第四話
月の綺麗な夜だった。
いつもより体がだるくなかったので外に出て見付けたのは、裏門から点々と続く血の跡。倉庫へと続いている。
こんな生々しい血を見るのは初めてだったのに、不思議と恐怖は感じなかった。それよりも、この血を流した者がどうなったのか心配だった。ろくに使ったことのない手当ての道具を見繕って、倉庫へ向かう。
昼でも暗いこの倉庫は、なんとなく薄気味悪くてほとんど入ったことがなかった。しかし、この時は夜だというのに、いつものような気味悪さは感じなかったのだ。
「狼さん……?」
ぴくり、と奥にいるモノが動く気配がする。
「だいじょうぶ?」
月の光が一つだけある窓から差し込んでいた。
やがてそれが、光を浴びてはっきりと目に認識できるようになる。
その姿は――
* * *
ゆっくり重たい瞼を持ち上げると、真っ暗な闇が広がっていた。音はまったく聞こえない。
(わたし――死んだのかしら)
目が暗闇に慣れるにつれ、まだここが死後の世界ではないことに気付く。見慣れた自室の風景だ。
(夢……? 小さい頃の夢を見るなんて、初めてだわ。覚えていないのに……)
しかし、どことなく懐かしい匂いのする夢だった。あの月夜、自分は誰に出会ったのだろうか――考えても夢の続きはわからない。
少しだけ開いた窓から風が吹き込んでいた。
「! あなたは……」
どのようにして入ったのか、窓際に見覚えのある黒猫が座っている。
「にゃあ」
と、猫はマリエルを呼ぶかのように鳴いた。
「アレクサンダー?」
やはり、そうだ。彼がいつも連れていた黒猫。
しかし、違和感があった。アレクサンダーの瞳は金色ではなかっただろうか。しかし今の彼の目は、ルビーのような深紅だ。
体はかなりだるかったが、身動きできないほどではなかった。ベッドから降りて、黒猫の前に座る。
「どうやって入ったの? ルーンは一緒じゃないの?」
すると猫はマリエルに背を向けたかと思うと、しなやかな身のこなしで窓の外へ飛び出してしまう。
「危ない!」
急いで窓の下を見ると、黒猫はまた礼儀正しく座ってマリエルを見上げていた。誘うような深紅の目――まるでマリエルがそこへ行くのを待っているかのようだ。
マリエルはすぐに部屋を出た。屋敷の中は異常に静かだった。
(もしかして、あの猫が魔法で皆を眠らせたのかしら……)
突拍子もない考えだが、そうとしか思えない。
当の黒猫は、やはりマリエルが外に出て来るのを待っていた。
「アレクサンダー、どこへ行くの?」
猫はマリエルが付いて行ける程度のはやさで、前を歩き始める。
「待って、わたしをどこへ連れて行こうとしているの? ルーンは? もしかして、彼に何かあったの?」
猫に導かれるまま、屋敷を出て町の中を歩く。裏道を通り続け、やがて町を出てしまった。
町はおろか、屋敷からもほとんど出たことのないマリエルにとって、そこは未知の世界だった。一体どこまで行くのだろう――マリエルの心配など知らぬげに、黒猫はすいすいと歩いて行く。
体は辛かったが、恐怖は感じていなかった。
――さっき見た夢と同じ感覚だ。不思議と足が自然に動く。
「もしかして、魔女の森へ……?」
噂によく聞く、魔女が住むという深い森。誰も気味悪がって足を踏み入れないその場所へ、黒猫に導かれるがまま、マリエルは入ってしまった。
ろくに月の光さえ届かず、森の中はほとんど完全な闇の中だ。時折振り返る、黒猫の赤く光る瞳だけを頼りに進む。
「ルーン、どこにいるの――?」
無意識のうちに、あの銀髪の少年を求めている自分に気付く。
いくら昔に会ったことがあるらしいとはいえ、数日前に会ってほんの少し会話をしただけなのに。どうしてこんなに彼のことを考えてしまうのだろう。
(“ルーン”……)
懐かしい響き。
荒くなる呼吸を必死で落ち着けながら、マリエルは黒猫の後をついて行った。
* * *
一体、どれほど歩いただろう。
まだ夜中なのか、はたまた明け方近いのか、それすらもわからない。
もう体力は限界だった。走るのはおろか、歩くことさえままならなくない。
しかし、止まることはできない。あきらめるという選択肢はないのだ。
「マリエル……」
立ち止まりそうになった時、その名を呟く。
