第一章 神阪 蓮 ①
第一章 神阪 蓮
波の穏やかな海に寄り添うように伸びる小道を少し歩くとログハウスが見えてくる。見た目は人里離れた場所にぽつんと建っていて、木の妖精たちが住んでいそうな神秘的な建物だが、近くまで寄ると手入れがきちんとされていて人の気配を感じる。海に面する南側の壁には大きな窓が張り付いていて、いつもそこから賑やかな声と暖かな光が漏れている。ドアに手を触れると、自然木の柔らかさ且つ温もりを感じることができる。いつ来ても迎えてくれる木の温もりを無意識に感じながらゆっくりとドアを押し開ける。
からん、からん、とドアに備え付けられた鐘が乾いた音を鳴らす。中も全面木造りでシェルフ、カウンター、テーブル、チェアー、そしてフロア、すべてが桧や楢、タモ、杉などの自然木で作られている。人に安らぎを与えてくれるという木の香りを吸い込みながらカウンターチェアーに腰掛けると、カウンターの奥から髭面のおっさんが現れた。
「おう、おかえり」
髭のおっさんは野太い声で俺の来店を歓迎すると、頼んでもないのにコーヒーカップが目の前に置かれた。
「サービス?」
「アホか、二百α」
髭のおっさんはニヤリと笑った。
「まだ俺はノータッチだから返品できるよな」
「んなケチくせぇこと言うな、飲めよ」
どっちがケチなのだろうか。そんなことを思いながら黙ってカップに手を伸ばし、一口啜る。暑くも寒くもない季節だが、コーヒーのくれる温もりってどうしてこうもあたたかなのだろうか。ふぁー、と心の奥から出てくるような深みのあるため息が思わず出てくる。
「それで、今日は誰かと一緒じゃなかったのか?」
髭のおっさんは質問と同時にこんがり焼きあがったスコーンをカウンターに並べた。それを一つ口に運ぶと「三百五十α」とケチ臭い言葉が返ってきた。じゃあ出すなと言いたくなるが、じゃあ食うなと言い返されることが容易に分かったので言わない。
「今日は一人で『外』歩いてた。ちょっと頼まれ事をね」
「ほぉ、一人なんて珍しいこともあるんだな。大概誰か連れてんのに」
「そういうここも珍しく誰もいねぇじゃねぇか」
そう言って周囲を見回す。いつも賑やかなフロアには俺とおっさん以外の姿はない。
「ああ、アルとユーマなら上にいる。後、そらとつばさは病院だ」
カウンターの向こう側でおっさんが腕組みしながら言う。ちなみにバックヤード──カウンターからは見えないが厨房や事務所がある──には二階へと続く階段があり、二階にはいくつかの部屋がある。髭のおっさんはその部屋を貸し部屋にしており、そのうちの一室は俺が使っている。ベッドが一つあるだけの部屋だが、夜遅くまで一階フロアで騒いでいるので寝るだけの部屋で十分だ。
「ふぅん、薫は?」
「薫は学校だ。もうじき『帰ってくる』と思うがな」
と、言いながらおっさんは時計を見る。時刻は十時。『向こう』はそんな時間か、と無意識に計算して納得する。ちなみに薫というのは、この髭面のおっさんの娘である。
「みぃちゃんはどうした?『こっち』にいんだろ?」
「ん、ああ、いるにはいるみてぇだけど、一緒じゃねぇな」
俺は携帯を取り出して数回タップする。そこに『古田みずき』の名前が出てきたのを確認すると右ポケットに携帯を収めた。どうせあいつの事だからその辺りをほっつき歩いているんだろう。『外』に出ていなければいいが、とどこか心配になってきた。子供じゃないんだから、と思いながらも一度心配になると気になって仕方がない。
「行くのか?」
「ん、ああ、ちょっと行ってこようかな」
コーヒーを一気に飲み干して席を立つ。金を置いて行こうとポケットをまさぐるが小銭はあまり入っていなかった。面倒だが、携帯を取り出そうとしていると、「いらねぇよ、今度あるときにでも払ってくれ」と小銭の範疇ではあるが、おっさんは髭面に見合った男らしさを発揮した。
