第54話:鉄の野営地
鉛色の空が、ゆっくりと赤黒い錆のような色へと染まり始めていた。
太陽の姿は厚い雲に遮られて見えないが、光の減衰と急激な気温の低下が、この荒野に夜が訪れようとしていることを告げている。
風が強さを増し、巻き上げられた砂礫が二人のコートを容赦なく打ち据えた。王都の環境制御ドームに守られていた頃には決して味わうことのなかった、骨の髄まで冷え切るような「本物の夜の寒さ」が迫りつつある。
(……気温降下ペース、時速マイナス四度。完全に日が落ちれば、昨夜と同じ氷点下まで冷え込むな)
レイは冷徹に【確率演算】を回し、周囲の地形データと照らし合わせる。
エリスの歩みは再び重くなり始めていた。備蓄庫で摂取したカロリーは、これまでの長距離移動と荒野の悪路によって急速に消費されている。彼女のプライドが高いことは重々承知だが、生身の肉体の限界は精神力だけでカバーできるものではない。
「エリス、そこまでだ。今日の移動は切り上げる」
「……ふぅ。助かったわ。正直、足の裏の皮がむけて、ブーツの中で最悪の悲鳴を上げてるのよ」
強がりながらも、エリスはその場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。
レイが目を付けたのは、風化した岩山の陰に半ば埋もれるようにして放置されていた、旧時代の大型輸送コンテナだった。分厚い装甲板で覆われており、強風と冷気を凌ぐには絶好のシェルターだ。
レイはコンテナの歪んだハッチに手を掛けた。
右手の【ただの木の棒】の柄頭を蝶番の隙間に滑り込ませ、てこの原理と古武術の歩法を組み合わせた一点の力で強引にこじ開ける。
ギガガガッ!と金属が悲鳴を上げ、大人二人が身を潜められるだけの空間が口を開けた。内部は空っぽだが、乾いた砂が積もっているだけで有害な物質の痕跡はない。
「中へ入れ。風は防げる」
「ええ……。王都の高級ホテル(スイート)とは雲泥の差だけど、今はこれが最高のオアシスに見えるわ」
エリスはよろめきながらコンテナの奥へと入り、冷たい鉄の壁に背を預けて座り込んだ。
レイもハッチを可能な限り閉ざし、わずかな隙間から外の様子を窺える位置に陣取る。吹き荒れていた風切り音が遮断され、コンテナの内部には不自然なほどの静寂が訪れた。
暗闇の中、レイは残っていた固形食の半分と、水のパックをエリスに渡した。
「……ありがとう。でも、カロリーはあなたが先に摂って。私はもう今日は動かないけど、あなたは夜通し警戒に当たるんでしょう?」
「俺の筋肉のグリコーゲン残量にはまだ余裕がある。お前の細胞修復を優先しろ」
有無を言わさないレイの言葉に、エリスは小さく笑って固形食をかじった。相変わらず泥のような味だが、今の二人にとっては命を繋ぐ貴重な熱源だ。
「王都の夜は、いつも人工の星空が広がっていたわね」
ふと、エリスが暗闇に向けて呟いた。
「気温は常に二十二度に設定されて、不快な風も吹かない。完璧に計算された安らぎの時間……。でも、ここには星一つない。ただの、圧倒的な暗闇と寒さだけ」
「後悔しているか」
「まさか」
エリスは即座に否定し、残りの水を飲み干した。
「あんな作り物の星空を見上げて、飼い慣らされた豚みたいに生きるくらいなら、この泥臭い暗闇の中で震えている方がマシよ。それに――」
エリスは手首に微かな魔力(MP)を集め、コンテナの入り口に落ちていた錆びたワイヤーの切れ端に触れた。
バチッ、と微弱な青い火花が散り、ワイヤーがハッチの隙間に即席の「鳴子」として固定される。物理的な振動と微小な魔力を組み合わせた、システム外での原始的なアラームトラップだ。
「少しだけど、魔力が戻ってきたわ。MPの無駄遣いになるような巨大な防壁コードは書けないけど、何かが近づいてワイヤーに物理的に触れれば、微小な静電気のスパークで私とあなたに警告が行くようにしたわ」
「……上出来だ」
レイの短い称賛に、エリスは満足げに壁へ寄りかかった。
システムが全てを与えてくれる世界では、こんな原始的な工夫など鼻で笑われていただろう。だが、物理法則が支配するこの荒野においては、その一本のワイヤーが命を分ける絶対的な防衛線となる。
レイは自身の膝の上に【ただの木の棒】を置いた。
木肌に刻まれた電子回路の文様が、チカチカと微弱な光を放ち、冷え切ったコンテナの内部にわずかな熱を供給している。その不思議な温もりに包まれながら、二人は過酷な「外の世界」での二度目の夜を、静かに迎えようとしていた。




