第二話
もう一度マリエルに会う。
その約束はずっとおれの中の宝物だった。彼女のことを思い出すだけで、心があたたかくなった。
五年――五年だ。
おれは待った。待ち続けた。そしてついに、その時が来たのだ。
「魔女!!」
朝、目が覚めるなりおれは魔女の部屋へ飛び込んだ。朝でも昼でも夜でも真っ暗で、空気が淀んでいる。
部屋の床は本で埋め尽くされていてろくに足の踏み場もない。これもいつもと同じだ。
「おい、起きろよ!」
「んだよ、うるせえな……」
部屋の中心にでんと置いてあるベッドに魔女は寝転がっている。こいつは滅多に寝ないが、眠る時は三日くらいまるまる眠るのだ。
「約束の日だぞ! おれを人間に戻してくれ!」
魔女は大あくびをしながらもそもそと身を起こす。じろりとこっちを見たその顔は、ものすごく不機嫌そうだ。魔女のすぐ傍で寝ていた黒猫も、同じような顔をしている。
「約束? なんの話」
「五年前、約束しただろ。おれを人間に戻すって」
「あ? 知らないな、そんなの」
「とぼけるなよ!」
「アレク、契約書」
命じられた黒猫はするりとベッドを飛び降り、床に散乱している本の海に潜り込み、しばらくしてから一際古ぼけた本を取り出してきた。
魔女はそれを受け取ると、ぱらぱらとページをめくる。
「五年前ねえ……書いてないな」
「なんだよ、それ」
「契約書さ。ワタシが交わした契約が大体記してある。途中めんどくさくなって書いてなかったけど、契約不履行とかの証明ができなくなるからさー、五十年前くらいからまた始めたんだよね」
「どうでもいいけど、それに書いてないのか?」
「人間に戻すなんて契約はしてないね。最新のやつはおまえを狼にした時のだ」
「はあ!?」
嘘だ、確かに契約――もとい、約束したはずだ! それが無効だって言うのなら、おれは五年も何を目的に耐え忍んできたんだ。大体、おれが狼になったのは契約なんかじゃない、一方的な呪いだ!
「ま、そういうことだから」
と、魔女はまたベッドに横になってしまう。
「おいっ! そういうことだから、じゃねえ!!」
「別にいいじゃん。人間だろうが狼だろうが大して変わんねーよ」
「変わるに決まってんだろ!! おれはこの日のために生きて来たんだ。とっとと人間に戻せ!」
「でも契約書に書いてないし」
「それはおまえの不注意だろうが、ズボラ魔女!」
書き忘れなんかでおれの五年間が無駄になるなんて、冗談じゃない。
「キャンキャンうるさいニャ、犬っころ。ご主人がダメって言ったらダメなの!」
「アホ猫は引っ込んでろ! いいって言うまで絶対に引かないからな」
「フン、しつこい犬ニャ」
「おい魔女! 起きろよ!」
すると仰向けになっている魔女がふと言った。
「狼。なんで早く人間になりた~い、なんて言ったんだっけ?」
「……一度だけ、ここから逃げたことがあっただろ」
「ああ、そんなこともあったっけ」
「その時、町で怪我をして……人間の女の子に助けてもらったんだ。その子と、約束したから。また会いに行くって」
むかつくことに、魔女はぷぷっと吹き出した。
「何ソレ。ベタな恋愛話じゃあるまいし、さむっ。よく真顔で言えるな」
「おれにとっては大事な約束なんだよ!」
「ふーん。じゃ、会えればいいわけ」
「え?」
「そうだろ? 会いたいんだろ、その子に」
「あ、ああ……」
「いいよ。叶えてやる」
な、なんだこの態度の変わりようは。気味が悪い。
「ただし」
――既視感。
やっぱり来ると思った……
「人間の姿でいられる時間は、夜の間だけ。厳密に言えば月が出てから太陽の光が地上に届くまでの間」
「なっ――」
「自分から素性をばらすのはナシ。人間との会話の中でワタシについて話すのも禁止。狼に戻る前に必ずここへ戻って来ること。条件を破ったら永久に狼のまま、人間にはなれない。しかも、今までとは違う。人間としての自我も消して、ワタシの言うことに忠実に従うただの奴隷にしてやる。おまえが人間になってる間は常にアレクに監視させるからな」
「そ、そんな……」
「これが呑めないなら、やっぱり契約は白紙だ」
自分から素性を言えないなら、マリエルに会ったとしてもおれがあの時の狼だってことも言えないじゃないか。お礼することもできない。
……それでも、ずっと会えないよりはましだ。
「――わかった。条件は守る」
「あ、それと三日間だけな」
「は?」
「おまえの呪いを一時的に解く期間だよ。今夜を含め、三晩だけだ」
「はあっ!?」
「だって会いに行くだけだろ? 三回も会いに行けりゃ充分じゃないか」
こ、この鬼畜魔女……!! 後付けで一番大事なことを言うなんて卑怯もいいところだ!
