エピローグ
2
丘の上の公園。街の景観を一望できるそこは人々の憩いの場として愛され、休みの日には噴水の近くのベンチに座って話す母親たちや芝生で遊ぶ子どもたち、木々に囲まれた遊歩道を飼い犬と散歩する人たちが絶えない。
そんな公園も、赤い夕陽に照らされた今の時間には閑散としていて、人の姿は見当たらない。普段であれば、それでも人っ子一人いないということはないんだけれど、今に限ってはそれも彼女の影響か、と適当に納得した。
「悪いな、待たせたか?」
街を望む公園のへりまで歩を進めると、手すりにもたれる少女が笑顔を浮かべて待っていた。
黒い髪が風に揺れる。それを手でおさえて微笑む姿、その完成された美しさにのどは知らず息をのんでいた。赤々とした斜光が繊細な肌に跳ね返ってきらきらと淡い光を放つ。のぞく瞳はこちらの心を見透かすような清冽さをたたえていて、迫力すら感じさせた。
「いいえ、私も今来たところです」
まるで恋人同士が待ち合わせた時のようなやりとりに、どちらともなく笑いあう。そして本当に嬉しそうに、腕を広げた莉瀬は、
「この公園、デートの最後に来たいな、って思ってたんです」
綺麗な笑顔でそう言った。
それに自然と笑みを返して、莉瀬の隣で一緒に夕暮れの街を眺めた。
「そうか。少しは……莉瀬が思い描くデートになったか?」
「はい。憧れていた待ち合わせも、一緒に買い食いもできました。それに下校中に寄り道して遊ぶこともできて、この子もプレゼントしてもらって」
どこから取り出したのか、腕に抱かれていたのはうさぎのぬいぐるみ。頬を染めて抱く莉瀬は幼くも可愛らしく見えた。
「喫茶店でお茶もして、最後にはこの公園で二人並んで景色を眺められて、もうやりたいことはほとんど叶えてもらっちゃいました」
清々しく、はっきり言い切った莉瀬の顔は今までで一番の嬉しさと寂しさを湛えていて、ひどく胸を締めつけられた。
とっくにわかっていたことなのに、本当に情けない。
だからせめて、
「俺も、楽しかったよ」
俺も心からの言葉を伝えるべきだろう。
「短い時間だったけど、昔好きだった、それも普通なら手が届かないはずの女の子とのデートだ。本当に楽しかったし、嬉しかった」
まるで夢のようだった、と続く言葉は無意識に心のうちにとどめていた。
少しの間あっけにとられていた莉瀬は、くすっと悪戯っぽく笑うと「デート作戦、大成功ですね」と唇へ人さし指を当てた。
夕陽とその下で行き交う人の灯りに包まれながらも、それと隔絶した場所で、穏やかな時間が流れる。それはゆるやかに、少しずつ流れが弱まっていって、そのまま時が止まってしまうように思えた。
でも、そんな時間もすぐに終わりを迎える。陽の光を浴びて輝いていた莉瀬の輪郭が徐々に薄く、ぼんやりと揺れ始めた。
「……莉瀬」
「はい。もう、時間みたいです」
もう一度、寂しそうに目を伏せた莉瀬はまっすぐに俺の目を見つめた。
今までにも感じたことがある感覚。時が止まり、切りとられた仮想空間の中に自分がいるような錯覚、そして莉瀬が発したのはまるで現実味がない、用意されたワード。
それは何度も聞いたことのある、やり直しの言葉。
「最後です、あなたの止まった時間を」
――セーブポイントから、やり直しますか?
