ店開けてねぇだろうな……」
俺は後ろ手で布団代わりのジャケットを手に取って、羽織る。外はすごく寒そうだ。
~~~~~~~~~~
「で、ここに来た、と?」
俺のプレハブ小屋から徒歩数十分、行きつけにするには少し遠いが、飲めるコーヒーが旨いので些細な問題だ。外装が全面水色の分かりやすいプレハブ小屋、芦崎圭一の設計事務所。
「おう、温かいコーヒーを飲みたいと思ってな」
「ははは、僕も今日は打設日だから現場に行く予定なんだけどね」
そう言いながら、圭一は設計図面や強度計算書などをファイルにまとめている。大事な仕上げ仕事である上、強度は大事だからな。
「コーヒー一杯もらえたら留守番しとくよ」
部屋の隅に立て掛けられているパイプ椅子を引っ張り出して座る。すると、圭一は困った顔をしながら、俺にコーヒーを淹れてくれた。なんだかんだで、色々やってくれる奴だ。
「留守番してくれるなら、帰れとは言わないけどね。あんまり荒らさないでくれよ」
圭一は、厚手のジャケットを羽織って、ファイルを脇に挟み込んだ。もうすぐ出るつもりなんだろう。
「打設日には毎度行ってんのか?」
「そりゃね、仕上げだし」
更にマフラーを首に巻いて、準備完了。忘れ物がないか、最終確認を行っていると、突然ドアが開いた。
「やっほー、圭一。差し入れ持ってきたよぉ」
圭一の服装とは似ても似つかない薄手のジャケットにイヤーマフ姿のティアが部屋に入って来た。手にはビニール袋が提げられ、そこから立ち込める香りが俺の腹の虫を刺激した。
「なんだ?コロッケか?」
「な、なんで、あんたがここにいんのよ!」
ティアの提げている袋を覗き込むと、油でカラッと揚げられた香ばしい匂いが鼻を擽る。
「いて悪いか?」
「悪いでしょ、今日打設日なんだから、圭一ももうすぐ行かないといけないでしょうし」
「分かってて来るんだから、ティアも相当だよ」
圭一は身支度を整えると、ティアのビニール袋を覗き込んで、コロッケを一つ取り出す。そして、「一つもらうよ」と言うと、すぐに口へと運んだ。
「残りは二人で食べなよ、コーヒーは好きに飲んでいいから」
「あ、ありがとう」
「あ、っと、現場から戻ったらンバとアランと打ち合わせするから、二つ残しといてもらえると嬉しいな」
出掛けに圭一がそう言うと、ティアは少し引き攣った笑みで「う、うん、分かった」と答えると、圭一は「じゃ」と企み顔で部屋から出て行った。
「どうしたんだ?」
「さ、さぁね」
ティアはどこかギクシャクした動きで、自分の分のコーヒーを作ると、圭一のキャスター付きチェアーに腰掛けた。そのまま、流れるような動作で、コロッケを二つ皿に取り分ける。
「なぁ、コロッケ一個余ってねぇ?」
「あるけど──っふ」
ティアは俺の顔を見ると急に吹き出した。そのまま、笑った顔を腕で隠す。人の顔を見て笑い出すなんて、最低な奴だ。
「そんな顔しなくても、ちゃんとアンタの分もあるわよ」
「おっ、やりぃ」
俺はすぐに袋に手を伸ばす。そこにはコロッケが二つ残っていた。個数的にはジャストぴったり、余りなし。すぐに一つ取り出して、齧り付く。
「んめー、ちょうど腹減ってたんだよな」
「どうせ、今の今まで寝てたんでしょ?」
ふふ、と笑ってティアはコーヒーを口に運ぶ。そのやり取りが、少し擽ったかった。
「寝てたは寝てたが、ちょっと腕が痛くてね」
素直に寝てたとは言えず、少し腕を擦って見せる。確かに少し痛いが、ティアに言うほどではない。
「ふぅん、ちょっと見せてみ」
すぐにキャスターをごろごろ、と言わせて俺の傍まで来ると、ティアは俺の腕を取った。細く綺麗な指が腕を擦る。こうなることを知ってて、腕が痛いなんて言ったとは、口が裂けても言えない。しかも、その細い指で腕を揉みながら、「どう?」なんて上目遣いで聞かれると、痛くても「痛くない」なんて見栄を張ってしまう。
「傷はないし、筋肉が切れてる感じもない。うぅーん、とりあえず痛み止め塗っとくね」
ティアは携帯を取り出して、軟膏を手に出す。そして、「ちゃんとキャンさんに診てもらいなよ?」と、少し冷たく、ぬるり、とした軟膏を腕に塗ってくれる。なんというか、男として色々とクるものがある。が、それを何とか堪える。
「ティアってさ」
「うん?」
軟膏を塗り終わり、ティアが手を洗いに流しに向かうと、ようやく話しかける余裕が出てきた。ちなみに、心臓はまだドッキンドッキンと早鐘を打っている。
「弟か妹いる?」
「んー、残念。兄さんが一人よ」
「ふぅん、結構やんちゃな兄ちゃんだった?」
ティアの行動を見ていると面倒見の良さを感じる。やんちゃな兄弟のやることを「もぉー」とか言いながら世話をしている姿が思い浮かんだ。
「ううん、兄さんはすごく落ち着いてて、優しい人だったよ」
手を洗う彼女の顔は、どこか遠くを見ているような、遠い思い出を語っているような、哀愁を見て取れた。
「ごめん、嫌な話だったか?」
「………、平気よ」
手を洗い終わり、手をタオルで拭く。どこか重くなった空気を明るくしたいと思い、「あ、あのさっ」と言い淀む。
「俺、フェルトんとこ寄ってくけど、一緒に行くか?」
「なぁに?気ぃ遣ってんの?」
くすり、笑ったティアを見て、少し安心した。
「じゃあ、アルちゃんに癒されに行こうかなぁ」
「んじゃ、行くか」
コーヒーとコロッケを平らげた俺たちは、揃って『芦崎圭一設計事務所』を後にした。




