第一章 神阪 蓮 ⑤
からんからん、と古びた鐘を鳴らしてフロアに入ると、中は異様な空気に包まれていた。鐘の音に気付いたのは、元気娘のユーマだけだった。彼女はこちらを振り返ると、呆れたような、それでいて楽しそうな表情で首を振った。「またやってるよ」という無言の言葉が俺の耳に届いた気がした。車椅子に座るそらは、「ただいまぁ?」と小さな声で言うにとどまり、その後の成り行きを傍観する。事の主役たちはカウンター席にいた。男が一人、カウンターチェアーに座り、酒を飲む。彼の目の前、つまりカウンターを挟んで向こう側に女が一人、すごい形相で男を睨む。その視線を楽しむように、男は笑み、右手でグラスを回す。バーボンのロック、アルコール度数の高い飲み物だ。荒削りの大きな一つの氷がくるり、と回転し、グラスをノックする。カラン、という儚い音が、ゴングのように聞こえた。すると、男が動いた。
「なぁ、薫。いつになったら、俺の気持ちに気づいてくれるんだい?」
芝居がかった口調で言う。彼の中では、真っ暗なバーで一人スポットライトを浴びているようなシチュエーションなのだろうか。酒に酔っているのか、雰囲気に酔っているのか分からないが、彼の口撃は続く。
「あぁ、君の事を求めてやまない。そう、俺の心はまるで、一人寂しくワルツを踊っているようなものさ。君というパートナーをずっと待ちながら踊っているのさ」
意味が分からない。しかし、彼の演技は留まることを知らない。
「薫、どうしたんだい、そんな顔をして。まったく、どこまでも照れ屋さんなんだから」そう言うと、彼は急に立ち上がり、くるくる、と優雅にダブルトゥループを成功させて、両手を広げた。
「おいで、薫。大丈夫、俺が守ってあげるよ」
やめてくれ、腹が捩じ切れそうだ。俺の隣でユーマはすでに声なく爆笑している。しかし、車椅子では「ふわぁ、いいなぁ」と、そらが憧れの瞳で見入っていた。
「さぁ」と、彼が言った直後だった。カウンターの向こう側にいる薫がゆっくりと蠢いて、右手を挙げた。その手は、一緒に踊ろうとする華やかさはなく、何かを握っている。ずしり、と重さが伝わる真っ黒の鉄の塊。親指と人差し指で作るお子様の遊び道具ではない。本物の拳銃
だった。それを認知した瞬間には、彼女の指は動いていた。
ぱぁん!たぁん!たたぁん!たぁぁ────ん。
五発の銃声がフロアに木霊した。彼女が拳銃を取り出した瞬間、俺は咄嗟に車椅子に座るそらの耳を塞いだ。そのせいで、俺の耳は未だキーンと鳴っている。
「か、薫ちゃん、五月蝿いよ」
厨房から片耳を抑えたみずきが顔を出して抗議した。エプロンを身に付けているところを見ると、どうやら夕食の手伝いをしていたようだ。時刻も夕方五時。おっさんが夕食を作り始め、それをみずきが手伝い、空いた店の手伝いを薫がしていた、という所だったのだろう。そして、丁度そこに彼が来店したのだろう。
「文句なら直人に言ってよ!あたしは耐えたよ!」
たしかに、傍目に見ている分には最高のコントだったが、実際に主演女優を演じるには辛かっただろう。しかし、有無言わずいきなり発砲するのは悪い。
「撃つときは、ちゃんと撃つ!って言ってくれないと耳痛いから」
「じゃあ、みぃちゃんが直人の相手してよ」
大好きなみずきに怒られてちょっと拗ねた薫が愚痴る。たしかに、最もな意見だ。
「それはそれ、これはこれ。だって、直くんはウチの事相手にしないよ」
「うっ」
たしかに、彼が好きなのは薫である。いきなり銃で撃たれようが、罵られようが。
「そう……さ。俺の心は……オンリー……ユー」
