冬のキリギリスは
教室で授業中のノートをちょっと纏めていると、突然後ろから声をかけられた。
「アリっち、今日もマジメだね」
「私の名前は有村。アリっちじゃない」
「えー、いいじゃん。アリっち」
教室ではあまり目立たない私だけど、クラスのギャルグループのうちの一人、桐下貴理子だけはやたら声を掛けてくる。
「桐下さんこそ勉強しなくていいの? この前だって赤点だったじゃない」
「いーのいーの。女子高生でいられるのなんてこの3年しかないんだし、今しかできないことって絶対あるし」
「3年で済めばいいけどね」
私ができる精一杯のイヤミだ。
「ダブったら中退するよ。カッコ悪いし。でも、赤点でも補習受ければ大丈夫だし。よゆーよゆー」
なにが余裕なのか全くわからない。私とは全く価値観が違う。
「それよりアリっち、放課後カラオケ行こうよ」
「だからアリっちじゃなくて有村」
なぜ私をカラオケに誘おうとするのか全くわからない。ギャルグループで行けばいいじゃないか。
「えー、行こうよ」
「なんで私なのよ」
「んー、分からないかな。まあアリっちには分からないか」
「どういう意味よ」
「お勉強だけじゃ分からないこともある、ってこと」
なんでこんな赤点常習者にバカにされないとダメなのか。
「どっちにしてもダメ。今日は予備校の日だから」
「えー、じゃあいつならいいのよ」
「2月の末かな。入試が終わってから」
「分かった。約束ね」
それからずいぶん経ち、入試が終わった。見事に本命の大学に合格した私は、入学準備にかまけてそのままその約束を流してしまった。そもそも、日付も決めていないような約束なんだから、あってないようなものだ。
アリとキリギリスの説話のように、努力した私は本命の大学に進学した。遊んでギリギリ卒業した桐下貴理子は、どこの大学にも合格せず、フリーターとして社会にでたらしい。
そして、私は桐下貴理子のことも彼女とした約束もすっかり忘れていた。
大学生の間に私は恋愛対象として女性が好きであることに気がついた。世間から言われるところのレズビアンってやつだ。大学生になって初めて交際したのも女性の先輩だった。
理系学部の中で雑多な男がいっぱいいる中でその中にいた先輩はとても素敵に見えた。
その彼女とはとても良い関係を結べていたと思ったのだけど、彼女が就職して、生活がずれていくうちにいつのまにかギクシャクしていって、私が四年生の夏頃に唐突に終わった。
初めての別れにすごく落ち込んだりもしたけれど、就職の内定、学会発表、そして卒論と、目まぐるしい四年生の後半は寂しさを募らせる余裕も無かった。
寂しさを募らせる余裕が無かったのは就職してからも変わらなかった。研修、最初の配属先での仕事、毎日クタクタになりながら、最初の三年間を駆け抜けた。
それが変わったのは、仕事に余裕ができたからではなく、働き方改革の呼び声のもと、会社での無駄な業務の削減やリモートワークの導入等、今までとは違うワーキングスタイルが求められたからだった。もちろん、仕事に慣れてきたというのもあっただろうけど。
毎日終電近くまで働いていたのが、急に在宅勤務で19時にはオフになったお陰で、家でゆっくりする時間が増えたのだ。
そうやって、ベッドの上で寝っ転がって改めて考えてみると、彼女と別れてから四年も経っていることに気がついた。誰かと肌を合わせるのももう四年も前のことだ。
ゆっくりできるようになって、もう一つ変わったことはSNSをよく利用することになったことだった。そして、最近SNS上で流行っていたのがレズ風俗を利用した経験を描いたエッセイ漫画だった。
そのレポート漫画自体にはあまり共感はしなかったのだけど、レズ風俗というキーワードには引っ掛かるものがあった。
取り敢えず、「レズ風俗」をキーワードに検索をしてみると、話題になっているエッセイ漫画がまずは先頭に出て、その下にはいくつか実際の店舗のホームページが検索候補に並んでいた。
私はその店舗のホームページを一つづつ上から開いていった。
キャスト紹介はどの店舗もすごく魅力的な写真を載せている。よりどりみどり、選び放題だなぁと思いながら見ていたただ、残念ながら上の三つは私の住んでいる地域からは離れていた。
