第13話 創
しばらく、二つの視点でお話が進んでいきます
たくさん伏線を張り巡らせています。
ロトルがまだネロの酒場にいる頃、アトイはある家屋の前に立っていた。ネロの言っていたうちの一つだ。
この家屋は比較的、街から近かったので、何とか今日中に行って帰ってこれそうだった。
しんと空気が静まり返り、整備のされていない砂利道には、自身の影が斜めに伸び、出発したころは真上にあった陽も、いつの間にか傾きかけ、強烈な西日が身をさしていた。
脚のだるさを感じながら、アトイは腰につるしてあった旅灯の螺子を回し、灯りをつけた。
—— ウェンの残痕を少しでも追えるように、馬や馬車は使わず、アトイは必ず自分の脚で歩くようにしていた。
家屋は深い洞のように、暗然と立っていた。
アトイはその半壊した建物の扉を開け、床を踏みしめた。ギイギイと家が軋み、中は神経が凝結したような、そんな気味悪さを放っていた。
ドロドロと鉄の混じった匂いに、鼻骨が痛む。
濁り、暗褐色となったおびただしい量の血が床に、壁に、家具に……あたり一面に飛び散っていた。
アトイは思わず顔をしかめた。
—— 一目見ただけで、どれだけ惨いことが起こったのかわかってしまった。
屋根には巨人が踏みつけたような穴がぽっかりと開いており、崩れた屋根の残骸が床に散らばっていた。容赦なく風が吹き抜け、床に散らばったガラスや陶器、木片などのありとあらゆる破片を荒らしていく。
アトイは部屋の隅に、黒い泥を固めたようなものが落ちていることに気が付き、そっと近くによった。
顔を近づけて覗き込むと、醜怪なその塊は、人の肉か臓器の一部が炭のように黒ずんでいたものだった。
アトイは一瞬眉をよせると、部屋を見渡した。
壁には抉ったような傷が残されていた。
鞭で抉り取ったかように、太く深い溝がささくれ立って刻まれている。
たしかにネロの言っていた通りだった。
人のなせる所業ではないが、今まで散々見てきたウェンが残す傷とも異なっている。
ウェンは四つ連なった引っ掻き創を必ず残していく。
しかし、アトイはこれが確実にウェンの仕業であることを確信していた。
—— 血の匂いにまじってウェンの『におい』がかすかに残っていたのだ。。
薄気味悪く、不快な『におい』……。
何度も何度もこの痕跡を追い、血を流しながら何体もウェンを狩ってきた。
たとえ幾度陽が巡ろうとも、そうそう奴らの『におい』は消えやしない。
——実はアトイが<狼>の中でも、頭ひとつ抜けてウェンの討伐数が多いのはこのためであった。
ウェンの残す醜悪な『におい』。
これを感じとれるのはなぜかアトイだけだった。
アトイもそのことに気が付いたのは<狼>になってからだった。
瞼を閉じ、己の鼻にある堰を外してしまえば、一気に『におい』が頭の中に広がった。
『におい』はわずかではあるが揺らいでいる。
その揺らぎを追っていけば、ウェンへと辿り着くことができる。
ウェンは淀みのように、一度現れた場所に何度も姿を見せる習性がある。
漂う『におい』を感じ取り、あとはひたすらその場所でウェンを待ち構えていれば、いずれ奴らは姿を現す。アトイはそうやって、ウェンを狩っていた。
滅茶苦茶になった床に、ひとつ、形をとどめている物が落ちていることに気が付いた。
近寄って見てみると、それは不格好な写真立てだった。
そっとそれを拾い上げる。
写真立ての枠の欅は、やすりはかけられているが、削り跡の粗さが目立ち、いかにも素人が作った感じだった。
しかし、丸みを帯びた欅の木は温かみをもっており、不思議とアトイの手になじんだ。おそらく、この家の者がくりぬいて作ったものなのだろう。
ガラスはひび割れていたが、中の写真は無事だった。
アトイは枠を丁寧に外すと、そっとその写真を抜き取り、つるつるとした表面に細かくついた埃を親指でこすった。
煉瓦色の髪を三つ編みにした、そばかすのある女の子を中心に、幸せな3人家族がそこで笑っていた。
両親からの愛を一身に受け、屈託なく笑うその女の子の口元は、まだ生え変わっていない白い乳歯がのぞき、細められた目には未来への期待がつまっていた。
両親はそんな愛娘への深い慈しみをあらわにして、きつく我が子を抱きしめている。
アトイは息苦しさを感じながら、頭をゆっくりともたげた。
家の中にはむごたらしい傷跡とは別に、鋭い刃で薙ぎ払ったような三日月形の創が所々にみられる。
この創には見覚えがあった。
斧を振り回した跡だ。
アトイは再び手元の写真をみつめ、おそらく起こったであろう事柄を、瞼の裏に映写した。
この創は写真の中の二人が残した命の跡だ。
愛しい愛娘を守るために、敵わないとしりながら、それでも命を流しながら必死に抵抗した跡だ。
こういった創は特別珍しいものではなかった。
天災のように急に姿を現した死に、それでも人は抗おうと、生き延びようと、こういった創を残し、それでも虚しく喰い殺される。
首をきつく締められたかのような感覚に、アトイは深く息を吐いた。
この感覚に慣れることはいつまでたってもない。
