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二人が愛した葛城山  作者: 神邑凌
1/2

永久にそびえる神秘の山

 ❶



平成二十三年二月四日


極寒の日の朝、十人の声優が東京上野の某スタジオに招集された。

 新作小説の第二弾「ある家族の場合Ⅱ」の朗読録音のために「気軽に聞く小説シリーズ」の一環として「ある家族の場合Ⅱ」のCD制作が目的でした。


 この「ある家族の場合」は、既に第一作が樹楽舎のドキメンタリー大賞に輝いている小説で、高校教師絵際沙紀さんが書いた処女作の続編であります。




 作品の内容を要約しますと、

ある山好きの一家が平和に暮らしていたある日、思わぬ難病と言う災難に襲われることとなり、一家が路頭に迷う事になります。

 切なく悲しくも耐え忍ばなければならないピンチに、家族が力を出し合って難局を乗り切ろうとしますが、難病と言う敵も只者ではない。容赦なく一家を苦しめるのです。

 それでも難病に一家総出で立ち向かっていく家族愛を、声優たちが見事に演じています。



 本を読むのとはまた違って、立体感のあるドラマが耳から入ってきて、貴方の心に多くのことを問いかけるでしょう。

 

 近年活字にアレルギーを感じている方も多くなってきていることも確かで、この本のように「気軽に聞く小説」が脚光を浴びているようです。

 第一作は既に文庫本以外に「聞く小説」としても好評を得ており、この第二作も同じ道を辿ってくれますことを切に願っています。



 プロの声優が奏でる身に迫る演技をとくとお楽しみください。

 








ある家族の場合Ⅱ 

 共著者 和佐俣亮 絵際沙紀


 私、和佐俣亮は若い時から山登りが好きで、気が詰んだ時や気分を入れ変えたい時などは、山へ登って汗をかき、心身ともにくたくたに成るまで追い込み気分を入れ変えていた。


 そしてこの日も奈良と大阪の境の葛城山と言う山に登り、鬱憤を晴らす様に逃げ腰であった。

 この日、登山道を連なって登った老婦人と親しくなり、結果的には山を下るまでご一緒することと成り、


老婦人の多くの言葉を耳にして、その日を境に私の生き方までが変わったように、今振り返ってつくづく思えてくる。

あの日あの時、何かが始まったような気がする。



 私の名は和佐俣亮、そして妻の名は明楽あきら

二人が知り合って既に二十年が過ぎている。私は今四十五歳、妻は四十二歳。 知り合えたのは二人とも山登りが好きで、二十二年前、つまり妻が丁度二十歳の時に、二十三に成った私と知り会ったのである。


 あの日、私たちは大阪阿部野橋を出発して、近鉄で大阪と奈良の境に聳える葛城山に向かっていた。勿論その時は私と妻は違う車両に乗っていて全くの他人であった。

 


それから二条山駅で電車を降り、連なる二つの山を縦走する予定であった。

 妻も同じ思いであったようでそこで降りていた。それから登山道を歩き出した私は、数人を挟んで、私の後ろから歩いて来る妻に気が付いた。


驚いて見つめてしまった。何故なら私にとって妻の容姿は、吸い込まれる程の思いにさせられたからで、決して美人では無かったが、間違いなく好みのタイプであった。



 時たま目が合い鋭く感じ、きりりとしていて目は涼しそうな細さであったが、生きている意味をしっかり掴んでいるような、根性のある女と私には見えた。

勘違いかも知れないが、私にはそのように見えた。


 いつの間にかドキドキしている自分の心を感じ、当時は臆病とはいえ血気盛んな若者であったので、女友達と来ていた妻に近づきたくて堪らなく成ってきた。それだけ人目惚れだったのだろう。

 そしていつの間にか、いや意識的に彼女に近づく為に、靴の紐を結び直して、彼女のすぐ後ろに入るように虎視眈々として心が躍っていた。そして彼女の真後ろに陣取った。



 それから暫く歩いていると、彼女の女友達が荷物が重いと駄々を捏ねる様に、少々苛立って言葉を荒げた。

 そんな様子を見つめていた私は、

「もうすぐ道がフラットに成りますから、暫くの辛抱ですよ。」と優しく後ろから声を掛けた。


 その一言が切っ掛になって、妻の女友達は気さくに私に何だかんだと質問してきて、思わぬ事から妻も含めて三人は急接近する様に成った。



 頂上まで登頂する間に、私は妻の女友達の荷物を持ってあげた時もあり、妻もまた親切な人だと思ったのか、好印象を持ってくれているように思えた。


 頂上に着いた時は、二人を残して私は草むらに寝ころんで、高ぶる鼓動を抑える様に現実を取り戻していたが、それでもやはり気に成ったので、十分も経たない内に二人の所に近付き声を掛けていた。

