第65話 死に敵う救済
ぼんやりとだが、誰かの話し声が聞こえる。それは聞き馴染みのある声。
目を開ければ答えが分かる。
気絶して中途半端に生きながらえたのか、死んでやり直すことに成功したのか。だが、悲しいことに残念な結末は、目を開けなくても分かってしまう。
体を包む衣服、体にのしかかる布団、自分の頭が乗っている枕。僕の体は今、明らかに病室のベッドの上にいる。
じゃあ、もう駄目だ。晴さんはどうなった。
高い確率で死んでいる。
頭の中を支配する疑問に、すっ飛んで来た至極順当な回答。
僕はあの時、死にきれずに気絶して病院のベッドの上。仮に晴さんが生きていたとしても、晴さんが負った傷は残ったまま。
全てが僕の責任。僕の中ではそうなってしまう。
晴さんのことを考えただけで、目の奥が熱くなって涙が滲む。今、目を開ければ確実に涙が溢れる。目は閉じたままで、瞼で蓋をして涙を閉じ込める。他のことを考えて、涙が引っ込むまで待つ。
だが忘れたい物ほど、頭の中で色濃く再生される。見れると思っていなかった、晴さんの喜怒哀楽の全て。それが頭を支配しながら鮮明に巡る。
意識が戻ってから、どのくらい経過しただろうか。滲み出る涙を押し返すことは叶わず、涙が枯れるまで大人しく待っているだけだった。
今なら目を開いても、溢れる涙はどこにもいない。意を決して目を開ける。最初に飛び込んで来たのは、僕にかけられた白い布団。予想通り、僕は病室のベッドの上。
「あれ?父さん、母さん」
部屋を見渡す最初の1歩で、2人が目に入った。僕のベッドの右脇には、父さんと母さんがいた。2人はどこかから引っ張り出して来たであろう、背もたれもない椅子に座っていた。
「葵!」
僕が起きたことに気が付くと、父さんは椅子から飛び上がった。産まれたての子鹿のように、ヨロヨロとした足取りで僕の横たわるベッド近づいて来た。父さんは、ふらつきながらしゃがんで、ベッドに寄りかかる。
「と、父さん!?泣いてるの?」
「良かったあ!葵が生きてて」
盛大に泣いてくれる父さんを見て、少しだけ嬉しいと思ってしまった。
「生きててって、大袈裟だよ」
誰が聞いても上機嫌だと分かる声。大袈裟と口で言っても、これだけ僕の無事を喜んでくれることが嬉しかった。自分の顔がニヤけていることを自覚する。
「葵。意識が戻ってよかったわ。心配したわよ」
父さんとは対照的に、母さんは椅子に座ったままで、いつも通りの笑顔で言う。
「母さん。ここどこ?」
「あんたが研修に来てた基地の隣の病院」
「2人とも、わざわざ来てくれたんだ」
「当たり前だろ」
鼻をすすりながら、涙混じりの声で父さんが言う。父さんは涙を拭って、倒れた椅子を戻して腰をかけた。
「当然でしょ。息子が大変なことになってるって、学校から職場に電話来たんだから」
「ああ、迷惑掛けてごめん。遠かったよね。来るの大変だったでしょ」
「全然大丈夫よ。大変なのはあんたでしょ?お腹にナイフ刺さったんだってね」
「ああ、うん」
正確には刺されただが、細かいことはどうでもいい。2人にはこの状況が、どう伝わっているのだろうか。
「お医者さんは、命に別状はないって言ってだけど大丈夫?」
「んー、まあ、痛いっちゃ痛いけど、これから死ぬような感じはしないよ」
「そう。良かったわ。あんたの意識が戻るまでは、ここにいようと思ってたんだけど」
言って母さんは腕時計に目を向ける。
「今から帰れば、明日の仕事には間に合いそうね」
「え、もう帰るの?」
「昨日も仕事抜け出して来たし、今日も休んじゃってるからね」
「ああ、そっか。ごめん。僕のせいで」
「別にいいのよ。葵は何も悪くないんだし」
母さんは随分あっさりしている。テーブルに置いてあった小荷物を、鞄に次々と入れ始める。
父さんには大袈裟だと言ったが、当然あの反応は嬉しかった。僕が意識を取り戻したことを、泣いて喜んでくれたんだ。なのに母さんは平然としている。
まるで、僕が昼寝から目覚めたかのような、そんな感じの軽くて薄い反応だったと思った。もっと焦ったり喜んだりしないものなのか。
でも、反応の薄さの正体はもう分かっている。
僕は母さんの本当の子どもじゃないんだから、仕方ないんだ。朝陽が死んだあの日から、母さんは誰の母親でもなくなってしまったんだ。だから、僕に過剰に優しくする理由もない。僕たちの関係は家族じゃなくなった。昔同じ家に住んでた過去のある知り合い。
