第三章 クリストフ・アルバー ⑧
「ん……」
目を開いて無意識に窓へと目を向ける。ブラインドが下りている隙間から差し込む光に朱が混じっていないことから今がまだ昼だと言うことが分かる。次に手近のテーブルに載っている携帯を手に取り、時計を見る。画面の真ん中に『10:38』という数字がデカデカと現れた。起きるにはいい時間か、と身を起こした。
昨日は結局家に帰れたのは朝方となった。この辺りの空は朝になると霧が掛かり、真っ白に霞む。昼前になるとようやく太陽が顔を出すが、気温を上げるほどの力はなく、地上の気温は昼間でも零度を下回ることが多い。この『ナインクロス』には、様々の国の人々が集まっているため、『リアル』では冬を知らないという人も少なくない。そう言った人は風邪をひきやすい為、薬は欠かせない。一人が風邪をひけば、すぐに周囲に広まり、蔓延してしまう。体調管理は各々に課せられた最低限の仕事だ。
そんな偉そうなことを考えながら、ベッド代わりのソファから立ち上がり、布団代わりのジャケットを羽織った。
「さみ」
外に出ると、真っ白な息がすぐに空へと昇る。見上げると白く薄い雲が空を覆い隠していた。暖かい気候が懐かしい。『ナインクロス』は雪山の麓にあるため、年がら年中寒い。今日はまだ暖かな方だが、それでも寒い。襟を立てて、肩を竦めながら、今日も元気いっぱいに吹き付ける『風速十メートル』に耐える。やっぱり、朝は温かいコーヒーが飲みたいな、と思い、俺はいつも通りの道を歩く。
「で、ここに来た、と?」
「あぁ」
昨日とは打って変わって、静寂が訪れている『キャンサークリニック』に俺はやって来た。患者がいなければ静かなものだ。
「あんたねぇ、ここは病院なんだよ、喫茶店じゃあない」
「んなこと言うなよ、ホットで頼む」
「ったく」
ヤブ医者は呆れながらも、マグカップを一つ取り出すと、インスタントの粉コーヒーをひと匙、その後ポットのお湯を注いだ。なんだかんだ言って、面倒見のいいおばちゃんだ。
「あんだって?」
「俺が何か言ったか?」
「はん、酢混ぜてやろうかい?」
「ブラックでいいよ」
ヤブ医者からマグカップをひったくると、そのまま一口含む。味は悪い。しかし、俺には旨いコーヒーを飲む習慣がない為、特に困りはしない。
「昨日は何時までやってたんだい?」
「さぁな、太陽は昇ってたが、時計は見ちゃいねぇ」
そう言って、もう一口。安っぽいコーヒーの苦味が舌を刺激する。睡魔を撃退するには程遠い。
「今度から寝る前に一度時計を見な、それから一分間は時計から目を離さず秒針を見つめるんだ」
「へぇ、何かの暗示か?」
「あたしがそうするんだよ、自分がこれから休む時間を体に覚えさせんのさ」
ヤブ医者は自分のマグカップを用意し、コーヒーを作った。ミルクを淹れることを忘れない。
「ふぅ、まずいねぇ」
「うまくはねぇな」
そう言って、もう一口含む。苦味は鬱陶しく舌に残る。
「何か食いもんねぇのか?」
「あるわけないだろ、食いもんならポールんとこ行きな」
「あいつまだ寝てそうだな」
俺は携帯を見るが、まだ寝ているであろうカマ野郎への連絡はやめた。優しさなんかではない。考えても見ろ、寝起きのカマの声なんて聞いた日にゃ悪夢にうなされるに違いない。
そう自己完結しながら、携帯を手の中で回していると、着信音が鳴った。俺のではなく、ヤブ医者のだ。ひと昔前に全世界に旋風を巻き起こしたアメリカの歌姫のメロディ。今では、その歌姫はぶくぶくに肥えてしまって目も当てられない。
「はいはい?」
隣で電話に出るヤブ医者を眺めながらコーヒーを飲み干す。ぐうーっ、とマグカップを持ち上げて最後の一滴まで飲み干すと、手術台代わりのダイニングテーブルに置く。仕事の邪魔をしちゃならん、と俺は退散する。
「ごっそさん」
「待ちな」
首根っこをひっ掴まれた。「ぐぇ」と蛙のような声が出た。
「てめぇ、首締まったらどうするつもりだ!あぁ!」
「大丈夫、あたしが喉ぉカッ捌いて息できるようにしてやるから」
それだけ言うと、ヤブ医者は電話の続きに取り掛かる。嫌な予感しかしない。
「クリス、あんた暇だろ。今朝難民を二十人ほど受け入れたそうなんだが、二、三人ヤバイのに罹っちまってるのがいるらしい」
「ヤバイのってなんだよ」
「雪山風邪、激しい高熱と嘔吐、幻聴、幻覚、『ナインクロス』に来るまでに五人が死んだとさ」
