第15話 天井の穴
水曜日の朝、教室に入ると藍川先生が教壇に立っていた。
「おはよう」
いつも通りの落ち着いた声で、藍川先生はあいさつをする。
「おはようございます。今日は早いですね」
机の上にリュック置いて、筆箱を取り出す。
「ああ、早速だが授業を始める」
「え?まだ1限の30分前ですよ!?」
「今日は大事な用があるから、早く始めて早く終わる」
「何やるんですか?」
「私の顔面に、拳でも蹴りでも物でも何でも当てれたら、今日は終わり」
藍川先生は、自分の顔に指を指す。僕は、机の上にある筆箱を咄嗟に手に取り、藍川先生の顔面に思い切り投げつけた。
「ふん!」
藍川先生は表情を一切変えずに、首を右に傾けて飛んでくる筆箱を避けた。黒板に激突した筆箱が、シャーペンや消しゴムを吐き出す。藍川先生は首を定位置に戻した後、少し目を見開き再び話し始めた。
「まだ説明の途中だ。範囲は、この教室の中。私は一切反撃しないから、思う存分かかって来い」
「えー、いきなり人を殴れ蹴れとか言われても無理ですよ。そんな怖いことできないです」
「どうせ当たらないから大丈夫だ。それに、これから相手にするのはダストだけじゃないぞ?人くらい、何の躊躇いもなく殴れるようにしておけ」
「うーん、じゃあ頑張ります!早帰りのために、張り切っちゃいますよ!」
訳の分からない指示だが、思ったよりも体はすんなりと従う。椅子から立ち上がり、教壇まで歩いていく。藍川先生は、移動する身振りもしない。目の前まで来て、僕が殴る構えをとっても先生は動かない。多分、どうせ殴れないと思って油断している。
「おりゃ!」
拳が空を切る。先生は軽く、僕の渾身のパンチを避けた。そしてまた止まる。僕は再び殴りかかる。また軽やかに避ける先生。それを繰り返して、体力をかなり消耗する。
「はぁはぁ、殴るのって意外と疲れ...ますねっ」
教壇に寄りかかり、たくさん酸素を吸い込む。
「どうした。全然当たる気配がしないぞ。足も使え足も」
「足なんて、先生の顔面に当たるまで、上がる気しないですよ」
肩で息をしていると、ある物が目に入った。藍川先生は先程、何でもアリだと言っていた。それなら、チョークでもたくさん投げときゃ当たるはずだ。
ゆっくりと立ち上がり、黒板のチョークボックスを開ける。新品の綺麗なチョークが、たくさん詰め込んである。
「そっか!こっちの授業じゃ、黒板あんまり使わないから出番ないんだな。よし!今から僕が活躍させてやる!」
小さい引き出しごと取り出し、チョークを1本ずつ先生目掛けて投げつける。藍川先生は飛んでくるチョークを避けずに、両手で優しくキャッチする。
「おい!それはやめろ。新品だ。もったいないだろ。割れたらどうする」
藍川先生と出会って2日程度だが、今までで1番焦った表情をしている。間違いなく、これは先生の弱点だ。このチョークは使える。先生の言葉を無視して、チョークを投げ続ける。
「経費削減!経費削減!」
先生はそう言いながら、僕の投げるチョークを1本も落とすことなく、全てキャッチして近くの机に並べていく。
「もういいや」
残りが半分くらいになったチョークボックスを、先生の頭上に、天井に当たらない程度の高さまで投げる。少量の白い粉と、チョークが先生の下に降り注ぐ。
先生が降り注ぐチョークの雨を、懸命に回収している間に、掃除道具箱まで移動する。勢いよく掃除道具箱を開ける。長いホウキと積み重ねられた2つのバケツを取り出し、取っ手を強く握って教室の入り口付近にいる先生に思い切り投げる。
先生がバケツを蹴り上げると、中に詰め込まれていた雑巾が空中に飛び散る。2つ目のバケツも投げる。先生に蹴り返されたバケツが、僕の方に勢いよく飛んで来る。それをホウキで弾く。雑巾が降る中、後列の机に飛び乗る。
「よいしょ」
そこから、先生に1番近い机に飛び移るのと同時に、ホウキを持った両手を大きく振りかぶり、先生の顔面に思い切り振り下ろす。ホウキが脆かったのか、先生の足が硬すぎるのか、僕の両足が机に触れるのと同時に、蹴られたホウキは真っ二つになった。
「ホウキは大事にしなくていいんですか?」
「ちょうど買い換えようと思ってたところだ」
折れたホウキを投げ捨てて、右足で顔面を狙う。机の上に立っている今なら、サッカーボールを蹴るようにするだけで、顔面をいい感じに捉えられる。左足に力を入れて踏ん張り、右足を思い切り振り切る。
先生は体を反らして蹴りを交わす。今の先生は、リンボーダンスをしている無防備なおっさんだ。
「チャーンス!」
自分が乗っている、机の椅子を右手で掴む。この椅子の座り主は、だらしない性格のようだ。椅子を奥まで入れていない。でも、お陰で持ち上げやすい。今日だけは、このだらしない性格に感謝をしよう。両足を踏ん張って右腕に力を込めて、椅子が持ち上がる。
藍川先生でも、こんな無防備な体勢じゃ、上からの椅子アタックは防ぎようがないだろう。
「くえらぇ!!」
藍川先生の顔面に、思い切り椅子を振り落とす。椅子自体の重さも加わり、物凄い勢いで落ちていく。
藍川先生はその体勢のまま、自分に向かって落ちてくる隕石のような椅子を、右足で蹴り上げた。椅子は天井を突き破って、上の教室の床に穴を開けた。
「え!?えええ!?え???」
「脆い天井だな。津江月なかなかいい動きだった。多分才能ある」
藍川先生からの、お褒めの言葉も右から左。僕は、天井に空いた穴に釘付けになる。
「...ありがとうございます。天井の穴は?」
天井を見上げながら、先生が言う。
「ちょうどいいな。着いてこい」
そう言って、先生は廊下に出て行く。
「え?ちょうどいいって何がですか?待ってくださーい」
首吊りをした死体のように、天井に突き刺さった椅子がゆらゆらと揺れる。




