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Over Land  作者: 射手
第二章  アルジール・クライ
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第二章  アルジール・クライ ①

第二章 アルジール・クライ


view:アルジール・クライ


雨、この世界では、週に一度、『現実世界』での水曜日に雨の日がある。夜中の零時から、翌零時まできっちりと管理されているように雨が降る。毎週、その日は気が重かった。いつも元気な人が苦しそうな顔をするから。


「っく、つぅ」


 朝、目が覚めて、顔を洗うために一階に下りると、そんな苦痛に満ちた声が聞こえる。その声は押し殺されていて、聞こえる事を知っていないと分からないほどの小さな声。しかし、僕にとって一字一句聞き逃すことができない声。


「ふぅ、ふぅ」


 こっそりとフロアを覗く。電気の灯されていないフロアは薄暗い。分厚い雲から漏れる微かな太陽光のおかげで、窓の近くのテーブル辺りだけは仄かに照らされていた。そこにいる人の姿も。


「ふぅ、よし」


 その人は左腕を摩りながら、息を整えていた。その人は普段からずっと長袖の服を着ているため、誰にも気づかれないが、その袖の下には大きな傷跡が残っている。大雨の降る水曜日の夕方、彼女の足元の水溜まりは血に染まった。肉を斬り、骨を半分ほど抉った。あわや腕を切り落としていたかもしれない重症を彼女はあの日、負った。


「そろそろ起きてくる頃かな」


 そういうと、彼女はテーブルを立った。右手はずっと左腕を押さえている。さりげなくその手は上下する。そんな何気ない仕草も、僕には見過ごすことのできないものだ。しかし、表情に曇りはない。相当の痛みを伴っているはずなのに、『いつもの』表情に戻って、自分で淹れたお茶を啜る。


「……、あっ、みぃ姉ぇ!おはよ」

「あー、アルちゃん、おはよー」


 わざとらしく、今起きてきた風を装って、僕はフロアに出た。みぃ姉、古田みずきは、いつもと変わらない柔らかな笑顔で、僕の方を見た。いつも元気で穏やかなみぃ姉。しかし、右手は左腕を離すことはなかった。


「今日は早起きだね」

「みぃ姉ぇこそ、雨、好きなの?」


 わざとらしく、雨を話題にする。嫌いなはずだ。毎週水曜日、左腕の痛みで寝ることもできなくて、一人でフロアにいることを、僕は知っている。しかし、みぃ姉は一切表情を曇らせることなく言ったのだ。


「好きだよ、アルちゃんに初めて会った日も雨だったよね」


 view:アルジール・クライ END


 朝、最近は早起きが習慣になっていた。いつもは十時くらいに起きて、おっさんの淹れてくれるコーヒーを飲んで、昼前にアルジールあたりを連れて、市場をうろつく事が日課だったのに、今では朝六時には起こされる。


「おとーさん」


 今日もまた、この声、この台詞から始まる。昨日の夜はみずきに付き合って朝方まで起きていたから、まだ寝ていたい。布団を顔まで引き上げて無駄な抵抗を試みる。もぞもぞと蠢き、芋虫のように長細く丸くなる俺を見て、起きる気配が無いと理解した娘、あすかは「むー」と言うと、俺のベッドによじ登ってきた。ちなみに、あすかはそらと一緒に寝ている。


「おとーさん」


 再度、声を掛けられる。俺は知っている。ここで起きなければ痛い目を見ることになる事を。しかし、体は起きたくないと無駄な抵抗を続ける。芋虫になった俺は、更に丸くなり防御力を上げておく。

 すると、ベッドが小さく弾んだ。それは、いつものことである。あすかがベッドの上で跳躍した証拠。そして、もちろん、跳んだものは落ちてくるのが世の中の定理である。


「ぐぼぁ」

「おとーさん起きる」


 着地点は俺の腰の辺りだった。布団の中で丸くなるために俯せになっていたことが幸いし、寝起きに激痛に苦しむことはなかった。詳しく言うと、あすかの着地点は『その辺り』だった。しかし、それでも跳躍の後のヒップドロップはなかなかの衝撃である。たかが五歳児とは言うが、米袋十キロ二つ分くらいが落ちてきたと考えてほしい。痛い。


