5.その頃王子ハロルドは
その日、数少ない友人の一人である公爵令息セルジュ・マッケンリーが訪ねて来ると、開口一番こう言った。
「まさか、君がそこまでひどい男だったとはね」
私にこんな軽口をきくのは、家族以外ではこの男くらいなものだ。
「何の話だ?」
「君の婚約者の話だよ。ああ、元婚約者だったね」
「……アリーシャがどうしたというのだ?」
「どうしただって? 隠さなくても話は聞いてるよ。婚約破棄の慰謝料として、荒野にある小さな村の代官に任命するなんてね。しかも金貨三枚ときた。王家の都合で婚約破棄をするんだ。大金貨を渡してもいいくらいだろうに」
「何の話をしている? 私がアリーシャに与えたのは、子爵の爵位と王都のすぐ隣にあるジャルブールだ。ジャルブールは鉄鋼が盛んな街で人口も多い。徴収する税だけで一生贅沢に暮らしていけるだろう。さらに街の中心にある領主館と、慰謝料には大金貨三枚を用意した。ジャルブールはマクレーン領とも近いし、この先アリーシャが苦労することのないよう最善を尽くしたつもりだ」
セルジュは大きく伸びをしながら、乾いた笑い声を上げた。
「ハロルド、俺の前でまで取り繕わなくてもいいんだよ。俺と君の仲だろう? 君がアリーシャ嬢にしたことは、王宮に勤める高官ならみんな知っているんだから。俺も宰相の父上から聞いたんだ。それにしても、まさか護衛を借りられないよう手を回すとはね。君がそこまでアリーシャ嬢を嫌っていたとは知らなかったよ。護衛も付けずに地方へ行けなど、死ねと言っているのと同じだからね」
そこで初めて、背中がゾワッとする感覚に襲われる。
さっきからセルジュと全く話が噛み合わない。
セルジュが何を言っているのかさっぱり理解できないのだ。
「本当に、お前は何を言っているのだ。なぜ私が、アリーシャにそのようなことをしなければならない。私たちは誓約に基づき、円満に婚約破棄をしたのだぞ」
そこまで聞いて、セルジュの方も何かおかしいと思い始めたようだ。
「君は本当に何も知らないのか?」
「だから、さっきから何だというんだ」
セルジュが息を飲み込む音が、私の耳にまで届く。
「アリーシャ嬢は婚約破棄の慰謝料に、荒野の中にある寂れた村の代官という地位と金貨三枚を与えられ、圧力がかかり護衛を雇うことができず、一人で彼の地まで向かったそうだ」
セルジュを帰し、側近にアリーシャの行方を捜索するよう命じ、アリーシャへの慰謝料の件を一任した事務次官の元へ向かった。
私に尋ねられた事務次官は、私の命に従い、爵位とジャルブールの街と大金貨三枚をアリーシャに渡す準備をしていたが、突然やって来たロッセリーニ子爵から、その件はこちらが引き受けると伝えられたのだと話した。
ロッセリーニ子爵は、玉璽が押された書類を持っていたのだという。
この国で玉璽を押すことができる人間は一人だけ。
私は父上の元へ向かった。
父上の執務室でどれだけ待っただろうか。
一分が永遠に感じられるような焦燥感の中、私は初めてアリーシャに会った日のことを思い出していた。
その日、私は苛立っていた。
歴代の王妃は、聖女を除けば公爵家か侯爵家出身の令嬢に限られている。
それなのに、私の婚約者に決まったのは伯爵家の令嬢だという。数少ない公爵家と侯爵家の令嬢は、体が弱いなどの理由で辞退するかすでに婚約者が決まっていて、次に身分が高く家族にも本人の資質にも問題がないのが彼女だったのだそうだ。
本当は、聖女を伴侶に迎えたかった。
王室の大広間に飾られている、歴代聖女の肖像画。
彼女たちはみな可憐で美しく、慈悲に満ちた眼差しをしている。
私は幼い頃から、密かな憧れを抱いていたのだ。
しかし、聖女が誕生するのはきっかり200年に一度。年齢が釣り合うのは次の代の王子で、私の伴侶にはなりえない。
だから聖女を妻にすることは諦めた。それならせめて、婚約者は強い後ろ盾となってくれる高位貴族の令嬢であってほしかったのに……。
(なぜ第一王子であるこの私が、伯爵家の令嬢などと……)
だけどそんな私の怒りは、顔合わせの場である広間に入った瞬間に消え去った。
王族とマクレーン家の面々、宰相や側近や護衛騎士、大勢が集まるその広間の中で、誰より戸惑った顔をしていたのがその少女だったから。
伯爵家の令嬢が婚約者になったことに、私だって驚いたのだ。彼女の方も、自分が第一王子の婚約者になるとは夢にも思っていなかっただろう。
望みもしないのに突然白羽の矢を立てられ、ただ戸惑うことしかできない僅か9歳の少女。そんな彼女に、私は連帯感のようなものを感じたのだ。
