第30話 僕が白なら君は
左手に刀を握って立ち上がる。ダストは立っているのがやっとのように見える。足も体もプルプルと震えている。体が震える度に白い血が噴き出し、足元の水溜りが領土を広げていく。
「軽傷なのは僕!落ち着け!順当に行けば僕が勝てる!僕は軽傷かすり傷!最高!砂漠にとっての雨みたいな量の血!あっちは血液ゲリラ豪雨!」
ダストの白い体から流れる、白い血は目立たない。草むらにいるバッタのようだ。自身の血の上に、今にも倒れそうなくらいに、ブルブル震える足で立っている。
「そんなに僕と遊びたい?...まあ、そっか。今は僕しかいないもんな。お前と遊べる奴なんて」
ただお互いを見つめ合う。時間はどんどん過ぎていく。それを知らせる時計はこの場にはない。今の弱っているダストなら、左手だけでも仕留めることが出来そうだが、何が起こるか分からないため近づく気にはならない。
右腕から流れる血が床に溜まる。足元を占める赤色の割合が、どれだけ時間が経過したかを示す。血を見る度に痛みを思い出す。
「まだ粘るの?もう休んでも良いよ?僕も疲れたからさ」
刀を握る左手も疲れてきた。両腕がギブアップ寸前だ。急に喉も乾いてきたし、お腹も空いてきた。帰ったら美味しいご飯が食べたい。これから帰る場所にはご飯を作って、待ってくれている人はいないけど。
我慢の限界だった。耳障りな雨音。流れるダストと自身の血。右腕の不愉快な痛み。握力が限界の左手。
「よし!殺そう」
これを最後と決めて刀の柄を力強く握り直す。出来ればダストが力尽きるまで待っていたかったが、残念なことに僕には心の余裕がない。この状況と環境が与える不快感は耐え難い。
「お前を殺す。それだけで、僕はフカフカのベッドで眠るよりも、幸せな感覚を口にすることが出来るんだ。ごめんな」
止めを刺しに近づこうと、右足を一歩前に出した時だった。ダストの震えがピタリと止まる。映像から静止画に切り替わったかのように、全く動かなくなる。
次の瞬間、ダストの力強い視線が僕に赤信号を出す。右足に置いていかれた左足は隣に並ぼうとも、追い越そうともしない。動かなくなったダストは死んだわけではない。その静は死を感じさせない。生を主張する静だった。
エンジンが掛かった車のようにダストが震え始める。呼吸をする。満身創痍の震えとの違いは一目瞭然。満身創痍の震えから武者震いに変わる。今にも走り出せそうなほどに見えた。
ダストが前足に力を入れて踏ん張り、頭を少し後ろに引く。それは青信号の合図だ。ガソリンが漏れ出る体で最後の力を振り絞るダスト。走り出す前兆の姿勢。
「やべっ」
ダストから目を離して、後ろに方向転換して走り出す。今回の逃亡は何の作戦もない。ただ目の前のダストから逃げ出しただけだ。貫通扉の向こうに目を向けると、車内には雨が降り注いでいた。
貫通扉を通過して、左側の座席に飛び乗る。割れたガラスからは雨が絶え間なく入り込み、床は水浸し。飛び乗った座席も雨水を浴びるほど飲んでいる。
「...さっきのもう一回やるしかないか。いや、でもな」
ダストが走る勢いを利用して、ダストの通り道に構えた刀で切る。
「流石にもう1回は無理っぽいな...」
今の右腕は使い物にならない。さっきは両腕で構えてギリギリ踏ん張ることが出来た。だが、今は利き腕の右が使えない。利き腕じゃない左腕1本では、到底あの速度と勢いで走るダストに対抗することは出来ないだろう。
「でも、やるしかないか」
ダストも血をドバドバ流す重症。多少は速度も勢いも落ちるはずだ。それに望みをかけて待ち構えるだけだ。刀を握る左手に力を入れて、ダストの通り道に刀を構える。
「来ない...」
覚悟を決めた僕を嘲笑うかのような静寂。ガラスが割れて、最早ただの四角い穴になった窓から降る雨が背中に触れる。服が水を飲んで体が冷えて重くなる。
「死んだか?」
途中で力尽きて倒れているかもしれない。そんな明るい考えがよぎる。構えた刀を下ろして、座席から降りる。向こうまで歩き出そうとした時、床を滑るような音が聞こえた。再び咄嗟に座席に飛び乗る。
貫通扉に目を凝らしているとダストの足が現れる。血を流して体力を消耗したダストの走りにスピードはなかったようだ。勢いも弱々しく運悪く僕の目の前で止まった。ダストにとっては幸運だった。弱った自分のおかけで、ターゲットの目の前で止まるブレーキを手に入れることが出来たのだから。
「最悪!」