「起きる」

「そらさんとこ行っておいで」


 へろへろな声で言うと、「そらは起きない」と即答された。さすがにそらに対してヒップドロップはしていないだろうが、色々試した結果、起きなかったのだろう。


「おとーさん」

「ぐぅー」

「む」


 寝たふりを敢行する。もちろん、あすかは諦める事をしない。布団に顔を埋めて、零距離から息を吹き付ける。この攻撃は痛みを伴わない。しかし、肩甲骨の辺りが生温かくなって、非常に気持ちが悪い。十分な湿り気を帯びているため、なんかベタベタする。


「っく、あすか、起きるから。先に下りていてくれ」

「や、おとーさん下りてこない」


 よく分かっているじゃないか、という台詞は飲み込んだ。


「頼む、あすか。あと三十分寝させてくれ」

「や」

「頼む、目が腐る」

「や」


 何を言っても、布団の上から抱きついて離れない。それでも、俺は無駄な交渉を続ける。話しかけていないと、おそらく次は体の上に立って足踏みを始めるに違いない。布団の上からだから狙いが定まらない上に、あすかも容赦がない。背中はダメージが少ないが、尻や太もも、ふくらはぎを小さな足で踏まれると、なかなかのダメージだ。踏まれて喜ぶ奴の気がしれない。


「起きる」

「うー、むり」

「朝ごはん」

「先食べといで」

「一緒に食べる」


 あぁ、これって幸せって言うんだろうな。寝起きじゃなかったら、素直になれるんだろうな。でも、でもね。眠いんだよ、俺。

 と、そんな事を考えていると、わずか三十秒の沈黙が出来ていた。なんてことのないはずの三十秒。しかし、今、この時にとっては命取りとなる三十秒だった。


「あ、ちょっと待て」


 俺が言葉を発した時には、すでにあすかは体の上に立ち上がっていた。そして、容赦なく足踏み駆け足バージョンを繰り出す。


「お き る ― !」


「ぎゃああああああああ」



「その、大変だったね?」


 みずきは苦笑しながら、対面に座る俺とあすかを見やった。結果、目が覚めた俺はあすかと二人でフロアへ下りて並んで朝ごはんを食べている。ちなみに今日の朝ごはんはハムエッグとコーヒー。あすかはミックスジュース。


「大変って言うか、何て言うか」


 ははは、と眠い目を擦りながら、濃い目に淹れてもらったコーヒーを飲む。苦味が口の中に広がるが、それでも抗えないほどの眠気が襲い来る。目が覚めたとは言え、許されるのであれば今すぐにでも寝たい。


「悲鳴がここまで聞こえてきたよ」


 そう言うみずきの隣で、アルジールがうんうんと頷く。ちなみに、アルジールの朝ごはんはポテトと牛乳。みずきは、すでに食べた後のようで、日本茶を飲んでいる。


「なかなかの攻撃だったよ」と、左の太もも裏を摩る。あすかの足がツボのようなところに一発入った痛みがまだ残っている。


「そういえば、あすか。ちゃんとアルに挨拶したか?」

「う」


 ハムエッグの黄身の部分だけを上手にフォークで切り取るあすかの動きが止まった。ちゃんと紹介できたのは、あの日の晩ご飯の時だったが、アルジールとユーマとは話そうともしなかった。アルジールとユーマにとっては可愛い妹のような存在であるため、何とか構おうとするのだが、あすかはそれを嫌がり、そらから離れなかった。結局、会話することがなかった。