燃えるような赤い髪に、夏の森のような深緑の瞳を持つ少女、アリーシャ・マクレーンは私の婚約者になった。
彼女は戸惑いながらも自分の役割を受け止め、王妃教育に励んだ。それはまさに血の滲むように努力だったと思う。
そして彼女は、決して弱音を吐かなかった。
彼女を愛することはない。けれど、王と王妃として、この国のため手を取り合い支え合っていけるだろうと、そう思っていた。
そして、その日はやって来た。
「聖女が現れたぞ!」
200年に一度誕生するはずの聖女が、35年早く現れた。
聖女が誕生する時、その体は聖なる光に包まれ、背中に印が現れる。
彼女が眩い光に包まれるのを大勢が目撃し、その背中には、歴代聖女と同じ聖女の証が刻まれていた。
聖女の名前はユリアーナ・クラーク。
その一報を聞いた時、私が抱いた感情は喜びだった。
憧れの聖女を伴侶にできる。叶わないと思っていた夢が叶う。
その瞬間、私はアリーシャのことを忘れていたのだ。
その日は憂鬱だった。
婚約破棄をアリーシャに告げる日。
きっと彼女は、泣き腫らした目をしているだろう。
話の途中で泣き出してしまうかもしれない。
当然だ。
彼女のこれまでの努力が全て無駄になってしまうのだから。
その時、私はある考えに至った。
アリーシャを側室にするのはどうだろうか。
聖女を伴侶に迎えた王族が、側室を迎えたことはこれまでに一度もない。
しかし、それは聖女がきっかり200年に一度現れてきたからだ。
その時期に合わせて聖女を迎える準備を万全に整え、当然聖女の伴侶となる王族には妻も婚約者もいない。
けれど、今代の聖女は35年早く現れた。これまでとは事情が違う。
今代の聖女ユリアーナは18歳の平民。
聖なる力を自在に操るための修行をしながら、並行して王妃教育を受けなければならないが、平民であった彼女はまず淑女教育から始めなければならない。
一代前の聖女は貴族令嬢ですぐに王妃教育を始められたし、二代前の聖女は平民だったが、10歳で目覚めたため時間がたっぷりあった。
そして、王室側の準備も万全。
聖女の役目と王妃の務めを両立するのは負担が大きい。そこで王室側も、王妃の執務をこなす補佐役を育て、聖女一人に負担がかからないよう配慮していた。
しかし今の王室には、王妃の執務をこなせる補佐役などいない。それは今代では、王妃教育を受けたアリーシャの仕事になるはずだったからだ。
補佐役もいない、ユリアーナが執務をこなせるようになるのはいつになるかわからない。
これはアリーシャを側室にする大義名分になる。父や官僚も納得せざるを得ないだろう。
表舞台に立つのはあくまで聖女だ。
聖女との子をなすことを優先するため子もなせまい。王宮の奥で執務をこなすだけの日陰の存在になるだろう。
それでも、アリーシャのこれまでの努力が無駄になるより遥かにいいではないか。
(よし。父上には後ほど報告するとして、まずはアリーシャの気持ちを確認しよう)
婚約破棄しか道はないと思っていたアリーシャは、泣いて喜ぶに決まっている。そう確信していた。
それなのに……。
目の前に座った彼女はあっけらんとしていて、その深緑の瞳は、泣き腫らすどころか何の憐憫も持ち合わせていなかった。
まるで、婚約破棄などどうでもいいといわんばかりのアリーシャの態度に、自分は聖女の誕生を喜んだくせに、何だか裏切られたような気分にさえなった。
それでも、気を取り直してアリーシャに告げた。側室になるのはどうだろかと。
彼女の答えはこうだった。
「お断りしますわ!」
それは迷いのない、きっぱりとした口調だった。
王妃になるために生きてきた8年間が泡と消えるのに、彼女は悲しみもせず、怒りすら感じていないのだ。
それから彼女は、「どうか聖女様とお幸せに」と告げると、軽やかな足取りで去っていった。
まるで、何の未練もないというように。
この感情は何なのだろうか。
わからない。
だから考えるのをやめた。
その後、領地が欲しいという彼女にジャルブールを与えることを決め、大金貨三枚の支度もした。
ジャルブールに住むことは強制ではない。
領地を経営する者はいるし、マクレーン家で暮らそうとも他のどこに住もうとも、領主の取り分である多額の税金が入るよう取り計らっている。そして、それはこの先誰かと結婚することになっても変わらない。
更に、国の年間予算の四分の一に匹敵する大金貨三枚を与えるのだ。彼女と彼女の家族は、生涯贅沢に暮らしていけるだろう。
これで、少しは報うことができるだろうか。
王妃教育に全てを捧げた彼女の7年間に。
そう思っていたのに……。
(一体、どうしてこんなことになったんだ!)
