ロスト
1
「さて、いろいろと聞かせてもらうぞ」
「えっ……あ、あの、私、なにを聞かれるんですか……?」
「いや、その反応はおかしい。というかわかってやってるだろ、今すぐやめろ」
理屈では理解していても、長いまつ毛を伏せ、頬を染めて恥じらう莉瀬の表情は十分に破壊力がある。今は真面目な話だ、邪念を入れるつもりはない。
……ないったらない。少しもったいない気がするけれども。
ともあれ、今日俺は昨日――じゃないな。
二回目の今日、俺は一回目の今日に来た喫茶店のテーブルに莉瀬を連れてきていた。
授業が終わり、にやけながら別行動を報告しに来た凜太郎を蹴り倒し、昇降口を駆け抜け、校門へ急いだ俺は律儀にも昨日と同じ場所で手を振っていた莉瀬の手を引き脇目も振らずに喫茶店へと駆け込んだ。
単純に走った疲労や、やけに校門や街中で目立ったこと、その他もろもろのせいでかいた汗は喫茶店の冷房にも負けず、まだひく気配がない。
……まあそのもろもろが一番問題だとは思うけれども。連れてくる時に繋いだ手は暖かくて意識せざるをえなかったし、喫茶店に着いて手を離した時の――嬉しそうに繋いだ手をもう片方の手で包んで笑う――仕草とか、我ながら思春期真っ盛りだとは思うけれども簡単に調子を乱されている。
くそっ、俺だって莉瀬派じゃなければここまで緊張したりしないのに、……落ち着こう、言い訳までもが残念な奴になってしまっている気がする。
「くすっ、ごめんなさい。こうして話すのが、嬉しくて」
「……だからそれをヤメロ。話が進まない」
すみません、と笑った莉瀬は顔を一回目の今日、やり直した時と同じように真剣なものへと変えて居住まいを正した。
『やり直し』てからおよそ半日。
俺もこの事態について一心不乱に考えて考え抜いた、それでも明らかに時間は足りなかったけれど。休憩時間のたびに寄ってきた凜太郎を黙らせた回数は数知れない。
「まずお前は、……その、どういう存在なんだ?」
漠然とした、それでいて根本的な質問。
俺の知っている椿木莉瀬は架空の、作られたキャラクター。それがどうして俺だけ一日をやり直させるなんて無茶苦茶な力を持っているのか。
「それは……ごめんなさい。私にもわかりません」
申し訳なさそうに答えた莉瀬は、でも、と言葉を続ける。
「私は、椿木莉瀬です。ただし、あなたのゲームにだけ存在する、ということになりますけど」
「俺の持っているゲームが特殊ってことか……? いや、そもそもお前の言葉通りなら椿木莉瀬たちは個々で独立してる、ってことになるんだな?」
「私の場合は、そうみたいです。でも椿木莉瀬というキャラクターのデータは一つ、それは間違いないと思います」
そう言った莉瀬の顔は真摯なもので、とても騙しているようには思えない。
確固とした自己証明を持っていない、と。まず一つ目の当ては外れたな。
「はあ、なんとも厄介だな。でもまあ、少なくとも俺のプレイしたゲームにいた椿木莉瀬がお前、ってことになるのか。お前を現実の世界に創り出した奴とか、その不思議能力のおおもとはわかるか?」
静かに首を振る莉瀬。
これで二つ目も外れ、……そろそろ非科学的結論も本格的に手に負えないレベルになってきたな、真に不本意ながら。
思わず溜め息をついた俺と代わるように、莉瀬の口が開かれ、
「……私は」
射抜くような瞳が俺を捉えて、視線を固定させられた。
ごくり、と知らずのどが鳴る。
「私は、ただ一つの目的の為に、この力を持って生まれました。そしてそれを生み出したのは私と、あなたの想いだって、私は……そう信じています」
息を吸うのも忘れるような空気が莉瀬の言葉と共に場を支配した。
そのままたっぷり一分、俺は微動だにせず、お互いに見つめ合うだけの時間が流れた。
「……OK、わかった。おおかたそんなとこだろうとは思っていたしな」
「信じて、くれるんですね。私も、この現実も」
「俺にはお前を信じるしかないだろ。そもそもこんなオカルトチックな話は俺の手に余る。夢の中なら夢の中らしく行動するさ」
「ふふっ、胡蝶の夢ですか。意外と達観しているんですね」
虚勢だけどな。
もう千切れるくらいに頬はつねった、それにどんな小さな可能性にも賭けてショート寸前まで頭を回らせた。どう言い訳しようと認めるしかない、これは現実だってことを。
それでも莉瀬を信じているのは彼女の言動に毒気を抜かれたからか、……まあ、違うんだろうな。俺は莉瀬を最初から無条件で信じている、呆れるほど純真無垢なことに。そしてそれを変えるつもりも今のところないってんだから重症だ。
胡蝶の夢。
なるほど、ある意味間違っていないかもしれない。なんせ、もう俺は莉瀬のことを他の人間と同じように考えているんだから。
「じゃあ、本題だ」
莉瀬の返答自体は要領を得なかったけれど、そもそもさっきの質問自体はそんなに重要じゃない。時間の逆行なんてふざけた力が相手である以上、それに刃向うほど俺は血気盛んな勇者じゃなし、御意向に沿う方が性に合っている。
とはいえ、さっきの答えは事態の要点を理解するという点について言えば存外に要領のいい答えだった。これで残る問いは一つ、いや、二つだけだ。
「その目的っていうのは、どういうものなんだ?」
「それは……」
俺の問いに少しだけ顔を曇らせた莉瀬は、ゆっくりと身を乗り出したかと思うと、俺の右手を両手で包み胸に抱いた。
「へ、えっ……り、莉瀬っ! いきなりなにして」