「キャンセル不可ね。今『条件は守る』って言ったし」
「~っ!!」
「アレク、ペン取って」
再び契約書を開いた魔女は、黒猫からペンを受け取ってさらさらと何かを書いている。
「呪いの限定解除、有効期間は三日……と」
怒りに震えているおれを尻目に、魔女はさっさと契約内容を書き記している。
突然魔女の手が伸びて来て、おれの毛をむしった。
「ぎゃっ!?」
「了承の証明として契約者の体の一部をもらって――はい、契約完了」
おまえが勝手にむしり取ったんだろうが! ああ、じんじんする……
魔女はベッドから降りると、乱暴に散乱している本を蹴り飛ばして無理矢理空間を作った。
「さっそくおまえに魔法をかけるよ。そこに立ちな」
いよいよだ。希望とはかなり違った形になってしまったが、ようやく人間になってマリエルに会いに行ける。
魔女はおれの頭上に手をかざし、何やらぶつぶつと呟いている。
「――終わったよ」
「え、もう?」
何も変化した感じはしない。これで本当に人間になれるのだろうか。
「夜を待ちな。人間の姿になったら、夜明けまではおまえの自由だ」
「ほ、本当に本当だな!? 後でやっぱナシとか言わないよな!?」
「しつこいね。ワタシを誰だと思ってるんだ。一度交わした契約を破るほど腐っちゃいねーよ」
……書き忘れで破りそうになったくせに。
「あ? なんか言った?」
げっ。心の声が筒抜けだ。
魔女の肩の上では、アレクサンダーが不満気な顔をしている。
「ご主人、本当にいいのかニャ?」
「こいつにはいい薬になるだろうよ。現実はそう甘くないってこと。――ま、せいぜい頑張るこったね」
* * *
そして、待ちに待った夜――高鳴る鼓動を抑えながら、おれは恐る恐る屋敷の外に出た。
見上げると無数の星と月が夜空に浮かんでいる。高い木々、生い茂る葉の隙間から天井の宝石たちが放つ淡い光が漏れて、草の上を白く照らしていた。
夜は来た。が、おれはまだ狼のままだ。
「本当に人間になれるのか……?」
恐る恐る背後にいる魔女にきく。
「だからしつこいっての。月の光を浴びてみな」
言われた通り、月光がさしている場所まで歩いて行く。
「……っ!」
やけに光が強く感じて、思わず目を閉じる。月の光って、こんなに強烈だっただろうか――まともに浴びたのなんて久しぶりだ――この五年間、魔女にほとんど反抗せずずっと館の中にいたから――
「いつまで目ェ閉じてんだ。さっさと開けな」
ぶっきらぼうな魔女の声がして、恐る恐る目を開けた。
……いつもより遥かに目線が高い。
「――!!」
視線を下ろすと――地面がずっと下にある。
靴を履いた足。五本の指がついた両手。慣れない感覚で手を上に動かし、顔に触れる。ぺったりとした、人間の肌の感触が確かにあった。
「……人間だ。本当に人間になってる!」
「当たり前だろ。服はサービスだ。マッパで町にいたらさすがにまずいからね」
「あ、ありがとう魔女!」
感動のあまり魔女に駆け寄ろうとしたが、脚がうまく動かなくて盛大に転んでしまった。
「ププッ、慣れないことはするもんじゃないニャ」
黒猫の嘲笑も今のおれにはさして効果を持たない。
本当の本当に人間の体だ。人間になれた――いや、戻れたんだ!
