トラウマ
※注意書き。
残酷描写、鬱展開あり。
1
ひどく視界の悪い、雨の夜だった。
普段忙しく働いている両親が珍しく温泉旅行へ行こう、なんてことを提案し、俺もルリ姉も嬉々としてそれに賛同した。
世間は五月の大型連休、ゴールデンウィークの真っ最中。
両親が揃って数日間丸々休みをとれることは本当に珍しくて、いつも姉ぶって甘えることなんてなかったルリ姉がはしゃぐ様子はギャップもあってかすごく可愛く見えた。高校生に向かって可愛いなんて、我ながら大したシスコンぶりだが、幼い頃から俺の面倒を見ていたルリ姉が、この旅行で少しでも気兼ねなく楽しめるなら、なんてことをガキながら思っていた。
そしてゴールデンウィーク最終日。
俺達家族を乗せた車は土砂降りの中、大通りながらも車の通りが少ない静かな国道を走っていた。
前の運転席には父、助手席に母が座り、俺はその後ろのさらに後ろ、7人乗りの最後部座席にルリ姉と一緒に座って窓から流れる景色を眺めていた。
父親が奮発して買ったワゴンタイプの車は後部座席の窓が大きく、俺はそこから外を眺めるのが小さい頃から好きだった。その日に限っては景色どころか歩道の辺りまで見通すのがやっとだったけれど。
隣のルリ姉は旅の疲れが出たのか、俺の方へ寄りかかり目を閉じている。
寝ているのか、とも思ったけれど、時おり「ゴールデンウィークって言葉は映画会社が発祥なのよね」と無駄知識を披露したり、「今度の休み、映画観に行こっか」と先の計画を立てたりする度に寝てはいないらしいことを知らされる。
俺が窓の外を眺めるように、ルリ姉も車に乗る時は昔から俺や両親に抱きついたり膝枕で眠ったりすることが好きだった。なんでも暖かくて良い匂いがするからすごく落ち着くらしい。
その時のルリ姉はなんといえばいいか、あれだ、母性をくすぐるというやつだ。事実、さっきから助手席の母親がこちらを羨ましそうに窺っている。子煩悩な両親からすれば、ルリ姉に甘えてもらえるのは嬉しいんだろう。
旅行の帰路、そろそろ自宅が近くなり道路脇に田園風景が広がっているはずだが、それもうるさく打ちつける雨で見えない。
ふと、自分の手元にある荷物から携帯型ゲーム機を取りだし起動しようとしても、前々日にやった時と結果は同じ。二日前に電源が切れた上、充電ケーブルまで忘れてしまったのだから仕方ないのだけれど。
ふう、と息を吐いてまた雨のカーテンが下りた外を眺める。何も見えない、退屈だ。
当初の計画では今日の昼には自宅に着いているはずだった。それが朝のゆるい雰囲気や温泉街で食った道草など、休みの最終日を惜しむような心情が積み重なり、結局今の時間になってしまった。
雨は嫌いじゃない、特に夜の雨は。
車の中にも伝わるひんやりとした空気は心地良いし、雨音にだって無知は無知なりに心が安らぐような風情を感じる。
この時の俺は、それに嫌悪を覚えるどころか憎悪まで感じることになるなんて思ってもいなかった。
ううん、とルリ姉がうなって肩に乗せていた頭をのけた。目に茶味がかった髪を透かして光が届く。対向車線から走ってくる車、そのライトだ。目をこするルリ姉が不機嫌そうに顔をしかめた。
結構大きなライトだな、と思った俺は近づくにつれてそれが大きなトラックだったことに気付く。そしてさらにトラックが近づいた時、違和感に首をかしげた。
ライトが少し揺れて、いや、ふらついてる?
