第2話 不気味な女
けっこうたくさん伏線を貼っていくので、伏線かな、と思ったところは覚えておくといいと思います!
ローファの葉の香りがふわりと口から鼻に抜け、なんとも言えない芳ばしさが広がった。
火から外す時を誤ってしまったので、肉が固くなってしまったかと危惧していたが、思っていたよりもいい塩梅に蒸され、口の中でほろほろと兎肉が崩れ落ちていった。
咀嚼しながら、アトイはちらりと目を横に向けた。
元凶の女は頬を膨らませながら、息をする間も惜しんで、がつがつと肉に食らいついていた。
そっと視線を手元に戻し、意味もなく夕餉を見つめた。
( なぜ俺は、自分を襲った相手と一緒に夕餉を囲んでいるのだろうか )
アトイは長いため息をついた。そして、つい先ほど起こった出来事を振り返った。
( 白い……髪? )
ゆっくりと舞ったその髪を見つめ、アトイは息をのんだ。
様々な場所をめぐり、様々な人々を見てきたつもりだったが、こんな髪色を見たのは初めてだったのだ。
次々とアトイの<詩>を消していった相手は、あれほど大きな太刀を軽々と振り回すので、どれほど屈強な男なのだろうかと思っていたが、予想外なことに平均よりは少しだけ背の高い女だった。
盗賊は決まり悪そうな顔で、ゆっくりと面を上げた。
「あの……」
アトイは盗賊の瞳を見て、さらに深く息をのみ、体をこわばらせた。
炎に合わせて揺れるその瞳に、気を張っていなければ吸い込まれてしまいそうだったのだ。
紅い大きな瞳がアトイを映していた。
自分が先ほど仕留めた兎の目よりも、少しだけ深い紅だった。
瞬きと共に、髪と同じ白色の細い睫毛が揺れている。
自分は精霊か何かを見ているのではないだろうか。
そう思うほどに、目の前の女の面貌は変わっていた。
歳は15か16くらいだろうか。自分より2、3歳ほど年下にみえる。
外套はよく見ると、大きさが体に合っていないようで、裾は土で汚れていた。足も一回り大きな長靴を履いている。
盗んだものだろうか。
突然、グギュルルルルと獣のうめき声のようなものが響いた。
聞いたこともないようなその声に、アトイは思わず目を光らせたが、獣らしき姿は見えなかった。
鳴り響く音の出所を耳で追うと、目の前にいる女の腹から発せられた音だった。
女の体が地へと傾いていく。
「お腹すいた……」
か細い声と共に、女はそのまま膝から崩れ落ちた。
そして、顔を地に突っ伏したまま動かなくなってしまったのだった。
——別にそのまま放っておいてもよかったのだ。
しかし、今夜野宿しようとしているこの場所にうずくまれても邪魔だった。
そのうえ、今日はいつもよりも食料が余分にあった。
あれこれと頭の中で言い訳を並べている自分に気が付き、アトイは口の端を上げた。
( いや、少しおかしくなっていたのだろう )
妙にこの女が気になった。
それはもしかするとどうしようもなく感じてしまった親近感からかもしれない。この白い髪と紅い目に惑わされてしまったのだ。
少しばかりの後悔が滲み出てくる。
これはずいぶんと面倒くさいことになったかもしれない。
アトイの後悔をよそに、女は隣で一心不乱に夕餉をかきこんでいた。
もちろん気を抜くわけではないが、とりあえず女が今、何かしようとする動きは見られなかった。
川で鍋に水を汲み、それを焚火の上の木組みにつるした。
ここらの森には狐が住んでおり、狐がもつ寄生虫のせいで川の水を直接飲むことは憚られた。
しかし、こうして火にかけてやると、寄生虫が息絶えるので、安心して水を飲むことが出来る。
腰をおろすと、アトイは焚火を見つめながら女に尋ねた。
「お前、どうしてこの森に一人でいたんだ?」
女はせわしなく動かしていた手を止めると、ゆっくりと咀嚼し、上目遣いになって己の記憶をたどった。
そして、口の中の塊を飲み込むと、じっと目の前で揺らぐ焚火を見つめ、何やら思案し始めた。
アトイは女の言葉を静かに待った。
やがて、女がぽつぽつと語り始めた。
「わからない……気が付いたら、青い、何処までも青い……空みたいな花の上に倒れてて……持ってたのはこれくらい」