「今日をやり直してみて、どうでしたか?」
慌てる俺の言葉を遮って、莉瀬は静かに問いかける。逃れようにも、しっかり握られていて解くには力ずくしかない。
う、っく……こういう時、ちゃんと人らしく体が暖かいのは厄介だ、無駄に意識せざるをえない、……ああもう、俺も相当だな。
「どう、って……そんなとこに気が回るわけないだろ。これでもいろいろ考えてたんだから」
「くすっ、嘘ですね。そんな顔を赤くしなくてもいいのに」
うるさい、と言い返そうとした俺の右手が莉瀬の胸から離れる。
そして莉瀬の両手はそのまま丁寧に俺の右手、その人さし指と中指を撫でた。
「やり直す前の今日は、ここを怪我していましたよね。手を繋いだ時、私に教えてくれたことです。今は、痛まないみたいですけど?」
言われて、思考が少しずつ冷静さを取り戻していく。
確かに、俺は今日、二回目の今日、保体の授業でのジャンケンには負けなかった。だから試合には出ず、当然突き指なんてしていなかった。
それでも、その時はそんなことより怪我した体、疲れた体がすっかり朝の時点まで巻き戻っていることに驚き、その不可思議な現象に唖然としていたから、ただ進んで怪我をすることもあるまい、とジャンケンの時の記憶を掘り起こして勝ったわけだけど。
「他にも、思い当たることありませんか? 危機を回避して、自分にとって最良の選択肢を選びとっていたこと」
「それは、」
その通りだ。
一回目の今日の授業中、ボーっとしている時に当てられて、答えられなかった問題も、前もって解いておいて、事なきを得た。
昼食時、凜太郎から逃走した際もアイツの出没地点を知っていたからか、上手く撒いて違う友人と昼食をとることになり、あの甘酸っぱく居心地の悪い時間を回避した。
清掃時にはちょうど一休みしている時教師に見つかったことをふと思い出し、お説教を逃れた。
「あの時を『やり直す』ことができれば、そんな風に思うことは誰だってあります」
「……そりゃ、そうだろうさ。でも、それを悔やんでも仕方ないだろ。今回は偶然、……待て、まさか、お前の目的って」
「多分、あなたが想像しているのとは違うと思いますよ。私の力で巻き戻せる時間の総量には限りがありますから。それに……いえ、これは今言うべきことじゃありませんね」
その一瞬、莉瀬の目が悲しそうに歪んだ。でも、それもすぐに元の真剣な表情へと戻る。
「私の力は、今日でないと使えません。明日にはもう使えなくなります」
「う、ん? それは、やり直せるのは今日の中だけ、ってことか?」
首を振る莉瀬は「力を使える期間が今日一日というだけで、昨日以前に戻ることはできます」と続け、自分の心を落ち着けるように一つ深呼吸すると、
「そして、私の力で戻ることのできる時間の限界は、
『三年前』。あの、事件の日の朝です」
そう、言った。
ぴたり、と音が止んだ。いや、消えた。
静寂の中、心臓の鼓動が一つ、大きく鳴った。
そしてもう一つ、もう一つ、最後には自分の胸から弾けてしまうんじゃないかというくらいに激しく。
外の音が何も聞こえない。ただ鼓動の爆音が聞こえるだけ、その大きさにかき消されているのかもしれないけれど、俺にはわからない。
三年前。
頭が記憶の海からフィルムを回すように映像を拾っていく。
流れて、繋がって、より強烈に脳へ刻みなおされる。無意識のうちに指先は震えていた。
あの日の朝に。
それは、つまり――あの時を、あの事件を、変えられるということか。
「変えられます。あなたは、もう体験してわかっているはずです。間違った時の記憶を持っているあなたなら、
『次は間違えない』」
心を読まれ、断言された言葉には圧倒的な力があった。
無意識に、忘れようとしていた暗い心の隙間、そこへ優しく甘く溶け込むように。
「そんな、でも、それは」
「変えたくないんですか? あれから、あなたの日常は一変したのに」
それは、その通りなんだろう。
それまでの日常は非日常に塗りかえられた。
「それになにより、あなたはまだ忘れることができないでいる」
それも、その通りだ。
まだ俺は、今の生活に適応できないでいる。
馴染んでいるのは取り繕った上っ面のところだけ。嫌になるくらい現実じみた変化から逃げて、逃げ続けている。
もう三年、なんて考えていない。まだ、三年。
それはこれからいくら月日を過ごしても変わらないだろう。俺は、あの日をまるで昨日のように覚えているのだから。
それを、変えられる。やり直せる。
それはなんて蠱惑的な誘いだろうか。
「今日の24時、もう一度だけ、今日がやり直されます。今決めて欲しい、なんてことは言いません」
莉瀬は戸惑い顔を伏せる俺に落ち着かせるような声音で、静かに続けた。
――明日、街を一望できる丘の上の公園で、もう一度だけ今と同じ時間に会いましょう。そこで、あなたの答えを聞かせてください。
「莉瀬っ、俺は」
思わず声を上げてテーブルを叩いた。
何を言うつもりだったのか、続く言葉は胸の中にのみこまれる。そんな俺を驚いて振り向く店内の人達。
好奇の目は俺一人に注がれている。
顔を上げた視線の先、そこには最初から何もなかったかのように空の席が一つ。
「……なんだよ、それ」
ストンと席に身を投げた俺は呆然と向かいを眺めて、呟いた。
莉瀬が注文していたコーヒーのカップまで消えている、そんな笑えない白昼夢のような冗談に、そしてそれ以上に笑えない、無茶苦茶な二択に不満をぶつけるように。




