第一章 神阪 蓮 ③
そうこうしている間に、俺たちは昼食を食べ終わり、とうとうすることがなくなってしまった。ただひたすらに、三人並んで木にもたれ掛かってコーヒー(一人はお茶)を飲むだけ。何を話すでもない。しかし、それは苦ではなかった。温かな木漏れ日を感じながら何も考えない時間は、貴重だ。
「そう言えば、あんた、今日お願いしてた物、取ってきてくれた?」
呆、と虚空を見つめながら、薫は呟いた。
「あぁ、あれな。二十個くらいだが取っといたよ」
そう返事して、携帯を取り出す。メイン画面の中から『持ち物』のアイコンを選んでタップする。そして、画面をスクロールさせてドングリのような木の実のアイコンをタップ。すると、俺の掌にそれらが現れた。ちなみに、この機能は『Over Land』のものであり、手に持っているものをポケットの中に入れるような感覚で携帯の中に収納することができる。また、取り出すときは今のように携帯を手に取りタップするか、『設定』で簡易登録すると、指を振ったり、キーワードを言うだけで取り出せる。この世界では、荷物は手で持たず、携帯の中に収納するのが常識なのである。本当に便利になったものだ。という解説を交えながら俺はドングリのような木の実を薫に手渡した。それを受け取ると薫は「ありがとう」と呟いて、すぐに携帯に収納した。
「んーっ、さて、どっか行こっか」と、大きく伸びをしながら、俺やみずきの顔を見ずに薫は言った。とにかく、ここから動きたいらしい。
「町の方に行くか?買い物とか」
「んー、特に買うものもないしなぁ」
「じゃあ、他にどこ行くよ?海も山も川も目の前だぞ」
「んー」
唸ると薫は再びコーヒーに口を付けた。これがこの世界のいいところであり、悪いところでもある。見渡すばかりに大自然が広がり、心が癒される世界ではあるのだが、いざ何かしようと思うと何もないのである。俗物がないというか、カラオケもボーリングもダーツもフットサル場も映画館も遊園地もゲームセンターもない。あるのは喫茶店と商店街と噴水広場の屋台と海山川湖などの大自然。小学生までならその辺を走り回って遊ぶなんてこともできたのだが、いかんせん俺たちもそこそこに大人になってしまっている。
そして、結局。
「で、戻ってきたわけか」
山を登るのも、川ではしゃぐのも、海で泳ぐのも気が引けた俺たちは結局髭のおっさんの店に戻ってきていた。ちなみに俺たちの目の前には湯気の上がるコーヒーが二つと熱い緑茶が一つ、そして、モンブランが三つ。なぜケーキなのかと言うと。
「やっぱり食後はデザートだよね」と、頬っぺに栗クリームを付けたみずきが言った。彼女は大の甘いもの好き。しかも、おっさんの作るケーキが一番好きだとお世辞抜きで言うほどだ。
「やっぱ、みぃちゃんはいい食べっぷりだねぇ」
「だって、おっちゃんのケーキおいしいんだもん」
極上の笑顔をするみずき。幸せそうでなによりだ。
「父さん、もういい加減にここ喫茶店にすれば?コーヒー淹れるのも慣れてきたでしょ?」
片肘を付きながら薫は言う。ちなみにこの店は正確には喫茶店ではない。しかし、出てくるコーヒーがインスタントではなく、コーヒー豆を自家焙煎して淹れている。『現実世界』ではあまり喫茶店に入らない俺たちだが、おっさんの入れたコーヒーは美味いと思える。しかし、カウンターの目の前にあるシェルフにはコーヒー豆よりも幅を利かせているものがある。
「うちはバーだ」
異論は受け付けない、とでもいうような強硬な姿勢でおっさんは言う。言葉通り、このログハウスには最初酒とナッツやその他軽食しか扱っていなかった。しかし、俺や薫はいいのだが、酒にあまり強くないみずきがケーキを食べたいと言ったり、俺がコーヒー飲みたいと言ったりと俺たちの要望を多く取り入れた結果、コーヒーやケーキ、手作りクッキーなどが出てくるバーへと変貌した。しかも、普通に晩飯として焼き魚とか和食もここで食べているので、もはやファミリーレストランと言ってもいいと思う。しかし、その度におっさん強情に「うちはバーだ」と繰り返すのである。
「じゃあ、喫茶Barにしたら?どっちでもいけるし」
「いやだ。俺はバーをやりたいんだ」
どこか微笑ましい親子の言い合いが繰り広げられる中、俺はせっせとモンブランを平らげた。味は美味い。おっさんは「ケーキなんぞバーにはいらん」と言っていたが、要望があれば勉強して作ってくれる。『現実世界』でも居酒屋の店長をしていただけに料理には本気なのだろう。
