第8話 ドキドキピンポーン
目を覚まして、枕元のスマートフォンを手繰り寄せる。寝起きのボヤけた視界が、映し出した時刻は12時30分。着信履歴を確認するが、この携帯に電話は掛かって来ていなかった。
「昼ごはんでも食べるか」
スリッパを履いて、キッチンまで向かう。
「今頃、学校どうなってるかな？誰も死んでないといいけど」
脅迫の電話があった場合は、先生も学校から避難するのだろうか。まあ、避難するのだろう。爆弾が仕掛けてある可能性があるのだから。
「でも、吉村先生だけは死んでればいい。急に怒鳴りやがって」
自分の昼ごはんの用意を始めて、メダカに昼ご飯どころか、朝ご飯すら与えていなかったことを思い出す。
水槽が置いてある玄関まで走り、サンダルを履いてメダカの餌を手に取ろうとした時、インターホンが鳴る。その音は、耳によく響いた。今日の終わりの合図だ。メダカの餌へと、伸ばした手は止まる。
音を出さないよう静かにサンダルを脱いで、インターホンのモニターを確認しに部屋に戻る。モニターには、スーツを着た男が映っている。
「居留守...なんてしない方がいいか」
居留守をすることに意味はない。大人しく出て行くのが最善の行動。無駄な抵抗をしないことが、少しでも罪を軽くしてくれるはずだ。
「……はい」
いつもより重く感じる、玄関の扉をゆっくりと開ける。目の前に立っているスーツの男は、モニターで見るよりも穏やかそうに見えた。少しばかりか、緊張が和らいだ。
「はじめまして。君が津江月葵くんかな？」
「…はい、そうです…」
僕が今にも消え入りような声で答えると、スーツの男は階段の方に向けて声をかける。
「先輩！いましたよ」
カンカンと階段を上る音と共に、僕の心境とは真逆のノホホンとした穏やかな女の声が近づいて来る。
「あ、いたぁ〜？よかった〜。じゃあ、一旦お借りしますよ〜」
後から来た女が、スーツの男の横に並ぶ。
「はい。ただ、約束はしっかりと守ってくださいよ。俺も危ないんで」
「分かってるって～、だいじょうぶい！」
「本当に分かってます？」
女は朗らかな笑顔で、右手で作ったピースを差し出す。ピースを差し出された男は、げっそりした顔で愛嬌のあるため息をつく。
「本当に、お願いしますよ！それじゃあ、俺はもう行きますから。お疲れ様です」
「ばいば～い」
スーツの男は女に軽く会釈をして、階段の方に歩いていく。男が階段を下る音が、だんだんと離れて行く。
「初めまして～津江月葵くん。私は君が通っている高校で、教師をやってる清水という者です～。以後よろしく～」
「...よ、よろしくお願いします」
女のゆったりとした口調に、僕はぎこちない挨拶を返す。女は自分が、僕の通っている高校の教師と言うが、その顔に見覚えはなかった。
「これから君には〜、私と一緒に学校まで来てもらいたいんだけど～、理由は分かる？」
学校の先生が、わざわざ家まで来たんだ。爆弾の脅迫電話のこと以外ないだろう。
「...はい」
「優等生だね。じゃあ早速～、私の車で学校まで～、と言いたいところなんだけど～」
先生はそう言うと、僕の足元から顔までを一通り眺める。
「パジャマから着替えよっか～。別に制服じゃなくてもいいからね～」
先生のその言葉で、自分がパジャマで外に出ていたことに気がつく。顔が少し熱くなるのを感じる。インターホンが鳴ったことに焦って、着替えるのを忘れていた。
クローゼットを開けて服を漁り、適当な物を選んで手に取る。
「ん〜、これでいっか。制服着る方が楽なんだけどな」
着替えを終えて、玄関で靴を履く。さっき、あげそびれたご飯をメダカたちに与える。
「じゃ、行ってくるね」
外に居る先生に聞こえないように呟く。外に出ると、先生は背中をこちらに向け、錆びた手すりに肘をついて、大したことのない景色を眺めていた。玄関のドアを閉めて鍵をする。
「先生、お待たせしました」
「は～い。行こうか～」
錆びた階段を1段踏む度に、今にも壊れそうな音がする。そんな音とは真逆で、僕の心は静かだった。家に来たのが先生で、これから向かう場所は学校。警察が来て、警察署に連行されるより百倍はマシ。罪は軽いどころか、罪にすらならない予感がする。
階段を下りると、駐車場に見慣れない車が止めてあった。
「これが私の車～。さあ、乗って乗って～」
「失礼します」
左側の後部座席のドアを、そっと開けて車に乗り込む。開いたドアをそっと閉めて、シートベルトをする。
「よいしょー」
先生も運転席に乗り込む。開いたドアを思いっきり閉めて、ドンと大きな音を響かせる。ドアを閉める動作には、穏やかそうな顔に似合わない豪快さがある。先生はハンドルに手を添えて、シートに軽くもたれる。
「安全運転で出発しま～す」
「お、お願いします」
不安と緊張を乗せた車が、ゆっくりと動き出す。