「僕、嫌われるようなことしたかなぁ」


 そう言いながら、アルジールは半月型のポテトを口に運んだ。しゅん、と下を向く。天気は雨とはいえ、朝からそんな調子では一日がもったいない。


「そんなことないだろ、あすか、挨拶しなさい」

「う、うぅ、お、やすみ」

「いや、そうじゃないだろ」


 あすかは、渋々といった感じで言う。しかも「おやすみ」と来たもんだ。それには、さすがに呆れてしまう。


「あすか、朝は何て言うんだ?」

「お、おはよう」

「言えるじゃないか、何で言わないんだ?」

「うぅ」


 どこか泣き出しそうな顔で俺を見る。しかし、本当に泣き出したいのはアルジールだろう。仲良くしたいと思っているのに、挨拶すらもしてもらえない。それでもアルジールは健気に、根気強くあすかに話しかける。


「あーちゃん、おはよう」

「お、は、よう」


 借りてきた猫もとい、借りてきたインコのようにアルジールの言葉を返す。俺やみずきには普通に言えるのに、まるで初めて「おはよう」という言葉を知ったように、あすかはたどたどしく口にする。


「おは、よう、お、はよう、おはよう」

「そうそう、あーちゃん。おはよう」

「おはよう」


 ようやく、ちゃんと「おはよう」を返してもらったアルジールは、嬉しそうに笑ってあすかの頭を撫でた。しかし、あすかは緊張なのか警戒なのか、びくり、と体を震わせて固まった。


「蓮兄ぃ、やっぱり嫌われてるのかな?」と涙目で俺を見るアルジール。その隣では、同じように涙目のあすかが俺を見ていた。どういう事かさっぱり分からない。もう、こうなったら直接聞いて直した方が早いだろう。


「あすか、アルの事嫌いか?」


 単刀直入に聞く。俺の台詞に、アルジールとみずきは息を呑んだ。そして、あすかは首を大きく横に振った。即答だった。


「じゃあ何でアルと話しないんだ?」

「分からない」


 今度もあすかは首を横に振った。その答えは非常に困る。と、いうより、そんな事って有り得るのだろうか。


「何が分からないんだ?」

「アル」


 泣き出しそうな顔でアルジールを見るあすか。もしかすると、事は単純なのかもしれない。


「人見知りかな?」

「そうなのかも」


 俺の言葉にみずきも同意した。人見知りを治すには、やはり話すしかない。しかし、ただ話すだけでは意味がない。と、なると。


 俺たちは朝ごはんを食べ終えると、部屋に戻った。集まったのは、アルジールと同じく避けられているユーマの部屋。彼女の部屋は屋根裏であるため、他のみんなの部屋より天井は低いが広い。


「ねぇ、何見るの?」


 いざ、面と向かって会話をしようとしても、人見知りにとって、話題はなかなか無いものだ。と、いう事で、『この世界』では、あまり役に立たないテレビを準備する。そして、『現実世界』から持ってきたゲーム機を繋いで準備完了。後は、ディスクを入れるだけだ。


「ふっ、日本が誇るアニメ映画の巨匠の作品だ。城三部作を準備した」


映画ならば、感想を言い合ったり話題には事欠かないはずだ。これで、少しでも仲良くなれればいいんだが。


「な、なんだってぇええ!フランスではなかなかお目にかかれないのに、日本では毎年民放で無料で鑑賞できるというあの名作を!」

「コマーシャルが入って、ちょいちょいカットされてるけどな」


 ノリのいいユーマが説明口調で言う。その口ぶりとテンションにあすかは硬直してしまっている。その隣では、ユーマのテンションにはすっかり慣れているアルジールが目を輝かせて上映を待っていた。


