第一章 神阪 蓮 ⑪
ログハウスに戻ると、いつもの柔らかな時間が流れていた。おっさんがカウンターで香り高いコーヒーを淹れ、窓際のテーブルでみずきとつばさ、そして、起きてきたユーマがケーキを突っついていた。レアチーズケーキ、またおっさんのレパートリーが増えたのを目の当たりにした瞬間だった。
「でも、ユーが思うに、やっぱりケーキはどかん!とホールで食べた方がいいと思うの!」
机を叩いて力説するユーマ。こいつは初っ端から何を言っているんだ。
「一度はしてみたいけどねぇ、ねぇ、つばさ?」
女子の夢、と半ば諦めているみずき。ため息混じりに、片肘を着いて、つばさの方を見る。
「あぁ、私はやったことがあるぞ」
つばさの一言にみずきは「え」と固まった。まさか、こんな所で夢を叶えた先駆者に出会えるとは思っていなかったのだろう。それに食いついたのは、みずきだけではなかった。机をバンと叩いてユーマは言う。
「やっぱり、お腹いっぱい食べたいよね!」
「あぁ、私もそう思っていたんだがな。やるなら、ビターなケーキでないと体がもたないことが分かった」
話によると、いちごケーキをホールで丸々食べようとしたらしい。しかし、口の中が甘くなりすぎ、いくらコーヒーを飲んでも収まらず、結局、そらと分け合ったそうだ。ちなみに、そんな女子三人衆の会話の後ろで俺はそらの顔を見て、つばさの話の真意を確かめる。そらは、無言で頷いた。その表情は、夢を叶えた女子の顔ではなく、現実を知った女性のものだった。
「そんなことないよ!こんなに美味しいんだから、いっくらでも食べられるね!」
そう言って、またチーズケーキを一口、口に含むフランス元気っ娘。彼女はまだ、現実を知らない。「やっぱり、夢は夢のままがいいのかなぁ」と窓の外を見るみずき。「ケーキはお腹いっぱいにするものじゃない、心を豊かにするものだ」と名言っぽいことを言うつばさ。ユーマに止めておけと、暗に伝えているのかもしれない。
「大丈夫!フランスって世界中の甘いものが集まるんだよ!フランス人の体は特別なの!」
「そう言うと思ってな」
ユーマの言葉を先読みしていたのだろうか。おっさんが大皿を持ってフロアに現れた。そこに載っているのはホールケーキ。それを、三人衆の真ん中に置いた途端、歓声が上がった。やっぱり甘いもの大好きな女子の集まりだった。
「おっちゃんナイス!」
「おう、ホワイトチョコレートをふんだんに使い、ホイップクリーム塗りたくった。上に載るいちごは日本最高級の糖度を誇る栃木産のものだ。更に」
おっさんの説明は続く。要するに、可能な限り『甘く』作ったから食えるものなら食ってみろ、というフランス産大食い娘に対する挑戦状だった。いや、料理人からすれば食ってもらったほうがいいじゃないだろうか。何故挑戦する必要がある。
「わぁーい、いっただっきまぁーす!」
挑戦状を読み上げるおっさんを完全に無視して、フランス娘はケーキに取り掛かった。この勝負、一体どちらが勝つのだろうか。定石としては、おっさんの勝ちは見えているのだが、しかし、相手はユーマ。食に関してはもはや人ではない。
「おっちゃん、お茶ちょうだい。濃い目の」
「私は紅茶をもらおう、無糖の」
一口ずつ食べた二人が、揃って飲み物を頼んだ。それが意味するのは、甘すぎるということ。甘党のみずきを黙らせるなんて、一体、どんな味なんだ。
「つばさー、お姉ちゃんにもちょーだい」
そう言って、そらは俺の手元から車椅子を走らせて、つばさの隣に並んだ。その申し出に迷わず、ケーキをサイコロカットして自身のフォークでそらの口へと運んだ。あーん、と一口。すると、「ん~」と頬に両手を添えて、満面の笑顔を浮かべた。
「おいしいっ」
笑顔のまま、キッチンから飲み物を持ってきたおっさんにピース。それに「ありがとよ」と返しながら、みずきには日本茶、つばさには紅茶を配り、そらとユーマにはコーヒーをポットごとテーブルに置いていった。
「蓮、お前はどうする?カウンターに置くか?」
「あぁ、頼む」
おっさんの後について、カウンターへと座り込む。間髪入れずにカップとスコーンが並んだ。後ろのテーブルでは、「でも、一口でいいかも」とそらは笑っていた。
「本当に強い人だな」と俺はコーヒーを飲む。ほんの数分前まで泣いていた人だなんて思えないほど、明るく振舞っていた。
「しんどいことをさせたな」
