第56話 2回目の予知夢②
後頭部から手が立ち去り顔を上げると、申し訳なさそうにする理恵加さんが目に映る。
「ご、ごめんね葵君。ナイフがガラス突き破ったら葵君に刺さると思って」
謝る理恵加さんは、僕の命の恩人予備軍になった。
「いやいや、全然!ありがと。てか、もしナイフがガラス割ってたら、僕に刺さらなくても理恵加さんが危なかったことない?」
「ちょっと体を前に落としてたから大丈夫だよー」
「ほへえ〜、なるほど」
理恵加さんは落ち着いている。僕の装った平静とは違う本物の平静。これが1年の経験の差なのか。僕もあと1年間星科で過ごせば、こんな緊急事態でも普段通りの顔で声でいられるようになるのだろうか。
「首とか腰は大丈夫?」
首や腰に手を当てて確認するが、突然の出来事過ぎて痛みは感知されていない。
「うん!大丈夫!ありがと」
「この車のガラス、思ったより頑丈なんだね」
「って言っても、めっちゃデカめのヒビ入ってない!?」
窓ガラスには端まで届く、大きなヒビが入っていた。もし風でも吹けば破片が飛ばされて、ただの四角い穴になる。オープンカーに王手をかける寸前だ。
「もう1回ナイフ飛んで来たら割れちゃいそうじゃない!?え?!どうしよう!?やばい!」
予知夢の中では、窓にひびを入れたこのナイフが首に刺さって死んだ。夢の中での自分の死を思い出して、情けなくパニックに陥いる。
「落ち着け。全く同じ箇所にブッ刺さらない限り、あと1発は耐える。富永さんのドライブテクニックを信じろ」
信じるべきはガラスの頑丈さではなく、富永さんの運転技術。たじろぐ僕は、晴さんの言葉を聞いても冷静さは取り戻せず立ち上がる。
「富永さん!!運転頑張ってください!お願いします!」
運転席のシートに両手を乗せて、富永さんの後頭部に懇願する。冨永さんからの返事はない。
「立ったら危ないよ」
理恵加さんにスーツの裾を引っ張られる。言われた通り座ると、親指と人差し指で作られた丸が僕に送られた。差出人は富永さんだ。生半可で無責任な励ましの言葉よりも安心感をもたらす。
「片手運転危ないですよ」
晴さんの指摘に従い、僕を安心させた丸は撤退する。迫り来る脅威に比べれば、片手運転なんて可愛いもんだ。
よく見ると運転席の窓ガラスも、大きくひびが入っていた。どうやら先ほど、2本同時にナイフが飛んで来ていたようだ。にもかかわらず、冨永さんは顔色ひとつ変えない。全てがいつも通りに見えた。その状態が万全なのか準備不足なのかは、僕には計りかねる。
「富永さん!ナイフ飛んできてます」
晴さんの声に導かれ、僕の首はすぐに窓の方を向く。ヒビの入ったガラスから外の景色は見えにくいが、僕の席の窓ガラスには何も向かって来てないように見える。投げられたナイフは1本。そのナイフの標的は富永さん。狙いは僕の命ではないのだろうか。
それにしても、みんな冷静だ。運転中の富永さんはともかく、横に座る晴さんからも特に何かをするそぶりは見えない。晴さんの発言が間違っていなければ、ヒビの中心に刺さらない限りガラスは割れないはず。動く車のガラスに、狙った場所にピンポイントで投げたナイフを当てるのは不可能だろう。
そう安心した矢先、ガラスまで接近していたナイフが人間に姿を変えた。その人間の右足がガラスを突き破る。ヒビの入ったガラスは簡単に割られた。車内に侵入した足の狙いは富永さんの頭。冨永さんは頭を下げて蹴りをかわした。富永さんの視界は道路を。カーブがやって来る。このまま直進すると森に突っ込む。
「富永さん。右弱」
晴さんの声は裏返らない。こんな状況でも日常会話の1部のごとく、下を向いて前の見えない富永さんに、ハンドルをきる方向を伝える。車は右カーブを危なげなく緩やかに曲がる。
晴さんは車内に侵入した足の持ち主目掛けて、躊躇なく発泡する。弾丸が直撃する前に、人間は再びナイフと入れ替わり姿を消す。
ガラスの割れる音、発泡の音。非日常がてんこ盛りに溢れる音が続いても、小林さんと丸山さんは決して前を振り返らず、後方への警戒を怠らない。
「大丈夫ですか?」
「ああ、新鮮な空気入って来たな」
心配する晴さんに富永さんはボソリと呟き、全身に浴びたガラスの破片を、体を揺らして振り落とす。
「今のが入れ替わるギフトですか?」
「そうだ。おかげで富永さんが外から丸見えだ」
かつて窓だった四角い穴からは、冷たい空気が流れ込んでくる。道路が直線になり車が速度を上げると、男の姿がフロントガラスから見えた。
「...デネブ」
