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滴り【夏のホラー2025】

作者: 江渡由太郎

 最初に気づいたのは、廊下に残された小さな水の足跡だった。


 あの日、会社を早退して帰宅したあつしは、薄暗い廊下に、濡れた子供の足跡のようなものが続いているのを見つけた。バスマットも濡れておらず、窓も閉まっていた。妻の菜月は「気のせいよ」と言ったが、その晩から奇妙な音が始まった。


 ポタ…ポタ……ポタ。


 トイレの天井から、明らかに水が滴っている音。目を凝らしても、天井は乾いていた。だが音は、確かに“上”から降ってくる。


 その晩から毎夜、音は次第に場所を変えながら続いた。キッチンの蛇口、浴室のシャワーヘッド。閉めても閉めても、水音はやまず、次第に耳の奥に焼きつくようになった。



---


 三日目の夜、あつしは夢を見た。夢の中で、廊下を濡れた女が這っていた。ずるっ、ずるっと、濡れた身体を床に引きずって進む音。長い髪から滴る水が、木の床をじっとりと濡らしていく。


 目覚めると、現実の廊下にまた水の足跡があった。女の夢と同じく、部屋の中に向かっていた。


「……どうしてうちに?」


 菜月にそう尋ねても、彼女は口をつぐんだ。いや、最初から菜月は、この家の異変に気づいていたのかもしれない。彼女の視線は、いつもトイレの天井を避けていたし、夜の台所には決して近づかなかった。



---


 一週間が過ぎ、あつしは限界に近かった。


 ある夜、深夜三時過ぎ、キッチンから水音が聞こえた。起き上がり、音をたどっていくと、蛇口が勝手に開いていた。


 その奥、薄暗い廊下の端に、何かが立っていた。ずぶ濡れの髪を顔に垂らした女。頭を傾け、まるでこちらを静かにじっと“見ている”ように感じた。


 次の瞬間、ずるっ……と、その女が一歩、廊下を進んだ。


 あつしは凍りついた。



---


 次の日、菜月は実家へ帰った。置き手紙には、こう書かれていた。


「あの女は私が連れてきたの。私のせい。でももう無理。ごめんなさい」




 女の正体を探るうちに、あつしはひとつの事故を知った。


 五年前、菜月が付き合っていた男の家の浴室で、自殺した女性がいた。


 菜月はその家に居合わせ、男とともに口裏を合わせた。救急車も呼ばず、死体を“風呂場で寝ていた”と偽ったという。


 だが女の霊は、菜月を追い続けていたのだ。結婚し、引っ越し、新しい人生を始めても、水の中にずっといたのだ。



---


 菜月が去った晩、あつしは廊下で水音に目を覚ました。音は近い。部屋のすぐ前で止まっている。


 ドアの下から、ポタ、ポタと水がにじんできた。


 その瞬間、女の声が聞こえた。


 「ここに、いるよ」


 振り返っても誰もいない。


 あつしは今、毎晩繰り返し続く水の音を聞いている。ドアの向こうにはもう何もいない。だが、音だけは止まらない。水の滴る音は、やがて俺の部屋の中にまで入ってきて、ベッドのすぐ脇まで近づいてきている。


 眠ることができない。息を潜めても、音は止まらない。


 ポタ……ポタ……ポタ。


 あの女は菜月を追っていたのではない。


 罪を知りながら沈黙した“あつしたち全員”を許していないのだ。





#ホラー小説 #短編

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