第1話 出会い
本編開始です!
アトイは1人、森の中で影のように身をひそめ、グッと息を殺していた。
サワサワと木々を揺らしていただけの風が、突然ビュウっと強く吹き、アトイの外套とつながった頭巾をあばく。
忌々しい黒髪があらわになり、アトイは思わず顔をしかめた。視線は獲物からそらさず、背中に左手をまわし、元の位置に頭巾をそっと戻す。
獲物である真っ白な兎はしばらく軽やかに飛び跳ねていたが、やがて、何かを警戒するように急に立ち止まった。
二本足で立ちあがり、辺りを見渡しながら、しきりに鼻をひくつかせている。
アトイはその機会を見逃さなかった。
腰に添えていた右手で小刀をさっと抜くと、獲物にめがけてそれを投げた。
小刀はアトイの想像した軌跡をなぞり、空を切り裂き、白い残光をひいて、そして兎の首に突き刺さった。
音もなく崩れ、血を流してぐったりと動かなくなった獲物を確認すると、アトイは藪から出て、仕留めた獲物を拾いに行った。
兎の二つの耳をまとめて掴んで持ち上げると、短く祈りをささげ、内臓に傷がつかないように横腹に切り目を入れ、すぐさま<水>で血抜きを行った。
時間を空けずに血抜きを行うことで肉の臭みがなくなるのだ。
今日仕留めた獲物は兎が4羽、それから収穫した茸と山菜だ。
早春のこの時期は、様々な山菜が一斉に土の中から顔を出すので、食べ物に困ることはない。
なかなかの収穫にアトイは思わず口の端を上げた。
血抜きを終え、白緑の光る文字を読み、軽く<風>で肉を乾燥させたあと、袋につめると、ついさっき見つけたばかりの、ちょうど野宿に適した場所へと足早に向かい始めた。
出来るならば、日が落ちきる前に夕餉の準備は終えてしまいたい。
目的地に着くと、拾って乾燥させた粗朶を、空気が入りこむように重ね、そこに腰に下げた旅灯を種にして、<火>で着火した。
<風>で風を送り込むと、木屑が赤い灯を明滅させ、やがて炎は勢いを増し、すべての粗朶を覆いつくした。
袋の中から仕留めた兎4羽を取り出し、<水>で皮を身からはいでいく。
水、というのは便利なもので、細く鋭く扱ってやれば刃にもなる。
難点を言えば、アトイの場合は川のそばで野宿する必要があるということだ。
皮を身からはぎ終えたら、頭を落とし、腹に切れ目をいれ、内臓を一気に引き抜いた。
初めに肛門周りを切り取ることで、するりと気持ちよく内臓を取り除くことができるのだ。
こうしてみると、口から肛門までが、全て繋がっている器官であることが一目でわかる。
兎の内臓は臭みがなく、串に刺して食べることが出来るので、アトイはそれぞれの内臓が傷つかないように分けると、そっと葉に包み、鍋に汲んだ水に内臓をつけた。
ここまでして、ようやく身の解体へと移ることが出来る。
脚の付け根に沿って小刀を入れ、グッと力を込めた。——ちょうどここには関節があるため、身を重しにして切り分ける必要があった。
裏返して胴を上下に切り分けたら、肉を骨から削ぎ落とし、最後に余分な脂を切り取って、これでようやく、兎1羽の解体が終了する。
さすがにもう手馴れて、捌くのにも、さほど時間はかからなくなったが、それでも結構な労力を使う作業だ。
4羽捌き終えると、身を小さく切り分け、以前収穫した大きなローファの葉にのせていった。
そして、肉と一緒に山菜、茸などを葉の上にのせ、軽く塩をふりかけ、葉と葉の先を結んでくるむ。
よけて、水にさらしていた内臓は、つぶれないよう丁寧に串にさしていった。
全ての下準備が終わると、アトイはローファの葉でくるんだものを、火が直接当たらないように、木の枝を組んだものにつるした。
ローファの葉でくるんで蒸すと、肉にいい香りがつくのだ。
串に刺した内臓をあぶり、少しずつ強くなっていく芳ばしい香りを楽しむこの時間が、アトイは好きだった。
それゆえに、この時間を奪われるのは我慢ならなかった。
アトイは思わず舌打ちした。
兎の解体を始めたときから、ずっと目障りな気配がチラチラと背中にまとわりついていた。
しばらく様子を見ていたが、じっと身をひそめ、いまだに動く様子はない
( 盗賊だろうか…? )
しかし、盗賊だとしたら、少しおかしな点が一つある。
盗賊はたいてい集団で行動する。
しかし、気配は一人分しか感じられないのだ。
自分は曲がりなりにも<狼>の外套を着ている。
そんな者を単独で襲おうと思うなど、相当自分の腕に自信があるか、相当な考えなしだろう。
どちらにせよ油断は禁物だ。
アトイは深くため息をついた。
このまま無視を決めてもよいのだが、さすがに食事の時間までちらつくのは鬱陶しい。