「いや、いいよ。おっさんが言ってくれなきゃ俺たちは何も考えずに引き取っていた。孤児院
も『あーちゃん』と同い年くらいの子がたくさんいたし、どっちがいいのかなんて分かんねぇよ」
おっさんはカウンターの向こう側に立ち、そらたちの方を見ながら言う。顔を拭いてはいるが、そらの顔にはうっすらと涙の痕跡が残っている。
「それに、こっそりだけど、そらさん会いに行くってさ」
「それが今回の落としどころなのかもな」
そう言いながら、おっさんは自分で焼いたスコーンを口に運んで、グラスを吹き始めた。キュッキュッと音を出して、無言で何かを考えるように。
「なぁ、おっさん。今普通に食ったよな?」
「堅いこと言うなよ」
おっさんはキュッキュッとグラスを拭く。無言で何かを考えるように。口元をもごもごとさせながら。
「おっちゃぁーん、ユーに何の恨みがあるのぉー」とユーマは、ホールの五分の四を食べたところで泣いた。みずき、つばさ、そらの三人で五分の一も食べられないほど甘いケーキを一人で食べたのだ。ユーマは胸を張っていいと思う。
「やれやれ、蓮、お前も食えよ。ああなったら誰も食わん」
「食えねぇもん作んなよ」
「ばか、食えるもんだよ」
おっさんはテーブルの方へ歩み寄り、ケーキを下げてきた。ちなみに、数時間後ユーマは初めての胸焼けを経験することになる。
「結構余ってんな」
皿が俺の前に置かれる。それとほぼ同時に、コーヒーが追加される。フォークを手に取り、考えることなく口に運ぶ。すると、ホワイトチョコレートの濃厚な甘さとホイップクリームのまったりとした口当たりと甘さ、時々酸味のある苺が助け舟を出すように現れるが、それもやはり甘い。確かに、一口目はそのインパクトのおかげで食べられるが、二口目には手は出ない。
「こめかみが痛くなってくるな」
口を助けるためにコーヒーを飲む。甘いものを食べて眉間にシワが寄るのは初めての経験だ。
「まだあるぞ」
「いや、俺はもういいよ。直人にでもやってくれ」
俺の食いさしだと言うと、絶対に食べないだろうから、薫の食べさしと言えば食うだろう。そんな事を考えていると、間のいい直人が起きてきた。バーボンを掻っ喰らい、薫に麻酔弾をぶち込まれた男の寝起きは悪い。顔色も悪いし、表情も暗い。「ヴー」と唸りながら、俺の隣に並ぶ。
「大丈夫か?」
「おかげさまでな。酒と薬って相性最悪だな」
体もだるそうだ。カウンターに突っ伏す。
「お前も、似合わないもん食ってんじゃねぇか」
俺のケーキを見つけて、直人は言う。テンションは低い。口も悪い。しかし、俺は恐ることなく立ち向かおうと思う。食べ物を無駄にしないように。
「俺んじゃねぇよ、薫がちょっと食って出ていったんだ。これからおっさんが片付けるよ」
「なん、だと?」
薫の名前が出た瞬間、直人のテンションがわずかに上昇した。扱いやすくて助かる。
「捨てるのなら、もらっていいか?」
「いいんじゃねぇか」
にやにやしているのがバレないようにコーヒーを口に運ぶ。ちなみに、フォークは既に片付けてもらっている。新しいフォークを直人に手渡す。
「じゃ、ありがたく」
そう言うと、両手を合わせてからフォークを突き刺す。そこそこの大きさの固まりを一気に口に含む男の食べ方だ。すると、直人は「ふぐっ」と一度、鼻を鳴らして噎せ返りそうになるが、何とかこらえる。プルプルと震えながら、俺のカップに手を伸ばし、「こ、ひ、おあってい、か?」と、カタコトで言った。何を言いたいのかはイントネーションで分かる。しかし、ここで俺のいたずら心に火が点いた。
「ん?なんて?」言って、俺は伸びてくる直人の手から逃がすようにカップを取り、口に運ぶ。そのときの直人の顔は傑作だった。コーヒーを吹きこぼさないようにするのが精一杯なほど、驚愕と失意、絶望と悲哀を混ぜ合わせた面白い顔だった。
その後、優しいおっさんがコーヒーを淹れた。砂漠の中で水を手に入れたように、ゴクリと喉を鳴らしてコーヒーを飲む直人。おそらく、恨まれ事を言われるに違いない。
「蓮、お前はなんて酷い奴だ!見損なったぞ。こんな甘いケーキだなんて知ってたら」
「薫は美味いって言ってたけどな」
「……、俺はこれ好きだな」
そう言って、直人は残り全てを一気に口に入れた。本当に扱いやすくて助かる。おかげで激甘ケーキを残すことなく完食することができた。その後、直人は「頭痛いから、もう一回寝るわ」と行って、部屋に戻っていった。