四つ目の店舗のホームページを見るにあたって、ようやく学習した私は、まずサービス地域から確認した。せっかく素敵なキャストがいたって、会うことができなければ絵に描いた餅だ。
幸いにも、四軒目は私の住む地域もサービス地域内で、自宅に呼べるということだった。
早速、キャストのページに飛んでみる。
華やかな雰囲気の女性が並ぶ中、下の方にいかにもギャルといった感じの女の子の写真があった。名前は「リコ」と書いてあった。人気順で並んでいるのなら、あまり人気がないキャストなのだろう。目は隠れているが、なんとなく全体から桐下貴理子と似た雰囲気を感じた。
「好きなもの」にはカラオケと書いてあり、これも高校時代のあのやりとりを思い出させた。
しかし、年齢が二十歳と書いてあり、これだけでこの桐下さんににた女の子が本人じゃないことが見てとれた。でも、なんとなく、本人だといいなぁという思いもあった。
私は、あの時の約束を無碍にしてしまった罪滅ぼしを、この彼女ではない女の子を通じてしたくて、この子と会いたくなった。
ホームページに書いてある番号に電話を掛けると、話中だった。勢いでレズ風俗を利用しようとした私に「一旦頭を冷やせ」と言われたような気がした。
だが、一時間経ってもその衝動に変わりはなかった。
私がもう一度同じ番号にリダイヤルしたら、今度はあっさりと電話はつながった。
「お電話ありがとうございます。クラブ・カメリアです」
上品な感じの女性の声だった。
「あの、サービスを利用したいのですが」
「ありがとうございます。当店のご利用は始めてですか?」
「はい。あの……実は、こういったお店が初めてで」
「初めての方なら、スタンダードコースがお勧めです。時間は六十分、九十分、百二十分、三時間とあります」
「あの、みなさんどれくらいの時間を選んでいるんですか?」
「当店では、最短の六十分をお試し用として提供しておりますが、シャワーを浴びたり、着替えたりのお時間を考えますと、九十分ないし百二十分がごゆっくりプレイが出来てよろしいかと思います」
プレイという言葉に少しドキッとしてしまった。
「まあ、予約の問題もありますので、キャストや予約時間によっては、お時間が選べないこともあります。ご氏名はございますか?」
「リコさんをお願いしたいのですが」
「リコさんですね。この後、すぐにご案内できますが、ご住所はどちらでしょうか」
私が、住所を伝えると女性は
「こちらからは三十分ほどで到着できますので、八時以降ならいつでもご予約できます」
「じゃあ、八時から九十分で」
「八時から九十分ですね。かしこまりました。ご利用料金は二万五千円になります。ご用意の上、キャストにお渡しください」
「分かりました」
「で、八時にお宅のチャイムを鳴らしますのでよろしくお願いします」
「はい、わかりました」
そう返すと、電話は切れた。
自分の勢いが怖いなぁ、と少しだけ思った。
電話をしてから三十分の間に、少しだけ部屋の掃除をした。普段からそんなに部屋が乱雑ではないほうだけど、知らない人を家に迎えるのであれば、たとえ一回しか会わない人だとしても、少しでもきれいな部屋にしておきたいなぁ、と思ったのだ。
部屋の掃除をしているうちに、あっという間に三十分という時間はたった。
インターホンが鳴ったので、カメラを見るとさっきの写真で見た女性が写っていた。
「今、開けますからね」
インターホン越しにそう答えて、玄関に走っていった。チェーンロックを解き、サムターンを回して扉を開けた。
「有村様ですか? クラブ・カメリアから来ました。リコです」
「中、入ってください」
そうやって彼女を招き入れた。
ふわっとした雰囲気のアースカラーのワンピースに身を包んだ彼女は、桐下さんにそっくりだった。
「すみません、最初にお店に電話させてくださいね」
そう言って、彼女は玄関で電話を掛けた。
「リコです。八時から有村様のお宅、到着しました」
私の顔を見ながら、彼女は短く用件を伝えた。お店への連絡なのだろう。
「あれ、有村ってどこかで聞いた名前だと思ったら、アリっちじゃん」
「だから、アリっちじゃなくて有村」
と返事をした瞬間に気がついた。アリっちというあだなで私を呼んでいた女など世の中に一人しかいない。桐下貴理子だ。
「え、桐下さん?」
「リコ、こと桐下貴理子でーす」
