第25話 可愛い子だから旅をしよう
朝になって目を覚ます。口からはみ出た、雀の涙くらいのヨダレを手で拭う。上半身だけ起こして、ぼやけた視界でブラインドを開ける。
「あー!よく寝た〜!家のベッドは落ち着くな」
ベッドから降りて、他のブラインドも全て開ける。部屋には日が差し込む。
「今日は天気良いな〜」
1階に降りて驚く。父が起きている。いつもは、昼くらいまで寝てるのに。コーヒーを飲みながら、机に広げた新聞を読んでいる。
「あれ、父さんこんなに早起きだったっけ?」
「んー?そうだな」
そう言って、コーヒーの入ったコップを口に運ぶ。
「今日は雪が降るわね」
それを見ていた母が、笑いながら言う。どうやら僕のことが心配で、生活リズムが崩れてしまったようだ。崩れたと言っても、健全なリズムになっている。
昼ご飯を食べ終わり、リビングでくつろいでいると雨がが降って来た。1階にいても音が伝わるくらいの豪雨だ。
「父さん。駅まで送ってくれない?」
リビングの窓に張り付いて外を見ながら、父にお願いする。
「いいぞ。元々、送ってくつもりだったし」
ソファに座り、テレビを見たまま父は答える。
「あ、ほんと?ありがとー」
「帰りは歩きでもつらくないが、行きは歩くの気も体も重いだろ?」
「葵に行きも帰りもないでしょ?あっちも家なんだから」
洗い物をしている母さんの声が飛んでくる。
「あー、確かに。でも、まだこっちの方が僕にとったら帰り感あるけどな~」
「そうか」
「そっか」
2人が同時につぶやく。父がテレビの電源を落とし、立ち上がる。
「もう行くか?雨強くなる前に」
「うん!まあ、既に雨強いけどね」
荷物をまとめていると、後ろから母の声が聞こえる。
「ちゃんと書類とか持った?」
「大丈夫大丈夫」
「雨だから、水に濡れないようにしっかりね」
「おーい。まだかー?」
玄関にいる父から、催促の声が聞こえる。荷物を持ち玄関に小走りする。
「ごめんごめん、そんな急かさないでよ」
靴を履き終えて、玄関に立っている父さんは言う。
「いや、急かしたつもりはないけど」
そう言いつつ、父は玄関のドアを開けて1人先に車に向かって行った。
「じゃ、気を付けてね。迷惑掛けちゃだめよ」
玄関まで見送りに来た母が言う。
「大丈夫だよ。誰にも迷惑は掛けないって」
靴を履きながらそう言うと、母から言葉が返ってくる。
「私たちには、いくらでも迷惑は掛けていいわよ!まあ、心配はあんまりさせて欲しくないけどね」
「うん」
靴を履き終えて立ち上がり、玄関の傘を手に取る。
「今度帰ってくる時に返すね」
「別に傘の1本くらい、気にしなくてもいいわよ」
「そっか」
「じゃ!行ってきます!」
「いってらっしゃい」
玄関のドアを開けて外に出る。
「思ったより降ってんなー」
玄関の小さい屋根の下にまで、強風で雨粒が飛ばされてくる。傘をさすか悩むが、カーポートはすぐそこなので、傘をささずにダッシュする。助手席に乗り込むと、運転席には頭と服が少し濡れた父がいた。
「じゃあ、行くか」
「うん。お願いしまーす」
雨の中、車が出発する。カーポートから出るとより一層、雨の音が強くなる。窓の外に視線を向けるが、へばりたく水滴、弾かれる水滴しか見えない。
あっという間に駅の前まで到着する。駅の近くで車が停止する。傘を手に取り、車のドアノブに手をかける。
「ありがと。行ってくるね!」
「気を付けてな」
ハンドルに手を添えたまま、こちらを見ずに雨粒が叩きつけられるフロントガラスを、ぼけーと眺めた父が答える。
母は父が僕のことを、ものすごい心配していると言っていた。それは当然だろう。自分の息子が命を落として救った者が、命をおろそかにする職業に近づいている。
それでも、反対することはなかった。今もこうして駅まで送ってくれた。生き続けることがせめてもの恩返し。
