第14話
当て所なく歩く。
ただ姉さんに手を引かれ、方向さえ分からずに走る。
こうしていると、昔に戻ったみたいだ。
僕が途方に暮れた時、何時だって姉さんが僕の手を引いた。
そのまま僕の手を放してくれず、あちこち連れ回されたものだ。
リューゲンの街並みは遠退き、山々の緑地が近付いてくる。
その時、
――ロラン!
ヴァズの、そしてリリアの声が聞こえた気がした。
立ち止まり、振り返る。
「どうしたの、ロラン」
姉さんが尋ねる。その最中も、僕を引く力を決して緩めようとしない。
「ヴァズの、リリアの声が聞こえたんだ…」
リューゲンの街並みを遠くに捉えながら、僕は応える。
そんな僕を、背後から姉さんが、恐ろし程の目付きで睨み付けているなんて、僕には知る由もなかった。
「幻聴よ…」
本当に幻聴だろうか。
もし、彼等に危機が迫っているのなら。
まだ、間に合うのなら。
今まさに、混乱の中でその血を流しているのなら。
僕に、助けを求めているのなら。
無意識にリューゲンに向けて歩き出し、止まった。姉さんと繋いだ手が、僕の身体を止めた。
「今更、何処に、行こうというの?」
僕は振り返る。姉さんが泣きそうな顔をしていた。
姉さんの翡翠色の瞳に吸い込まれそうになる。
思考が分散し、何も考えられない。
ただ一つ、明確に導き出せる答えだけが頭の中を反響する。
ああ、これ以上姉さんを悲しませる訳には。
僕は身体の向きを変えると、頷いた。
姉さんは微笑む。
僕達はそのまま、三度目となる山に足を踏み入れた。
生い茂る木々の枝草を、姉さんは次々に押し退けて進む。
「誰も踏み入れない地へ」
姉さんが言う。
「誰にも知られずに、傷を舐め合いましょう」
誰も知られずに、山々の奥で、穏やかに暮らす。なんと魅力的な囁きだろう。
その先が、破滅へと繋がるとは知らず、僕等は山間の道をゆく。
辺りはすっかり暗くなり、これ以上は、とても木々生い茂る道を進むことは出来なかった。
僕等は薪を集め、火を灯す。
辺りは暗く、篝火だけが仄かに明るい。
ぱちぱちと、火が爆ぜる。虫の鳴き声だけが響く。
静かな空間だった。
火を囲む僕と姉さんの、二人が世界に残された最後の人類の様な、そんな静けさ。
僕はただ火を見つめ、その優しい焔色に心が癒されるのを感じた。
姉さんも、その翡翠色の瞳に揺れる炎を映している。
僕等は互いに口を閉ざし、この静けさを享受していた。
戦いに奮起し、荒み、乱れ、傷ついた心が、平穏を取り戻していく。
姉さんの望んだものは、この平穏なのか。
ふと、炎越しに姉さんと目が合った。
姉さんはそれに気付くと、微笑んだ。
僕も笑みを返す。
願わくば、こんな平穏がずっと続いて欲しかった。
その篝火に釣られ、僕達の前に現れたのはジョウストンだった。
「あ、あ…」
何故だろうか、僕は咄嗟に言葉を紡ぐことが出来なかった。
「ロランじゃないか!」
ジョウストンが言う。彼の後ろには、妻のメリザ、そしてマナとカナ、最後にリリアの母エミリアが続く。
「一体、どうした…?何故ここに?皆はどうした?」
当然抱く疑問だ。だが答えられない。現に、僕は皆がどうなったかを知らないのだ。
だが、何故ここに居るかなら、答えられる。
「僕は…」
しかし口をついて出ない。皆を置いて、戦場を離れた事が裏切りにあたるのかどうか、分からない。いや、きっとヴァズ達はそう思っている。
戦場から逃げた臆病者で、仲間を見捨てた卑怯な裏切り者。
それが今の僕なのだ。
「僕は…」
正直に答えればいいのか。今更、自分に厳しく当たってどうする。
嘘をついたっていいじゃないか。どうせバレやしない。自分を見繕ってもいいじゃないか。