まさか、本人では無いと思って呼んだ人間が本人だとは思わなかった。
「こんなところで何やってるの?」
「いやいや、アリっちが呼んだんじゃん」
それはそうだ。呼んだのは私だ。本人だと思っていなかっただけで。でも、同級生がレズ風俗で働いてたとは思わなかった。
「あなただと思って呼んだんじゃないよ。二十歳って書いてあったし」
「サバを読むのは業界の常識だよ」
「業界慣れしてるのね」
「で、どうする? 知り合いだとやりづらいから、チェンジする?」
本当は、私は彼女と話したかったのだ。誤りたかったのだ。この機会をのがしてどうする。
「しないけど、チェンジもしない」
「お金は変わらないけど大丈夫?」
「あなたが問題ないのなら」
「そういうお客さん、時々いるから大丈夫」
「じゃあ、玄関で話すものアレだし、座ってて。コーヒーでも入れるよ」
「ありがとう。アリっち大好き」
そう言うと、彼女はベッドに座った。私としてはリビングの椅子を想定してたのだけど。
「そっち座ったの?」
「いつでも、気が変わったら出来る様にね」
「はは」
とはいえ、女の子とセックスしようとしてレズ風俗を利用したのは私だ。彼女がそういう考えを持っても不思議じゃない。
「はい、コーヒー。甘いの好きだったよね」
「よく覚えてたね」
「高校の頃、いつもマックスコーヒー飲んでたじゃない」
「コーヒーは苦手だったけど、あれだけは飲めたんだよ」
「そっか」
何気ない短い会話が続いた後、お互いに話し出すきっかけが見つからず、数分間の沈黙があった。
「あのさ……」
言葉を発したのは私の方。
「高校三年生の時、カラオケの誘い、そのまま無かったことにしちゃってごめんね」
「あ、うん。私こそ、無理に誘っちゃってごめんね。つるんでる友達と一緒のノリで誘っちゃってさ」
「嫌じゃ……なかった。カラオケが嫌だったんじゃないの。ただ、何で私なんだろうって思って」
「そりゃ、二人でカラオケに誘うなんて理由は一つしかないじゃん」
「えっ?」
「二人っきりで歌いたかったってこと。アリっちの歌声が聞きたかったってこと。一緒にいたかったってこと」
「なによそれ、理由三つもあるじゃない」
「ははは。でも、アリっちと一緒にカラオケに行きたかったのは本当」
「私とあなた、ほとんど接点がなかったのに?」
「接点はね、あるものじゃなくて作るものなの。それが私のポリシー。そうじゃなければ、アリっちをあんなにいじったりしないよ」
「接点を作ってどうしたかったの?」
「勉強は出来るけど、相変わらず鈍感だね。アリっちは」
そう言うと、彼女は私の手を握って言った。
「彼女にしたかったんだよ」
当時の私はレズビアンだという自覚は無かった。それどころか、恋愛そのものが自分とは関係のないものだという意識だったと思う。彼女の行為を好意とは認識は出来ていなかった。
「だからね、さっきアリっちだって分かった時、めっちゃうれしかった」
「そ、そう?」
「だって、運命だって思うじゃん」
「私は、あなたに似てるなって思って指名したけどね」
「じゃあ、つきあってくれる?」
「なんで、そうなるのよ」
「うちの店使うってことは、ビアンなんでしょ?」
「否定はしないけどね」
「じゃ、断る理由ある?」
「つきあうって、そんなすぐに決められることじゃないと思うの。もっとよく知り合ってから決めたい」
「まだるっこしいなぁ。じゃあ、来週の日曜日、デートしようよ。それくらいならいいでしょ?」
「キャストとの私的な連絡はダメって、お店のルールに書いてたよ」
「高校の同級生じゃん、そんなの関係ないって」
はぁ。まあ、私から言い出したのじゃないからいっか。
「分かった。来週の日曜日ね」
「じゃあ、これ、ラインだから」
そう言って、彼女はスマホでQRコードを見せた。家に来て最初に店に掛けたスマホとは別のヤツだ。仕事とは別のプライベート用のものなのだろう。私が、そのQRコードを自分のスマホで読み取ると、しっかりと「桐下貴理子」の名前と、高校時代の見慣れた制服を着た彼女のアイコンがあった。
「ずいぶんと懐かしい写真使ってるのね」
「そりゃ、好きな人が写ってる写真だからね」
そう聞いて、彼女のアイコンの写真を拡大してみると、そこには高校時代の私が居るのだった。