第一章 神阪 蓮 ⑫
「おとー、さん」
ここが孤児院だということを知らない少女は、ぬいぐるみを抱きながら夕日の沈む空を窓越しに見ていた。たくさんの自分と同じ境遇の子たちが何度も話しかけて来てくれた。しかし、少女は、小さく首を振るだけしかできなかった。次第に、他の子たちの興味が薄れると、少女は一人になってしまった。相手をしてくれるのは、物言わぬぬいぐるみだけ。ふわふわとした素材で出来ているため、多少の温もりはあるが、少女が求めた温もりは得られない。
「ご飯ですよー」
シスターの呼ぶ声が聞こえる。しかし、耳には入らない。他の雑音と共に流れていく。しかし、お腹は空く。少女は立ち上がると、たくさんの子供たちが集まる場所に背を向けて、歩いた。少しだけ開いたドアからは外が見える。そこは何度も『お母さん』と歩いたことのある場所だった。見覚えのある場所だった。少女は空いたお腹を鳴らして、音も無く外へと出ていった。
「『あーちゃん』がいなくなった?」
その連絡を受けたのは、夕食を食べているときだった。みずきが焼いたハンバーグに大根おろしを載せて、ポン酢をかけてあっさりいただく肉料理。ポン酢をかけたハンバーグは、一気に冷めた。
「シスターの注意が他の子にいってる隙に、らしい。子供が多いからな、あそこは」
「今はどうしてる?」
おっさんの言葉を待てずに聞く。同じテーブルでは、そらも息を呑んでおっさんの言葉を待っていた。
「手分けして町中を探しているそうだ。外に出ていなければいいが」
おっさんが苦い顔をして、俯く。おっさんの力をもってしても、一人の少女を町から探し出すのは難しいようだ。
瞬間、がちゃんっ、という音と共に、そらが車椅子から立ち上がり、脇目も触れずに外へと駆け出した。何も言わず、全力で。
「そらさんっ!」
彼女の名を叫ぶが、そらは振り返らない。普段、車椅子に座っている体力のない彼女とは思えないスプリントだった。
「すまん!みんなも探してくれ!薫とみずき、つばさは顔分かるよな!頼む!」
それだけ言って、俺も後を追う。意外にも、俺はすぐにはそらに追いつけなかった。いつもおっとりとしているが、やっぱり運動神経の良いつばさの姉だ、とこんな時に思う。俺が追いつけたのは町の中心、噴水広場だった。
「あーちゃーんっ!」
ぜぇぜぇ、と膝に手を着いて、肺に酸素を取り込む。普段、走ることのない彼女はかなり辛そうだ。
「そらさん」
俺は彼女の手を握るが、そらはそれを振り払って、走り出す。そして、叫ぶ。
「あーちゃーんっ!」
叫んでも、返事はない。次第に、あちこちから少女の名を叫ぶ声が聞こえてくる。しかし、それでも返事はない。
「あーちゃ、かはっ、けほっ!」
「そらさんっ!」
とうとう、そらは喉を枯らしてしまい。咳き込む。ただでさえ呼吸がまともに出来ていないのに、咳き込むと呼吸困難になってしまう。ふらつくそらを抱きとめると、小さな声で「いやだぁ」とこぼした。同時に涙が俺の腕を濡らす。
「くそ、どこに……、──まさか」
俺に一つだけ心当たりが浮かんだ。もはや、そこしか考えられない。お腹を空かせた少女が帰る場所は、一つしかない。
「そらさん、ついてきてください」
そう言うと、俺は彼女の手を引いた。抵抗することなく、力ない足取りだが、しっかりとそらは歩いた。そして、一つの家にたどり着いた。そこは昨日、少女の母親が殺された場所。少女にとっては恐怖の場所であるはずだが、それ以上に温かな場所なのかもしれない。俺はゆっくりと、そのドアを開けた。
部屋は光に満ちていた。電気はない。火もない。ただカーテンが大きく開かれた窓から差し込む月の光で満ちていた。その月光を浴びる中心に、ぬいぐるみを抱いた少女は座っていた。小さく、膝を抱いて。
「あ、あーちゃんっ!」
そらが俺から手を離し、少女に駆け寄る。そして、有無言わず抱きしめた。少女はそらのことを意に介さず、じぃっと窓の外、月を見ていた。『現実世界』では考えられないような大きな月。クレーターまでも肉眼で見えるほどの大きな月。その月を、ずっと見ていた。
かさっ、という音に振り返ると、そこには壁に貼られた一枚の絵があった。人の顔が二つ。どちらも笑っている。クレヨンで一生懸命に描いたのだろう、俺も『あーちゃん』と同じくらいの歳には描いた記憶がある。決して上手くはない。人の顔にも見えない。でも、それでも、それが誰かはすぐに分かる。その絵の下には名前が書かれていた。