気が付いた女友達が、

「一緒にお食事をしませんか?」気さくにその様に言われた。



思いがけない一言を聞く事に成り、私は目を白黒させながら「はい」と元気良く返事をしていた。

 女友達は余程無頓着なのか、何の警戒も無く私に声を掛けてくれた事が、どんなに嬉しかったか、女性と話す機会のない私にとって余程嬉しかったのか、其れで売店で売っているアイスを思い出し、私は三つ買って彼女たちにそれを渡して、

「お疲れでしたね。これでも食って下さい。」


そう言って挨拶変わりとばかり、思いっきり笑顔で二人を見つめた。

「有難うございます。ちょうど食べたかったからうれしいです!」

妻は遠慮気味にそう言って笑顔で答えた。



 それから食事が始まり、お互いコンビニで買ったてんやものだったので、何故か気が楽に成った事は確かで、話も知らぬ間に弾んでいた。

「おひとりで?」

「はい、たまには歩いて運動しないといけないと思い此方へ来ました。それにちょっとした理由もあり」

「お仕事は何時も机に座っているのでしょうか?」

「ええ、毎日。何しろ恥ずかしい話ですが、私小説家を目指していて」

「小説家?そうなのですか?それはそれは・・・」

「いや売れない小説家で終わるかも知れませんから、実家の家族は反対しています。せっかく大学まで行って居るのに勿体無いと」



「でも当たれば凄いのでしょう?」

「それが当たらない事が多くて、先輩にも居てましたが、埒が明かないと言うか、鳴かず飛ばずのようで」

「でも、そんな人でもある日突然様変わりする事だってあるのでしょう?」

「稀だと思いますよ。才能はどこにあるのか等、自分では判りませんからね。ただはっきりしている事は、必ず日の目を見ると言う固い決意を持っている事だけで、少なくともその気持ちだけは誰にも負けないものを持っている積りです。」



「それなら大丈夫!いつの日かこうして葛城山の頂上で、貴方と話し合った事が、素晴らしい思い出に成るように思えて来ましたよ」

「なら良いのですが・・・」


「そんな日が来たなら、私たちの事を覚えておいてくださいね。葛城山で出会った二人の女性に、励まされて今がありますと言ってくださいね。そうそう名前を言っておきます。私は横河香苗、そして彼女が磯川明楽、覚えておいてね。」

「はい、俺は和佐俣亮です。」

「和佐俣亮さんね。恰好いい名前ですね。」

「はぁ・・・そうですか・・・」



「それで今日はこんな綺麗な二人の女性と出会って、恋愛小説でも書かれますか?」

「本当ですね。幸せです。ここまで来た甲斐がありました。前にも何度かここへ来ていますが、今日が最高です。」


「うまく仰るのね。小説家だから・・・女の子が喜ぶ言い方を知っているのね。」

「いやぁ事実に勝るものは無いですよ。今日が最高ですよ。」

「またまた、これまでどれだけ同じセリフを使ってきたか・・・でしょう?」

「いえいえ、そんな事ないです。正直な気持ちです。」

「香苗、貴方は少し世の中を斜めに見る癖があるわよ。もっと素直でないと」

「そうですよ。心から言っているのですから、素直に受け取って頂きたいです。それほど楽しいでしょう?」



「明楽はそうやって胡麻をする。だからあなたは騙されるのよ。」

「そんな事無いって、和佐俣さんに失礼じゃない。」

「わかったわ。」

「そうですよ。素直に受け取って下さい。それでこれからお二人はどうされます?」

「暫くしてから同じ道を帰ります。」

「そうですか・・・でも楽しい時間を過ごす事が出来ました。食事が終わったら、俺はこれから暫く散策してから帰ります。」

「もうお別れですか?」

「はい、あなた方とずっと過ごしたいけど、でも余りにも図々しいとも思いますから、この辺で失礼します。楽しかったです。」



「私たちに然程興味が無かったと言う事でしょうか?」

「いえいえそうではありません。これが運命の出会いであっても、こんなに簡単に出会えるとは思いませんから。」

「運命の出会いであっても?」

「ええ」

「では貴方が言われる事が合っているかも知れないから、この儘お付き合い頂く事は出来ないでしょうか?」

「えっ?」



「明楽ったら、唐突にそんな事言って?」

「いえ、和佐俣さんが今言ったでしょう。運命の出会いかも知れないって?

