第12話
自分の判断が正しかったのか。分からない。
今はただ、大事な人の手を引いて、逃げる。
この街に生れ育ち、ヴァズと出会ってから保護されるまで。
盗みをしては逃げに隠れに、街を駆け抜けた。
抜け道には詳しくなった。
慎重に道を選びながら駆ける。
気付けば、街を出ていた。
振り返る。
――今なら、まだ間に合う。
「貴方が戦う必要なんて無いわ」
立ち止まった僕に、姉さんは言う。
「行きましょう、ロラン。今までそうしてきた様に、これからも、二人で生きていくのよ」
この世界で、唯一、信じられるものがあるとしたら、
それは、貴方だけだわ。
大陸の覇権も、島の支配も、鉱山の資源も、貿易の権益も、グリタリア家も、ギノア人も…
私達の愛には替えられないわ。
姉さんはそう言った。
「さぁ、行きましょう」
差し出された、姉さんの手。
その手をとれば、其処に僕の望む未来があるのだろうか。
僕は何を願い、何を望んでいたのだろうか。
何の為に戦いに身を投じたんだ?
子供扱いが嫌だったから?
一人前になりたかったから?
認められたかったから?
誰に?何を?何故?
視界に映るリューゲンの街並み。
命を掛けて守ろうとしていた、その景色が色褪せて見えた。
僕は一体何を…。
何を必死に…?
「もう、頑張らなくていいのよ…。自分を偽らなくていいのよ」
貴方は臆病な子。
貴方は非力な子。
強がらなくていいのよ。
姉さんの、翡翠色の、とても綺麗で澄んだ瞳に見詰められる。
身体を暖かい光が包んでいた。
何も考えられない。世界がぐるぐると回転した。
姉さんの言葉が、頭の中に何度も反響する。
ふと、頬を涙が伝う。
僕は姉さんの手を握り返していた。
「後退だ!通りを六区画進めば、第二防衛線がある。そこまで後退するんだ!」
ゲオルグの声が響く。
トロルの足元の奥に、隊列を組んだ白い部隊が見えた。
「おい、下がろう!」
ヴァズはリリアに叫ぶ。リリアが頷き返えす。
「お、置いてかないでくれ!」
するとリリアの足を、傷を負ったギノアの兵が藁を掴む思いで縋り付いた。
「死にたくないんだ!お願いだ、俺も連れて行ってくれ!」
リリアの脳裏にルーガーの影がよぎる。
「死ぬ覚悟もない奴が、戦場に出てるんじゃねーよ!」
ヴァズは悪態をつくと、その男を背負った。
リリアはヴァズが背負った男を見てぞっとした。
「ヴァズ・・・」
「なんだ!?逃げるぞ!」
その時、ヴァズも異変に気付いた。
あまりにも軽い。
いくら根性なしといっても、ギノアの屈強な兵の一人。
背負えば、それなりの重量感が伝うはずだ。
しかしそれがなかった。
代わりにあるのは、妙に生々しい感触と、鼻を突く鉄錆びの匂い。
その男は下半身がなかった。おそらくトロルに踏み潰されたか、直接打撃を食らったのだろう。
「こいつ・・・」
ヴァズが男を降ろした時には、絶命していた。
「・・・・っ」
リリアは全身を悪寒が走り抜けるのを感じた。
遠くに感じていた“死”というもを、肌で感じた瞬間だった。
兵士が始めての戦場で陥る、狂乱・恐慌状態、リリアはそれに陥りかけていた。
一歩間違えれば、自分もあのような体になっていたのだろうか。
恐怖からくる悪寒、その吐き気を止められなかった。
体調が回復せず、本調子ではなかったというのもあり、リリアは戦場で座り込む。
胃の中のもの全てを吐き出した。
周囲は咽るような血と臓物の匂いが充満し、兵士達は今際の時に呪いの言葉を残して骸になった。
トロルの唸りに鼓膜が脅え、その地揺れに、リリアはついに立つことも出来なくなった。
「ふふふ、私、死ぬの?」
「リリア!おい!」
倒れこんだリリアのすぐ後ろには、トロルが怒りに痛みに狂う。
――こんな時に、ロランは何処にいるんだ!
