第51話 トラウマの熊
先程までの景色とは打って変わって感じる。優しく髪を揺らすそよ風からは、男子小学生が同級生の女の子のスカートをふざけてめくるような不快感が伝わる。その風に揺らされる木々は、僕の失敗を期待してクスクスと笑っているように感じる。
「1人とか心細すぎ」
左手には生い茂る木々。右手には等間隔に並ぶ木の隙間から、美しく広い川が見える。看板に書いてあった通り、穏やかな川の流れと共に進む。心を癒す川を行く水の音。それを自身の心臓の鼓動が掻き消す。
「はぁ〜、こわいこわい」
左手で服ごと皮膚を、心臓を握る。恐らく血走っているであろう目で、辺りをキョロキョロ見渡していると、左側の生い茂る木々の中に池が現れた。
「あっ!鴨だ!」
4匹の鴨が優雅に池に添えられている。張り詰めた心が緊張から解き放たれる。しゃがんで鴨を眺める。澄んだ水の中、鴨は足を自転車のペダルを漕ぐようにして移動する。
「可愛いなぁ」
鴨は水の中にクチバシを突っ込んで餌を探す。緩やかな池の流れに逆らうように、足を精一杯動かしている。
「よいしょっと!」
立ち上がって数回、胸を強く叩く。
「よっしゃ!頑張るぞ!もうビビるな!」
痰が絡んだような、鴨特有の鳴き声が響く。即座に振り返ると、鴨が一斉に池から飛び立った。鴨の羽音が消え去ると、池の奥から新たな音が近付く。
池の周りの木から垂れた枝を、ガサガサと揺らしながら何かが向かってくる。水の音は激しく、バシャバシャと乱雑に池を踏み歩く。それが迫り来る何かの大きさを示す。焦りも余裕も気取らせない、これは日常だと主張する音。もう何が姿を現すのかは、容易に想像がつく。
「絶対にダストだ」
ネクタイの裏に隠れる、星石を引っ張り出して握り締める。固唾を飲んで身構えていると、現れたは予想外の生き物。
「え」
現れたのは熊。短く茶色い毛並みが風で靡く。丸い巨体をゆっくりと動かし、池に波紋を作り出す。
「や、やばーい。ガチ熊じゃん」
熊は池から上がり、僕と直線上に並ぶ道に立つ。4本の足と口元からは染み込んだ水が滴り落ちる。水は地面の土に染み渡り、色を変えていく。
熊の視界に僕が入っているのは明確。のっそりと1歩ずつ、確実に距離を詰めてくる。熊から決して視界を離さずに、じりじりと後退りする。
「熊と遭遇した時は背中向けたらダメなんだよな」
一定の距離を撮り続けていると、熊が動きを止めた。後退する足を止めて様子を見ていると、熊が立ち上がる。2足で立つ熊は前脚を天高く掲げ、お手本のような威嚇をしてくる。
「なんだよ。殺戮宣言か?」
しばらく続いた威嚇のポーズが終了し、熊が再び4足歩行に戻る。熊谷前足を他に付けたその瞬間、先ほどまでとは段違いの速度で近づいて来る。
「あっ無理無理!ひいい!」
たまらず熊に背中を向けて走り出す。
「迫力がっ!迫力がヤバい!急に加速したらビックリしちゃうだろ!」
後ろを振り返ると呼吸を荒ぶらせた熊が追ってきている。呼吸の荒さと、口から垂れるヨダレから完全に殺しに来ていることが伺える。
「どっ、どうしよう!普通の熊って殺しちゃっても良いのかな!?」
再びチラリと後ろを振り返ると、距離がジワジワと縮まって行くのが確認出来た。
「勘弁してよ!僕は真っ黄色のハチミツ好きの熊ですら苦手なんだ!」
再び視界を正面に戻し、腕を思い切り振って全速力で走る。視界には下り坂が映り込んだ。
「おお!下り坂!加速のチャンス!」
生命の危機が訪れているせいか、下り坂の恩恵を受けられるのは自分だけだと勘違いする。下り坂に足を踏み入れ、砂埃を上げながら滑り落ちるように走り抜ける。
「足がめっちゃ回ってるー!」
転ばないように気を付けながら、丁寧に1歩ずつ足を踏み出す。坂道を下っていると、左側の森から木の枝が折れる音がした。その音は速度を上げながら、だんだんと近づいてくる。
「今度はなんだっ!?」
坂道を下り終え平坦な道に戻ると、木の隙間から白い何かが見えた。下り坂に与えられたスピードを、踏ん張って落として立ち止まる。すぐそこまで何かが迫っている森に目を向ける。木の葉や枝を撒き散らしながら、飛び出して来たのは熊のダスト。白く巨大な体が僕の進路を塞ぐ。ダストは目と鼻の先。こちらに襲い掛かることなく、ただじっと見つめられている。
熊のダストを見て蘇るのは嫌な記憶。朝陽を殺したのも熊のダストだった。それを起点に糸を巡らすように、嫌な思い出が次々と湧き出てくる。
「落ち着けーい!今はトラウマ引っ張り出してる場合じゃないぞ!」
頬を叩いて両手で頭を揺らし、現実に舞い戻る。滑り落ちる音がして振り返ると、下り坂を転げ落ちてきた熊が横たわっていた。
「ドジっ子熊。てか挟まれてる。オセロなら負けてたな」
転げ落ちてきた熊は起き上がると、すぐに立ち上がり威嚇をした。それに反応して、ダストも立ち上がり熊と同じポーズで威嚇を始める。
「あっ、逃げた」