そんな強情な父親を持った娘は、もはや慣れたのだろう「はいはい」と片手を振って切り上げた。頑固者の相手は正面からぶつかっても疲れるだけだからな。
「あの、おっちゃん」
黙々とモンブランを食べていたみずきが、遠慮気味におっさんを呼ぶ。皿の上からはモンブランが消えていた。
「おかわり」
「まだ食うのかよ!」
我ながらタイミング、切れ味、手刀の角度全てが完璧なツッコミを披露できたと思う。しかし、常日頃から一緒にいる身内しかいない為、笑いには昇華できなかった。
「まぁ、そう言うな蓮。何がいい?モンブランか?タルト、バームクーヘン、シャーベットなんでもあるぞ」
「もうケーキ屋にしろよ、この店」
我ながらタイミング、切れ味、脱力感全てが完璧なツッコミを披露できたと思う。しかし、常日頃から一緒にいる身内しかいない為、笑いには昇華できなかった。
ちなみに、今言ったデザートの種類は以前みずきが注文したものである。一度注文をして、一度作ったものを全て揃えてくれているのは消費者としては非常に嬉しいことだ。その為、みずきも嬉しそうな顔で悩んでいる。
「んー、アップルパイとかできる?」
「選択肢の中から選べよ!」
我ながら以下略。
「あぁ、できるぞ。ちょっと時間貰うがな」
「できんのかよ!」
略。
この店に不可能はないらしい。おっさんはさっさと厨房へ引っ込んで行った。すると、厨房の方から、とんとん、と階段を下りる足音が聞こえてきた。「おっ、下りてきたか。アップルパイ焼くが食うか?」と、厨房の方で誰かに話しかけるおっさん。ちなみに俺たちの座るカウンターからは、その姿は見えない。
「え、アップルパイ?食べる!」
「おっちゃん、またレパートリー増やしたの?」
カウンターからはまだ幼い男の子の声と女の子の声が聞こえてきた。嬉しそうな声と絶妙な疑問。彼らもこの店の常連というか住人である。
「時間かかるから、フロアで待ってな。何か飲むか?」
「僕コーラ」
「ユーはあれがいい。レアルゴールド」
男の子と女の子がおっさんに注文しながら、こっちに顔を出した。銀髪イケメンの男の子
と金髪お転婆女の子が並んで現れる。
「あ、やっぱり蓮兄ぃたち居たんだ」と嬉しそうに言うのは銀髪イケメン少年のアルジール・クライ。ドイツ人だ。十二歳、小学六年生でハノーファーの学校に通っていた。過去形なのは、彼が完全に『この世界』の住人になっているからだ。彼が『現実世界』に帰ったのは、出会ってから一度もない。
「やっぱりって、分かってて下りてきたんだろ?」
「まぁね。お腹も空いたし」
にへー、と笑いながら隣に座る。背丈も小さく百三十八センチくらいしか無い為、足の高いカウンターの椅子に座るのは一苦労だ。しかし、それを苦にもせずに、カウンターと俺の肩に手を置いて飛び乗るようにして椅子に座り、嬉しそうな笑顔をする。一人っ子の俺としては可愛いくて仕方のない存在である。
「んじゃ、食いもんも注文しねぇとな。アップルパイしか来ねぇぞ」
「そっか、んー」
「じゃあ、ユーはカルボナーラ大盛りとカツカレー大盛り!」と、割り込むように言ってきたのは、自分のことを『ユー』と呼ぶ金髪お転婆娘のユーマ・シフォン。元気娘よろしく、色気やお洒落よりも食い気、ボリューム重視。しかも、栄養ドリンクを愛飲する。その内発狂するんじゃないかと心配になるほど元気すぎるフランス少女だ。十五歳でパリの高校に通っているお嬢様らしいのだが、どこをどう間違えたのか、とてもそうは見えないのが彼女らしいところである。
「おっさん聞こえたかー?」
「おーう」と厨房の方からおっさんの返事。ユーマの注文はきちんと通ったようだ。
「にしても、よく食うなぁ。晩飯食えなくなるぞ」
時刻は昼の三時を回った辺り。この時間に大盛り二つも食べると、晩飯までに消化しきれないだろう。大丈夫か、と思ったが、ユーマは「晩ご飯のことはその時に考えるよ」と笑顔で答えた。
この『世界』は、全世界に広がっている。アルジールはドイツ、ユーマはフランス。他にもアメリカ、ブラジル、ガーナ、南アフリカ、ミャンマー、フィジー、東ティモール。この世界は現実世界の全ての国に広がっている。今、アルジールやユーマと普通に会話できているのは、この世界にある『自動翻訳システム』のおかげである。俺はドイツ語やフランス語は分からない。しかし、この世界では、そんな俺たちでも全世界の人たちと普通に会話できるのである。本当にすごい世界だと心の底から思う。
