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第一話

 昔のことはよく覚えていない。だが、確かに昔のおれは今とは違う体だった。


 二本脚で立ち、両手を自由に操り、体にこんな毛は生えていなかった。牙だってなかったし、眼つきだって今よりずっと優しかったに違いない。


 でも、覚えているのはそんなあやふやな感覚だけだ。その頃の明確な記憶はない。


 わかっているのは、かつておれは人間だったこと、とある魔女の呪いを受けて狼の姿に変えられてしまったこと、それからずっと魔女の住処に閉じ込められこき使われていたこと――こんなもんだ。


 そして今……自由を求めて人間の世界へ逃げ出したおれは、満身創痍で動けないでいる。


     * * *


 遠い窓の外には満月がある。それはかび臭い倉庫の中にいるおれを優しく照らしていた。

 ちょっと体を動かすだけで体が酷く痛む。首だけ動かして胴体を見ると、銀色の毛皮が所々赤く染まっている。自分の血なのに見るだけで吐きそうだ……


 狼のくせに血が怖いなんて、と罵らないでいただきたい。何度も言うがおれはかつて人間で、血生臭いものとは無縁だったのだ(多分)。狼になってからも狩りなんてしたことはなく、四六時中魔女にこき使われて、労働の対価としてしょぼい飯が与えられていた。


 おれは自由を渇望していた。とにかく魔女の下から逃げ出したかった。魔女とその使い魔の目を盗んで抜け出し、森を駆け抜けて人間の町まで走り抜けた時は本当に爽快だった。


 しかし。


 人間達の生活から長い間離れすぎていたせいで、おれは自分の姿の恐ろしさをよくわかっていなかったらしい。なにせ言葉は普通に喋れるし、おれの生活の中にいる唯一の人型だった魔女は、当たり前だがおれを恐れたりはしなかったからだ。

 魔女を出し抜いたことで完全に調子に乗ったおれは、これもまた馬鹿なことにのこのこと人里に下りて来た。


 そしてこのザマだ。


 突然やって来た狼に、人々は逃げ惑いながらも銃をがむしゃらにぶっ放した。即死は逃れたものの、何発か食らって動ける状態ではない。何とか逃げて人気のないどこかの倉庫の中で息をひそめているというわけだ。