ヴァズはリリアの下へ飛び込むと、乱暴に背負った。すぐにトロルに背を向けて走り出す。
リリアを背負い、気付く。まるで屈強な男を背負うかの様な重量感があった。
勿論、リリアは線の細い女子であり、金属の鎧を着込んでいる訳ではない。
魔法効果としか考えられなかった。
自身の体は、カルメの補助魔法で羽の様に軽い。
そしてリリアの体も、また補助魔法で鉛の様に重かった。
ヴァズは舌打ちする。
まさか、こんな時にまでカルメの悪い癖が出るとは思わなかった。
カルメの女嫌いを鑑みれば、顔は笑っていても状態異常を仕掛ける事は十分あり得た。
それにロランが一枚噛んでいれば、十分どころか確定だ。
カルメは病的に弟に気をかけている。
それは、ヴァズが傍から見ていてもぞっとする程の狂気を持ってしてだ。
カルメは、ロランと親しげにするリリアが気に食わなかったのだろう。
いまはそんな事を考えている時じゃない。
見捨てる事は出来ない。
幸いに、自分の体は軽い。二人合わせて、元に戻ったと考えればいい。
とにかく今は足を動かすしかなかった。
トロルが、戦士ギルドの赤い屋根を執拗に棍棒で叩いている内に、距離を稼ぐ。
一区画二区画と確実に歩を進め、息を荒げながらもゲオルグの言った第二防衛線へ急ぐ
。
しかし、その工程の三分の二程を走破した時、ヴァズは目撃した。
そしてゲオルグの言葉を思い出す。
――この先、四区画進むと一つ目の野営病院が設置されている
放置された野営病院が其処にあった。
簡易ベッドに寝かされた負傷者達は、呻きながら助けを求めていた。
「置いてかないでくれ」
「裏切り者!」
「死にたくない・・・」
「助けてくれ!」
「母さん…」
「見捨てないでくれ!」
「お願いだ…お願いだ…」
怒りに言葉を喚き、悲嘆に顔を伏せ、恐怖に身を縮める。
その姿を、ヴァズは見っとも無いとは思わなかった。
そんな彼等に目をくれずに逃げ去ってゆく兵士。
ヴァズは情けないとは思わなかった。
皆、生きるために必死なのだ。それは自分とて同じ。
テント内の負傷者は、自分一人では動けない者ばかりだった。
ギノア兵達は、我先にとヴァズ達を追い越していく。
「おいおい、嘘だろ…」
ああ、神様。
と呟きながらヴァズは張られたテントの中に入った。
簡易ベッドに寝かされた負傷者達の顔を検分していく。
トロルの足音が、死の宣告の様に徐々に近付いて来る。
違う、違う、こいつでもない。
「おい、ルーガー!いるなら、返事しろ!」
時には包帯を剥いでまで顔を確認した。
「ヴァズか…」
テントの奥隅、一つの簡易ベッドに、忘れられた様に寝そべる男が応えた。
「ルーガー、無事か!」
しかし、ルーガーの顔色は悪い。
「ここに居たら殺されるぞ!立てるか?ルーガー」
ルーガーは顔に汗粒を浮かせながら、顔を横に振った。
「無理だ、ヴァズ。とてもじゃないが、歩けない」
心底辛そうに、顔を顰めてルーガーは応えた。
「諦めるな!背負ってでも連れて行くぞ!」
ヴァズがそう言った時、リリアが悲鳴を上げた。リリアが四つん這いになりながら、逃げ込んでくる。トロルが、テントを持ち上げ、覗き込んでいた。
「俺の事はいい、逃げろ、ヴァズ!」
ルーガーが言う。
「しかし…」
ルーガーは最期の力を振り絞り、立ち上がると、剣を抜いた。
血が足りずにふらついた足元に、震える腕でルーガーは構えた。
ルーガーを背負っては、逃げ切れないだろう。いや、既に不調のリリアが居る。
もはや逃げ切る事は出来ない。
トロルのすぐ後ろには、白い甲冑の部隊が整列している。
――ここまでか。
ヴァズは、ルーガーの横に並び立ち、剣を抜いた。
トロルは、身動きの取れない負傷者を、貪っている。
「その化け物を正規ルートに戻せ!」
男の声が響いた。火矢がトロルに突き刺さり、トロルはテントから離れ、大通りを前進する。
その後に続く、白い軍影の先頭に立つ男が、テント内に入ってきた。
「脱落者か。一人残らず捕らえろ」
男の命令に、兵士達が機敏な動きでテント内に侵入する。
――大人しく投降するならば、命はとらない
元より戦えぬ者たちだ、速やかに全員が捕縛された。勿論、ヴァズもリリアも逃げ切ることは出来なかった。
剣を抜いたヴァズだが、十人の甲冑に囲まれると、自ら剣を捨てた。
命が惜しくなった、と言われれば否定は出来ない。
その瞬間に、助かる道があるならばヴァズは賭けてみたかった。
「何をしている」
やがて騎馬の一軍と共に、一人の女が現れた。
その白い甲冑が返り血を浴びて、真紅に変化していた。
よほどの血を浴びない限りはああはならない。
どれだけ殺せば、その鎧があれ程に染まるだろうか。
女は澄ました顔で、馬から降りることもせず、男に言う。
「この薄汚い者どもは何だ」
男は女を敬いながら応える。
「は、当初の予定通り、敵兵の身柄を拘束しながら進軍しております。こやつらは、負傷者として敵陣に置き去りにされた者と見られます」
「おい」
「はい」
「身柄を拘束などと、一体誰が命じた」
「え、いや、昨晩の軍議では…」
「殺せ」
「…は?」
「一人残らず、殺せと言ったのだ」
「し、しかしソドフ様は…」
ソドフという言葉を聞いた途端、女は鬼の様な形相になった。
怒りの赴くままといった感じで、剣を抜きざまに投げる。
剣は凄まじい速度で、宙を飛び、捕縛されたギノア人に突き刺さった。
肩を上下させ、荒い息を吐きながら女は言う。
「殿下は、私に作戦を一任された。作戦の総指揮の権限は、私にある。これ以上私に同じ命令を繰り返させる気か…?」
女の言葉に、男は脅えた様に答えた。
「直ちに!」
ヴァズの横で、血糊に塗れた剣がルーガーの胴を貫いた。
突如、飛来したソレに貫かれ、血の泡を吐いてルーガーは死んだ。
リリアの悲鳴が、遠くに聞こえた。
次話投稿まで一週間程かかるかもです。