「じゃあ、僕はアップルパイだけでいいや」
いろいろ悩んだ挙句、アルジールは注文をしなかった。腹が減って下りてきたくせに、食べないなんて不健康にも程がある。しかも食べ盛りの小学生がそうでは大問題だ。
「アルちゃんお腹空いてるんじゃないの?」
俺と同じことを思ったのだろう。みずきがお茶を啜りながら、アルジールの顔を覗き見る。そのみずきの視線に照れながら「ユマ姉ぇも食べきれないと思うし」と返事すると、逆隣から「ユーは食べるよ?」と元気娘が当然のように一言。「俺もユマは食うと思うぞ」とアドバイスを付け加えると「んー」と悩んで「晩ご飯食べたいからアップルパイでいい」と大人な発言をした。元気娘とはえらい違いだ。
「そうだな、晩ご飯はきちんと食べないとな」
そう言いながら、俺はアルジールの頭を撫でる。猫のような柔らかな髪と丸い頭が手のひらにフィットして撫で心地は最高だ。それを見て、なぜかユーマが「むー」と膨れていた。
「アルっちばっかりズルい」
「ユマは晩飯食べたら撫でてやるよ」
コーヒーを飲みながら即答する。すると、ユーマは不服そうに口を曲げた。
「お昼ご飯食べないアルっちが褒められるのにユーは晩ご飯食べないと褒めてもらえないの?」
「アップルパイ食うだろうが」
「ダメ!栄養を考えてないし、アルっちはもっと食べないとダメな子だよ!こんなにちっちゃいのに!」
そう言うユーマの気持ちもよくわかる。アルジールは小学六年生にしては身長が小さいし、体重も軽い。四つ年上とは言え、ユーマがアルジールを抱きかかえると、少し大きめのぬいぐるみを抱いているような画になる。それはそれで問題なのだが。
「栄養に関して言ったら、お前も相当だぞ。カルボナーラとカツカレーなんて炭水化物のオンパレードだ。しかも、大盛り」
「ユーはいいの!今はアルっちの話!」
ユーマは強情で譲らない。褒めてもらいたいのか、アルジールを心配しているのか分からないが、おそらくユーマ自身も分かっていないのではないだろうか。
「一つも食べないって言うなら問題あるけど、アップルパイは食べるって言ってんだからいいんじゃないの?」
見かねた薫が、一つ残ったモンブランをつつきながら言う。
「しかも、お昼にちゃんと食べなかったのはあんた達なんでしょ?この時間にお腹いっぱい食べたらそれこそ不健康よ」
「うぐぐ」
思わぬ敵兵の出現にユーマは呻いた。しかも、正論っぽい言葉に返す言葉が見つからない。
「ユマもパスタかカレーどっちかにしたら?」
「ゆ、ユーは食べるもん!お腹空いて力出ないもん!晩ご飯も食べるもん!」
どこか自棄糞気味にユーマは吠えた。負け犬にも負け犬なりの意地がある。得しない意地だが。しかし、薫もそれ以上ユーマを責めたりしなかった。理由は簡単。ユーマなら食べるだろう、という半ば呆れにも似た予感がしたのだ。それは俺も同じだった。
「んじゃ、アップルパイ二、三枚追加するか?そらさんとつばさも帰ってくるだろうし」
「そうね、父さん!パイ追加大丈夫?」
話題をユーマから変えて、改めて注文へと戻す。あまり食べる気がないとは言え、皆で摘むパイ一つでは、空腹のアルジールは辛いだろう。それに帰ってくる人もいる。少し多めに注文しても余ることはないだろう。薫が厨房で腕を奮っているおっさんに言うと、厨房から「リンゴが足りん!蓮、買ってきてくれ!」とまさかのお使い要請が返ってきた。
「まじか」
「まじだ」
俺の呟きに、ユーマのオーダーである大盛りのカルボナーラを片手に持ったおっさんが答えた。
「ほれ、金だ。二箱頼む。あと、豚肉を十キロと鳥肉も五キロほど。ついでに直人のバーボンも切れてっからそいつも頼む」
業務用の買い物に俺は「うげ」と唸るしかできなかった。なぜかと言うと、「くれぐれも携帯に入れんなよ」と言うことである。『持ち物』のシステムは非常に便利だ。重いものを手で持つ必要がなく、かなりのストックが可能だからである。
しかし、例外もある。複雑なシステムだが、『現実世界』にあるものを『Over Land』に持ち込むことが可能である。例えば、服。『現実世界』からログインして服が一緒に転送されなければ、こっちの世界に来たときに皆揃いも揃って裸になってしまうことになる。それはそれで素晴らしいシステムにも成り得るが、常識的に考えれば嫌なものだ。しかし、『この世界』へ来た人々は『現実世界』で着ていた服を着ている。つまり、身に付けている物は『Over Land』に一緒に転送されるという事が分かった。