かといって、自分から手を出すのも、自ら沼に飛び込むようなもので、面倒くさくなることが分かっていながら行動するのも億劫だった。
あぶっていた串がいい色になったので、上下の歯でくわえこんだ。実は兎に関しては、肉の部分よりも内臓の方が好きだったりする。
口の中で溶けていく内臓を楽しみながら、どうしたものか、と思案した。
悩んだ末に、アトイは蒸しているローファの葉を取るふりをして、あえて隙を作ることにした。
安直な作戦だが、襲ってくれれば万々歳だ。
少しだけ警戒をゆるめ、アトイが地面から腰を浮かすと、ピクリと気配が少しだけ動いた。
そのまま気が付かないふりをして、尻についた土を軽く払い、肉をとろうとすると、——正直、こんな作戦に引っかかるとは思わなかったが、相手は相当な考えなしの方だったようだ。——狙い通り、姿を見せてくれた。
盗賊は薄汚れた枯草色の外套に身を包んでおり、頭巾をかぶっていて顔は見れなかった。
振り返って姿を見るや否や、アトイは盗賊の足元を締め上げようと、若葉色の文字を紡ぎ、<木>を放った。
ぼこぼこと木の根が盗賊の足を狙って地面の中から蛇のように這い上がってくる。
盗賊は驚いたように、一瞬足の動きを止めた。
しかし、すぐさま体を翻し、迫りくる木の根の猛襲をかわした。高く高く、跳びあがり、そのまま宙で一回転した。
とても重力があるとは思えない身のこなしだった。
静かに地に降りると、外套の中に左手を差し込み、ゆっくりとその手を前へと引きだした。
外套の中から、不気味な輝きを放った刃が顔をのぞかせた。
湾曲した大きな太刀だ。
背筋を氷が伝うような、そんなぞくりとしたものを感じさせる光であるのに、不思議と目が奪われた。
柄に手をかけた盗賊は、軽やかに飛び跳ね、そして目にも止まらぬ速さで刃を鞘から抜き去り、木の根を一気に切った。
刃先が弧を描き、そしていつの間にか鞘に収まるそのわずかな時間に、木の根は力なく地面へと落ちていった。
アトイの頬に冷や汗が流れる。
肉眼で見ることができるのは、塵のようにまっていく木の残骸のみだった。
<木>を強め、もう一段階太い根を地面一面に這わしながら盗賊を追いかける。
しかし、どれだけ根を這わそうと、盗賊は軽々と身を翻しながら、根を断ち切っていく。
——その姿は、神へささげる舞を踊っているかのように優雅だった。
アトイは<木>に加えて<水>を紡ぎ、川から鋭い水の線を作りだした。それを盗賊めがけて放つ。
新たな攻撃に、盗賊は少し後ずさりしたが、柄をグッと握りこむと、抜き身の刀を下から上へ一文字に振り上げ、水を《《切って》》しまった。
無数の水滴が、焚火の光を表面に反射させながら、空へと舞う。
信じがたい光景に、アトイは目を剝いた。
刃先を天へと掲げた盗賊の姿が飛沫の中から現れると、切られた<水>は力を失い、ただの水となりはて、雨のように地へと落ちていった。
盗賊の足元が濃く色づく。
心ノ臓が激しく胸を叩き、体の底から、早く逃げろという叫び声が上がる。
( 落ち着け……)
アトイは息を大きく吸って吐き、動揺した心ノ臓を収めると、すかさず<火>と<風>で炎を丸く練ると、盗賊めがけてそれを放った。
——森の中で<火>を使うことは、山火事になる可能性があるため避けたかったが、背に腹は代えられない。
しかし、盗賊は刀を薙ぎ払い、あっけなく火をかき消してしまった。
どれだけアトイが集中力を使い、繊細に<詩>を使おうとも、盗賊が刀を一振りするだけで、木の根は枯れ、水は力なく地面へおち、風は途絶え、火は消え失せてしまう。
( まるで<詩>を切っているようだ…… )
肌をいくつもの雫がなぞった。袖でその雫をぬぐう。
袖のしみを見つめると、自分が少しだけ笑っていることにアトイは気が付いた。
窮地に立たされたことからくる笑みなのか、純粋な闘志からくる笑みなのかはわからなかった。
盗賊は薄汚れた外套を翻し、くるくると飛び跳ねる。その鋭い刃の輝きで、宙に絵を描いているかのようだ。
じりじりと盗賊との距離がつまっていく。
背には川が流れており、もう後ずさる余地はなかった。
そして、盗賊はついにアトイのもとにたどり着いた。
アトイは小刀を素早く腰から引き抜いた。
<詩>が通用しないのならば、もう自分の手でけりをつけるしか術はなかった。
汗が滝のように噴き出る。
頭によぎった最悪な光景をかき消すように、アトイは脚にグッと力を込めた。
ぬかるんだ腐葉土がずるりとぬめり、アトイの長靴を汚す。