 だからその様に思うのなら、この儘お付き合い下さって、はたして運命の出会いなのか、そうでは無いのか、お互い知る必要があるとは思いませんか?」

「明楽それって・・・和佐俣さんが大げさに言った社交辞令って事解らないの?」

「そうでしょうか?」



「いえ、多分お二人はわかっている筈です。ご自分がどの程度の女性か。決して下の方では無い事を、お互い意識されていると思います。

 第一俺から見てお二人は遜色ない、どちらも素敵な方だと思いますよ。間違っていないでしょう?」

「有難うございます。じゃぁ和佐俣さんは明楽が言ったように、これからも帰るまで、お付き合いくださいますか?あなたさえ問題ないのなら・・・」

「構いませんよ。お二人がそれ程いいのなら」

「本当に?あなたが言うように運命の出会いにしたいですね?」



「明楽、あなたって人は激情型って言うか、随分気に入ったのね。和佐俣さんの事が」

「和佐俣さんが運命の出会いなんて言うから、その時私何だか胸が締め付けられる様な気がしたわ」

「そうですって、明楽はいつもこんな風に積極的ではないのだけど、まるで病気に掛かったみたい」

「俺喜んで、ずっとこの儘お付き合いさせて頂きます。電車も一緒だったから帰りも同じようだし、それでいいのですね?」

「ええ」



「でもどうして和佐俣さんは、私たちに運命の出会いかも知れないなんて大袈裟なこと仰られたのですか?単なる例えだったのですか?」

「いえっ、どうしてかって・・・おそらく前に来た時にある方とご一緒して、心に刻まれた出来事があり、その時の事が蘇って来たのでしょうね。」


「その方は女性でしょう?綺麗な❓素敵なって言うべきかな?」

「ええ、確かに女性でしたが、歳は七十を超えていて大きな病気に掛かっている方で、それも癌で、既に手遅れって宣告されていたようでした。



 それでも大好きな山に渾身の思いで登って、おそらくあの日の登山が最後だったかも知れませんが、必死で登られていて、偶々その方と同じ電車で来て同じ道を、今日のコースとは違いましたが、

 その時私もアルバイトに行っていた会社が倒産して、金銭的にも追い詰められ路頭に迷っていた時で、とても辛い思いを背負ってこの山に登っていたのです。

 一緒に登りながらいろいろ話をして、お名前が徳磨りこさんと言う方で、大阪の城東区から来られている方でした。




 そしてこれで最後かも知れないと思いながら、一歩一歩噛み締めるように歩いていると言っていました。汗を一杯掻かれていて苦しそうでしたが、必死に歩き何とか頂上に辿り着き、汗を拭きながら思いっきり笑顔で、

【会社が倒産したの?それで砕けそうに成り、ふて腐れてここに来たのね?でもおばさんは明日にでも命が倒産しそうなのよ。

わかるでしょう?二度とこの道を歩けないかも知れないのよ。



 でも引き返すなんて事考えちゃダメ、楽だし簡単だけど、逃げちゃダメなの。それをしちゃ人間として駄目なの、登り切ってこそ人生なの。それこそ人の道なの。

 だからこの事を言いたかったから頑張って登って来たの。御免なさいね。重い話をしてしまったわ。

 もし生きていたなら、この命が生きる事を神様が許されたなら、来年も来て、あそこに見えているポールの隅に『感謝』と言う字を書いておくわ。

一番右の低い木の下の方に。



 だから貴方がまたここへ来られて、その時に大学も卒業して、しっかりした職場も見つけるとか、或は自分がしたい事を探すとか、心が落ち着いたなら、またここへ来てあのポールの下の方を見てね。

 何も書いていなかったなら私はそれまでの命だと思うわ。お医者さんが言っている事が当たっていると言う事ね。来年の今日の日に必ず来るから。


 でも今日は無理にでも来てよかったわ!あなたと言う人に会えた事で、何か良い物を一つだけ残せたように思うわ。たとえ明日までの命であっても。

 どこの馬の骨かもわからない私の言う事など、聞く耳も持たないかも知れないけど、でもあなたの人生で何か役に立てれば幸いだわ。」



 おばさんはそう言って別れたのです。そんなことがありました。

あれから一年が過ぎ、つまりおばさんが元気に再度ここへ来ているなら、丁度一か月前に来ている筈です。」

「だから貴方はそれを確かめにここへ来たのね?