どくん、と大きく心臓が脈打った。
わかっていてもその言葉は、無表情で無感動でも、とても甘く心地良く感じる。
すぅ、と息を吸って、気持ちを落ち着けた。もう時間はない、莉瀬の体はすでにゆっくりと光へ返り始めている。タイムリミットはすぐそこだ。
「俺は、やり直したかった。いろいろ悩んでみても、『それは良くないことだ』とか心にもない良識で考えても、『本当に戻れる保証はない』とか考えたこともない疑念を浮かべても、心の底ではずっとやり直したかった」
昨日、ずっと悩んでいたのはそんな意味のないことばかり。
「俺は、だって俺は本当に駄目な奴だったんだ。現実から目を逸らして、未来なんて見る勇気もない、ただ今を生きるために、いつもいつもその場しのぎで」
アルバイトだって、姉貴が苦しんでいた時に何もできなかった償いがしたくて、ただ過去の過ちにばかり囚われて金銭を工面したかっただけで。将来のためじゃなく、過去のために今を生きているような、そんなどうしようもない奴で。
「やり直せれば、取り返しがつくんじゃないかって、そう思った」
そう考えて、それでも俺は、やっぱりどうしようもなく駄目な奴だった。
「でも、それも違った。苦しんでいた姉貴を助けたいってのも、亡くなった両親のためってのも、結局逃げでしかなかったんだ。俺が、見たくないから。そんないつも通りの逃げてる俺のままで」
俺みたいな奴がやり直していいのか、そんなくだらないことで堂々巡り、自己嫌悪。そんなことばかり繰り返していて。
俺一人じゃ、きっと結論なんて出ていなかった。
でも、そんな風に一人で抱え込んでいても、俺はいつだって一人じゃなかったから。
「だけど、俺には幼い頃からいつも笑って背中を叩いて目を覚まさせてくれる人がいたんだ。
だから」
いつもみたいにぐずぐず悩んでる俺を、
『私は、後悔したくないの』
本当に馬鹿馬鹿しいくらい、臆病なチキン野郎だ。そう、俺に俺自身のことを思い知らせた後、
『アンタも言わなきゃダメだからね。一日一日を、このうざったくなるような現実を受け止めて、足で地面を踏みしめて、ちゃんと明日に向かって歩けるように』
俺も一緒に引きずって、自分にも言い聞かせるように、いつか俺に放ってよこしたゲーセンのプライズへ宣言した。
「莉瀬。俺の答えは、『いいえ』だ」
それは決断というにはあまりに呆気ない、言い慣れた口振りの答えだった。
「そう、ですか」
もう体のほとんどが淡い光に包まれている莉瀬は、俺の選択を安心したような、そんな穏やかな笑みで受け止めた。
「……悪い、随分と手間かけさせて」
「くすっ、私はたった一つの目的の為に生まれた存在ですから」
「ありがと、な」
やっと前を向いて進めるようになったとはいえ、当分の間、莉瀬と姉貴には頭が上がりそうにない。
だから、あともう一つだけ。
「その、喫茶店で聞きそびれたこと、聞いてもいいか?」
静かに見つめ合う中で問いかけたのは、自分の中に残っていたもう一つの疑問のこと。
莉瀬には意外だったようで、こてん、と首を傾げたけれど、すぐに頷いた。その体はすでに膝までが光へと変わり、粒子となって流れて消えている。
「なんで俺を、……いや、どうして俺の為に会いに来てくれたんだ?」
それは疑問というよりは、女々しい確認のようなもの。
臆病者と笑わば笑え。成長し始めたばかりの俺に恋愛云々はレベルが高すぎるんだ。
そんな言い訳を心中でぐちぐち並べながら窺った莉瀬はさらにもう一つ首を傾げていて、そのまま黙考が続いたかと思うと、不満そうに頬をふくらませた。それは見たことない表情で、現実味が増した今までで一番人間らしい膨れっ面だった。
「もう、本当に奥手な人ですね」
「うぐっ、……面目ない」
やっぱり、彼女には敵わない。鈍感を装った俺の浅はかな思いはすぐに見抜かれてしまったらしい。
俺を助けるために来た、彼女の想い。彼女を形作った感情は、消去法でたぶん一つしかないと思うのだけれど、それを聞くのはちょっと……いや、かなり勇気がいる。俺からすれば自己陶酔一歩手前と言っていいくらいに。
だけど、そんな俺の推測もまるで明後日の方向へ、
「でも私もちょっと反省、ですね。自分の目的にばっかり目が行って、舞い上がって、危うくあなたの手助けをするって本題をおろそかにしそうになっていましたから」
莉瀬が照れ笑いを浮かべて言った言葉に俺は間の抜けた声を出すので精一杯だった。
「は、えっ、本題? それじゃ、莉瀬の目的って」
うろたえる俺を見て満足したのか、莉瀬は後ろ手に手を組んで可笑しそうに笑う。
「私、あなたが思っているようなできた人格者じゃないですよ。私が本当にしたかったことのために、あなたの前に現れたんです」
「本当にしたかったこと?」