貫通扉の手前、僕の目の前で止まったダストは首を動かして、こちらに視線を向ける。ダストの選択肢に休憩の時間はない。すぐに僕に飛び掛かる体勢を作る。この距離で突っ込まれたら、避けようもないし確実に死ぬ。それを悟った途端に思考は停止する。それでも体の動きは止まらなかった。
「ふっ!」
しゃがんでいた座席の上で立ち上がり膝を曲げて、一瞬だけジャンプをする直前の動作をする。それに見事に釣られたダストは、今頃僕が居るはずの空中に目掛けて大ジャンプ。
「馬鹿が!いや賢いのか。僕の作戦もコイツも!」
恐らく、これがダストの振り絞った最期の力だと感じさせるほどの大ジャンプ。今までと何の変りもないジャンプを見せた。
座席の上で中腰になり、頭上を通過するダストの腹を見上げる。刀を握る左手を持ち上げ、頭上を通過するダストの腹を切り裂く。突き上げた刀の切先がダストの腹をなぞる。
「よいしょおおおおお!」
頭上から降り注ぐダストの血を浴びる。粘っこい血が目や口に入り込む。左腕がダストの勢いに引っ張られて、ガタガタと震える。それでも左手に持つ刀から手は決して離さない。
刀からダストを切り裂く感触が消える。左手を振り下ろして、刀を落とす。床に落ちた刀がカチャンという音を鳴らす。直後に駅のホームから、グチャリとダストが投げ落とされた音が響く。その音はすぐに耳から離れて、再び雨音が耳を支配する。
「ふぼぼっぼ、ぺっぺっぺー!」
口に入った血をすぐに吐き出す。目にかかった血を手で拭う。それでも目を開けるのは怖いから、まだ閉じたままにする。
「気持ち悪~い!」
座席から飛び降りて、勘を頼りに歩く。ピチャピチャと水を踏む音がした場所に顔から倒れ込む。床に溜まった雨水を吸い込んで口をゆすぐ。汚いが、口の中がダストの血で占領されているよりは全然マシだ。
「おええええ」
水を吐き出す。きっとこの近くの水は白く濁っているに違いない。少し移動してまだ綺麗な水溜りに行く。そこの水をすくって顔を流す。髪も流す。ダストの血は雨と違ってしつこい。入念に何回も洗う。
「ふー」
やっと目を開けることが出来た。ガラスが割れた窓からは雨が吹き込む。床は水浸し。ガラスの破片も散らばっている。
「やばっ!こっちガラスの破片だらけだったんじゃん。口に入れて、顔に塗りたくったけど大丈夫か!?」
口の中を舌で駆け回り、顔に傷がないか触れる。
「よかったー。顔も口も何ともないな。ラッキー!ツイてる!ツイてるけど疲れたな。右腕も痛いし」
右腕に視線を向けると血は止まっていた。でも痛みはまだ感じる。立ち上がって、ダストを切り裂いた貫通扉まで戻り、落ちている刀を拾い上げる。
「お前もご苦労さん」
刀をペンダントに押し当てて収納する。刀はすっぽりと、ペンダントの中に吸い込まれて消えた。
「やっぱり、このペンダントで作った武器じゃないと、ダストに傷付けることは出来ないんだ。あんなにガラス割ってたのに、ダストは無傷だったし」
駅のホームに目をやると、ダストが横たわっていた。
「死んだかな?」
ガラスの破片や、窓の淵に取り残された鋭利なガラスに注意して、窓からホームに降りる。雨は変わらず降り続ける。
「うるさー。あんな穴ぼこだらけでも、電車の中の方がまだ静かだな」
電車を見ながらそう言った後、恐る恐る横たわるダストに近づく。地面に突っ伏す頭に耳を澄ます。呼吸の音も聞こえないし、体もピクリとも動かさない。
「完璧に死んだ...かな?まあ、雨の音で呼吸の音なんて、かき消されてるかもしれないけど」
ダストの周りは白一色。白い血と雨水が混ざって爽やかな白い液体になっていた。
「今回もお手柄だな。予知夢。便利なギフト!これなかったら完全に死んでたな。...はあー、生きてて良かったー!」
雨の中、両手を組んで空に掲げて背筋を伸ばす。
「ふー、疲れた。んっ?」
雨の音に紛れて何か聞こえる。
「サイレンだ!」
聞こえたのはパトカーのサイレン音。これを聞いて何かから一気に開放された気分になる。水浸しの駅のホームに横になる。
「助かったー!意外と早く来たな。これなら僕が無茶する必要もなかったかもな。ま、いいか!生きてるんだし!」
緊張から解き放たれて、雨の音を差し置いて心臓の鼓動が強く主張する。疲れと緊張から解放されたせいか、こんな水浸しで枕もない硬いベッドでもすぐに眠れるような気がした。今はただ、先頭車両に置きっぱなしのリュックのことが気になる。大事な書類が濡れてないか心配だ。
「大丈夫だろ!クリアファイルの中に入ってるんだし!」
降る雨が全てを忘れさせる。打ち付ける雨を全身で浴びながら目を閉じる。