おばさんが生きていている事を信じて。いやそうではないか・・・もし信じていたなら一か月前にここへ来ているわね?そうでしょう?一番おばさんが喜ぶはずだから」


「当たっています。貴方が言われる様に一か月前に来るべきだったけど、来たくなかった。もし出会え無かったなら一人で悲しむ事に成る事が解かっていたから」



「でも一か月が過ぎて、居ても立っても居られなく成って今日ここへ来たのね?」

「じゃぁあのポールの足元に感謝の文字が書かれているかを確かめないとね?」

「そうですね」

「ねぇ私たちも一緒に見てもいいですか?」

「はぁ、」

「だから和佐俣さんは今日運命を感じていたのね。私たちに関係なく・・・」

「かも知れないですね。」

「きっとそうよ。さぁ、行って探そうよ。」

「香苗、あなたが主役じゃないのよ。」



「解っているけど、このままさよならなんて出来ないわ。和佐俣さんの気持ちに成ると・・・」

「有難う。変な事に成って。でも嬉しいです。貴方方が助けてくれるように思えて来て」

「では行きましょう。確かめに・・・」

「はい。」

 三人は立ち上がり歩き出した。

横河香苗がいち早くポールに着いたが、わざと目を反らして私が確認するのを待った。

「ないな~どこにもないなぁ・・・」

そう言いながら何本もあるポールの全てをしつこく調べていた。

「ないな~」



それ以上の言葉は口にしなかったが、女性たちには何もかもわかった。

私は黙ったままポールを見つめていたが、気を取り戻して、

「偶々来れなかった事にして、これからもここにおばさんが感謝の字を書いてくれる事を信じて、今日は帰る事にします。」


 軽くその様に言った

「和佐俣さん、万が一だよ、万が一そのおばさんが亡くなっていたとしても、仕方ない事でしょう?お医者さんが言っているのだから、でも貴方が言ったように運命の様な出会いだって言った事は、明楽の言う様に当たっているかも知れないと思うわ。



 貴方は徳磨りこさんて方を、もしかすると喪ったかも知れないけど、私たちと知り会えた事は、そのおばさんが手を回してくれたのかも知れないわ。」

「へぇー香苗ってそんなメルヘンチックだった?私が言いたいセリフを香苗が言ってくれたわ。私もその様に思うわ。だけど元気を出して、まだ死んだわけじゃないから。」

「そうよ。体が思わしくなくて来られなかったかも知れないし、先生に止められたかも知れないでしょう?」

「ありがとう。やっぱり二人に助けられたね。生きている事を祈るよ。くよくよしていたらおばさんに叱られそうだね。」



「そうよ、命が倒産するかも知れない人には誰だって敵わないのよ」

「やっぱり今日は運命の日に成るかも知れないね。」

「それって、もしかして私たちのどちらかが、和佐俣さんのお嫁さんに成るとか?」

「そんな生意気な図に乗った事言いませんが、そんな日であってほしいとは思います。


 俺この山へ来るのは三度目かな、何かあると思うなこの山は。決していい事ばかりじゃないけど、前に来た時は春で、鼻炎が盛りだった時に、俺鼻炎が酷かったから、かなり強い薬を飲んで来て、その日は薬がよく効いたから良かったのだけど、調子に乗って毎日飲んでいると、体に変化が表れて、気が付けば下半身が動かなく成って、はっきり言ってトイレも上手く出来なく成ってしまい、学校も休まなければならなくなって、其れで病院通いの日が続いて、半年の間苦しんだ事があったな。