「僕、初めて見るよ」

「それはよかった。じゃあ、始めるぞ」


 コントローラーを動かして、再生。照明は少し薄暗くして、音量も調節。これで、後は見るだけだ。

 時間が過ぎる。何度も見ている作品だが、何度見ても面白い。どうなるか展開も分かっているはずなのに、わくわくする。そう言えば、『この世界』に来てから映画を見るのは初めてかもしれない。いつもは口うるさいが、今は完全に映画の世界の中だ。三人はどのキャラクターに感情移入しているのだろうか。物語が中盤に差し掛かった頃、そらが静かにやってきて、ポップコーンと飲み物を用意してくれた。しかし、誰も見向きしなかった。それほど、夢中になっている証拠だ。そして、映画が終わる。


「あー、冒険したい」

「うん、バッグにパンとか入れてね」


 見終わったアルジールとユーマは、ぐったりと床に倒れ込み、映画の余韻に浸っていた。


「あれってさ、帰りも龍の巣突っ切ったのかな?」

「え?晴れたんじゃないの?」


 いや、余韻とは少し違うみたいだ。


「アルっちって、心を盗まれたことってある?」

「んー、ないかなぁ」


 なんて会話をしてんだ、こいつらは。


「あすかっちは、心盗まれたことある?」

「ある」

「え」


 俺の膝の上で、あすかは躊躇うことなく即答した。映画を見たことで話せるようになったことへの驚きと、心を盗まれることがあるという返事への驚きで思わず口を挟んでしまった。


「へぇ、誰に盗まれたの?」

「おとーさん」

「え」


 ユーマの質問にあすかは躊躇うことなく即答した。はきはきと話せるようになったことへの驚きと、あすかの返答に動じないユーマへの驚きで思わず口を挟んでしまった。


「そっかぁ、あーちゃんは大人なんだねぇ」

「うん」

「え」


アルジールの言葉にあすかは躊躇うことなく即答した。あすかの返答に動じないアルジールへの驚きと、以下略。お前らより年下なんだぞ、あすかは。


「どんな感じなの?」

「どきどきする」

「え」


 略。と、言うか、あすかにドキドキされているなんて、ある意味、告白を受けたようでドキドキする。


「よし!」と、いきなりユーマが立ち上がると、「あすかっち、泥棒ごっこしよう!」と、あすかを抱き上げた。それに、あすかも「うん」と即答。娘の成長を見る父親の気持ちってこんな感じなのだろうか。娘に友達が出来るという幸せなことなのに、娘と触れ合う時間が減ることに寂しさを感じる。今なら、おっさんと酒を酌み交わせそうだ。


「じゃあ、アルっちの大切なものを盗むよ!」

「おー」

「え、僕が盗まれる役なの?」


 参加を表明していないアルジールが、いきなり被害者役に抜擢された。「な、何を盗まれるの?」とアルジールが聞くと、「決めてないよ、何を盗まれたい?」とユーマ。すぐさま「盗まれたいものなんて無いよー」とアルジールは嘆いた。当然のことである。


「アル」


 頭を抱えて嘆くアルジールの肩を、あすかが叩く。振り返ると、あすかは城三部作の内の一つを手に取り、「これ、宝物」と言って、アルジールに手渡した。


「それいいね!アルっちそれ隠してよ、ユーとあすかっちで盗むから!」


 本当にあすかがそう考えたのかは分からないが、名案だった。ユーマがルールを作り上げると「そうか!って、え?僕隠すだけ?」と、やはりアルジールは不遇な役回りだった。それに、「そう!隠したら教えてね!行こっ、あすかっち!」と、あすかの手を取って、部屋から出ていった。


「完全に姉妹だな、国を超えた義姉妹。いいじゃないか」と、感慨に耽っていると、「それ僕カウントされてないよ」と、アルジールは項垂れた。


「そう言うな、隠すの手伝ってやる。トラップいっぱい仕掛けようぜ」

「あっ、それ面白そう」

「あっちが国を超えた義姉妹なら、こっちは義兄弟だ」


 そうして、俺とアルジールは城三部作をそれぞれ隠し、ユーマとあすかを待ち受けた。おかげで、あすかはアルジールとユーマとも仲良くなり、笑い合えるようになった。


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