「あすか」
その名を呼ぶと、少女はびくりと体を震わせ、俺の方を見た。その名を呼ぶ人を待っていたように。
「おと、さん」
「帰ろうか、あすか」
もう一度、名前を呼ぶと、あすかは立ち上がり、そらの腕を解いて俺のもとに来た。そして、言った。
「おとーさん、お母さん帰って来ない」
「っ」
俺は絶句した。こんな小さな子に、俺は何を言えばいいんだろうか。こんな時に言うべき言葉を、俺は持ち合わせていなかった。答えない俺にあすかは何を思ったのだろうか、身動ぎ一つせずに、じぃっと俺の目を見つめて、言った。
「おとーさん、『おとーさん』って何?」
一切表情を変えず、無垢な質問だった。
「お母さんがね、言ってたの。『絶対に、おとーさんが助けに来てくれる』って。でも、お母さん帰って来ないから・・・。『おとーさん』って何?」
その言葉を聞いた瞬間、心の中で用意していた言葉が消え失せた。この子は父親を呼んでいたのではなかった。むしろ、父親の存在を知らなかった。『おとーさん』という人が自分を助けてくれる何かなんだと、あのとき学んだのだろう。
「~~~っ、あすか、お前は俺が守る。だから、帰ろう」
何も答えられなかった。曖昧にするしかできなかった。だから、せめて何かが伝わればと思い、少女を抱きしめた。何が伝わったのだろう。分からない。しかし、その瞬間、少女から力が抜け、まぶたを閉じていた。「あすか?」と名を呼ぶ。返事の代わりに寝息が聞こえてきた。とりあえず、よかった。と、胸を撫で下ろした瞬間だった。
ドカンッ!と大きな音と共に、数人の男が入り込んできた。土足で他人の家に入り込む。
「あ?ここの住人は殺したと報告があったのに、人が居んじゃねぇか」
「本当だな、まぁ、男一人と後は女とガキだ。殺しとこう」
数人の男が、がちゃがちゃと金属音を鳴らす。武器を取り出す音。人を殺す音。
「そらさん、あすかを頼みます。それから、目を閉じて、じっとしていてください」
「う、うん」
あすかをそらに預け、振り返る。男は五人。それぞれが剣やナイフを持っていた。銃を持っていないことを見ると、どうやら周囲に気づかれるのは避けたいようだ。月光にそれぞれの得物が反射する。
「家の住人を殺し、その家に入り込み。町の住人として溶け込み、時を見計らって殺戮を行う。大体、そんな作戦か?」
俺が言うと、「あぁ、大体そういうことだ。頭がキレるじゃないか」と一人が答えた。作戦を教えたと言うことは、俺を生かしておくつもりは無い、ということ。男は、一メートルほどの剣の切っ先を持ち上げて、俺へと向けた。
「外道が」
俺は『拳を握り、少し緩める』と、『持ち物』から『ある物』と取り出す。
月光を反射して輝く鋼。薄いそれは滑らかに伸び、切っ先は鋭く尖る。右、左の手に現れた柄を握り、左右のそれを軽く振るう。軽すぎず、重すぎない。
「両手剣、だと?」
男の一人が後退りながら、言う。次いでもう一人も口を開く。
「死神殺し、レン・カミサカか!」
「だったら何だ?」
睨む。右の鋼を前に、左のそれを後ろへと下げ、半身で構える。呼吸を整え、右の切っ先を上げる。すると、後ろから声を掛けられる。
「蓮ちゃん、殺すのは、駄目だよ」
「……、分かりました。ただ、しばらくは不自由な生活をしてもらいます」
振り返らずに答える。すると、どこか安心したように、ほぅ、と息を吐いて、そらも答える。
「うん、そのくらいなら」
「なめ、やがってえええ!」
そらの言葉を聞いた男たち、『賊』は激怒した。構えた剣を振りかぶり、力の限り振り下ろす。しかし、剣はいつまで経っても下りて来なかった。
「落ち着けよ、ここじゃ、慌てた奴から痛い思いをすることになる」
「なにを、っっっな、なあああ!?」
剣が下りてこない理由、それは自分の肘に感じた痛みで男は理解した。肘から先がなかったのだ。そして、足元には自分の腕と振りかぶったはずの剣が転がっていた。その瞬後、男は真横からの衝撃に流され、壁に激突した。理由は、俺の右足が奴の脇腹を捉えた。ただそれだけ。
「次、覚悟が出来た奴から来い。利き手を出さないことをオススメする」