女は脇に抱えていた刀を、アトイに見せるように手に取った。
「思い出そうとしても、自分の名前もわからない……とにかく頭が痛くて、走って走って……いつの間にかこの森の中に来てた。服がボロボロで寒かったから、この服は森を通りかかった人から盗んだ。それから靴も履いてなかったから、この靴も……」
袖を余らせた外套とブカブカの長靴を女はプラプラと揺らした。
どちらも男性もののように見える。
アトイは思わず喉の奥で笑った。
( 記憶がない……これは初めてかもな )
<狼>の自分は、こういった盗賊に襲われることがよくあった。
しかし、野良の盗賊に負けるほどやわではない。
返り討ちにして腕をひねり上げれば、皆面白いほどよくしゃべり、想像力豊かな身の上話を聞かせてくれるのだ。
しかし今、自分はそんな奴と話を聞くどころか、食事を共にしている。
それがおかしかった。
「食べ物をとろうにもどれが食べれるのかわからないし……肉をとっても火が起こせなくて……生肉を食べるわけにもいかなくて…」
( <火>は読めないのか )
ふむ、とアトイは女を分析する。
「とにかくお腹がすいて死にそうで……そこにあなたが通りかかったから」
「夕食を盗もうとしたのか?」
「……とにかく必死で……ごめんなさい」
女は気まずそうに体を小さくまるめ、ぺこんと頭を下げた。
アトイはそれを一瞥し、すぐに焚火へと目を戻した。
粗朶がはじけ、赤い火の粉が舞った。
冬と春の境目のこの時期は、比較的温暖なイレス地方であっても、夜になると急激に気温が下がる。
夕餉を平らげた女は、火にあたりながら、しきりに体をさすっていた。
外套の中に毛皮を着たアトイですら肌寒いのだ。
火も起こせず、よくぞ凍死せずにいられたものだ。
アトイは静かに、はじけ飛ぶ火の粉を見つめながら、意識は常に腰の小刀に向けていた。
この女が何かおかしな行動をすれば、すぐにその喉を掻っ切ってやるつもりだった。
「あなたは……」
女は体をさすりながら、再びおもむろに口を開いた。
「あなたは変なことしているし……驚いて、しばらくあなたのこと見てた」
思い当たることがなく、アトイは首を傾げた。
「変なこと?」
女が頷く。
「水を宙に浮かしたり、何もないところから火をだしたり……何をしているのかわからなかった」
その言葉に、アトイは愕然と目を剝いた。
言葉の意味が分からなかった。
——いや、彼女が言っているのはおそらく食事支度をする自分の姿であろうことはわかっていた。
そうではなく、何をしているかわからない、という言葉の意味が分からなかった。
絞り出すように、アトイは一言一言、丁寧に唇にのせた。
「お前は……<詩>がわからないと、そう言っているのか?」
「エピカ?」
女は不思議そうに首を傾げた。
然もわからない、と言いたげな表情を浮かべている。
アトイはついに言葉を失った。
突然、目の前のこの女が、ひどく異常なもののように見えて仕方なかった。
神秘的に見えた、紅い目も白い髪もすべてが不気味に見えはじめる。
記憶をなくした、と言ってもここまで徹底するものなのだろうか。
人はこうも当たり前に存在する常識を無いものにしてしまえるのだろうか。
それほどまでに<詩>は当たり前で、存在に疑問を持つことすらあり得ないようなものなのだ。
人は母親の腹から生まれ出たその時から、<詩>と共に生きることを悟り、《《誰に教えてもらうこともなく》》読むことができ、どのように使うのかを知っているのだ。
それはアトイが誰よりもわかっていることだった。
それをあっさりと無視することが出来る者など、果たしてこの世にいるのだろうか。
たとえすべての記憶がなくなっていたとしても、<詩>は己の四肢を、特に意識することもなく動かせるように、当たり前に使えるもののはずだ。
この女が言っているのは、自分に手足が付いていることは知っているのに、それが動くことを知らないようなものなのだ。
ならば、その四肢がない場合は……
ありがとうございました。