『雪山風邪』は雪山で風邪をひくことではない。ただ単に『ナインクロス』が雪山の近くにあり、一時期、この症状を起こす病が流行ったからだ。また『雪山風邪』は感染力が非常に強い。おそらく『ナインクロス』にたどり着いた二十人は全員が『雪山風邪』に罹っていると考えていいだろう。
「二、三人分の素材はあるんだがねぇ」
ヤブ医者はわざとらしく、溜息を吐いた。『雪山風邪』の嫌なところは、このクソ寒い土地で四十度を上回る高熱が出ることだ。体温を下げようと、体を冷やすと低体温症になってしまう。かと言って、温めると体温の上昇を助け、内臓や脳が熱にやられてしまう。薬によって体温を下げるのがいいのだが、『リアル』の薬ではあまり効果がなかった。そんな中で、薬剤も扱えるヤブ医者が、『この世界』で採れる素材で薬を作ったところ、かなりの効果が見られた。やはり、『この世界』の病は『この世界』でしか治せないということだろうか。実際、『雪山風邪』に罹った患者が『リアル』の病院に行ったところ、処置できなかったそうだ。その患者は、その病院で亡くなった。
「採ってこい、てか?」
「さすが察しがいいねぇ、お前さんも難民を見捨てるような人でなしじゃあねえだろ?」
どこか俺を試すように、俺の顔を覗き込みながらヤブ医者は言う。本当にタチの悪い女だ。
「と、言うわけで」
ヤブ医者が悪い顔して笑うと、普段は患者が眠るためのカーテンで仕切られたベッドのカーテンが独りでに開いた。シャッ、という音と共に現れた姿を見て、頭が痛くなる。
「あたしも行きますよー」
頭に生えている髪の毛が全て垂れ下がり、顔全体を覆い隠した存在そのものがホラーな小娘が現れた。長い髪に覆い隠されているその様から通称ミノ虫。またの名を、タマ・キリサメという。
「普通は逆なんですけどねー」
ミノ虫はたはは、と笑いながら訳の分からないことを言う。こいつが何を言っているのか分からない。
「ヤブ、悪いが俺一人で行く」
「何言ってんだい!お前さんに何かあったらダメじゃないか、なぁパルちゃん」
「そうですねー、非常に困りますよー。その体はあなた一人の体じゃないんですからねー」
ミノ虫はきゃー、と頬に手を当てて、照れながら言った。それを俺はどう扱っていいものか分からず呆然とする。
「クリスくーん、ツッコミがないのは寂しいですよー?」
「ヤブ、やっぱ一人で行くわ」
「しゃらくせー、パルちゃん、連れてきな!」
しっし、と手で払いながら、もう片手ではタバコに火を点ける。酷い奴だ。ヤブに言われたのを良いことにミノ虫は「はい行きますよー」と腕を組んできた。
「バカ、違ぇよ!」
ミノ虫の腕を振り払い、肩を掴んで距離を置く。突然変わった、俺の声色に二人は表情を変えた。一人は分からないが。
「こいつの身に何かあったら困るだろーが!」
心にも無いことを一つ。これでミノ虫の乙女脳はパンクするはずだ。案の定「く、くくく、クリスくん……」と、ミノ虫は体をくねくねさせた。
「だから俺は、一人で行く」
ジャケットの襟を絞って、俺は玄関へと歩く。案の定、乙女脳をミノ虫は、「ま、
待って、行かないで!」と床に座り込んで手を伸ばす。
「ミノ虫、達者でな」
「く、クリスくぅーん!」
俺は玄関を開けた。目の前に大きなネコ科の動物の顔があった。俺は玄関を閉めた。
「ミノ虫、あれは何だ?」
「ライガですよー」
ミノ虫はさも当然のように言う。すでに乙女脳は解けていた。もう一度玄関を開けると、大きな欠伸をしているライガがそこに居た。体長三メートル、青い柔らかな体毛に覆われたの獣は『キャンサークリニック』の玄関の前でお座りをしていた。
「なんでこいつがここにいるんだ?」
「えー?だってクリスくんと一緒に行くんだから、あたしだって戦いますよー」
「お前じゃなくて、ライガがな」
棒立ちしている俺に気付いたライガは、ごろごろと喉を鳴らして俺に擦り寄ってきた。その仕草は可愛らしいが、サイズが可愛くない。頭一つ取っても体育祭の大玉くらいあるのだ。扱いに困る。
「ねぇー、ライガも行くよねー」
「がう」
ミノ虫がちょこちょこと隣に並ぶと、ライガは嬉しそうに鳴いた。
「そら、クリス。これが必要な素材のリストだよ、数も結構いるから、協力していきな」
背後でヤブ医者は嬉しそうな口調で言う。自分の思惑通りになったのが嬉しくて仕方がないのだろう。
俺はライガとミノ虫にじゃれつかれながら、『キャンサークリニック』を出た。