そして、そのシステムを利用して色んなものが持ち込めることがわかった。例えば、ログインする前にリンゴを二つ手に持ってログインすると、こっちの世界でもリンゴを二つ持った姿になっている。もちろん、食べることもできる。更に、それを利用して、植物の種を持ってきて栽培することも、牛や豚、鶏を連れてきて牧場経営をすることもできる。車や飛行機、船など大きすぎるものは無理だが、それらも部品に分ければ持ち込むことが出来る。石油などのエネルギーがこの世界に存在するのかは不明だが。そして、その逆も例外を除けば可能である。その例外というのは、『Over Land』特有の物質である。例えば、俺たちがお昼に食べたカシュッ!と歯応えのいい球根。あれはこの世界特有の植物であるため、『現実世界』へ持って帰ることはできない。辺りに転がっている石も、実はこの世界にしかない元素が含まれている(みたい)ので持って帰ることができない。基本的には、持ってきたものを持って帰るくらいだ。
で、ようやく本題に戻るのだが、『持ってきた植物・動物』も携帯に入れることができる。しかし、入れたが最後、それらの植物や動物はこっちの世界のものに変換されてしまうのである。例えば、豚肉はこっちの世界ではブーチ肉になる。味はほとんど似ているのだが、料理人からすると許せないレベルの違いが存在するらしい。つまり、豚肉十キロ、鳥肉五キロ、リンゴ二箱、バーボン一本を携帯に入れることなく持ち帰らなければならないのである。
「誰か手伝ってくれ」
悲鳴にも似た声で俺は助けを求めた。しかし、皆揃いも揃って目を背ける。
「薫」
「あたし、晩ご飯までにレポート仕上げちゃわないと。悪いわね、蓮」
やる気がなかったはずの宿題を盾に逃げるとは、卑劣なり。しかし、仕方がない。何を言っても悪者になるのは俺だ。
「ユマ」
「ユーはこれからご飯だよー」
べー、と舌を出して目の前に並ぶカルボナーラをがっつく。みんなに寄って集っていじめられたのを根に持っているのだろう。どこか拗ねた様子だ。
「み────、アル」
「い、今みぃ姉ぇを呼ぼうと思ったでしょ?」
「みぃを連れていくと、余計に荷物だからな」
それを聞いたみずきが「ひ、ひどいよ!」と抗議してくるが、間違いなく邪魔になる。もともと非力な彼女がリンゴ二箱を持てるとも思えないし、豚肉十キロも、鳥肉五キロも持てないだろう。いや、持てるには持てるだろうが、すぐに音を上げるのが目に見えている。あと残されているのは直人のバーボンだが、絶対に転けて割るか、落として割る。つまり、ついてきても結局戦力にならないのである。
「頼む、アル!一人はキツイ!」
「い、いいけど、絶対に一人にしないでよ?」
不安そうな顔、上目遣いで俺の目を見る。彼の事情を知っていなければ勘違いしそうな言動だ。ただでさえ、ドイツ産美少年のアルジールは普通にしていても可愛らしい風貌だ。年上女性を一撃でノックアウトする破壊力を持っている。今はまだ小学生でその力の使い道を知らないが、中学高校と年を重ねれば恐ろしい男になるだろう。
「もちろんだ、お前にはバーボンとリンゴを任せるから、肉は任せろ」
「へへ」
そう言って、アルジールの頭を撫でる。嫌がる素振りもなく、むしろ嬉しそうにじゃれついてくる。
「『兄弟』仲良いなぁ」
「ん?嫉妬か?」
みずきが羨ましそうにこっちを見ていた。そういう彼女もアルジールのことが大好きな年上女性の一人である。
「いいもん、ウチにはユマちゃんがいるし」
「ふごっ!?」
みずきは突然隣でカルボナーラを貪り食べるユーマに抱きついた。ちょうどその瞬間、飲み込もうとしていたのだろう。彼女の口から年頃の乙女とは思えない食べカスが飛び散った。今のはみずきが悪い。しかも、「む~っ!むぅ~っ!」と喉に詰まらせていた。
「ご、ごめんね!ユマちゃん!はい、水」
「みぃちゃん!落ち着いて、それお酢!」
「へ?」とみずきが気の抜けた返事をした時、隣で「ぐぼあっ!」と全てが決壊した音が聞こえた。ぴちゃぴちゃと水の音。ちなみに俺とアルジールはすでに店の玄関にまで逃げ果せることに成功していた。「ちゃんと片付けとけよ」という捨て台詞を残して、俺たちは店から出た。