 意識だけが体から離れて深海へ沈んでいくようで、痛みは遠くで響いている雷鳴のように感じられる。


 しかし、穏やかな眠りは突然の物音によって遮られた。

 狼らしく一瞬で身を起こして唸る元気はない。おれはゆっくりと瞼を持ち上げ、物音のした方向を見た。

 くそ、見付かったか――


「狼さん……?」


 しかし聞こえてきたのは消え入りそうなか細い声。まだ子供のそれだ。

 ゆっくりゆっくり足音が近付いてきて、来訪者の姿がはっきりと見える。

 幼い少女だった。歳は十歳程度だろうか。

 その緑色の瞳は不安と恐怖に揺れていて、小さな両手を胸の前で握り締めている。その手の中には、何か草のようなものと布があった。


「だいじょうぶ?」


 驚くべきことに、彼女はおれの身を心配しているらしい。

 おれのすぐ傍で腰を下ろした少女は、まじまじとおれの顔を見つめてきた。澄みきった緑の、美しい瞳だ。見ているだけで心が安らぐような……


「待ってて、今手当してあげるね」


 少女は持っていた薬草のようなものをおれの傷口にそっと当てた。傷に直接触れられたのと、草から染み出した液によって激痛が走り、おれは唸り声を上げて身悶える。

 少女は一瞬驚いたようだったが、覚悟を決めたように横たわったおれの体を抱きしめた。


「大人しくして、お願いだから! 傷口が開いちゃう。それに音が外に聴こえたら、みんなが捕まえにきてしまうかもしれない」

「そんなこと言ったって、痛いもんは痛いんだよっ!」


 と、思わず声を上げると、少女は大きい目を更に大きくしてぽかんとおれを見つめた。


「……しゃべれるの?」


 はっ、しまった。普通、動物はしゃべれないんだった。


「やっぱり本当だったんだ。魔女の森の近くに住んでるおじいさんが、森から狼が出てくるのを見たって。あなた、魔法の狼さんだからしゃべれるのね!」


 そう言う少女に怖がっている様子はなく、むしろ好奇心で目が爛々と輝いている。魔法の、というよりは呪われた狼だが。


「……なんでおれを助けるんだ。はやく大人に言って殺させた方がいいんじゃないのか」

「ねえ、なんで狼さんは町に来たの?」

「話聞けよっ! あ、あいたたたた」

「もう、大人しくしてなきゃだめじゃない。狼さん、お名前は?」

「名前……? そんなの聞いてどうするんだ」

「聞きたいのっ。ね、教えて」

「知らない」

「自分のお名前でしょ? どうして知らないの?」

「知らないものは知らない。狼になる前の記憶はないし、魔女にはただ“狼”としか呼ばれたことないからな」

「狼になる前……? 狼さん、昔は人間だったの? どうして狼になっちゃったの? 魔女と一緒に暮らしてるの?」


 しまった、うっかり自分の素性をしゃべってしまった。なんとかごまかすしかない。


「い、いやなんでもない。聞かなかったことに……ああ傷が痛い、死にそう」

「じゃあ、わたしがお名前つけてあげる!」

「え、別にいらな――」

「今日は月がとっても綺麗だから……ルーンはどう? 綺麗でしょ」


 おれの言葉は無視して、満面の笑みを浮かべる少女。

 どきん、と心臓が鳴った気がした。なんだこれ、血が出てるせいなのか、おれは死ぬのか。


「わたしはマリエルっていうの。よろしくね、ルーン」

「おまえ……おれが怖くないのか?」

「どうして?」

「だって……狼なんだぞ? それに、しゃべるし、魔女に飼われてるし……」

「最初はちょっと怖かったけど、今は平気。だって、とっても目が優しいもの。それに昔は人間だったんでしょ?」

「……一応」

「それに、あなたってとってもきれい。月の光みたいな銀色の毛だし、目はとっても深い青……お母さまが持ってた宝石よりきれいな色」


 少女――マリエルは微笑みながらおれの毛皮をそっとなでる。


「きっと人間の時のルーンも優しかったんだろうな。ねえ、ルーン、わたしとお友だちになってくれる?」


 友達。


 こんな姿になってしまったおれと、人間の女の子がそんなものになれるはずなんかない。そのはずなのに、友達という響きはなぜかおれの胸に響いた。


「傷が治ったらたくさん遊ぼうよ! 一緒に丘の上まで走りに行って、お昼寝して。ふふふ、楽しみ。不思議だなぁ、ルーンとならどこにいても楽しい気がするの。さっき会ったばかりなのにね」

「…………」

「ねえ、またわたしに会いに来て」

「……無理だよ。おれは自由にあいつから離れることはできない。今回逃げ出せたのは、本当に偶然なんだ」


 そうだ。おれはどうせ魔女に縛られ続ける運命。逃れることなんてできない。


「大丈夫よ。きっと頼めば魔女だってわかってくれるもの。お友達が待ってるんだって」


 おれは思わず目を見開いた。


「む、無理だそんなの! あの魔女がそんなの聞くわけない。それにおれはこんな姿だし……」

「だったら呪いを解いてもらえばいいよ! そうすれば皆の目も気にせずに遊べるわ」


呪いを解く――それができたらどんなにかいいだろう。だがどう考えても不可能で、想像すらしなかった。


「ま、ますます無理だって……呪いを解くなんて」


 そうだ、できるはずなんてないのに――それなのに、どうしてこんなに胸が高鳴るのか。マリエルがそう言っただけで……


「そんなのわからないよ! ね、だからもう一度会いに来てね。ずっと待ってるから。――約束だよ」


 そう言ってマリエルは笑う。

 月明かりに照らされたその笑顔が、眩しかった。


     * * *


 つたない手当てをおれに施した後、マリエルは疲れて眠ってしまった。そのお陰か、さっきよりは大分痛みが引いた。

 起こさないようにそっと、やわらかな金髪のにおいを嗅いでみる。ふわりと甘いにおいがした。

 すやすやと穏やかな寝息をたてるマリエルは安心しきっているように見えた。

 この体になってから、おれが関わるのは魔女とその使い魔くらいしかいなかった。久しぶりに――記憶上では初めて関わった人間は、とてもやわらかくてふわふわしていて……

 なんだろう、この気持ちは。胸のあたりがぽわぽわする。


「こんな所にいたのかニャ」


 マリエルに見入っていたおれの意識を引き戻したのは、聞き慣れた、耳に障る甲高い声だった。

 声のした方を見ると、そこには真っ暗な闇。そしてその中に光る金色の双眸がある。


「アレクサンダー……」


 そいつは音も無く歩み寄ってきた。

 大きなつり目が小生意気な、真っ黒い細身の猫。おれに声をかけてきたのはこいつ――アレクサンダーだ。魔女に絶対服従の使い魔で、おれとはとことん気が合わない。


「勝手に逃げ出してどういうつもりだニャ。ご主人サマが心配してるニャ。それにしても……まったくひどい怪我だニャ。それにそのしょぼい手当ては?」

「……ニャーニャーうるせえな、アホ猫。マリエルが起きるだろ」

 