僕は、迷った末にジョウストンと同じ答えに辿りついたに過ぎない。
悪い事じゃない。悪いことじゃない。
「僕は何も悪くない…僕は逃げたんじゃない…僕は裏切ってなんかない…僕は」
「お、おい、どうした!?大丈夫か?一体何が」
「私達の事はほっといて」
その時、姉さんが口を開いた。
「私達の事はほっておいてください」
姉さんは立ち上がると、同じ事を繰り返した。
「行きましょう、ロラン」
そして僕の手を引いて歩き出す。
「ちょっと待って。こんな夜中に二人で歩き回るのは危険だわ。あなた達が話したくないというのなら、それでいいわ。何も聞かないし、尋ねない。今夜はここで越しましょう」
そんな姉さんの背に、メリザ夫人が声をかけた。
夜の山がどれだけ危険かは、ハーティからリューゲンまでの道のりで嫌というほどに理解させられている。
姉さんは渋々といった様子で、腰を下ろした。
「腹が減っているだろう。これを食べろ」
そう言ってジョウストンが、木の実を差し出す。姉さんはそれを無言のまま受け取ると、半分以上を僕に手渡した。
僕は誰とも目を合わせられずに、ただ薪の灯りを見つめるばかり。
火が爆ぜ、虫が鳴く。しかし、先の居心地の良さは皆無だった。
長い沈黙が流れ、マナとカナが母の膝元で眠りに落ちる。
エミリアが呟く様に言った。
「リリアは…」
エミリアが僕を見ている事が分かった。
僕はただ力無く首を横に振った。
それを見て、姉さんが口を開く。
「分からないわ。私達、ただ必死に逃れてきたんだもの」
「そう…そうよね」
煌々と照らす篝火の灯に、複雑な感情が飛び交う。
「これから、どうするつもりなんだ?」
ジョウストンが言う。
「もし良かったら、俺達と一緒に行動しないか?暫くは山に身を潜めるつもりなんだ。君等もそうだろう?」
「ええ…そうね」
姉さんが答える。
「それなら都合がいい。人が多い方が魔物にも襲われにくいし、何よりマナとカナも喜ぶ」
「遠慮するわ」
しかし姉さんはジョウストンの申し出を断った。
「理由を、聞いてもいいか」
「今は、姉弟二人きりの時間が必要なのよ。ロランは、少し疲れているし…」
姉さんはそう言って、僕を見る。そのまま僕の肩を抱き寄せ、額を寄せた。
「少し、落ち着く時間が私達には必要なの」
「そうか…」
ジョウストンは視線を落とし、薪を足す。
「もし、行動を共にする気になったら、何時でも歓迎だ」
翌日、僕等はジョウストン一同と分かれた。その際、身を潜めるに最適だと、とある泉を教えられた。
姉さんは僕の手をしっかりと握り、僕達はその泉へと目指して歩き出した。
「何故あの場所を?」
カルメ達と別れた後、メリザは夫に問う。その表情は不安げだ。
「気付かなかったか?ロランは魅惑の魔法をかけられていた。おそらく、正常な思考など出来ていないだろう。だから、あの場所を教えた」
ジョウストンは答える。ジョウストンは魔法使いでこそないが、ハーティにおける解放戦線幹部の一人である。洞察眼は曇っていない。
「でも、だからってあの場所は危険なんじゃ…?」
「ああ、精霊が住まう場所だ。平凡な人間が興味本位で足を踏み入れれば、ただではすまない」
「なら、何故!」
「あの姉弟が数奇な運命を背負っていると思ったからさ。精霊はそういう者を好む。精霊に見込まれれば、彼等の運命は大きく狂う。それがいい方向に転ぶ事を俺は願うよ…」
ジョウストンが教えた場所は、曰く付きの場所だ。
親が子を脅す為に、冗談交じりで語り継ぐ類の舞台だ。
親とはやくに離れ離れにされた姉弟は、そのお話しを知らない。
悲しみに暮れた一人の少女のお話し、彼女が精霊となったお話し。
悲嘆の精霊の住まう場所、蛇行する川の上流にある、霧深いとある泉の話。