「さっき、ちゃんと言ったじゃないですか。もう忘れちゃったんですか?」
「さっき……え、じゃあ」
そんなことを叶えるために、こんな大仰な力を持ってきたのか。
そう言いそうになった俺の口を、光に包まれ消えかけている莉瀬の指が押さえた。その表情は拗ねた子供のようで、簡単に俺から言葉を失わせた。
「最後にもう一つ、付き合ってください」
疑問を抱きながらも無言で頷く。
「それじゃ、私がいいって言うまで目を閉じていてください」
思考は放棄して、目を閉じた。
暗闇の中で唇に触れていた暖かな感触が離れ、それと同時にまぶたへ感じていたまばゆい刺激が消える。
光に包まれた、光へと返っている莉瀬の指がのけられたのだろう。いや、もしかしたら指も消えてしまったのかもしれない。
消える。
あの柔らかく暖かい手も、胸から聞こえた鼓動も、鈴を転がすような楽しげな声も、優しい光に満ちた瞳も、あと少しで。
その考えに至って、俺は今すぐにでも目を開けたい衝動に駆られた。もうすぐ莉瀬がいなくなるなら、せめてその姿くらい少しでも長く。
「ん、っ……!?」
でも、そんな俺の逡巡は再び唇に触れた柔らかく暖かな感触によって吹き飛ばされることになった。
まぶたにはさっきとは比べものにならないくらい強く大きな光が飛び込んでいる。それはちょうど人の顔と同じくらいの大きさの光源から発せられている光。
なにが起こっているのか考えるまでもなかった。そして唇に触れていた温もりは消え、まぶたを刺す光は徐々に弱まっていく。
「莉瀬っ!」
目を開けて、声を張り上げた。
だけど、俺の目の前にはもう流れて夕焼けに溶けていく光の粒子しかなくて、手を伸ばしてもその粒子は俺の手をすり抜けて消えていく。
――好きな人の相談にのって、好きな人と、キスをして。これで全部、叶えてもらえました。ありがとう、私の大好きな人。
呆然と立つ俺の耳に聞き慣れた涼しげな声が届いた。
その声はどこか悪戯っぽく、俺だけ顔を見られなかったことが悔しくて、少し寂しかった。
3
カリカリとペンを走らせてノートを文字で埋めていく。手が止まり、うなってペンの尻で頭をかく。模範解答のページをめくって、自分の中で答えを噛み砕く。
そんな一連の流れを何度も繰り返して、一段落ついたところで首を鳴らし、ついで肩を回した。
これまで真面目に勉学に励んでこなかった溝がこんなにもあるとは思わなかった。自分の習熟度に愕然とする。埋め合わせは相当に手間取りそうだ。
首を回し、ダイニングのテーブル、次に玄関へのドアへ目を向けた。一階のリビングはリビングダイニングとなっていて、キッチンもカウンターで仕切られているだけだ。
一つ息を吐いて、リビングのテーブルに広げたノートに浮かぶ英単語へ目を移した。
「『restart』。再起動、か」
俺の時計も、ちゃんと再起動しているんだろうか。
「阿呆か、俺は」
我に返ると頬を叩いて思考を振り払った。
それを決めるのは、俺の時を進められるのは俺だけなんだ。自分が変わらなきゃ意味がない。
そう思い直したところで、玄関が開く音を聞く。足音が近づき、その主はいつも通り元気一杯に、ともすれば荒っぽくリビングのドアを開け放った。
「たっだいまー」
「おかえり」
「わっ、美味しそー、いただきま」
「姉貴、ちゃんと手洗えよ」
帰宅して早々、ダイニングテーブルに置かれた皿のラップをはがそうとする姉貴へ釘をさす。
時刻は8時前、腹が減るのはわかるけど、それとこれとは話が別だ。
不満そうに了承の声を上げた姉貴は着ていたスーツの上着を脱ぐと俺に放って寄こし、洗面所へ消えていった。
溜め息をついてスーツをたたむと、リビングのソファの上に置く。ついでダイニングテーブルの皿にかけられたラップを一つ一つ外していく。
飲み会をキャンセルして帰ってくる代わりに、とリクエストされた姉貴の好物、メバルの煮付けにかけたラップは姉貴によって中途半端にはがされていた。器を持つ。冷えて生温かい。温めなおしてもいいけれど、姉貴はぶーたれるだろう。
「まあ、いいか」
冷えきっているわけでもなし、わざわざ文句を言われることもない。
テーブルに置かれていた二人分の茶碗を持ってキッチンへ向かう。ご飯、味噌汁をよそってテーブルに並べると、折良く姉貴がリビングへ戻ってきた。
「お腹空いたー。ん、あれ、アンタ勉強してたんだ、珍しい」
リビングのテーブルに広げられた参考書を見て姉貴が声を上げる。
「珍しいは余計だ。あと明日は雨だぞ」
「うん? 知ってるわよ、アンタが朝教えてくれたんじゃない」
「……そうだったな」
変なの、と言って首をかしげた姉貴はそれでも食欲が勝ったようで、すぐに食卓につくと俺の着席を促した。