「もう一度言っておくけどな。夜明けまでには必ずここへ戻れ。それと自分の正体に関わることを話したらそこで終わりだよ」
「わかってる!」
よろりと立ち上がり、一歩、二歩と歩いてみる。次第に手足の感覚がはっきりとしてきて問題なく歩けるようになった。やっぱり元は人間だから体の記憶があるんだ。
「さっそく行ってくる。一秒たりとも時間は無駄にできないからな!」
「待つニャ! オマエ、どっちが町かわかるのかニャ?」
「あ、そういえば」
だてに魔女の森だなんて呼ばれて気味悪がられていない。この森は一度入ったら抜け出せないほど深いのだ。五年前おれが出られたのは本当に偶然、しかも無我夢中で走ってたもんだから道なんて覚えてるわけない。
「仕方ないから、ボクが案内してやるニャ。ありがたく思うニャ」
偉そうなアレクサンダーの態度は気に食わないが、確かにありがたい。魔女の命令ならこいつはなんでも聞くのだ。
「さっさと行ってきな。アレク、くれぐれもこいつが妙な真似しないように見張っておくんだよ」
「もちろんニャ!」
アレクサンダーを撫でると、魔女は館の中へ戻ってしまう。
「さて、行くかニャ」
こいつに前を歩かれて案内されるのは無性に腹が立つが、まあいい。
やっと人間になれた。これでマリエルに会いに行けるのだから。
* * *
「ここを出ると、すぐに町中ニャ」
アレクサンダーに案内され、森を抜けて町を見下ろす小高い丘に辿り着いた。
ここまでそう時間はかからなかった。しかも館からほとんどまっすぐに東に進むだけだ。こんなにも町と近い距離だったのかと、驚きを隠せない。
「あそこ、見えるかニャ? 一際大きい屋敷ニャ」
言われなくても、その屋敷は目に付いた。そう大きくはない町で、ここからでもわかる大きい庭を持った館がある。
「あそこはオマエが前に迷い込んだ場所ニャ。オマエの初恋相手はあそこのお嬢サマニャ」
「なんでそんなこと……」
「フン、ボクがこの土地にいる長さはオマエの比じゃないニャ。森周辺のことなら熟知してるニャ。くれぐれも妙なマネはするニャよ。言っとくけど、ご主人はボクの目を通して全部見て――あっ!」
アレクサンダーが言い終わる前に、おれは駆け出していた。
マリエルがいるはずの場所。おれの目にはそれしか映らなかった。二つしかない足がもどかしい。もっとはやく、はやくあそこへ行きたい――!
