1.
「聖女が現れたぞ!」
その瞬間、前世を思い出しました。
アリーシャ・マクレーン。
マクレーン伯爵家の長女、16歳です。
ここより遥かに文明が発達した世界。
日本という国で暮らしていた私は、不慮の事故で亡くなりアリーシャ・マクレーンとして生まれ変わったのです。
そして、私はもう一つ重要なことを思い出しました。
「アリーシャ。誓約に基づき、私達の婚約は破棄されることになった」
目の前の金髪碧眼の見目麗しい青年が、少し躊躇いがちに口を開きました。
この国の第一王子、ハロルド・デュ・スチュアート。
彼は私の婚約者でした。
今、この時までは。
この国には、200年に一度聖女が現れます。
なぜ200年に一度なのかはわかりませんが、きっかり200年に一度、癒しの力を持つ聖女が誕生してきました。
聖女の誕生が近づけば、国を上げて聖女を迎える準備をします。
聖女は王妃になることが定められていますから、聖女を娶ることになる妙齢の王子は、婚約者の座を空けて聖女の誕生を待つのが習わしでした。
これまでは、それで上手く事が回っていたのです。
ところが……。
「聖女が現れただと! なぜだ? 聖女が誕生する200年目まで、あと35年もあるではないか!」
そうなのです。
今代の聖女は、予定より35年早く現れてしまったのです。
聖女を娶ることになるのは次の代の王子。
誰もがそう考えていましたから、現在二人いる王子にはどちらにも婚約者がおりました。
今代の聖女は18歳で、第一王子ハロルドと同い年。
聖女は王妃になることが決まっていますから、王位継承権を持つハロルドが聖女を娶ることになります。
当然、婚約者はその座を退かなくてはなりません。
つまり婚約破棄です。
だって聖女ですからね。
そちらを優先するのは至極当然です。
もうお察しでしょう。
その婚約破棄された令嬢が私なのです。
なんてお可哀想……。
先ほどから、侍従やメイドが憐れみの眼差しを向けてきます。
ちなみに、ここは王宮内にあるハロルド殿下の執務室。
婚約破棄の話し合いのために、私は登城を申し付けられたのです。
皆さんいたく同情的ですが、私は全く落ち込んでなどいないのですよ。もちろん強がりでもありません。
だけど……。
そうですね。もし前世の記憶を思い出していなかったから、泣いて喚いて地団駄を踏んでいたかもしれませんね。
これまでの王妃教育が全て無駄になってしまうのですから。
聖女が誕生するのは200年に一度。
けれども、万が一婚約期間中に聖女が誕生した時のため、私たちは婚約時、取り決めを明記した誓約書を交わしておりました。
婚約期間中に聖女が現れた場合は婚約破棄。
王家はそれ相応の額の慰謝料を支払い、相手の望みを一つ叶える(ただし王家の力で叶えられる範囲で)。
こちらに非がない、王家の都合での婚約破棄。
その慰謝料は如何ほどでしょう。
きっと、一生悠々自適に暮らしていける額に違いありません。
前世を思い出した今となっては、王妃として自分を律しながら生きていくより、悠々自適なスローライフの方が何万倍も魅力的に決まっています。
私が泣きもせず喚きもせず地団駄も踏まないのは、そんな理由からなのです。
その時、殿下が再び口を開きました。
今度は躊躇いがちではなく、やけに真剣な顔をしています。
「アリーシャ。誓約では、聖女が現れた場合は婚約破棄となっている。しかし、それではこれまで王妃教育に打ち込んできたそなたの努力が無駄になってしまう。そこでだ。これは誓約書にはないことだが……。側室になるのはどうだろうか?」
「側室……ですか?」
誓約書に書かれた取り決めが、婚約破棄一択なのには理由があります。
この国では、聖女は200年に一度誕生します。
聖女の年齢はその時によってまちまちですが、10歳から18歳の少女で、50歳を過ぎるとその聖力は失われてしまいます。