一瞬でも隙を見せることは許されない。勇み立ち、体が震える。
盗賊が地面を蹴った。
風を切り、一気に距離をつめてくる。
アトイは小刀を構え、姿勢を低くした。
間合いは相手の方が長い。相手の間合いに入ってしまう前に、こちらが先に回り込まなくてはならない。
まだ……まだだ、もう少し……目前まで引き付ける必要がある。
呼吸すら忘れるほどに、アトイはその瞬間をじっと待った。
周りにあふれていた風や川の音はその姿をひそめ、盗賊の動きがやけにゆっくりと見えた。
遠くで、一羽の鳥がはばたいた。羽音が鮮明に聞こえる。
アトイはふくらはぎの筋肉を硬くし、そして、思い切り地面を蹴って飛び出した。
着地と同時に右足を軸にして体をひねり、相手の後ろへと回り込むように振り向く。
——そして、一瞬、一瞬だけアトイは目を見開いた。
アトイはその身体能力と戦況を読む力から、<狼>の中でも指折りの実力者だった。
<狼>はウェンという化け物を狩る戦闘集団だ。
集団と言っても一度<狼>になってしまえば、その後のことは各々に一任される。
基本的に一人で活動する者が多いが、複数人でつるんで狩りをするものもいる。
ウェンはひどく獰猛で残酷な化け物だ。黒い煙を体にまとい、人の血肉を喰らう。
なぜウェンというものが生まれ、存在するのかは未だに分かっていない。
しかし、一度ウェンと人が出くわせば、まるで災害のように、為すすべもなく人は喰われてしまう。
そんなウェンと戦うのだから、<狼>の命が虚しく散っていくのも珍しいことではなかった。
<狼>の多くは、世間と隔たりを作ってしまった者が多かった。
貧しい生まれの者や、わけあって家族との縁を切ってしまった者などがそうだ。
しかし、<狼>は志願すれば誰でもなれる、優しい組織ではない。
<狼>になるためには、いくつかの試験を乗り越えなければならない。
その試験で命を落としてしまう者もいる。
それではなぜ、そうまでしても<狼>に志願する者が後を絶たないのかというと、<狼>はウェンを狩れば、かなりの金銭を報酬として与えられるからだ。
ウェンを狩ると、核である黒い結晶が手に入る。それを街ごとに建てられた換金所に持っていくと、結晶の重さに比例した金銭が報酬として与えられた。
この金銭はこの<言ノ葉ノ国>の王である、<言ノ葉ノ王>から賜ったものだ。
そのため、普通の暮らしから逸れてしまった者でも、<狼>になってウェンを狩れば、辛い身の定めに抗う力が手に入る可能性があるのだ。
しかし、そんな<狼>の中で、飛びぬけてウェンの討伐数が多いアトイでも、目の前の盗賊と刃を交えれば、勝算は限りなく低いと感じ取っていた。
それほどまでに、この盗賊の動きは洗練されていた。
それでも、どれほど勝ち目がなかろうが、<詩>が使えないのならば、真っ向勝負で刃を交えるしか選択肢はなかったのだ。
自分の息の根が止まることも覚悟した。
——しかし、実際はどうだ。自分はこうもあっさりと相手の喉元に小刀を突きつけてしまっているではないか。
「……どうゆうつもりだ?」
アトイは低く唸るように問いかけた。
盗賊はアトイに向かっていたわけではなかった。
アトイが振り返ったあの時、盗賊は見当違いの方向に手を伸ばしていた。
伸ばした指先の向こうには、アトイが丹精込めて準備した夕餉がぶら下がっている。
おそらく、もうとっくに出来上がっている頃だろう。
手を前につきだしたまま、盗賊は固まり動かない。
問いかけに答えない盗賊の首元に、苛ついたようにアトイは刃を押しつけた。
盗賊が少し顎を上へと傾ける。しかし、それでも口は開かなかった。
しばらく膠着が続いた。
いつの間にか激しく吹いていた風もやみ、森は静寂に身を落としていた。
穏やかな川のせせらぎが、さらさらと耳をかすめる。
そこに、ひゅうっと、鋭い呼吸音が響いた。
やがて、薄汚れた頭巾の中から、小鳥のさえずりのような細い声が聞こえた。
アトイが想像していたよりもずっと高い声だ。
「お腹がすいて……ごはんが欲しくて……」
盗賊は身を絞るように言葉を押し出した。
アトイは眉をしかめ、頭巾を勢いよく引っ張り、その姿をあばいた。
太陽はもう既に地平線の下に隠れ、漏れ出るわずかな光によって、空は幻想的に色づいていた。
これから夜へと姿を変えようとしている空の下、アトイを追い詰めた盗賊の面立ちが、揺らめく炎にぼんやりと朱く照らされながらも、はっきりと色をもって映し出された。
そして、やけにゆっくりと宙へ舞う、真っ白な線が、アトイの目に飛び込んできたのだった。
ありがとうございました。