「オオカミ! 待つニャ!」
待たない。おれはアレクサンダーを置いてただひたすら走り続けた。
* * *
窓の内側から光が漏れている。おれとアレクサンダーは、庭にある木の上から密かに屋敷の中の様子をうかがっていた。
「何も見えないな……」
「ハァ、ハァ、当たり前ニャ……ていうかオマエ、ボクを置いていこうったって、そうはいかないニャ……ゼェ、ゼェ」
おれの後を必死で追って来たアレクサンダーは、肩の上で荒い呼吸をしている。こいつに肩に乗られるなんて不愉快極まりないが、今はそれどころではない。
すぐそこにマリエルがいる。
早く会いたくて仕方ない。けれど、いざとなると中々踏み出す勇気が出なかった。今のおれは人間の姿をしているとはいえ、人間との関わり方なんてわからない。しかもうっかり魔女の条件に触れたりしたら、二度と人間に戻れなくなってしまうのに。
「コホン……オイ、オオカミ。行くなら早く行くニャ。夜は短い、朝になって後悔しても知らないニャ」
「ま、待てよ。もうちょっと心の準備を……」
「ハン! あれだけ会いたい会いたい言っといて、ほとほと呆れるニャ。このヘタレオオカミ」
「うるせえな!」
「シーッ! 声がでかいニャ! 屋敷の人間に忍び込んだことがバレたら、つまみ出されるニャ。こっそり会って、さっさと帰るニャ」
「そうは言っても……」
マリエルが五年前の面影がないほど変わっていたらどうしようとか、助けた狼のことを完全に忘れていたらどうしようとか、不安ばかりが胸に湧いてくる。
アレクサンダーは苛立たしげに、おれの肩の上で地団駄を踏み始めた。
「オトコならやる時やらなくてどうするニャ! いい加減にしないと――」
ぎい、と扉が開く音がした。おれと黒猫は一瞬で静かになり、そちらを凝視する。
おれたちがいる庭園に面した扉から、誰かが出て来た。
暗闇に映える白いワンピースを着た人影。服よりも目立つのは、長い金色の髪だった。
――全身が硬直した。
ゆっくりと庭へ出て来た人影から、目が離せない。どくん、どくんと心臓の音だけが遠くで聴こえる。
「マリエル」
かすれた声で、呟いた。
先ほどの懸念はなんだったのかと思うほど、今の彼女は記憶の中の少女と同じだった。幾度となく想像した彼女の五年後の姿。まさにそれだった。少し想像と違ったのは、夜のせいか肌がより一層白く、儚げに見えるほどほっそりとしていることだった。
マリエルから目を離せないでいると、突然背中に強い力が加わって、おれはバランスを崩した。肩に乗っていた黒猫が、背中から飛び降りる反動でおれを突き落とそうとしたのだと理解した時には、おれの体は宙に投げ出されていた。
「うわっ!」
高さはそれほどでもなかったので、慣れない人間の体でもなんとか無事に着地できた――が。
「……っ!!」
少し離れた先に、彼女が立っていた。おれを見ている。
――ああ、同じだ。あの時と同じ、綺麗な緑の瞳。
「誰……?」
怪しむわけではなく、不思議そうな顔でおれを見ている。
「あ――」
こ、声が……言葉が出てこない。なんて言えばいいのだろう。久しぶり、あの時の狼です――ああだめだ、これじゃ永遠に狼のままだ。自己紹介? いや、いきなり名乗るのもおかしいだろ――
ぐるぐる考えている間に、マリエルはおれのすぐ傍まで来ていて、おれをまじまじと見つめていた。
「あなた、誰? どうしてここにいるの?」
五年前よりしっとりと落ち着いた声。しかし、瞳と同じように透き通っていた。
「おれは……」
言葉が継げずまごまごしていると、マリエルはくすりと笑った。
「もしかして、天使さん? 羽はないみたいだけど」
「い、いや――」
「違うの? だったら、ただの不審者かしら」
「ちっ、違う! そうじゃなくて、おれはきみに――」
会いに来た、と言おうとしたその瞬間、背後からにゃあという猫の鳴き声が聞こえた。
「! 猫だわ、珍しい」
そう言ってマリエルはおれの後ろにいた黒猫を抱き上げる。……無論、アレクサンダーである。撫でられてごろごろ喉ならしてやがる。猫被りやがって。
「不思議な夜だわ。ちょっと調子が良いから外に出てみたら、黒猫を連れた天使さんに会うなんて。ねえ、ここへ何をしに来たの?」
「……きみに、会いに……」
「わたしに? どうして?」
「それは――」
「――ううん、やっぱり言わないで。ね、せっかくだからお話しましょうよ。わたしはマリエルっていうの。あなたは?」
「ルーン……」
心臓がどきどきうるさい。すぐ隣にマリエルがいる。風が吹くたび、彼女の金髪がなびいて美しい。白い肌が月の光に照らされて、なめらかに光っていた。
ぼんやりと月を見上げながら、マリエルは呟いた。
「綺麗な名前ね」
「……そう、かな……」
ルーンという名前について、マリエルは特別な反応は示さなかった。やはり五年前のことなど覚えていないのだろうか――いや、まだわからない。とりあえず話そう。せっかく会えたんだから。
「マリエルは何歳なんだ?」
「もうすぐ十六歳。あなたは?」
「えっと……お、同じくらい、かな」
正直自分の年齢はよくわからない。多分、マリエルと大して変わらないと思うけど……
「あら、寝ちゃったみたい。この猫、あなたのお付きなの?」
アレクサンダーはマリエルの膝の上で丸くなって目を閉じている――が、まさか本気で寝てはいないだろう。
「まあ、そんなものかな」
「名前は?」
「アレクサンダー」
「随分立派な名前なのね。こんなに小さくてかわいいのに」
アレクサンダーはうっすらと目を開き、おれの方を一瞥した。……優越感にどっぷり浸った馬鹿にするような目。
くそ、いい気になりやがって……
ふと気づくと、マリエルはじっとおれを見つめていた。もしかして、怪しまれた?