「て、めっ」
男たちはナイフから銃に持ち替えた。どうやら音を出さないことよりも俺を殺すことを重要視し、作戦を変更したようだ。銃の照準は俺を通し、後ろにいるそらとあすかを繋ぐ。これで俺は躱すことができない。戦術的に有効な手段だ。しかし、遅い。
「くらっ、え?」
男四人が銃を構え、引き金に力を入れる。しかし、どれだけ指に力を入れても、誰も弾丸を放つことができなかった。
「なんで?あ?」
更に男たちは遅れて理解する。目の前から、銃の照準から俺が消えていることに。
「ど、どこに?」
慌てて俺の姿を探す。視線を、顔を巡らせている内に、ようやく、男たちは気づく。自分の手から銃が消えていることに、更に自分の手首から先も無いことに。
「あっ、つうううううううっ!」
「な、なあああああああああああっ!」
男たちは遅れて感じた激痛に、膝から崩れ落ちた。それでも、使命感からか、激痛に耐え、携帯を取り出す。そして、叫ぶ。
「来い!こ、ここにレンがいるぞおお!」
「そうか、他にもいるのか」
携帯をその手ごと踏み潰し、尋ねる。男は激痛に顔を歪ませながら、「お前も終わりだ!」と口に泡を付けて、叫んだ。すると、外が騒がしくなった。ざわざわ、と人が集まっている騒がしさ。「来たっ」と男は歓喜した。勝利を確信したのだろう。瞬後には外から銃声が響いた。
「無駄なことをするんだな」
「な、何を言って」
外では銃声が合計七、八発鳴って止んだ。その銃声のいずれも、この家を狙ったものではないことが、この家の壁、窓に着弾していないことから分かる。すなわち、その銃弾は他の目標に向けて放たれたものだということ。いや、それ以前に家の外から俺を狙うこと自体が非常に無駄なことである。『賊』の仲間が集まったことを知らせる為のものならば、一発で十分だし、むしろ、銃声を鳴らさず家に侵入したほうが隠密性もあり、効果的だ。
「お前らも、投降の準備をしろ。『あいつ』は俺より凶暴だぞ」
「お前、さっきから何を!」
つまり、先ほどの銃声は『賊』のものではない。更に、外からは女の声で「外には出ないように!」という声が聞こえてきた。その声は、よく知っている。
バンッ!と勢いよく開け放たれた木製のドアからは、床に突っ伏す男たちが待ち望んでいたものは現れなかった。紺色のジャージに身を包んだ、拍子抜けするほどラフな姿の女が、左右の真っ黒の鉄の固まりを前に突き出す。つい先日、直人に向けてぶっ放したもの同じもの。フルオートタイプの拳銃で、銃口はすでに床に転がっている男たちに向けられている。
「なんだ、ここに居たの」
「あぁ、いいタイミングだ、薫」
「そう?」と室内を見回して、奥にそらとあすかの姿を確認すると「無事みたいね」と安堵の表情を浮かべた。
「な、なんだと?」と男が力なく床に顔を埋める。それを見た薫が銃口を再度男に突きつけて「あんたの仲間は皆、レンガの上よ。死んじゃいないけど、死にたいくらい痛いでしょうね」言い切ると、銃口を男の額に当てる。先ほど発砲されてすぐの銃口はかなりの熱を持っている。じゅ、と言う音とともに、男の「ぎゃああ」という悲鳴が響いた。
「か、薫ちゃん!」
「分かってますよ、殺しゃしません。全員まとめて『OLRO』にぶち込む。あーちゃんの仇は討てないけどね」
そう言うと、薫は男から銃口を離した。男の額には円形の火傷の跡が残っていた。
「てか、蓮のがやり過ぎじゃない?」
「そうか?」
「あ、あんたねぇ」と、薫は脱力しながら「こんなことしてる時点でやり過ぎでしょ」と、地面に転がっている腕を拾い上げて、ぷらぷら、と左右に振った。血の滴る肉片を平気で掴むなんて、嫌な慣れだな、と思う。そらには慣れてほしくない為、目を閉じてもらっている訳だが。
「そうか、まぁとりあえず、皆を集めてくれ。こいつらを運ぶ」
「はぁ、いつか人殺すよ」と両手を上げて、大きくため息を一つ吐くと、携帯を取り出して耳に押し当てると、すぐに「お疲れ、聞こえたら北の門付近に集まって。アルとユマは他に隠れてる奴らがいないか確認よろしく」と、言った。この世界での携帯電話は実に多様な役割を果たす。電話としての機能、トランシーバーとしてグループ化されたメンバーと同時に会話できる機能、荷物を携帯に収納する『持ち物』機能、多国籍の言葉を翻訳する『自動翻訳機能』、他多数。携帯がなくては、『この世界』では生きていけない。