 そしてこの前に登った時はおばさんに出会って、さっきからしている話を聞かされ、其れで今回貴方方と出会って、この山には俺にとって何かが住んでいる山と思うな。

 先人たちもこの山には神が住んでいると考えていたようなことも聞いたことあるから・・・

 来る度に何か試練を与えられたり、反対に助けられたり、こうして貴方方と知り合えたのもこの山だからかも知れない。そんな風に思うよ。」


「和佐俣さん、また山から降りてからもお会いしましょうね。時間を作って」

「はい、俺なら大丈夫です。時間はたっぷりあります。」

「そうでしたね。小説を書いているって言っていましたね。でも其れってはっきり言って食べていけるのですか?」



「いや、無理です。今の状態なら・・・ですからおばさんが言っていた様に、どれだけ辛くても、どれだけ困難でも、登り切る事だけ考えています。」

「つまりそれは本が売れるって事ですね?」

「ええ、その通りです。」

「私たちは買うとしても・・・二冊では・・・」


「でも俺、おばさんが命に変えて言ってくれたかも知れないあの言葉を、大切にして生きて行く積りです。『山は登りきる事だけを考えなさい』と言った言葉を。」

「その言葉は和佐俣さんにとって大きな糧に成り、本を書くことは果てしない夢なのでしょうね。」

「ええ」



「やっと元気に成りましたね。徳間のおばさんが貴方の心の中で、いつも生きている事だけは確かなようですね。」

「嬉しい事を言って下さいますね。その言葉が何よりです。有難う。」

「では少し散策してから帰りましょうか?」

「今度はあの山へ登りたいですね?」

「あれは?」

「金剛山です。冬に登れば格別です。」

「行きたいですね。」

「明楽行く気?私は遠慮するわ。寒いのは苦手だから」



「そんなこと言ったら、二人で登らなければならないじゃない。」

「断ればいいのよ。」

「それはそうだけど・・・」

「明楽?残念そうね?」

「そんな事ないけど」

「待って下さい。言っただけですから・・・無理しなくってもいいですから、仲たがいに成っては困ります。」

「明楽、あなたが行ってきたら、和佐俣さんと二人で」

まさかと思う流れに成ったので、私はこれではいけないと思い、

「気が向いたら、また暖かくなった時にでも行きましょうよ。三人で」

そう言って締めくくった。




 それから三人で高原をくまなく歩きつづけ、すすきの原に座り込んで、時間が流れるのを感じ乍ら過ごした。

 憂いを思わす夕陽にはまだ時間があったが、惜しむ様に下山した。

ススキが夕日に包まれる光景も味わいたかったが、それまでには時間があり過ぎて、足取りも軽やかに下山していた。


 別れ際横河香苗が私に向かって、笑いながら「メール交換して貰えますね?」と聞いてきた。

私はやや強張りながら携帯を差出し、二人のメールをコピーして、二人の顔を見つめていると、



「和佐俣さん、私は貴方方の監視役なのよ。明楽が虐められない様に、騙されたりしない様に、監視させて貰うから・・・」

「それはどう言う意味ですか?」

「意味って、私に説明させる気なの?貴方明楽と冬に金剛山に登りたいって誘ったんじゃないの?私の目を盗んで」

「いえ?」

「だって明楽がそう言っているわよ。」

「香苗、違うわ。変なこと言わないで、私は冬に登ってもいいと思っているだけだから」

「解るでしょう?私が無理だと言っているのに、明楽は貴方と登りたいって」

「そうは言ってないわ。三人でなら・・・」



「明楽、はっきりさせておくわ。今度の冬に二人で登りなさい。もう直ぐだから。それまでに三人で食事でもしないとね。それでいいでしょう和佐俣さん?」

「ええ、嬉しいです。やっぱり今日は運命の日に成るかも知れませんね。」

「それは考え過ぎだわ。明楽だって今日を境に貴方の事が嫌に成るかも知れないでしょう?

未だ海のものとも山のものとも判らない状態だもの」

「ええ、でも恋愛小説に成るような未来が始まればいいと俺は願っています。」

「そうか・・・そう出るか・・・明楽そうだって」

「・・・」


「黙ってないで何か言いなさいよ。」

「大阪へ帰ったら阿倍野ででも三人で食事でもしませんか?俺が奢りますから」

「そう、じゃぁご馳走に成ります。それでいいわね明楽?」

「はい、でも悪くないですか?」

「構いません。嬉しいです。」



 その日から私と磯川明楽との実質的な付き合いが始まり、翌年春私たちは結婚する運びとなった。

 当然二人で冬の金剛山にも、樹氷で有名な奈良県と三重県の県境の高見山にも足を運んでいた。

 私は近くの量販店でアルバイトをしながら小説を書き、叶わぬ夢と戦っていた。

 妻に成った磯川明楽はこんな私と知り合ったばかりに、毎日スーパーへパートに出てレジを打ち稼いでくれていた。

 それから二年が経ち、妻が妊娠した事が判り、私達は今の内にとあの葛城山に再度行く事を決めた。

 


 重い病気だったが挫けることなく、山を登り切っていた徳磨りこさんと出会ってから、三年半の歳月が流れていた。

 頂上に着くなり明楽の口から

「行こう。」と私を案内するようにポールの側へ行き感謝の字を探したが、どこにも見当たらないことで、明楽は私を見つめて悲しそうな顔をして、

「無理かな・・・期待する方が酷かも知れないな」



私は気を使ってくれている明楽にその様に言って、逆に慰めるように言うと、

「そのおばさんってここへ何度も来ていなかったの?もし何度も来ていたのなら、例えばこのポールだって誰かが寄付したとか、大勢の人が参加して作ったものであるとか、どこかに足跡が残っているかも知れないじゃない。管理事務所とかあるのじゃないの?聞いてみて、どこの誰かがわかったなら、例えどんな状態でもはっきりするじゃない。