熊が逃げ出すのも無理はない。熊をコピーしたダストは、熊の体より一回りも二回りも体が大きい。ダストは熊が逃げ出すと、再び四つん這いに戻る。そして、僕をギロリと睨む。それに怯んだ僕に追い打ちをかけるように、ダストは走り出す。
「やばい!」
負けじと僕もスタートを切る。先ほど熊から逃げて来た道に戻る。数分前は味方してくれた坂道だったが、下り坂は上り坂に豹変していた。そんなものに怯んでいる暇はなく、全身全霊で坂道を駆け上がる。
「武器武器!なんか、なんか創らなきゃ!死ぬ!」
咄嗟に頭に浮かぶのは刀。初めて電車でダストを殺した時に使った刀。あれなら創り出すのも容易で扱いやすい。だが、こんな巨大なダスト相手に刀では心許ない。そもそも刀の刃が届く距離まで近付きたくない。ならば、必要な武器は離れたところから攻撃できる銃だ。
「こんな土壇場でっ、作れるか!?」
星石で何かを創り出す際には、その物の構造を理解している必要がある。逃げることに夢中の脳みそでは、銃の構造を思い出して創り出せる気がしない。そもそも上り坂がキツい。すぐ後ろまでダストが迫っている。あと10秒もすれば捕まる。
「あれっ?」
突然、重大な事実が脳内に浮かぶ。
「そういえば死ぬ予知夢見てないじゃん。なら、死なないじゃん。殺し合いになれば勝てる!」
精神的余裕を得て、頭と体が空に攫われてしまうほど軽くなる。冷静さを取り戻し、脳みその全てを銃の構造の復習に使用する。教科書の図や説明文を全て思い出し、握り締める星石に情報を流し込む。それに星石が応えてショットガンを僕に授ける。
「コイツならやれる!」
ショットガンを両手で構えて振り返り、坂道を強く蹴ってダストに飛び掛かる。僕に反応したダストは仰け反るようにして立ち上がる。しかし、足場が傾いている坂道ということもあり、バランスを崩して後ろへ倒れ始める。そのダストの首に飛び乗って、両足を蛇のように絡めてガッチリ固定する。倒れながらでは、せっかく上げた両腕も上手く使えないようだ。逆向きの肩車のような体勢になり、確実に頭を目掛けて引き金を引く。
銃声と共にダストの白い血が弾ける。ショットガンの反動をもろに受けて、持ち手が顔面にめり込む。操縦者を失ったダストの体は、地面に叩きつけられ坂を下りはじめる。ダストの体に巻き込まれる形で、僕も一緒に坂を転がり落ちる。
「う、重い!」
坂道を下り終わった後、僕はうつ伏せでダストの下敷きになる。幸い頭から上は自由。両腕も自由。
「どうして僕が、死体のクッションにならなきゃいけないんだ。逆だろ普通」
地面に肘を立てて、下半身を左右に揺らしながらダストの体から這いずり出る。大空に向かって大の字になり大きく息を吸う。
「はぁはぁ、助かったけど血塗れだ。汚ねえな」
立ち上がり、スーツに付着した小石や砂をはらい落とす。ダストの頭部は弾け飛んでいる。ぴくりとも動かないから完全に死んでいるだろう。
「なんか、ちょっとだけ、ほんの少しだけどスッキリした気がするよ。朝陽は見てくれてるのかな。まあ、ただの自己満足だけど」
羽音が聞こえて見上げると、鴨が川の方へ向かって飛んで行った。鴨は川に着水してゆらゆらと寛ぐ。
「血は川で洗うか。落ちるかな?」
楽しそうに川遊びする鴨に誘われて、フラフラと歩きながら川に向かう。
「空が青い!ふー!気持ちいいー!綺麗な水最高」
川は浅く寝転がっても顔が沈まない。心地よい水温と、強過ぎず弱過ぎない川の流れ。川に浸かっているだけで、体の中の疲労が流れ出ているように感じた。
「そんなところで何やってるんだ」
突然掛けられた声に驚き、川から起き上がる。
「うわああ!ビックリしたぁ。晴さんか」
晴さんは驚いた僕の顔に何の反応もせず、質問の返答を待っている。
「何やってるんだって、スーツ洗ってるんですよ。ダストの血を浴びちゃったから」
「そうか。怪我はないか?」
「多分大丈夫です!晴さんとの訓練の方がまだダメージありますよ」
「怪我がないなら良かった」
安堵の表情を浮かべることもなく、このくらいさも当然と言わんばかりの様子の晴さんを見て、ある言葉を思い出す。
「あっ、良くないことがひとつだけありました」
「なんだ?」
「めっちゃ逃げるために走っちゃいました」
「別に生きてるならそれでいい」
晴さんの後ろから太陽の光が輝く。緑豊かな自然に透き通った川。それっぽい鳥の鳴き声。やっぱり、ここは間違いなく楽園だ。
「晴さん。そこら辺、歩いて来ていいですか?」
「別に構わないが、何故?」
「スーツ乾かしたいのと、ここの景色を堪能しておきたいです」
答えながら立ち上がり川からあがる。晴さんは右腕の時計を確認する。
「ダストの回収班が来るまで時間はあるが、そんなに遠くには行くなよ」
「はい!」
ネクタイやズボンに染みた水を絞る。1歩踏み出す度に、靴から水が滲み出る。そんな水を見ても余裕そうに光る太陽。全部すぐに乾きそうだ。