「すぐ来るよ。はい、全員携帯出して。没収」
携帯を取り締まる学校の先生のような事を言いながら、薫は床に伏す『賊』から携帯を取り上げる。携帯を奪う事ができれば、大抵の奴らの戦意を削ぐことができる。軍人や武道の達人、もしくは反社会勢力の人間でもない限り。
「ぐ」
「何、抵抗するの?」
男の一人が床に伏し、両手を隠す。その行為に苛立ちを覚えた薫は男の肩を掴む。その瞬間──。
「う、動くな!」
「つっ──」
男は体を翻し、薫の腕を逆手に掴み、背後に回る。その動きは警察や軍人が相手を取り押さえる時に使う動き。薫は油断した。
「動くと、女の命はない!」
「分かった、一つだけ言わせてもらう」
男には片手がない。それでも彼女を抑え込むことが出来ているのは、間違いなくその技術に秀でている証。生半可では彼女を取り押さえることはできない。しかし──。
「やめておけ」
「うるさい!レン!武器を捨てろ」
俺は言われるがまま、両手の武器を床へと投げた。からん、と金属が床に転がる。
「俺は言ったからな?」
「うるさ──っ!」
次の瞬間、薫は首を振り回して男の顔面に頭突きを叩き込み、一瞬力の弱まった腕を振り払った。そして、半歩男から離れると、高速で振り返り、その反動を活かして男の顎に掌底を叩き込む。あまりのクリーンヒットに男はされるがままに、吹っ飛び壁へと激突し、動かなくなった。
ふしゅーっ、と深い息を吐き、姿勢を正す。彼女の動きはまさに武道を歩みし者のそれだった。
「だから、止めとけつったのに」
「あんた、あたしの心配はないわけ?」
「心配しても損するだけだからな」
薫は少し膨れて見せるが、全くのその通り、心配するだけ損をする。と、いうより今は男の心配をしたほうがいいのかもしれない。薫の全体重と遠心力を生かした掌底を顎に喰らい、吹っ飛んで壁に後頭部から激突。普通に考えれば心配はそっちだ。
「死んだかもな」
「そ、そんなことないと思うんだけど」
薫も男の様子を見る。手首から先が切断され、大量の血液が流れ出ている。更に、その状態で薫を取り押さえる為に暴れ、終いには、彼女に殴り飛ばされ、後頭部から壁に激突。死んでもおかしくない。
「薫、医院に連絡してくれ。死なせるわけにはいかん」
「う、うん。てゆーか!あんたの(やった)方が明らかにダメージデカイでしょ!なんであたしだけ悪いみたいに」
「わかったから、連絡!いいな」
そう言うと、俺は薫に背を向けて部屋の奥で小さく座り込み、少女を抱いたまま目を瞑っているそらの方へと向き直った。
「そらさん、もうしばらく目を閉じていてください」
「う、うん。終わった?」
「制圧は完了しました。後は拘束して『OLRO』に引き渡すだけです」
その言葉に、そらは「そう」と返して、ほぅ、大きく息を吐いた。すごく怖かったのだろう。無理もない。刃物や銃を持った男が数人いる部屋で目を閉じて、静かにしているなんて、俺なら気が狂いそうだ。俺は、そらの傍まで寄り、頭を撫でた。
「へっ?わわっ」
「すみません、怖かったですよね?」
「ん?ううん」
目を閉じたまま、そらは首を振った。そして、「蓮ちゃんがいたから怖くなかったよ」と目を閉じたまま顔を綻ばせた。その表情、言葉に俺は無性にそらを抱きしめたい衝動に駆られた。しかし、なんとか思い留まる。
「つばさが居たら喜びそうね」
「な、何がだっ、つか、連絡は?」
「したよ、医院にも『OLRO』にも」そう言って、薫は携帯をポケットへと入れる。要件だけを端的に伝えるのが得意な彼女らしい仕事の早さだ。
「『OLRO』は誰が来るって?」
「ルーファスだと思うよ。こういうのがあの人の仕事でしょ?」
「いや、いっつも来てるけど、あの人『OLROの幹部』だろ。一番下っ端とか言ってたけどな」
「じゃあ、シンかグレイアじゃない?連絡はグレイヤにしたから」
そういうと、薫もそらの元へと寄り、あすかの頭を撫でた。そらの腕の中で寝息を立てるあすかの表情は場違いなほど穏やかだった。
「彼女に連絡したのなら大丈夫だろう。後はこいつらの拘束さえすればやってくれる」
「『OLRO』も、もう少しちゃんとした組織だったらね」
「まだ創立したてだから仕方ねぇだろ。」