 私貴方に付き合ってこれからも同じ思いに成らなければならないの結構辛いのよ。聞けないかなぁ…」

「解った聞いてみるよ。管理事務所とかあるのなら、何かが判るかも知れないから」




 それから私は後日、何とか管理事務所があることを突き止め、大阪の城東区から再三葛城山に来ていたかも知れない、徳磨りこさんと言う方が居なかったか尋ねていた。

事務所の方が、

「徳磨りこさんは何年か前から音信不通になっているかも知れません。行事がある時に往復はがきでご案内申し上げましたが、既に返信なしの米印が入っていますね。 つまり不参加と言うことです。それまでは間違いなく来て頂いていましたが。」


「そうですか。実は徳磨さんは大病を患っていて、四年近く前にそのことを仰っておられました。でもその時必ず来年も来るからって言われ、約束させて頂いたのですが・・・」



「そんなことがありましたか。大病をね・・・」

「ええ、手遅れの癌だと仰っていました。でもあの日山は諦めてはいけないと、登り切ってこそ山であり人生でもあると、力説され、それを言うが為に名も知らない私に対し、自分の体にムチ打って、それが頂上で力説に繋がったようです。

 無理をされていたと思いましたが、渾身の思いで登られたのだと思います。



 あの後心置きなく亡くなられたのかも知れませんね。だから私にその様な言い方をされて」

「心置きなくですか?」

「ええ、今から思えばあの方は私に魂を預けて逝かれたように思います。生きているとは考えられません。まさにあの時が最期だったのでしょう。」

「なんでしたらここに電話番号が残っていますから、聞いてみましょうか?」

「ええ可能なら」

「この事務所からだと問題無いと思いますから」

「お願いします」



 それから電話を事務員さんがしてくれたが、息子さんが電話に出られ

「母は三年半ほど前に亡くなりました。葛城山へ行くと言って先生の言うことを聞かずに無理をして、其れで山から帰ってきて、間もなく倒れてあっと言う間に肺炎を併発し眠る様に・・・」

「そうでしたか、ご愁傷様です。生前はご協力いただきました事深くお礼申し上げます。


 実はここにお客様が来て居られ、お母さまの消息を心配されている方のようで、何だったらお代わりしましょうか?」

「そうですか。ではお礼を言わないといけないと思います。代わっていただければ」

「初めまして、私和佐俣亮と申します。実はお母さんと三年半ほど前、ご一緒させて貰いました。

 駅から降りた時は名前も知りませんでしたが、終日お付き合い下さり、其れで来年も登ると言っておられました。只病気が病気だけに、先生が言うことが正しいかも知れないとも言っておられました。



 お母さんにあの日出会い、そして終日色んな話を聞かせて貰って、私の心の中で、あれから間違いなくお母さんが笑顔で見てくれているように思います。

 亡くなっていた事を今知りましたが、私の心の中では生涯生き続ける方だと思います。立派な方でした・・・本当にご冥福をお祈り致します。」

「ご丁寧なお言葉感謝申し上げます。母も喜んでいると思います。山が好きで、特に葛城山には何度も通っていたようです。和佐俣さんもこれからも葛城山に登られるなら、母を思い出してあげて下さい。」

「ええ、お母さんは頂上にあるポールに、感謝の文字を書いておくからって言いながら、夢叶わなかったようです。ですからお母さんが待っていてくれている場所はわかっています。有難うございました。では失礼致します。」

 




 私は心で準備していた通りに成った事で、寂しくもあり悲しくもあり、それでいてあの日二人で八時間近く話し合ったことが、深い思いでに成っていて何よりであった。

「お世話に成りました。お気の毒ですが、はっきりして良かったと思います。叶わぬ思いでありましたが、万が一と思う希望の様なものもあり、僅かでも奇跡を信じていたことも確かです。でもそんなに奇跡など起こらないのですね。」

「まぁ徳磨さんの為にもこれからも山へ登ってあげて下さい。喜んでくれると思いますよ。」

「ええ」



 想定内の出来事であったが、それでも心の中で仕切らなければならない現実を思うと、実に悲しかった。正にあの日あの時の一期一会の重みがあった。

 私はあの時のおばさんが只管に話し続けた人生の薀蓄や、目を輝かせて語り続けた人生そのものを、波乱万丈であっただろう歩んで来た道を、今更のように想像していた。

 