 金色の目を細め、猫は眠っているマリエルを見た。


「もしかして、その子がやったのかニャ」

「……だったら何だよ」

「まさか、情でも移ったのかニャ? 所詮オマエはご主人の所有物。今後会えることなんてないっていうのに――」

「うるせえよっ」


 狼らしくうなってみせると、アレクサンダーはため息をついた。


「……フン、オマエなんかのためにボクが迎えに出されたのは甚だ心外だニャ。でも、ご主人の命令だから仕方ない。ホラ、早く帰るニャ」

「…………」


 すやすや眠り続けるマリエルを見下ろす。

 もう一度会えることなんてあるのだろうか。

 ――いや、きっと会ってみせる。約束したんだ。


     * * *


 突然だが、ここでおれという人間――もとい、かつて人間だった狼について改めて紹介させてもらいたい。

 正直、狼になってからどれくらいの年月が経ったのかわからないし、人間だった頃の記憶も時が経つにつれ曖昧になってしまった。今となっては、かつてどんな暮らしをしていたのかはもちろん、自分の名前さえ思い出せない。……それも魔女が呪いで思い出せなくしているのだろうが。

 だが、こうなってしまった原因だけは覚えている。


 誰も足を踏み入れない、一度迷ったら二度と出てこられない『魔女の森』。その奥地には世にも恐ろしい魔女が住んでいるという。しかし彼女の姿を見て帰って来たものはいない。

 人間だった時のことはよく覚えてないが、昔のおれは人並み外れて好奇心旺盛だったに違いない。そして馬鹿だったのだ。

 おれは肝試しのつもりで迷いの森に行った。皆が恐れる魔女を一目見ようと。

 神様とは余計なことをするものだ。こんなことになるくらいなら、森の中を永遠に彷徨って屍になっていた方がましだったかもしれない。いや、確実にその方が良かった。

 神様が起こしてくれた奇跡のおかげで、何とも不幸なことに、おれは魔女が住む館に辿り着いてしまったのだ。


 そして魔女に会ってしまった。


 あの時を思い出すだけで、激しい後悔が襲ってくる。ああ、昔のおれよ、おまえは何と愚かだったのだ。妙な勇気など振り絞らずに、一目散に引き返せば良かったのに。

 具体的に魔女に向かって何を言ったかはよくわからない。とにかく喧嘩を売るようなことを言ったに違いない。当時のおれは、魔女を倒す勇者にでもなった気でいたから。

 そして魔女は言った。


「人んちに入っといて随分でかい態度だな。お仕置きしてやるよ」


 魔女はおれに『お仕置き』という名の呪いをかけた。

 そして人間だったおれは狼の姿に変えられてしまったのだ。


     * * *


 “魔女の森”。

 文字通り魔女が住む、人里からそう遠くはない所にある深い森だ。昼でさえ鬱蒼と生い茂る木々に遮られて光はろくに届かず、足を踏み入れる人間などほとんどいない。――まあ、かつてのおれは足を踏み入れてしまった馬鹿な人間だったわけだが。