「綺麗」
「え」
「あなたの髪、月の光みたいな銀色ね。瞳も、深い青で……」
「そう……かな」
「やっぱり天使だからなのかな」
そう言ってふわりと笑うマリエル。
……おれは天使どころか、魔女に呪われた狼だけど……
「マリエルの方が綺麗だよ」
「ふふ、ありがとう」
本当に、心からそう思う。他の人間の女の子は知らないけれど、マリエルはきっと特別綺麗だ。
「……マリエル」
「うん?」
「おれは、きみに会いに来たんだ。おれはきみを知ってる。ずっと前から――」
マリエルがもしあの時の狼と約束を覚えていたら――
狼が人間になって会いに来たとわかってくれるんじゃないかと、おれは希望を抱いてそう言った。
しかしおれが期待した言葉はマリエルの口からは出てこず、彼女は顔を曇らせた。
「わたしたち、前にも会ったことがあるの?」
「……ああ。ずっと前に――」
「……ごめんなさい。わたし……」
すっと胸の中にあった希望が消えたのがわかった。
しかし、マリエルが続けた言葉は予想を超えたものだった。
「わたし、生まれつき体が弱いの。五年くらい前にね、一度高熱を出して死にかけたことがあって……その時より前の記憶があいまいなの」
「え……」
「お医者さまのお話では、ずっと続いた高熱の影響で記憶が傷ついてしまったんだって。両親の顔とか、親しかった一部の人の顔はわかったんだけど……それ以外は、あまり覚えていなくて。特に高熱を出した前後のことは全く覚えていないの」
五年前なら――おれと会った直後ということか。まさか、そんな……
「その時以来、ろくに外にも出られなくなってしまって。夜、涼しい時はたまにこうして外に出たりするんだけれど……」
「…………」
「そう……わたしたち、会ったことがあるのね。こんな綺麗な天使、一度見たら忘れないはずなのに」
おれのことを、彼女は覚えていない。
新しい関係を築く時間もおれには残されていない。
急に地面が消えたみたいな感覚に襲われた。
無言のままぐるぐる考えていると、
「お嬢様、そろそろお戻りになられないとお体に障りますよ」
屋敷の中からマリエルを呼ぶ声がした。
「すぐ戻るわ! ……いけない、そろそろ戻らなきゃ。ルーン、また明日の夜もわたしはここにいるわ。また……来て。必ず」
マリエルはすがるようにおれを見つめて、両手を握った。マリエルの手は、少し冷たかった。
アレクサンダーはマリエルの膝の上からおれの肩に飛び乗った。耳元でにゃあと鳴く。戻るぞとでも言っているのか。
「また明日、ルーン」
マリエルは小走りで屋敷の中へ戻ってしまった。
その後も、おれはしばらく固まったままだった。
「……残念だったニャ。ま、こういうこともあるニャ」
「…………」
「とにかく、さっさと戻った方がいいニャ。屋敷の人間に見付かると面倒だニャ」
* * *
「どうだった、五年ぶりの再会は」
明け方まで眠れず、ようやく眠りに落ちかけた後目覚めてみると、見事に狼の姿に戻っていた。
「……おまえも見てたんだろ。アレクサンダーの目で」
「ま、現実は甘くないってことさね。もう終わりにしたっていいんだよ」
おれに背を向けて本を読んでいる魔女の口調は、全く興味なさげだった。それもそうだ。こいつはおれがどんな思いをしようがどうでもいいんだから。
「いや、また今日も行く」
「……ふうん?」
魔女は初めておれを振り返り見た。