やっと戻ってきた父を問い詰めると、父はロッセリーニ子爵に頼まれたことをあっさり認めた。
「ロッセリーニの話によれば、聖女がアリーシャ嬢の存在を気にしているそうだ。そなたと聖女の間にわだかまりがあれば、子をなすことは簡単ではないであろう。ハロルド、聖なる力を次代に繋ぐことは国の悲願。それはこれまでも同じだったが、歴代の聖女はついぞ子をなさなかった。今代こそ、聖なる力を持つ子を誕生させ、その力を次の世に繋いでいきたい。そのためには、どんなに小さなわだかまりでも排除しなければならないのだ。幸い、王都から離れたロッセリーニの領地に、アリーシャ嬢が暮らすのにちょうどいい村があるのだそうだ。領主では荷が重いだろうが、代官ならば気負わず村でゆっくり過ごせるだろう、領主として自分が面倒を見るとロッセリーニが申すものでな。そこで、アリーシャ嬢の件はロッセリーニに任せることにしたのだ」
「そんな曖昧な話で、玉璽まで押したというのですか?」
「それは……。アリーシャ嬢は代官になるにはまだ若くその上女性である。しかし、任命書に玉璽があれば、村人たちもアリーシャ嬢を歓迎するからと……」
「父上、アリーシャが代官になったのは、荒野が続くカスタール地方にある、人が住んでいるのかさえわからない小さな村です。しかも、慰謝料はたったの金貨三枚だったのですよ」
「それは真実か!? 何故そのようなことに……」
「その上、圧力がかけられ護衛を借りられず、アリーシャは一人でカスタール地方へ向かったのです」
「何ということだ! マクレーン伯爵に顔向けできん!」
「父上、私はアリーシャを探しに行きます!」
私の言葉に、父は血相を変えて私を止めた。
「いかん! お前は聖女との結婚を控えている身なのだぞ。アリーシャ嬢のことは私の方で捜索する。そなたは聖女と心を通わせ、子をなすことだけに集中するのだ!」
「しかし、父上!」
「これは王命であるぞ!」
「くっ……!」
父の執務室を出て廊下を歩いていると、胸焼けがしそうな甘ったるい声が私の名前を呼んだ。
「ハロルドさまぁ!」
振り向くと、そこに聖女ユリアーナが立っていた。
肩にかかる柔らかなプラチナブロンド、琥珀色の瞳をした少女は、体をくねくねさせながらこちらに近づいてくる。
「全然会えないんだもの、ユリア淋しかったんだからぁ!」
鼻にかかったような甘い声、語尾を延ばす不快な話し方、絡みつくようなねっとりした視線。
(これが本当に聖女なのだろうか)
確かに、顔立ちは歴代聖女の面影があり清純そのものであるが、何かが決定的に違う。
これが本当に、私が憧れた聖女の姿なのだろうか。
「今忙しいので失礼する」
絡ませてくる腕を解きその場を去ると、聖女の発した呟きが耳に届いた。
「やっぱりあの女のせいよ。あの女が、悪役令嬢の役目を果さないから……!」
(あくやくれいじょう?)
しかし、今はそれどころではない。
アリーシャの無事を確かめなければ。
私は自分の執務室へ続く、長い廊下を進んだ。