 おれはこの森の中にある、古ぼけた館に住んでいる。――魔女と共に。


「……で? 帰って来たと思ったら馬鹿げたことを言う」

「馬鹿げてなんかいないっ!」


 館に連れ戻されたおれは、呪いを解くよう魔女に直談判していた。もう一度マリエルに会うためだ。

 当の魔女は悠然と椅子に座り、膝の上の黒猫を撫でている。

 魔女の見た目は、人間の若い女だ。魔女らしく黒衣をまとい、真っ赤な髪を腰まで垂らしている。時折こちらを見る冷え冷えとした深紅の目が不気味だ。

 つくづくむかつく余裕たっぷりの態度である。


「ふうん? 森を出て女の子に会いに行きたい。だから呪いを解け……と。これのどこが馬鹿げていないと言うんだ? 二十文字以内で説明しな」


 低い、耳朶をくすぐるような声。笑いを含んでいるような話し方が更にむかつく。


「そもそもおまえが何の罪もないおれに呪いをかけたことが馬鹿げてるんだ! さっさと解けよ!」

「指定文字数を大幅に上回ってる。回答とは認められないね」

「からかうな!」


 こいつはいつもこうだ。おれが何を言ってもまともに取り合わない。


「何の罪もない、だって?」


 うっ。きらりと光った魔女の目――これで見られると思わず息を呑んでしまう。


「おまえはワタシの森に勝手に入って来たんだ。命があるだけありがたいと思えよ」

「たったそんだけの理由で人一人の人生を狂わせやがって! 元は人間なんだ! 人間として暮らす権利がある!」

「権利? ここではワタシがすべてだよ。おまえなんかただのドレイだっつーの」

「あ、悪魔! 魔王! 鬼畜女!」

「魔女だよ。――ったく、うるさい犬っころだ。キャンキャン吼えてる元気があるなら木の実でも拾ってきな」

「じゃあそれを拾ってきたら――!」

「呪いは解かないって言ってんだろ、アホ」


 そう言って魔女はうっとうしげに立ち上がる。まるでそのタイミングを読んでいたかのように、アレクサンダーは膝の上から魔女の肩まで駆け上った。


「……頼むよ。この際、ずっとじゃなくていい。一時的でも、人間に戻してくれればそれでいいから……またマリエルに会いたいんだ。一生のお願いだ!」

「だめだね。大体おまえ、ちょっぴり優しくされたからっていい気になってるんじゃないよ。たとえ人間になったとしてもね、相手はおまえのことなんか覚えちゃいないさ」

「そんなことない! だって約束した!」

「バカだね。そのマリエルとやらに惚れたんだか知らないが、おまえが勝手に盛り上がってるだけ。人間――特に女なんてそういうイキモノさ」


 魔女の言葉は少なからずおれの心に刺さったが、なりふり構っていられない。約束したんだ。


「もう一度会いに行くって、約束した! だから絶対に……」


 言いかけたところで、肩の上に器用に座っているアレクサンダーがシャッと威嚇してきた。


「いい加減にするニャ! いつまでも見苦しいニャ。オトコなら引き際を見定めるニャ」

「うるさい、お前は黙ってろ! 大体、その『~ニャ』って語尾うぜえんだよ! 無理矢理感満載であざといわ!」


 黒猫は心底バカにした表情でわざとらしく息を吐いた。


「ハァ~、これだから低能な犬族は困るニャ。このボクのキュートでファンシーなキャラがわからないとは哀れなアホとしか言いようがないニャ!」

「ニャを付ければかわいくなると思ってるてめえの方がアホだっての!」


 いや、今はアホ猫の相手なんかしてる場合じゃない。


「おいっ、魔女!」

「ったく、うるせえな。わかったよ。そんなに言うなら考えてやらんでもない」

「ホントか!?」


 ぱっと顔を輝かせたおれを、魔女はいじわるい笑みを浮かべて見下ろす。


「ただし――」


 ……やっぱり条件付きかよ。こいつが快くおれの頼みを叶えてくれるはずなんてないのはわかっていたことだが。いや、この際条件なんてなんでもいい!


「五年後」

「……は?」

「五年経ってもその子への気持ちが変わっていなければ、おまえを人間にしてやる」

「はあああっ!?」


 思わず大声を上げると、魔女はうっとうしげに赤い髪を払った。


「当然だろ。頼み込むだけなんざ、甘いっての。それなりの代償は払ってもらわないとな」

「代償って……」

「五年も経てば、その子はオマエのことなんか忘れてるかもな。それでもいいのかい?」


 五年――森に住んでいると時間の感覚なんて曖昧になるが、それでも相当長い時間だとわかった。マリエルは今十歳くらいだろう。次に会う時は十五歳……恋人だってできているかもしれない。


「……わかった。五年後、必ず約束を守ってくれるなら、それでいい」

「……本当に?」


 自分から出した条件のくせに魔女は少なからず驚いたようで、金色の目を見開いた。


「ああ」


 しかし、すぐに元の意地の悪そうなにやつきが戻って来る。


「いいだろう。男に二言はないね」


 おれは強く頷いた。

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