席について「いただきます」と手と声を合わせる。
幸せそうに煮付けとご飯を頬張る姉貴を見ていると、いつの間にか自然と言葉がこぼれ落ちていた。
「なあ、姉貴」
味噌汁をすすりながら目だけで疑問符を表した姉貴に、続く言葉は少し力んだような音が乗っていた。
「俺、進学するよ」
今までは高校を卒業したらそのまま働くなんて言っていたけれど、姉貴はいつも進学を推していた。もちろんそれが理由なわけじゃない、でもきっと姉貴は驚くだろう、そんな風に考えて発した言葉。
「そ、じゃあ頑張れ」
でも返ってきた言葉は拍子抜けするくらいにいつもどおりで、表情も一瞬ぴくりと動いただけ。思わず、それだけ? と聞き返したくなったくらいに。でもそれを言葉に出すことはなかった。
おひたしへ箸をのばした姉貴の表情は心なしかさっきよりも嬉しそうに見えた。
俺の気が抜けたのかその後の食卓には穏やかな緩い空気が流れ、久々にいろいろと話をした。
アルバイトの回数を減らしたこと、学校で鬱陶しいくらい俺を気にかけてくれる悪友がいること、その彼女さんとも仲良くできそうなこと。
姉貴も姉貴で、飲み会を断る際に「柊ってホントにブラコンだよね」という台詞が職場で定着し始めていることを笑いながら話した。空気を読んで笑い話をしてくれたんだろうけれど、笑えないので近いうちに訂正させるようちゃんと言い含めておいた。
そして食事を終え、キッチンで食器を洗っている時に明日、土曜日に予定していたアルバイトも休みになったことを姉貴に告げると、
「だったら映画観に行かない? 今、上映されてるので観たいやつがあるのよ」
私もちょうど休みだし、と唐突に提案してきた。いや、唐突なのはいつものことか。
「明日雨だぞ?」
「車で行けばいいでしょ」
「そう、だな。何観るんだ?」
これ、とテーブルで読んでいたらしい映画雑誌の中で姉貴の指す一角を見る。
そこにはとある洋画、本国アメリカで大人気だというサスペンス映画の広告が載っていた。
朝から出かけるわよ、と楽しそうに意気込む姉貴に一応の疑問を投げてみた。
「朝って、起きられるのか?」
「いつもどおりアンタが起こすに決まってるでしょ?」
「……さいで」
まるで俺が馬鹿なことを聞いた風な口振りに思わずエセ船場言葉で返した。大阪とはまるで無関係な俺が言うとなんとも滑稽な響きのように思えてならない。
食器を洗い終えて、たたんだスーツと参考書類を持つと二階へと足を向ける。
9時半、まだ帰ってからほとんど勉強に取り組んでいないし、もう少しやっておくべきだろう。二回目の夜に学んだことは、どうやら俺の脳に知識として刻まれず、巻き戻されたようだし。
「ねえ」
ドアを開けようとした時、姉貴の声が呼び止めた。いつものように溌剌とした感じではなく、静かで穏やかな声音で。
「楽しみにしてるから」
「……俺もだよ、ルリ姉」
視線は向けずに。姉貴から微笑んだような雰囲気を感じ、リビングを出てドアを閉めた。
二階へ上がり自分の部屋に入る。手に抱えていた物は机の上に置いて、ベッドの上にある携帯型ゲーム機を手に取った。裏側はまっさらなままで、何も貼られたような形跡は見当たらない。
起動して、一つだけあるセーブデータを選択する。昨日から少しずつ、今日も帰宅後、勉強をする前にプレイしていた。
流れる文章と画面に映るヒロインの絵を眺める。
すでに選択肢はなく、エピローグへと差し掛かり、ヒロインの台詞が耳に届いた。情景が記憶と重なる。
――ありがとう、私の大好きな人。
音楽が流れ始めて、台詞の文章がうっすらと消えていく。
スタッフロールが始まり、クレジットとこれまでの出来事を一つ一つたどるような映像が映されていく。
気が抜けたように、ただ呆然と眺めている間にスタッフロールは終わったようで、ヒロインの笑顔で映像は締めくくられ、セーブ画面へと移った。
セーブデータを上書きして、次はタイトル画面に戻るのかと思ったけれど、違うようでクリアしたヒロインが画面に現れて、聞き慣れた『とあるワード』を口にした。
「クリア、おめでとうございます。
――はじめからやり直しますか?」
それはきっと、また新たにゲームを始めて違うルートを攻略できるように、という意味での言葉だったんだろう。
でも俺にはそう聞こえてくれなかった。思わず押し殺した笑いがもれるくらいには。
笑いを堪えてキーを操作した。浮かんだ選択肢の『いいえ』を選んで決定する。
『GAME OVER』
ふう、とベッドへ仰向けに倒れた俺は、表示されたワードに続けるように口ずさんだ。
「Restart. Welcome to the actual world.」
お粗末な英語に心の中で呆れながら、俺は静かにゆっくりと目を閉じていった。