「夏休み、釣り行くの楽しみにしてるから!行ってきます!」
車のドアを開けて外に出る。ドアを閉めようとすると、父がこちらに視線を向けている。
「葵!俺も楽しみにしてるよ。いってらっしゃい」
優しい父の顔を見てから、ドアを静かに閉める。駅の屋根まで走る。
電車が雨の中を走る。流れ落ちる雨粒のせいで、外の景色は隠されている。ガタンゴトンガタンゴトンと聞きなれた音、走る列車に打ち付けられる雨粒の音。この音の組み合わせに妙な心地よさを感じる。
ハンモックに寝転がり髪が優しくそよいで、読んでいる本の数ページをめくっていく、そんな風に揺られているような心地よさ。膝の上に置いたリュックに腕を回して、顎を乗せて目を閉じる。
ハンモックで本を読んでいると、どんどんページがペラペラとめくれられる。強い風が吹いてきた。本を持つ手に力を入れる前に、本は僕の手から風に攫われた。強風を浴びて、機嫌の悪くなったハンモックから振り落とされる。
ガクンと、乗せていたリュックから顎が落ちる。
「んあっ」
気持ちのいい夢は終わった。ボヤける視界で周りを見ると、さっきまで、チラホラいた他の乗客が1人も見当たらない。今はどこの駅か確認するため、外を見ると電車は止まっていた。
雨は変わらず降り続けている。電車が止まっているからか、車内にはより一層強く雨音が響いている。
「あれ?もしかして寝過ごしたー?」
正面の窓から外の景色を確認しようとするが、雨粒が付着したガラスは外を全く見せようとしない。寝起きで、ぼやけている目のせいにして、目を擦っていると電車が大きく揺れた。
電車が出発する時の、揺れでは無いことは確かだった。今の揺れはもの凄い轟音も伴った。何かが電車にぶつかったような、突進しているような。ホーム側から音は聞こえた。
1回目の音が聞こえてからすぐ、座っている席の真正面のガラスが割れる。
「うおっ!」
飛び散るガラスの破片と共に、車内に白くてデカい塊が凄い勢いで飛び込んでくる。立ち上がり逃げることなど出来ず、座ったまま僕はそいつに腹を突き上げられて、後ろの窓ガラスを割って電車の外へ放り出される。
雨でぐちゃぐちゃになった、泥の水たまりベッドに落とされる。横たわる僕の耳に、フェンスをぶち破る音が響く。僕を外へ放り出した犯人は、こちらに興味も示さずにどこかに行ってしまったのだろうか。
「痛ってぇ...」
泥の水溜まりベッドと背中の間には、一緒に飛び出したガラスの破片が挟まれている。緩衝材になるはずはなく、背中の各地に鋭い痛みを広げて行く。
落ちた時、線路に頭を思い切りぶつけたせいか、クラクラしてくる。今にも意識を失いそうだ。
当たりどころが悪かったのか、頭の中で考えられることが、だんだんと少なくなってくる。
「冷た...」
泥水に浸かっている体は、だんだんと冷えて行く。空から降り落ちる綺麗な水だけが僕の癒し。服と髪が地面の泥水と、空から注がれる雨水を少しずつ飲み込む。背中の傷が飲めるのは、泥と混じった水だけだ。 背中の痛みに慣れると、今度は突き上げられた腹からも痛みが呼び掛けてくる。右手で腹をさすると、いつもと違う感触が伝わる。
「なんだ?」
どうなっているか確認しようにも、どうやら頭を動かす余力もないようだ。視線だけ腹に向けることも、腹に触れた手を目の前に運ぶことすらできない。
半開きになった目と口で、雨雲からやってくる雨を受け止めるだけで精一杯だ。顔に雨が触れる度に、思考が少しずつ奪われていく。
何を考えればいいのかも分からないし、何も考えられない。目を開く力も失われ、目の前が暗くなる。目を閉じる前よりも、地面に打ち付けられる雨の音がより強く聞こえた。
痛みも雨が触れる感覚も、だんだんと弱くなっていく。眠りにつく前のような気持ちよさが訪れる。