そうだ、彼女の苦しみはこんなものではない。救えるかどうかは、おれにかかっている。
再び走り始めた。
本当に西に進めているのかもわからないが、とにかく走るしかない。
「!!」
ふと視界に入った両手が、淡い光を帯びていた。ゆっくりと爪が鋭く伸び始めている――まさか。
「狼に戻り始めてる――!?」
ということは、最後の夜が終わろうとしているのだ。もうすでに月は沈みかけているということか。
まずい。月が沈んでしまえば、月光花を採ることができなくなる。
「まだ――まだ間に合う! 完全に夜が終わったわけじゃないんだ」
材料の採取さえ間に合えば、後はアレクサンダーに届けてもらえる。薬がマリエルの元に届けば、それでいいんだ。
もう少し、もう少し――
おれの必死の願いが、ほんの少しは天に届いたのか――急に視界が開けた。
鬱蒼とした木々が突然少なくなり、夜空が広くなる。
「はあっ……はあ……もしかして、ここが……」
前方にあるのは、綺麗な円形をした泉。淡い光をまとう月が水面に映っている。
そしてその畔には、白い花がいくつも咲いていた。普通の花でないことはすぐにわかった。儚げではあるが、淡い光を花そのものが帯びていたからだ。
「見つけた! これで……」
おれがその花へ駆け寄ろうとしたその時。
背後から低いうなり声が聞こえた。
はっとして振り向くと、そこには巨大な影。
今のおれの倍近くはあろうかという、とてつもなく巨大な熊だった。
「くそっ、ここまで来たってのに……!」
間髪入れず、立ち上がった熊は巨大な前脚を振り下ろす。反射的に横へ飛ぶと、次の瞬間にはおれがいた地面は深く沈み込んでいる。
――とんでもない力だ。この森には多く獣が生息している。しかし、魔女の言った通り、この泉の周辺にいる奴らは別らしい。
ぎらぎらと光る目。凶暴性がにじみ出るその目は、侵入者を視線で殺さんばかりに激しく睨みつけている。
とにかく月が沈む前に花を摘まなければ。水はこいつがいなくなってからでも取りに来られる。
ちらりと花を見やると、ここへ来た時より心なしか光が弱まって見える。まずい、時間がない!
熊が雄叫びを上げておれに襲い掛かって来る。くそ、こいつと戦わなきゃ摘むのは無理か。
おれの首元を狙って咬みつこうとした熊を再びかわす――が、完全にはよけきれなかった。熊の胴体が右半身に当たり、おれは大きく吹っ飛ばされる。
「ぐっ、う――!」
急いで体を起こそうとしたが、激痛が走る。
「くそっ!」
おれには戦うための技術なんて知らない。
それに一対一で狼が熊に勝てるのか? わからないが、とにかく反撃するしかない。
痛みを無視して無理矢理体を動かす。自分の体が狼に戻ってきているのは、感覚でわかっていた。
熊が再び向かってくる前に、一気に間合いを詰めて、奴の首に咬みついた。
「グァウッ!!」
予想外の反撃を食らってうめき声を上げる熊。まだ終わりじゃない。鋭い爪と銀色の毛が生えた腕を、がむしゃらに熊の顔面に突っ込んだ。
幸運なことに――いや、無論狙ってやったのだが――おれの爪が熊の目に食い込んだらしい。指先に、生あたたかい、二度と味わいたくない感覚。
熊は苦しそうな叫びをあげると、一目散に逃げて行った。
「良かった……これで……」
薬を作ってもらえる。
ほとんど光を失いかけている花へ手を伸ばす――が、体が動かなかった。
「あ、れ……?」
がくん、と膝の力が抜けておれは地面に突っ伏す。
笑えるほどに体が動かない。首の辺りがあたたかい――これは、血か? 最後に熊を攻撃した時、牙か爪でも当たっていたのか……
意識が遠くなる。だめだ。後少しなのに。
「あ、と、すこ……し……」
完全に狼になってしまった手。これが人間の腕だったら、花に届くのに。
「マリエル……ごめ、ん……」
おれの意識は闇に沈んだ。
* * *
森に入ってから、まったく時間の感覚がわからない。もうかなり歩いているから明け方近いはずだが、背の高い木々に空を隠された森はずっと暗いままだ。
「はあっ、はあ……もう、歩けない……」
これだけ歩いていられるのが奇跡だった。マリエルの体力はとうに限界を超えている。
(……? 明るい……?)