 あれから私たちは家族で何度葛城山に赴いたか、

二十年近くの間に私はあのおばさんを何度思い出して偲んだか、妻も私に引き吊られる様に同じ思いになってくれたか、そして子供たちも私の意を酌んで付き合ってくれたか。

 我が家は薄汚い六畳と四畳半とキッチンの間取りで、そんな古くから建っていたマンションに住み着いたのが二十年前、



妻の家族は結婚に反対していて、更にそこで住むことは気に入らなかった様であったが、背に腹はかえられない事実がその様に判断させていた。

 一昔前の悲話の芝居が始まりそうな雰囲気の建物であり夫婦であったが、それでもまるで運命の人と出会ったと思うように二人とも思っていて、愛こそあれ苦に成るものは何一つなかった。




 其れよりむしろ明楽と結ばれたことが、何にも増していて、それは明楽もまた同じ思いで居てくれたことが何よりであった。

 二年後に子供も出来、更に四年後に二人目も出来、男の子が二人すくすくと育っていた。

そして子供たちがなんとか力強く歩きだした頃、家族で葛城山に詣でることにした。

 我が家にとって葛城山は、言わば神聖な山であると私は勝手に思っているが、子供たちはそんなこと関係ない様でせっせと登り続けた。




 それでも下の真我しんがは間もなく私の背中に再三おんぶされることに成り、思いのほかその重さにあまり足を鍛えていない私にとって、過酷な思いの連続であった。

 何とか頂上まで辿り着いた時は既に昼を回っていて、計画では午前十一時ごろに着く予定であったがそうはいかなかった。


 子供たちに、二人が知り合って仲良くなり、そして結婚した過ぎし日の出来事を語りながら食事を済ませた。

 まるで興味がないのか下の真我は居眠りさえして、限界を超しているのか辛そうである。その姿は「帰りもおんぶしてくれるね。」と言っている様に思えてきて、心が重くなってきた。

 お腹が膨らんで眠そうな子供たちの心の内を読んで、四人で並んで眠ることにした。

 雲が流れ、至福の空気が覆い被さり。風は穏やかで柔らかく、そして優しく我々を包みそっと抜けてゆく。

 



目が覚めたときはすでに子供たちははしゃいでいて、妻も彼らと共に両手を振り上げ音頭をとっている。

 私は二十九歳に成り妻は二十六歳に、売れない小説家と苦労を承知で一緒に成った妻明楽であったが、相変わらず文句など一言も言わず耐えてくれていた。

 私は相変わらずアルバイトで妻の機嫌を取っている。妻にすれは歯がゆい思いだっただろうが、それを口にすることも態度に出すことも一度もない。


 それは私が気が付かない能天気な性格かも知れないが、だからと言って何も出来ないし、今のスタイルを壊したくはない。それが唯一の我人生の拘りなのだからと、その様に何度も念じながら日を重ねている。


間違いなく妻に感謝である、まさに感謝の繰り返しである。鉛筆を持ち白い紙を活字で埋め尽くすことが許されるのは」

 

 私が目を覚ましたことに気が付いた長男の賢真けんしんが、大きな声を張り上げて私にボールを投げてきた。 それから拘りのあのポールへ向かって歩き出した。

 ポールまで彼らを案内する様に導き、追いかけてきた妻の目を見るとやさしく笑っている。

『またあなたのセンチメンタルな思い出が今日も始まるのね。』

まるでそのように言わんとしている。

「賢真、真我、この柱の下にね、父さんに優しくしてくれたおばさんが眠っているんだよ。色んなこと教えてくれたおばさんが」



「死んだの?」

「あぁ死んでしまったらしい。」

「それじゃこの下に叔母さんの骨が埋めてあるんだね?」 

「いやそうではないけど、そんなものかな・・・おばさんがこの柱になってみんなを見守ってくれていると思うよ。こうして家族で来ていることを喜んでくれていると思うよ。

 父さんが叔母さんと初めて出会った時は、まだ母さんのこと知らなかったからなぁ。きっとこのおばさんが父さんたちを結びつけてくれたと思っているんだ。」



「そうよ、愛のキューピットよ。おばさんは」

「よかったね。父さんも母さんも」

「幸せですか?」

「なによー生意気な・・・真我までおませなこと言って」

「これからも時々ここへきて元気な姿をおばさんに見て貰おうよ。今度は真我も自分の足で歩くんだよ。」

「うん」

「じゃぁ早速今日の帰りは自分で歩こうか?」

「・・・今度来たときからね。」

「真我上手く逃げたね!」


 私たちは家族団らんで終日を満喫して家路についていた。弟の真我はそれなりに面倒であったが、それはそれなりに可愛いものであり、兄の賢真はやはり兄らしく、弟を時には叱咤し時には励まして、兄貴らしく纏めようとしている。


