第一章 神阪 蓮 ④
おっさんの店は町から徒歩で二、三十分ほど離れた場所にある。それも海沿いの小路をひたすら歩く。歩けど歩けど片側には海、反対には山の青と緑のコントラストが続く。聞こえるサウンドは波の音と風の音、そして虫の鳴き声、時折聞こえる動物の遠吠え。気の抜ける風景だ。隣を歩く『弟』、アルジールは時折俺の顔を覗き見ながら隣をせっせと歩く。会話がないことが不安なのだろうか。
「ユマ姉ぇ大丈夫かな?」
「まぁ、あいつがあの程度でどうにかなるなんて思えないけどな」
さっきの光景を思い出す。あれはみずきが悪い。今頃彼女はひたすら謝り倒していることだろう。同じようなことを思っていたのだろうか、アルジールも隣で「あは」と笑った。その後も、青と緑の中を歩く。更に十分ほど歩くと、レンガで舗装された路面が現れる。それと同時に木とレンガで作られた建造物が少しずつ見えてくる。ここがレンガの町『レンド』である。大陸の南東にある半島の更に端っこ。『この世界』の中では断トツのド田舎である。人口数百人の小さな町にしてはお洒落な町並みである。
「どこから行く?」
「そうだな、八百屋から行くか」
レンガの上を歩く。すると、少しずつだが人の姿が見えるようになってきた。
「よぉ、買い物かい?」
「どうも、買い物っていうかパシリです」
道行く人と挨拶を交わしながら歩く。俺の姿を見て話しかけてきたのは、四十台前半の逞しい体つきの男性だ。この町は、漁が盛んでおいしい魚がよく捕れる。この男性も「今日はタコがいいの入ってるよ」と教えてくれた。ちなみに、この男性は『現実世界』では土木現場で働いたが、漁に興味があり、『この世界』で思い切ってジョブチェンジしたんだそうだ。
「まじすか、でも今日は肉なんですよ、な?」と俺の後ろに隠れているアルジールの頭を撫でる。その仕草に男性は初めてアルジールの存在を見つけたようだ。驚いたように少年の顔を見る。すると、「この子は」と男性の表情が少し険しくなった。それを見て、アルジールも俺の服を力強く握って、自分の姿を隠すように俺の背後へと隠れた。
「次、オオムラサキダイの活きのいいのが捕れたら教えてくださいよ。あれは美味い!」
「あ?あぁ、もちろん」
視線をアルジールから遠ざけるように、俺は話題を戻した。やはり、まだ難しいようだ。
「では、リンゴ買わないといけないんで」
「あぁ、そうか。じゃあな、頼りにしてるよ」
そう言うと、男性はもう一度だけ視線を俺の腰あたりにまで下げて、踵を返した。男性が行ったことを確認すると、静かに少年の頭を撫でた。
「蓮兄ぃ」とか弱い声で呟き、それに反して力強く俺の腰に抱きついてくる。その少年に「行こうか」と促して、町の中へと歩いた。
しばらく進むと、人も増えてくる。ここまで来ると誰もアルジールの事を気にしなくなる。そのおかげで、少年も俺の背後から出てきて、隣に並ぶ。それでも買い物のやり取りや、町の人との会話の時には俺の後ろに隠れてしまう。そのたびにアルジールの頭を撫でてやるのだが、表情は冴えないままだった。買い物を一通り終えると、疲れた腕の休憩に町の中心にある噴水広場に立ち寄った。円形の大きな噴水の真ん中には石膏でできた男の像が三体、それぞれが背を合わせて立っている。そこに彫られた文字盤には『決意』と書かれていた。その文字盤を背に、噴水の淵に座る。隣にはリンゴが二箱、豚肉十キロ、鳥肉五キロ、そしてバーボンが並ぶ。これらをこれから徒歩二、三十分の場所へ運ばなければならないのかと思うと気が滅入ってくる。しばらく、呆としていると、隣から気の抜けた、ぐぅぅ、という音が聞こえてきた。
「はは、お腹空いた」
まだ元気のない顔でアルジールが言う。無理もない、昼食を食わずしてここまで来たのだから。「しょうがねぇな」と俺は携帯を取り出す。そういえばまだ残っているはずだ、と画面をスクロールして目当てのものをタップ。すると、歯ごたえのいい球根が俺の手に現れた。
「ほれ、これでも食ってろ」
「いいの?」
「俺らはいっぱい食ったからな」
すると、アルジールは遠慮なくかぶりついた。カシュッ!と小気味いい音が響く。ほんのり感じる甘さと瑞々しさ、想像するだけで俺も食いたくなったが、そこは我慢した。
「僕これ好き」
「ん、俺も」
そう言うと、アルジールは球根に没頭した。その間俺は、町を見回す。わいわい、と賑やかな噴水広場には買い物を楽しむ人々でいっぱいだった。また、近くのカフェで会話に華を咲かせている人、角のところにある教会で祈りを捧げる人、子供と手を繋いで歩く人、様々だ。なんていうか。
「平和だねぇ」
「そうですねぇ」
隣から俺の言わんとしていることを女性が言ってくれた。それに思わず同意。
「アルちゃんとお買い物?」
「はい、店の買出しを」
「あ、そら姉ぇ!」カシュッ!