「明日も、って約束したから」
「またヤクソクか。まあ、好きにしな。どうせ後二回しか会えないんだからね」
――そうだ。後二回。それでマリエルとはもう会えなくなる。
* * *
「良かった、また来てくれたのね」
二日目の夜、おれはまたアレクサンダーと共にマリエルの家へ行った。
おれたちが着いた時にはマリエルは既に庭にいて、置いてある椅子に座っていた。
「約束したからな」
「ふふ、ありがとう」
「体調は大丈夫なのか?」
「ええ。夜はとても気持ちいいし、あなたに会えるしね」
マリエルの隣にある椅子におれも座った。おれの肩の上に乗っていたアレクサンダーは、当然のようにマリエルの膝の上に飛び移る。
「あら、甘えん坊ね」
「……マリエル、なんできみはおれにまた会いたいって言ったんだ?」
「わたし、五年前からろくに外に出たことがなくて。屋敷の人以外と話したこともあまりないの。同世代の人はほとんどいないし……だから、あなたに会えてとてもうれしかった」
「そうだったのか……」
「それにね。あなたはわたしを連れて行ってくれると思ったから。あなたなら、怖くないかなって」
「……?」
マリエルはにっこりと笑った。
「なんでもないわ。ねえ、ルーン。あなたはどうしてわたしに会いに来てくれたの?」
聞かれて、おれは言葉に詰まった。
五年前きみに助けられてまた会いにくると約束をしたから……とは言えない。
「き、きみに会いたくなったから」
「本当に、それだけ?」
「え……」
じっとおれを見つめるマリエルの瞳。穏やかな笑みは消え、すべてを見透かしてしまうような静けさを湛えている。
しばらくの沈黙の後、マリエルは悪戯っぽく笑った。
「何か、隠してるでしょ」
「!」
「でもいいわ、無理には聞かない」
そしてアレクサンダーをいじりながら、興味はあるけどね、と続けた。
「マリエル、きみはおれが怖くないのか?」
五年前と同じ問いをおれは投げかける。
「こんな得体の知れない男、普通は気持ち悪いだろ?」
「いいえ、全然」
即答だった。
「だってあなたはわたしの天使だもの。それにね、なんだか懐かしい気がするの」
「…………」
「記憶はなくても、なんとなく覚えているものなのかもね。木から落ちて来たあなたを初めて見た時から、どこか懐かしいって感じてた。だからあなたがわたしと前に会ったことがあるって言った時、ああやっぱりって思ったの」
うれしかった。たとえ覚えていなくても、おれのことをそういう風に感じてくれていた。素直に、無理をしてでも会いに来て良かったと思えた。
「ありがとう、ルーン。会いに来てくれて」
本当のことを言いたい。
永遠に狼のままでも、マリエルに本当のことを言って、お礼をして……おれがおれでなくなったとしても、胸に抱いている気持ちを伝えたい。
「……マリエル……おれ……」
「にゃあっ!」
突然、アレクサンダーが鳴いた。
はっとするとマリエルが苦しそうに口を押えてうつむいている。
「マリエル!? 大丈夫か!?」
「……へ、平気。ちょっと、苦しくなっただけだから」
「でも!」
息が荒く、顔に汗が浮かんでいるのがわかる。どう見たって大丈夫なんかじゃない。
動揺するおれを見上げて、マリエルは苦しさを隠すかのように微笑んだ。
「大丈夫よ。わかってるもの……」
「わかってるって、何を――」
「わたし、もうすぐ死ぬのよ」