腹に風穴の空いたはずの男が、途切れ途切れに言葉を紡ぎ出していく。ぷるぷる、と震えながら、片膝をついて何とか立ち上がろうとする様は、まるで勇者だ。どんな困難にぶち当たっても、こいつは信念を貫く。そんな男、いや、漢を見捨てていい訳がない。俺はすぐさま勇者の元に駆け寄り、力尽きて地面に崩れ落ちようとしている漢を抱きとめた。
「もう喋るな!傷口が開く」
「あぁ、蓮。もう……いいんだ。言わせてくれ……」
「馬鹿野郎!諦めるんじゃねぇ!お前はまだ助かる!」
ぜぇぜぇ、と必死に息をする勇者を必死に鼓舞する。彼の手を握り、撃たれた傷口に手を当てる。何もしてやることはできないが、せめて痛みが和らげば。
「ふっ、諦……めてんじゃ、ねぇよ」
「な、なんだと」
「お、俺はなぁ、どうしても、あいつに教え、なければ、いけねぇ、ことが……がふっ!」
「直人!」
俺の腕の中で勇者の体がビクリ、と震えた。もはや限界が近いのかもしれない。
「はぁ、はぁ、よく、聞けよ……、今日の、ラッキー、アイテムは……、俺」
そして、彼は俺の腕の中で力尽きた。
「直人おおおおおおおおおおおおおおっ!」
「蓮ちゃん五月蝿いっ!」
俺の咆哮にタイミングを合わせたみずきが片耳を抑えながら厨房から現れた。ぷっくりと膨れながら俺を睨む彼女。その隣には、呆れ顔の薫もいる。
「終わった?」
「やりきったよ、つか、お前ももうちょいノってこいよ」
主演女優に名を連ねる薫にダメ出し。しかし、「嫌」の一言で一蹴されてしまった。ちなみに、視界の向こう側ではユーマが腹を抱えてゲラゲラと笑い転げ(文字通り)、車椅子に座ったそらは「二人とも演技派だねぇ」と優しく微笑んでいた。
「じゃあ、それ(直人)運んどいてくれる?明日の朝までは起きないから」
俺の腕の中にいる主演男優は、豪快ないびきを掻きながら眠っていた。薫が撃った弾丸は鉛玉ではなく、催眠弾だった。それでも、腹部を撃たれた衝撃は鉛玉に負けず劣らない。そんな中で演技(?)を続けていた彼、直人を賞賛したいと思う。
「お前も、もうちょい優しくしてやれよ」
よいしょ、と片腕を肩に担いで立ち上がる。勇者の名前は、下田直人。ちゃらい性格で店に来ては、薫を口説いている。本気で惚れているのかは分からないが、薫を気に入っているのは間違いない。しかも、ノリも良く、先ほどレベルのコントならばアドリブでやり遂げることができる。更に、体も張れるので芸人としてはピカイチだ。現実世界でどんな仕事をしていたのかは分からないが、背も高く、体格も優れていて非常に打たれ強い。歳は三十二歳、俺たちからすると歳の離れた面白いお兄さんって感じだ。
「何言ってんの、優しくしたら調子に乗って寝込み襲われるわよ」
んなわけないだろう、と弁護してやることが出来なかった。あれだけ「好き好き大好き」って言ってて、相手に優しくされたら勘違いしてもおかしくない。ガーガー、とイビキを立てて寝ている男を担いで歩く。筋肉質な体のせいか、非常に重かった。ちなみに、直人もこの店の住人である。カウンターの裏側に回り込んで、バックヤードへと入り込む。厨房とは名ばかりのアットホームなキッチンでは、おっさんとみずきがせっせと料理に励んでいた。
「おつかれだな、悪いがアップルパイは食後に出すことにしたよ」
「あいあい、んで、今日の晩ご飯は?」
ズレ下がってきた直人を担ぎ直しながら聞く。すると、みずきが洗った手を布巾で拭きながら「ベーコンとほうれん草のソテーとオニオンスープ、メインはふわふわ卵のオムライスだよ」と嬉しそうに教えてくれた。その様子から見ると、オムライスは彼女の担当で、上手にできたのだろう。
「ふわふわに出来たのか?」
「ばっちり!どっちかと言うと、ふあふあ」と彼女はピースサインを押し出す。
「じゃあ、楽しみにしてるよ」と言い残して、俺は厨房の奥にある階段へと向かった。