一人の聖女が活躍できる期間は30年から40年。目覚めた聖女が力を使いこなせるようになるまでの時間を考えれば、その期間はもっと短いでしょう。
つまり、聖なる力の恩恵を受けられない期間の方がずっと長いのです。
そのため、王族と聖女との間に子をなし、聖女の血筋を繋ぐことは国の悲願だったのです。
そんな大事な時に、側室の存在など邪魔なだけでしょう。
それに何より……。
冒頭でもお伝えしましたが、前世の記憶が蘇るのと同時に、私は大事なことを思い出していました。
『聖なる君に花束を』
私が前世で読んでいた小説です。
中世ヨーロパ的だけれど中世ヨーロッパではない、ご都合主義満載な世界で繰り広げられるラブファンタジー。
聖なる力に目覚めたヒロインは王子と結婚し、元婚約者で今は側室となった悪女から虐げられながらも、国のために力を尽くし王子との愛を育んでく。
そして聖女を虐めた悪女は、聖女を害した罪人として処刑されるのです。
悪女の名前はアリーシャ・マクレーン。
私です。紛れもなく私です。
そう、私は悪役令嬢だったのです。
悪役令嬢、そんなものにはなりたくありません。
そんなものより悠々自適なスローライフの方がいいに決まっています。
その為にはどうするべきでしょう。
側室にはならない。
殿下と聖女には関わらない。
これに限ります。
「お断りしますわ」
私の言葉を聞いた殿下は、驚いたように目を見開いて何度か瞬きを繰り返した後、何ともいえない複雑な表情になりました。
けれど、これには私の方が驚きました。
聖女との子を成すことが使命であると、殿下も重々承知しているはずです。
殿下と聖女が良好な関係を築く為にも、側室などいない方がいいに決まっています。
だからこそ、誓約は婚約破棄一択なのです。
原作のハロルドは、アリーシャに泣いて懇願され仕方なく側室にしましたが、自らそんな提案をするなんて、一体何を考えているのでしょうか?
まぁ、私が殿下の考えていることが理解できないのは、今に始まったことではありません。
私と殿下の間に、会話など殆どありませんでしたから。
事務的な会話と天気の話。そうでなければ上辺だけの決まり文句。
それが私と殿下の全てだったのです。
殿下は気を取り直したように表情を作り直して、こう話しました。
「……わかった。それでは、君の望みを聞くとしよう」
「そうですわね……」
(こちらに非がないとはいえ、王族と婚約破棄になった姉がいては弟の将来に差し障りがあるかもしれません。私はマクレーン家を出ていくべきでしょう。これから一人で生きていくことを考えたら、やはり住む場所は必要ですわね)
「土地と……」
(あまり大きな屋敷では持て余してしまうかもしれません。それなら小さな一軒家にしましょう。前世を思い出した今となっては働かないというのも落ち着かないので、改装して小さなカフェを開くのはどうでしょうか? 何しろ前世の私は料理が趣味でしたから、きっと上手くいくはずです。庭にハーブや野菜を植えて、それから……)
「土地? 領地が欲しいのか?」
(まぁ、私としたことが、色々妄想していたら楽しくなって、殿下のお言葉を聞き逃してしまいましたわ。ここは一つ、はいとだけ言っておきましょう)
「はい」
「……わかった。善処しよう」
(これは、土地とその上に建つ一軒家を頂けるということで決まりですわね。あとは慰謝料ですけど……。慰謝料については、誓約書にはっきりとそれ相応の額と明記されているのですから、わざわざ確認する必要はありませんわね)
長椅子から立ち上がりドアの前に移動した私は、これまでの感謝の言葉を口にしました。
「ハロルド殿下、これまで大変お世話になりました。どうか聖女様とお幸せに」
殿下はまたしても複雑な表情になりましたが、私は気にしないことにしました。
考えたって仕方がありませんからね。
そうして私は、執務室を後にしたのです。