もう一緒の家に住んで、家族のように暮らすのは無理かもしれない。僕が当たり前のことに、違和感を覚えるようになってしまったから。
「葵に渡さなくちゃいけない物があったわね」
思考と共に落ち込んで行く視界を押し上げる母さんの声。母さんは荷物を詰め込んだ鞄から、封筒を取り出して僕に差し出した。
「え?何これ?手紙?」
受け取った封筒には、『津江月葵』と僕の名前が書かれていた。
「星ちゃんの遺書よ。葵宛の」
「え?遺書?」
「そうよ。星ちゃんね、自殺しちゃったのよ」
母さんの口から淡々と吐き出される言葉を耳にして、体が急激に冷え込んだ。布団を被っているのに、肌寒さが増幅していく。
「...え?自殺!?星が?え?ええ、な、なんで?」
「...理由は分からないわ」
ベッドがひとつしかない、広さを持て余した病室に沈黙が響き渡る。星が自殺した理由を反射で聞いたが、理由なんて本当はどうでもいいのかもしれない。
ただ、星が死んでしまったことを、嘘だと言って欲しかった。星は当たり前に生きていると、生きていて当然だと言って欲しい。
「え?星、何かあったの?そんな、自殺しちゃうような何かがさ。悩みとか、誰にも言えないような悩みとかがさ。どうしようもないこととか」
「星ちゃん、ご両親にも遺書を残してたみたいだけどね、理由は書いてなかったって」
「...そっか。え?いつ?星はいつ、自殺しちゃったの?」
「葵が書類とかたくさん持って、家に戻って来た時があったでしょ」
「ああ、うん。星科に移る時のね」
「葵が家から帰った日。そう、土砂降りでお父さんが駅まで送った日。その日よ」
「結構前じゃん。そんな大事なこと、何ですぐに教えてくれなかったの?」
「その日は葵も大変だったでしょ?あんたに余計な心配かけたくなかったのよ」
大変だった。確かに大変だった。偽物の勇気を振り絞って、電車に現れたダストと戦った日だ。
「余計な心配なんかじゃないよ!!」
らしくもなく声を荒げたと自分でも思う。僕の大声を最後に、再び沈黙が訪れる。熱くなった頭が沈黙によって、どんどんと冷やされる。
人の死を早く知ったところで何になる。別に何にも出来やしない。ここは期限付きで人を生き返らせられるような、夢みたいな魔法がある世界じゃない。人は死んだ時点で終わり。どんなに優秀な医者がいたとしても、取り返しはつかない。
僕は今、母さんの気遣いを踏み躙るような態度を取ってしまった。僕の大切な人を、僕が不快にさせて傷付けてどうする。今生きてる目の前の人は、大切にしないと駄目だ。
死人に気を取られて、生きてる人を傷付けてる場合じゃない。
なんて割り切れる程、僕はまだ強くなれてはいない。それでも、冷静にならなきゃ会話は進まない。
「ごめん。急に大きい声出しちゃって。この遺書は今読めばいいの?」
「いや、葵のタイミングでいいわよ。その遺書は葵宛なんだから。私たちは早く読めなんて、急かしたりしないからね」
母さんはスッと立ち上がる。
「じゃあね、葵。色々大変だろうけど頑張ってね」
言って母さんは、床に置いた荷物を持ち上げる。母さんに続いて立ち上がった父さんは、少し寂しそうな顔をして口を開く。
「葵、そんなに無理するなよ。何かあったら連絡してくれよ?またな」
「うん、ありがと。心配掛けてごめん。来てくれてありがとね。ばいばい」
部屋から出ていく2人に、星の遺書を持っていない方の手を振って見送る。扉がゆっくりと閉まり、正常な沈黙が部屋に戻る。
「あー、駄目だ。母さんがおかしく見えちゃうよ。星が自殺したとか、伝え方が雑と言うか、もっと前置きになるクッションが欲しい。普通もっと深刻そうな雰囲気とか出すよな?随分あっさり伝えてくれたな」
手汗が染み込む前に星の遺書を手放す。
「母さんは星が死んだこと悲しくないのかな...」
他人が他人をどう思っているかなんて、知る機会とかないから分からない。
僕は誰かの死に対する、誰かの悲しみの深さに期待を寄せ過ぎている。みんな薄情者だと、そう思えば少しは気持ちが楽になるかも。
星の遺書を丁寧に慎重につまみ上げる。封筒には綺麗な字で、僕の名前が書かれている。
「遺書ってのは、心の整理がついたら読むってのが相場だよな?」
でも駄目だ。星が死んだことに対して、心の整理がつく未来は見えない。
「じゃあ、今読むしかないよな」
意を決して封筒を開け、中の遺書を取り出した。