階段を登ると、質素な間取りの二階が現れる。真ん中に店の端から端へと渡る長い廊下があり、その両側に四つずつドアがある。そのそれぞれが俺たちの部屋になっている。更に、廊下の突き当たりには、屋根裏部屋へと通じる梯子があり、そこにはフランス産元気娘ユーマが寝泊りしている。その他の部屋割りは後ほどとして、俺は階段を登って右手にある一番手前の部屋のドアを開けた。そこが、俺の肩で眠りについている男、直人の部屋だ。中の作りも質素なもので、ドアを開けて右手にベッドがあるだけの部屋。他のものは全て携帯に収納できるため、こんな作りでも十分なのである。ベッドの隣にまで歩くと、直人をベッドに横たえる。よし、俺の任務はこれで終わりだ、と直人の部屋から出ると、次いで隣の部屋のドアが開いた。そこから、聞こえた声はどうにも間の抜けた欠伸声だった。
「くぁー、んー」
「おう、おはようさん」
「へ?」
声の主は、眠気眼を擦りながら、俺の方を見る。身長は百六十センチほどと小柄で、短髪ですっきりとした爽やか青少年。作業服に身を包んだ、勤労青年である。
「はよざいます、いやぁ、寝過ぎました」
はにかみながら笑う青年。まだ目は眠気を引きずっているのか、トロンと蕩けている。
「ずっと働いてたからな、たまの休みくらいはいいんじゃないか?」
「いやぁ、さすがに二十時間寝るのはやり過ぎですよ、腰が痛い」
たはは、と腰を摩る彼の顔には枕の跡がくっきりと残っている。きっと寝返りさえもせずに熟睡していたのだろう。
「すぐに飯だが、どうする?」
「んー、まずはコーヒー飲みたいですね。目を覚まさないと」言いながら目を擦る彼は、まだ微睡みの中にいるのだろう。ゆったりとした足取りで階段へと向かう。
アホ毛のような寝癖を揺らしながら歩く青年の名前は、会田翔。二十歳。非常に爽やかな青年で、皆から可愛がられる弟分だ。しかし、彼よりも年下のアルジールやユーマの前ではしっかりとお兄さんになる優等生。二十歳でかなりしっかりした奴だ。身長こそ百六十センチほどだが、心は誰よりも大きな男だ。それには彼の仕事が関係しているのかもしれない。彼の仕事は建物のお医者さん、大工さんだ。ちなみに、この店の二階、俺たちが寝泊まりしている部屋も彼の仕事である。木材のカットから鉋掛け、建て込み、面取りまで。それこそ隅々まで行き届く丁寧さがウリの大工だ。この町の修繕から新築まで一手に引き受けている。そのせいで、あまり休みがなく、たまの休みは死んだように眠るのである。もったいない青春を過ごしているような気がするが、翔は愚痴を言わないし、仕事を楽しんでいるように見える。そういう所も彼の心の大きさが垣間見える所である。
「今日仕事は大丈夫なんですか?」ゆっくりと階段を降りながら、翔が言う。それに「さぁな」とだけ答えて階段を二人揃って降りた。
「あ、起きたんだ?おはよー」
キッチンに戻ると、みずきはぱたぱた、と忙しそうにしていた。ちょうど配膳しているところなのだろう。
「はよーざいます、みぃさん手伝いますよ。何かありますか?」
「そだねー、じゃあケチャップと胡椒、シルバートレイを人数分お願いできる?」
「わかりました」
働き者の好青年は苦にもせずに手伝いを申し出た。それを傍目に見て、こいつはいいオヤジになるだろう、としみじみ感じ入った。
「蓮ちゃんはこれ」と言って手渡されたのは、オニオンスープが大量に煮込まれた寸胴。どうやら、俺たち以外の来客者にも振舞うのだろう。重量はそこそこだ。
「俺だけ扱い違くねぇか?」
「そうかな?冷める前に保温器に入れてね」
笑顔で俺を顎で使う彼女を見て、こいつは要領のいい嫁さんになるだろう、とずっしりと感じ入った。隣で翔が「代わりましょうか?」と申し出てくれたが、今更、寸胴の受け渡しはかなり熱いので断った。