そう思った時にはもう遅かった。
小さく蛇行していたトラックは一際大きく揺れたかと思うと、垂直に立てられた棒が風に揺られるように、ゆっくりと横に倒れ始めた。
そのままけたたましい音を上げながら路上を滑ったトラックは道路の車線をすべて塞ぐように横たわった。目の前、もう10メートルもない所に大きな壁が現れていた。
鳴り響く轟音の中、父親がブレーキを踏んだ音が聞こえた気がした。
でも、それもすぐ掻き消える。
それはあまりに唐突で、一瞬だった。
凄まじい衝撃に体が跳ね、腹部を大きな鉄槌で殴られたような衝撃が走る。かすれた声と肺の空気が全て吐き出された。
前に跳んだかと思えば、次は後ろに、そのまま息を吐く暇もなく下に。平衡感覚を失い、座席に叩きつけられた俺は、全身を刺す痛みにしばらく呼吸ができなかった。
まるで腹に小さな穴が開き、そこから呼吸しているかのように吐く息が小さく弱弱しい。全身の痛みに目を開けているのも苦しい。
考えることもできず、ただ視線を彷徨わせた。
目の前、同じ列の座席にルリ姉が倒れている。ぶつけたのか頭から血を流し、ワイシャツやスカートの裾からのぞく手足にも痛ましいあざがあった。
声をかけようとしたけれど、出そうとした声は言葉にならず、飲みこまれた。鋭い痛みに言葉を詰まらせたわけじゃない。いや、もし声を出したらそうなったかもしれない、でも俺はその痛みすら忘れて呆然としていた。
窓に飛び散っているのは赤い、赤い水滴。
雨のように、窓をゆっくりと下へ流れていく数条の赤いしずくに言葉を、思考をかき消される。
ゆっくりと、前の座席へと首をめぐらせた。吐き気がするほど濃い匂いが鼻をつく。もう、痛みは感じる余裕もない。
うめくような声がもれた。頬を何かが伝う。
視線の先には、原型を留めていないほどに潰れ、おびただしい赤で染められた運転席と助手席、そしてそこから伸びた真っ赤な腕のようなナニカだった。
記憶にある次の景色は、白い病室の天井。
どうやら、俺はそのまま意識を失っていたらしい。ルリ姉は頭を強く打って気を失ってこそいたが、怪我だけなら俺より軽いらしく、後遺症もない。事故から四日間寝たきりだった俺と違い、二日で意識を取り戻し俺が気付いた頃にはもう動けるほどに回復していた。
俺が起きた時、ベッド脇にいたルリ姉に泣きながら抱きしめられた。説明を聞いて思わず、どこの鉄人だよ、と口を滑らせた。頬を思いっきり引っぱって捻られた。両親のことは、聞くつもりもなかった。
それからは、記憶が曖昧になっていく。
両親の葬儀、保険がなんだとか遺された資産がどうだとかの手続き。親類はそれぞれ住まいが遠く、疎遠になっていたため、そのほとんどはルリ姉が行っていたらしい。
それでも相続や後見人、他にもいろいろ苦労心労は絶えなかっただろう。それ以前にルリ姉だって両親を亡くして精神的に苦しんでいたはずだ。事実、ルリ姉は弱音を吐かなかったわけじゃない。そういった諸問題を解決するまでの一年間はずっと俺と一緒に寝て、いつも枕を濡らしていた。
だけど、ルリ姉は挫けなかった。私がお姉ちゃんだから、と手続きに奔走しながらも高校を卒業し、そのまま就職、今の二人で生活できるような状態を作ってくれた。
それに対して俺は、必死でルリ姉に合わせて行動しているだけで、実際は何も考えないようになって。今になって思えば三つしか違わないのに、俺は随分と情けなかった。
中学を卒業してルリ姉の提案で隣町に引っ越して、高校へ通うようになってからも変わらない。心を閉ざして、表情を作って過ごしていた。
結果、俺には役者の才能はないらしく親しい友人もできず孤立、というほどではないにしても少し浮いた存在になった。
放課後も少しでもルリ姉の助けになろうと漠然に考えて、ほぼ毎日アルバイトに精を出していたこともあるし、当然といえば当然だけれど。
結局俺は、両親を亡くしたという事実から逃避していたってことなんだろう。
ただ、漫然と生きているだけ。生活の中でも無理矢理外面だけ成長させて、内側の時間は事故の日で止まっている。まだ現実を認められていないガキのままだ。
――それが、あの三年前の事故から『やり直せる』。
やり直せばいい、心は痛いくらいに訴えている。お前は両親を失うところを、そして姉が苦しむところをその目で見ているじゃないか。
あの頃に、幸せだった頃に戻れる。今をもっと幸せにできる。そのために、莉瀬は俺の前に現れたんだから。
莉瀬だって言っていたじゃないか。莉瀬と、俺の想いが『やり直す』力を持った莉瀬を生み出したって。俺は、心の底ではやり直したいと思っているんだ。
『間違った選択はやり直せばいい』、そんなことお前だってわかっているだろう。誰もが願い、それでも叶わない人生のリセットボタンをお前は手にしているんだから。
そうだ、迷うことなんてない。俺の答えは――――。