「んじゃごちそうさん、また昼頃にでも来るわ」
そう言って、ログハウスを後にする。目の前には水平線が広がり、太陽の光を反射した海が穏やかな波に揺られ輝いていた。視線を少し動かすと、緑の眩しい山々が広がり、虫の鳴き声も聞こえてくる。自然に包まれる感覚に心が洗われるようだ。今度は空を見上げると、真っ青な空と真っ白な雲のコントラストに目を奪われる。ここが『Over Land』で『バーチャル世界』だと忘れてしまいそうなほどのリアルさに何度目か分からないため息を吐いた。
しばらく海沿いの小道を歩く。潮風に揺られる草木の音、波の静かな音、草の根に隠れる虫の声に溶け込むように無心で歩く。この感覚が俺は好きだった。静かな世界に溶け込み、そこに確かに感じる自分の鼓動。ただ生きているだけでなく、自然と共に生きている。この感覚が───。
「わっ!」
「うぉっ!」
突然、耳元で聞こえた大声に俺の意識が自然と隔離された。聞きなれた声色だが、あまりに突発的すぎて不本意ながら体をビクリと震わせてしまった。それを見てか聞いてか、背後ではくすくす、と声を隠して笑う女の息遣いが聞こえる。悔しいやら恥ずかしいやらの何とも言えない感情のまま、俺はゆっくりと振り返るとそこには身長百五十センチくらいの小さな女の子が立っていた。肩くらいにまで伸びたふんわりとした髪と足首くらいまであるパステルピンクのロングスカートを風に靡かせ、白のブラウスの上から真っ黒のストールを羽織った姿で両肩を上下に震わせている。
「よう」
「くっぷぷ、おはよぉ、蓮ちゃん」
未だ口元を手で押さえて笑う女は、俺が心配してログハウスから出ることになった原因だ。いつの間にか俺の姿を見つけた彼女は、こっそり俺の後をついてきていたようだ。
「無防備すぎだよ?ウチに後ろ取られるなんて」
「そう、だな」
にへー、と笑う彼女は普段はどん臭く間抜けで『やれば出来る子』というキャッチフレーズがしっくりくる女の子、『古田みずき』だ。そんな彼女はこの間の誕生日で二十三歳になったいわば社会人一年生であり、もう少ししっかりしなければいけない年齢であるのだが、どうも彼女の精神年齢は十五、六歳で止まっているみたいだ。いや、もしかするともっと下かもしれない、という紹介文が入るのだが、今の俺にはそれができなかった。
「で、お前は何してたんだ?」
「へ?海のとこでボーッとしてたよ」
俺が半ば呆れた顔で見つめているにも関わらず、だらしなくにへー、と笑顔の彼女。悪い意味で尊敬に値する。
「そしたら、蓮ちゃんが歩いてるの見つけたから追いかけたんだけど、いつになくボケーッとしてたから」
だから、背後に忍び寄って驚かせた、というのが事の顛末なのだそうだ。
「そっか、んで、お前はこれからどうすんだ?」
「へ?んー、何しよっか」
んー、と悩むみずき。特にすることが無いから海でボーッとしてたんだろ、といつ言ってやろうかとタイミングを計る。すると、「お昼ご飯でも採りに行こうかな」と返ってきて俺のツッコミは次回に持ち越しとなった。
「どこ行くんだ?」
「んー、山、かなぁ。木の実とかキノコとか美味しいのありそうだし」
「へぇ、そりゃいいな」
「でしょー?何が生えてるかなぁ」
と、そんな会話をしながら海沿いの小道を二人で歩いていく。隣をちらりと見ると、にこにことしている彼女の顔。ぴょこぴょこと柔らかそうな頭が浮き沈みし、作詞作曲古田みずきの鼻唄を奏でている。なんとなく犬っぽいな、なんて考えていると不意にこちらを振り向いて「どしたの?」と一言。「なんでもない」とだけ返して、正面を向き直ると擽ったそうに笑ってみずきも前を向いた。目の前には山と海、その境目には砂浜が広がり、砂浜の向こうには小川が流れている。その景色の中を歩く俺とみずき。第三者の視点から見ると恋人同士のような光景なのだろうが、俺には犬の散歩くらいの自覚しかなかった。