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ドッグス・フューチャー

作者: ムツ
掲載日:2014/12/22

 沙耶(さや)は自分の家の庭に居た猫を抱き上げると、俺に紹介してみせた。

「こいつはチョグだよ。ちょっとだけ黒い毛が混じっているからチョイ黒でチョグっていうの」

「へえ。そうなんだ」

 沙耶はチョグをぎゅっと抱きしめた後、今度は頬ずりした。ずいぶんと猫好きらしい。犬派の俺からすれば猫の紹介など極めてどうでも良いことではあったが、せめてもの気持ちでチョグの頭を撫でてやった。

「チョグって言うのか。よろしくな」

「よろちくー。もっと撫でてー」

 沙耶がチョグの片手を動かしながらそう言った。腹話術のつもりらしい。

「ははは……。可愛いやつめ」

 少しわざとらしい口調になってしまったかもしれない。でも笑っているだけじゃ沙耶に悪いような気がして、俺はもう一度チョグの頭を撫でてから、次いで首の周りをわさわさと掻いてやった。指がチョグの皮膚をダイレクトにかすめる。野良猫だけあって、じっとりした脂(あぶら)が指先に付着した。

 沙耶の家に来るのは初めてだった。彼女の話では、今日は両親、祖父母ともども夜まで不在らしい。そこで俺は彼女に誘われてやってきた訳である。たしかに家には誰の居る気配もないし、沙耶の言う通りなら二、三時間は家に居ても問題はなさそうだった。

 物音もなく、猫だけが敷地の中を行き来していた。屋根の上にもひそひそと歩いている。なにが目的であんなに高い場所を歩くのか、分からないものだ。落っこちて足でも挫いてしまえばいいのに。

「こっちだよ」

 ぼうっと突っ立って猫を眺めていた俺に沙耶が手招きした。

 若干の重たい空気を一人背負いつつ沙耶の後を追って入った玄関の先に、また猫が居た。トラ猫だった。粒子の大きな砂のようなものが敷かれたプラスチックケースの中からトラ猫は出てきた。トラ猫がそこに残していったものは臭う糞だった。俺は思わず咳き込み、すぐに息を止めてから外へ出た。ビデオを巻き戻したように後ろ歩きのまま玄関から三メートルは距離を空けたところで停止する。

 沙耶はプラスチックケースに向けてスプレーを吹いてから、申し訳無さそうに「タイミングが悪かった。でももう大丈夫だから入って」と言った。

 再び玄関をくぐると、男子トイレによくある芳香ボールが発するような匂いが充満しており、もう糞の臭いはしなかった。あの糞の臭い成分は一体どこへ行ってしまったのかと考えるとおぞましくなって、俺はそそくさと靴を脱ぎ、廊下に上がった。

 廊下は玄関から真っすぐ風呂場まで続いているらしかった。

「ここが私の部屋。狭いんだけどね」

 そう言って沙耶が開いた扉は家の中央より少し手前に位置した引き戸だった。部屋には春の夕日が薄明るく差し込んでおり、はびこった影が狭さを際立たせるかのようだった。

 沙耶は花柄のカーテンを引いてから、蛍光灯の紐を引っぱった。白光に浮かんだ部屋は、なかなかに女の子らしい飾り付けがされた可愛い部屋だった。俺はそのことを率直に述べる。対して沙耶は「うーん」か「ふーん」か、どっちとも取れるような何とも言えない声を漏らした。

「とりあえずここに座って」と、沙耶に促されてカーペットの上に二人で並んで座った。床の冷たさがカーペットごしにひんやりと伝ってきたが、外が暑かったせいで心地よく感じる。

 沙耶のほうを見ると、正面にある自分の勉強机を眺めながら「うんうん」と小声で言って頷いた。

 俺は手で沙耶の頬に触れてみた。頬がいつもより紅潮していることに気付いたからだった。沙耶ははっとして、「どうしたの?」と訊ねた。

 俺は慌てて頬から手を離す。手以外の場所に直で触れたのは初めてのことだったのである。

「いつもより赤かったから、熱でもあるのかと思ってさ……。でも別段熱くはないよな」

「あはは。熱なんて無いよ。ちょっと緊張しちゃってさ。そのせいかも」

 沙耶が首を小さくかしげると、髪がさらりと口元に垂れ下がった。沙耶は上目遣いでこちらを見ながら、その髪を耳に掛け直す。彼女のこの仕草が俺は好きだった。一ヶ月も付き合っていて、殆ど毎日会うのにこの仕草はあくまで時々しかお目にかかれないのである。今直ぐキスをして、押し倒してしまいたい。今日ばかりはそう思ってしまった。

 しかし躊躇(ためら)いの気持ちが生じた。俺は微笑(ほほえ)みを残したまま前を向き直る。

「お茶、いれてくるね」

 沙耶はそう言って部屋を出て行ってしまった。

 思わず溜息が漏れる。そして舌打ちした。最高に可愛い状態の彼女を前にして俺は目を背けたのだから舌打ちまでしてしまったのはしょうがない。

 ……全ての元凶は先程の猫たちである。沙耶はチョグを抱きしめて頬ずりまでしていたし、あろうことか、チョグの首筋から脂を掻き出した俺の手が沙耶の頬を撫でてしまった。飛んだ失態だった。