しかし、それとは別に……あまりにも不謹慎すぎるが、微かに……それでもチリっと鋭い痛みのような高揚をアトイは胸の中で感じていた。
部屋に戻ると、ロトルが真っ暗な部屋の中で窓に肘をかけ、青白い月明かりに照らされながら、ぼうっと静まり帰った街を眺めていた。
夜風にさらさらとなびいた白髪が、月の光をはじいている。
膝のあたりから、むずむずとしたものが胸のあたりまでなぞるように登ってきた。
—— いつもは帰宅すると、がらんとした空っぽの部屋で、朝置いていった虚無が自分を迎え、そして、そこに身をひそめるようにして長い夜を過ごすのだ。
ぱっと鞭を打たれたように、ロトルが振り返った。
月影を背に浴びて、頬のなめらかな曲線が、仄白く浮きだしている。
ぼうっと立っていたアトイの元にロトルが子犬のように駆け寄ってきた。
「おかえりなさい……」
喜びを頬に浮かべたロトルがアトイを見つめた。
胸に込みあがってきたものを、息を止め、アトイは必死に抑え込んだ。
「……お前に灯りの点け方を教えることを忘れていたな」
なるべく平淡にそう言って、長靴を無造作に脱ぎ、部屋に上がると、背負っていた袋を床に放り投げた。
どさりと音が鳴ると、机の上の行燈に火を灯した。
開けっ放しの窓から、まだひんやりと芯の残った夜風が忍び込み、頬を撫でる。
アトイはゆっくりと腰を下ろし、深く息をついた。
頭の中で、今日見てきたものを一つ一つ思い起こし、それらが交差する点を探した。
片膝をかかえ壁に寄りかかりながら、そうやって頭を整理していると、いつの間にか傍に来ていたロトルが、何か言いたげにアトイを覗き込んでいた。
「……なんだ」
鬱陶しそうにアトイがそう尋ねると、ロトルが山吹色の布に包まれた、直方体のものをアトイに差し出した。
食欲のそそる香りが布の隙間から漏れだしている。
「ネロがアトイにって……」
ロトルからずしりと重みのあるその箱を受け取った。
畳において、箱を包んでいる少し湿った生ぬるい布をとると、漆が塗られた、巨大な重箱があらわれた。
上蓋を開けてみると、ぎっしりと鶏肉の香味焼きや魚の天火焼きなどがつまっており、香草の芳しい香りがふわりと漂った。
どの段を開けても、中は隙間なくぎっちりと料理がつまっており、明らかに一人では食べきれぬ量だ。
「お前、夕食は食ったのか?」
アトイが尋ねると、案の定、ロトルは首を横に振った。
昼は露店で買ったものを軽く食べただけだったのでちょうどよかった。
少し迷ってから、まぁもういいかと、着たままだった外套をさっと脱ぐと、つるりと光を反射させた重箱を机の上におき、表面を撫でるように、ゆっくりと下から上へと手をかざした。
重箱は<火>によって徐々に温まっていった。
ロトルが不思議そうに見ている中、アトイが上蓋を開けると、箱の中で立ち込めていた湯気がぶわりとあふれ出て顔をおおった。
信じられない、とでも言うようにロトルは目を丸くして、膝立ちで揺れる白い水蒸気に頭を突っ込み、中身を覗き込んだ。
アトイはロトルの頭をグッと押し込んで引っ込ませると、重なっていた一段一段を机に広げ、二膳入っていた箸のうち一膳をロトルに渡した。
軽く手を合わせると、夕餉を口の中へと運んだ。
疲れた体に、ペチ(醤油)の味が染みわたり、凝り固まっていたものが少しずつほどけていった。
ロトルは手渡された箸を手に持ったまま、口に料理を運ぶアトイをじっと見ていた。
「……なくなるぞ」
顔をしかめ、アトイがそういうと、ぼけっとしていたロトルも慌てて料理をつつきだした。
沈黙のなかに、しばらく咀嚼音が響いたが、アトイはふと、口を開いた。
「お前……ネロからなんか聞いたか?」
アトイの問いかけに、まさに今食べようとしているその顔のまま、ロトルはぱちぱちと大きく瞬いた。
そして、口のすぐそばまで運んでいた煮つけをそのまま口に放り込むと、もぐもぐと咀嚼しながら、言うか言うまいか悩む素振りをし始めた。
アトイは目をふせ、再び料理を口へと運び始めた。
その様子から、ネロが余計なことを言ったのは確実だろう。
口の中の塊を飲み込んだあとも、ロトルはまだ少し悩んでいたが、やがて恐る恐る小さく頷いた。
「……そうか」
口に料理を頬張ったまま、くぐもった声で淡々とそうつぶやくと、ロトルは身を引きながらしばらくアトイの様子を窺っていた。
しかし、アトイが何も言わず、ぱくぱくと食べつづけていると、安堵しの色を見せて、再びせわしなく箸で料理をつつき始めた。
聞いてもいないのに、ポツポツと間を開けながら、ロトルはネロから聞いたことを、アトイに話し始めた。
<詩>は多くても2つまでしか使えないこと。<狼>の証のこと。その作り方のこと……。
——しかし、このときロトルは、アトイが<忌み子>と呼ばれていることに関してだけは、決して話さなかった。
それだけは口にしたくなかったのだ。
アトイは頷きもせず、口をはさむこともなく、小鳥のさえずる様な声に、ただ静かに耳を傾けていた。
本日も閲覧ありがとうございました。