暗かったはずの森。前方にほんの少しだけ開けた場所があった。
「――!! アレクサンダー!? どこへ……」
気付くと、ずっと前を歩いていたはずの猫の姿がなくなっていた。どこへ行ってしまったのだろう。
息を落ち着けながら進むと――そこは泉だった。この不気味な森にあるとは思えないほど、神秘的な空気が漂う美しい泉。
マリエルの視界に飛び込んできたのは、首の辺りを真っ赤に染めた銀色の狼だった。
「ルーン!!」
なぜそう叫んだのかは、自分でもわからなかった。
しかし、そこに倒れている血まみれの狼がルーンであることはわかったのだ。
「どうして……! しっかりして! ルーン!!」
いくら呼んでもルーンはぐったりとしたまま動かない。
血に汚れるのも厭わず、マリエルはルーンを腕に抱いた。
「いや……死なないで、お願いだから……」
「そいつはきみを助けるためにそうなったんだよ、お嬢さん」
突然、背後から若い女の声が聴こえた。
振り向くと、そこには黒衣をまとった赤い髪の女が立っている。マリエルを見下ろす深紅の瞳――先ほどの猫と全く同じだった。
「あなたは……」
「魔女さ」
あっさりと彼女はそう言い、踏み荒らされた草地にしゃがみこんだ。何かを探しているようだ。
「わたしを助けるためって、どういうことですか」
「もうじき限界がくるきみの体を健康にするための薬の材料。それを採りにここまで来た。やはり、無事では済まなかったようだね」
「あなたは、知っていたのね……だからわたしをここへ」
「そう。今はワタシの魔法でごまかしているけどね、きみの体は確かに長くはもたない。それこそ霊薬でも使わなければ生き永らえることはできないだろうさ」
魔女は立ち上がった。右手には、しおれかけた花が一輪ある。その花弁はわずかだが光を帯びていた。
「そのバカはきみを死なせたくなかった。その一心で走り、ここに棲む獣とぼろぼろになるまで戦った。まったく、愛の力ってやつは偉大だねえ」
「魔女さん。その薬……作れるのですか」
「ま、なんとかね。せいぜい一回分程度がどうにかできるくらいだな」
「お願いです。ルーンに使ってください」
魔女の目は静かにマリエルを見つめている。試すような瞳だった。
「いいのかい? そうすれば狼は助かるが、きみはじきに死ぬことになるよ」
「はい」
「狼が成し遂げようとしたことを裏切ることになる。それでも?」
「ルーンを死なせたくはありません」
しばらくの沈黙が流れた後、魔女はあきらめたように息を吐く。
「……そんな真っ直ぐな目は嫌いだよ。ワタシは慈善で魔女やってるわけじゃないんだぞ、まったく……」
魔女はぶつぶつと文句を言いながら花を泉に浸した。そして何か言葉を唱える。マリエルにはわからない言葉だった。
頭上に明け始めた蒼い夜空が広がっている。その下に佇む赤い髪の魔女。――不思議な光景だった。まるで夢でも見ているようだ。
魔女はゆっくりと虚空に手を差し伸べる。その手の中にあった花から、内側から光を放っているかのような蒼い雫がこぼれ落ちた。
「これを飲ませな」
魔女に手を差し出されて、マリエルはそれを受け取った。本当に小さい一滴。普通の水とは違い、少し弾力のある雫だった。
狼の口を開けさせて、舌に雫を垂らす。
「ルーン……」
何度も呼んだ名前。あの日――あの美しい月夜の光景が頭の中に蘇った。
不思議と涙が流れる。
「約束、守ってくれたんだね……わたしに会いに来てくれたんだね。ありがとう……」
「……思い出したのかい?」
マリエルは頷いた。
「どうして忘れていたんだろう……こんなに、大切な記憶だったのに」
「こいつの努力も報われるってこったね」
見上げると、魔女はかすかに微笑んでいるようだった。
「ワタシは真実の愛で呪いを解いてやるなんて、陳腐なことは言わないよ。人間は嫌いだし、愛とかいうのも胡散臭くて仕方ない。だが――ほんの少しは情ってものを持ち合わせてる」
魔女はマリエルの正面に座り、額にそっと手を当てた。
不思議な赤い瞳の輝き――額に触れた魔女の手はひんやりと冷たくて心地良い。
すると急激に眠気が襲ってきて、意識を保っていられなくなる。
「まさか、このワタシがこんなおせっかいを焼くはめになるとはね。――ま、たまにはいいか」
魔女の声が遠くで聴こえると、マリエルは完全に眠りに落ちた。