俺が会話していることに気づいたアルジールはその人の名前を呼んだ。さっきまで元気のなかった少年の顔に笑顔が戻る。それを迎える女性の笑顔も柔らかなものだった。
「みんなも来てるの?」
「いえ、みんなはおっさんの店にいますよ。薄情な奴らだ」
「あはは、買出しは重いもんね」
そう微笑みながら言う女性は、秋風そら。柔らかな笑顔と長く真っ黒な髪。カーディガンを羽織、そして、きぃきぃと軋む車椅子に座っている。年は二十八歳、どこか儚げな、線の細い女性だ。事実、彼女は病気を患っている。病名は教えてくれないが、かなりの重病なのだ、ということは察することができる。時々病院に通い、治療を行なっている。以前、体調が悪化したときは顔色が真っ青で、ぐったりと床に倒れ込み、息もまともにできなかった。体温も少しずつ冷えていった姿は今も思い出すことができる。だが、彼女はそんなことがあってもずっと笑みを絶やさない。健気にずっと微笑み続けている。
「何買ったの?」
「リンゴ二箱と、お肉十五キロです」
「うわぁ、頑張ったねぇ。よし、じゃあお姉ちゃんも手伝ってあげよう」
にこり、と微笑んで胸を叩くそら。俺よりも五つ年上のお姉さんなのだが、やることはちょっと子供っぽい。
「いやいや、そらさんにそんな事頼めないですよ」
「大丈夫だよ。あたしは座ってるだけだし、リンゴとお肉抱っこしてたら、蓮ちゃんが押してくれるし」
「ね?」と微笑みながら、車輪を回して俺たちの荷物の元へと移動する。その間、車椅子はきぃきぃと悲鳴を上げていた。そして、「よいしょ」とリンゴの箱を膝の上に載せていく。
「すいません、助かります」
「いいよー。あれ?アルちゃんは?」
きょろきょろと周囲を見回すそら。俺もつられて見回すが、アルジールの姿は消えていた。一人にしないでくれ、と言っておきながら勝手にいなくなるなんて。あんなに町の人に会うのを怖がっていたのに、勝手にどこかに行くなんて考えられない。つまり、誰かに連れて行かれたか、もしくは。
「そらさん、つばさは?」
「へ?そういえばいないね。さっきまで一緒だったのに」
おかしいなぁ、とそらは小首を傾げる。そう言った瞬間に俺は安心した。間違いない、つばさが連れ出したのだろう。気が利くというか、なんというか。いやいや、そういうわけじゃなくて。
「どこかで美味いもんでも食ってるんでしょう。先に帰りますか」
「ん、大丈夫?」
「何かあったらつばさが何とかしてくれますよ」
噴水の淵から立ち上がって伸びをする。すると、少し向こうに背の高い女性と小さな銀髪の男の子が並んで歩いているのが見えた。その方向には、この町で人気のクレープ屋さんがある。腹を空かしている少年にとっては最高のご馳走だろう。
「てことで、帰りますか。二人で」
そう言って、そらの後ろに回り込んで、車椅子のハンドルを握る。すると、「ふ、二人?あ、えと、うん」と少し赤面しながら彼女は頷いた。おそらく、現実世界でもこういうことに慣れていなかったのだろう。俺の場合は、みずきや薫が近くにいたから慣れているが、そらの反応を見ると、可愛いなと思う。
ゆっくりと押して進むがレンガに舗装されたこの町は少し歩きにくい。がたごと、と車椅子は上下に揺れるが、そらはそれすらも楽しそうに頭を揺らしながら鼻唄を奏でる。しばらく歩くと、レンガが途切れ、砂の小道が始まる。そして、海と山に挟まれる。
「綺麗な夕焼けだね」
海の向こうへと沈んでいく太陽が赤く燃える。行きは青と緑の小道だったが、今は赤と橙も混ざり合い、そして、色は波に揺れ輝いていた。普段気にも止めない風景だが、彼女が言うと、その景色は幻想的にも見える。本当にこの世界はゲームなのか、といつも思う。そして、このままずっとこの世界で生きていけたら、と思う。
そして、またしばらく歩くと、ぽつん、と明かりの灯るログハウスが見えてくる。温かさを感じる橙色の明かり。ホッとして、帰ってきた、という気持ちになれる。店の玄関にまで近づくと大きな笑い声、叫び声、罵声が聞こえてくる。「あぁ、帰ってきたなぁ」と呟くと、「おかえりぃ」とそらは微笑みながら返してくれた。その温もりを感じながら、俺はドアを開ける。