「あいつが」
当たり屋にしては、いささか早過ぎるスタンバイ。そう、あいつは当たり屋じゃなくて殺し屋だ。デネブは上下迷彩柄の服を着て、その上から更に迷彩柄のロングコートを羽織っている。迷彩柄マニアなのか、どこかに溶け込む気があることは猛烈に伝わる。攻撃してくる素振りはなく、腰に手を当てて車の通り道に立っている。デネブの気味の悪いニヤけた瞳が、僕に突き刺さった気がした。
「ダメ元で轢き殺し狙いますか?」
晴さんの問い掛けに、富永さんは一切の間も無く頷いてアクセルを踏み込む。加速する車はデネブとの距離をみるみると縮めていく。
「マジかよお前ら」
「出来れば、衝撃映像が流れる前にデネブには避けてもらいたいね」
後部座席に座る小林さんと丸山さんも、これには流石に若干引き気味のリアクションで、引き攣った顔をしている。岐阜で犯罪者である、人間を相手にしてきた晴さんと富永さんには、一切の躊躇いはない。車と接触する直前、デネブはナイフを車の後方に投げた。その直後、ボンネットが拾い上げるはずだったデネブが消える。
「後ろに回られたぞ!」
今さっき投げたナイフと入れ替わったデネブを、後方を見張っていた小林さんと丸山さんが観測する。
「投げた。狙いはタイヤか」
車の後輪部分からはガランガランと異音がする。刺さったナイフがタイヤの回転の阻害をしている。
「後輪が死んだぞ」
「富永さん!車止めてください!降りて迎え討ちます!津江月!お前は中にいろ!」
僕以外の5人は車外に飛び出す。僕の座る席側には冨永さんが、他の4人は反対側に出る。5人が車の外に出てすぐに、車の屋根に何かが当たって弾かれる音がした。その次に、人間の足が1本ずつ遠慮なく着地した音が聞こえた。天井が迫り、車が沈む。
外にいる5人の視線が車の上に集中する。おそらく、車の上にデネブがいる。2発の発砲音が響く。撃ったのは晴さんと富永さんだ。発砲した2人の顔に手応えはない。外の5人は辺りを見渡して警戒する。
ヒビの入った窓ガラスを優しく叩く音がして振り返ると、富永さんがジェスチャーで僕に伏せろと指示をくれた。その指示に従おうと、体を動かした時だった。
「富永君!後ろ!」
小林さんの声が響き渡った。振り返った富永さんは、上半身をそらして間一髪。背後に迫っていたのはナイフだった。富永さんが華麗に避けたナイフは、ヒビの源を突き破った。ガラスの破片を蹴散らしながら、車内に侵入したナイフが僕目掛けて飛んでくる。
「やばっ」
これは夢じゃない。ナイフが急所に刺されば本当に死んでしまう。そんな状況でも、飛び出す言葉はいつも通りの驚きのお供。
迫るナイフはスローモーションに見えるが、避けられる気はしなかった。何故なら、自分の思考も体も同じくスローモーション。避けることなどできない。そう悟った矢先、驚いた僕の上半身は勝手に横たわり、シートに背と頭をつけた。仰向けの僕の上を、飛ぶナイフが通過していく。
助かったと思った。でもそれは勘違いだった。だって、デネブにはギフトがある。
宙を舞うナイフは人間と姿を入れ替えた。右手に殺意がたっぷりと塗られたナイフを持つ男が現れる。デネブだ。僕はどうすることもできずに、ナイフを持って降ってくるデネブを眺める。
ああ、本当に死ぬ。
死ぬ直前って、何を考えて何を思い出せば良いんだろ?誰かの顔を思い出した方がいいのかな?
そう考えた時、既に頭の中には今まで出会った人達の顔が浮かんでいた。大切な人達は当然のこと、落とした物を拾ってあげた人、道を教えてあげた人、落とし物を拾ってくれた人、道を教えてくれた人。
関わりなんてこれっぽっちもない、他人の顔まで浮かんでいる。みんなは涙目で僕を見てる。みんなが僕との別れを悲しんでる。
それなのに、実の父さんと母さんの顔は見当たらない。まあ、それもそのはず。だって、僕の記憶の中から、父さんと母さんの顔がなくなっているんだから。顔も性格も好物も、何もかもを忘れたんだ。
失われた記憶は死に際になったからといって、そう都合良く取り戻せるものではない。
両親の顔の捜索時間が続くはずもなく、ナイフが喉元に突き刺さった。体にのしかかったデネブは、心底退屈そうな目で僕を見て、喉元に刺さったナイフを雑に引き抜く。飛散した血液を見ても、デネブは表情ひとつ変えない。
そうしてデネブは消えた。僕の体の上にはナイフだけが残された。血のついていない綺麗なナイフだ。
その景色を最後に僕の人生は幕を閉じる。人生の幕引きには到底相応しくない。