 猫のことを気にし始めると、次に臭覚がやたら敏感になってきた。そうなると今度は沙耶の部屋が臭い始めた。猫を飼っている家特有の臭いがし始めたのである。トラ猫が出迎えにかました臭い糞のことも思い起こされる。あれの放つ臭素は今どの辺りを漂っているのだろうかと気になってきたが最後、俺はついに冷めかけた。

 俺は今日、ついさっきまで、誰も居ない沙耶の家で、一緒に愛をたしかめ合う予定で居た。沙耶はまだそのつもりで居るだろう。でも、それが少々厳しくなった。まるで天秤が揺れている状態だった。天秤の片方の皿には沙耶が乗っており、もう片方の皿は空の状態であるが殆ど均衡を保って揺れているのだ──少しでもバランスが狂えば空の皿が勝ってしまう程危うい均衡状態で……。空の皿に乗っているものの正体は我が家の空気に違いなかった。

 俺は犬派であり、大の愛犬家でもある。もし先程までのことが全部犬のやったことならば全く問題なかった。家の臭いも犬を飼っている家特有の臭いならば全く問題なかったし、又例えば今目の前でいきなり糞をされたとしても、犬ならば許していただろうと思う。しかしそれが猫だったばかりにいけなかった訳である。

 やがて、盆を持った沙耶が戻ってきた。

 沙耶は片手で盆を持ち、もう片方の手でスカートを抑えながら座った。盆にはポテトチップの袋と、チョコレートケーキ、緑茶のティーバッグが浸かったカップが乗っている。沙耶は盆を置くと、ポテトチップの袋を破いた。

「お菓子、これくらいしかなくて……。ポテトチップはソルト味だけど、良かった?」

「あ、ああ。食べられるよ」

「ケーキはチョコレートだけど、これも食べられる?」

「もちろん」

 ここでチョコレートケーキが出てきたから、もはや俺には彼女がわざとやっているのだとしか思えなかった。俺は自分が犬派であることを沙耶には伝えていないし、沙耶が猫派であることも今日知ったばかりである。しかし、沙耶はきっと俺が犬派であることを知っていたのだ。大の愛犬家であることを知っていたのだ。だから今日俺を、自分と同じ猫派に染め上げるべくここに誘(いざな)ったのだ。そうに違いない。ほんの一時の間でも下心を持った俺が悪かった訳である。

「さあ、食べて」

 沙耶は自分の分のチョコレートケーキが乗った皿を持ち上げた。すると、突然俺の足元を何かがすり抜けた。先のトラ猫だった。

「あっ。タイガ、入ってきちゃ駄目でしょ」

 どうやら扉のわずかな隙間からトラ猫──タイガは入ってきたらしい。タイガは遠慮なく沙耶の膝に座ると、みゃんと鳴いた。

「チョコレートケーキが欲しいの?」と、沙耶が尋ねる。それに答えるようにタイガがまた鳴いた。沙耶はスプーンで大きくチョコレートケーキをすくうと、タイガの前に差し出した。よく見ると、どこかで摘み食いをした後なのか、タイガの口には既にチョコレートクリームのようなものが付いている。タイガは沙耶の差し出したチョコレートケーキを一口かじり、そのまま満足したのか部屋を出て行った。

 沙耶は何の躊躇(ちゅうちょ)もなく、スプーンに残ったチョコレートケーキをぱくりと食べた。

「うん。おいしい」

「……」

「ねえ。知ってる? 猫ってホイップクリームとか好きなんだよ。いつもああやって食べに来るんだ」

「……」

 俺は沙耶のほうへ向き直り、土下座した。

「まいりました」


 十分後、あれからずっと無言でいた。沙耶が何か言ったような気がするが、俺の耳には届いていない。

 沙耶の入れてくれた緑茶だけが唯一手がつけられるものだった。ポテトチップは手で掴んで食べるものだから気が進まず、チョコレートケーキはスプーンで食べるものだが更に気が進まない。だから唯一緑茶だけが俺の味方であるようだった。俺はカップへ手を差し伸べて、持ち上げた。

 さて、自身では自分がいまどのような顔をしているものか判断が付かない。というのも表情筋がこわばってしまい、ほぼ麻痺を起こしているようにぴりぴりしていたからだ。怒っているのか、苦笑いしているか、はたまた無表情か。俺はカップを覗き込み、水面に写し出される表情を確認しようとした。

 ──うん? 水面に写った自分の顔が思っていたよりもずっと可笑しかった。しかしそれは違った。水面が可笑しかったのだ。指を突っ込んでみると、タイガの毛がすくって取れた。


 五年後。大学を卒業し、就職した俺は、サラリーマンではあるものの念願のブリーダーとなった。得意先のペットショップは犬も猫も扱うお店だったから、商売のためにはもう好き嫌いを言えなくなり、最終的に俺は猫も好きになってしまったほどだった。

 後に、一匹の雑種猫をお店で取り扱うことが決定した。その名も『サバ』である。サバは色がまばらで、背筋にはトラ柄が這い、その下をなぞるように黒いラインが走っている。腹は白い。そう、沙耶の家のチョグとタイガが残した子猫であった。

 サバで一儲けした俺は、金持ちにも小金持ちにもならなかった訳だが、自社内で大きく昇格し、給料が少し増えた。

 そして、目先の目標に定めていた結婚資金を溜めるまで、時間を大幅に短縮できて、ちょっとした幸せを味わうに至る。




※この物語はフィクションであり、実在の人物・動物・物・派閥・思想とは一切関係ありません


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