 私は不甲斐無い小説家であるにもかかわらず、子供たちは立派な子供たちに見えるし、親父の不甲斐無さなどまるで感じさせない誇りさえ持っているように見える。




 妻も然りでパートをして夫を支えている、切羽詰まった雰囲気など微塵ともなくやたらと明るい。

 こんなつつましやかな生き方をしている私にとって、どれほど色んな意味でありがたい彼らたちであるか計り知れない。

 この人たちが居なかったなら私はもっと体たらくで、だらしない人生を妄想に包まれて勘違いして生きていたかも知れない。


それが芸術家と言うほど裏付けもなく確証もない。ただ先の見えない何かに意地になっているだけに過ぎない。

 そしてその人生が最良なのか、それとも最悪なのか自分でもはかれないだろう。

妻を娶り夫として、今の私は生きるためにアルバイトはしているが、頑張ってはいない。派遣の人の様に悲惨でもないし鬱憤もあまりない。そして手を動かしながら小説の一節を考え、その一筋で涙を流す読者を想像し、酔いしれる読者を頭に描き、恐れ多くも勝ち誇った気でいる。

たった一冊の本さえ売ったことのない私が・・・

なんと間の抜けたことか。バイト先の班長がそれを知ったなら罵声が飛んできそうである。



 そんな私であった。だからこの二十年で家族ができ私は少しは世間の父親の様に責任を感じ振舞うように見せかけていたが、だがそれは本質ではなくあくまで伏線に過ぎなかった。

 私はあくまで小説に拘る身勝手な人間のようである。妻が今愛想を尽かして出て行くと言ったなら、私にはどうすることも、妻を引き留めることなど、その決意を覆す理念などどこにもない。


 それでも我が家は世間並みに二十年近くの月日を重ね、子供たちは中学生と高校生になり、飢えてひもじい思いをすることもなく育ち続けてくれている。

 

 それでよかった。家族ってそれだけでよかった。

順風満帆でたとえ貧乏であっても世間狭くともそれでよかった。

誰もが笑顔を耐やさない暖かな空気が充満している状態でよかった。またそれがあの日まで続いていた。

 二年前、妻明楽が病院に駆け込んで苦しみと不安を訴えてから、我が家の空気が百八十度変わってしまった。



 妻明楽が重い病気の緑内障であることを診断され、家族がこの日から路頭に迷うこととなった。それも早期治療を怠った事による深刻な状態であることもわかった。


 この病気は早期発見されれば処置が出来、大事にならなかったが、妻は頭痛と勘違いして市販の痛み止めを飲んでいて、突然やってきた症状にあたふたとしなければならなかった。


 おそらくそれまでに何らかの兆候は出ていたと主治医が言っていたが、妻は自分が簡単には仕事を休めないことを体で覚えていたので、自分の辛さを誤魔化すことさえ慣れっこに成っていた様に思う。

 アルバイトしかしない私、そんな夫や家族を支えなければならないプレッシャーが、彼女を険しい考えにさせていたのだろう。


 妻は二年前になり症状が出たが、それまでから潜伏期間があり、四十歳近くの歳になったことで発症したのかも知れないと言われた。

 ストレスや生活環境で発症するとも言われ、血流障害が原因で成るとも言われた。


 この病気は妻のように両目に症状が出て眼科医に担ぎ込まれて判ったことであったが、片方だと気が付かない患者も居るらしい。


 それで検査を受けて初めて気が付く者も居るようで、まるで生きる環境の落とし穴に嵌ったように、妻はとんでもない荷物を背負わなければならない事となった。

 妻は失明しても仕方ないとも言われ、恐ろしい病気であるとくどく説明され、遅きであったが懸命に治療を受け、進行を止めて貰うことは出来たが、

 それから妻は狭まった視界にも耐えて働き続けていた。



 仕事場のスーパーでもレジから外の場所に変えて貰い、それでも目は次第に悪くなって行っているようで、あれだけ明るく男勝りで闊達であった筈が、今は決してそうではなく、苛立ちを表していることも多くなり、家族は誰もが母明楽を案じていた。


 発症を知らされてから二年が過ぎ、妻明楽の目はこの二年の間に相当悪くなっていて、更に悪いことにまだ若くして普通掛かることの稀な、パーキンソン病にも掛かっていることがわかり、その症状が次第に出て来ると言う始末であった。

 

 パーキンソン病とは妻の年齢では比較的珍しく、五十歳にも六十歳にもなってからの病気らしいが、たまたま妻はその病気にかかってしまった。

 それでなくとも視野がどんどんと狭くなっている現実に怯え、その上に

このパーキンソンと言う病気は、手足の震えを起こし筋肉が硬直し、覇気が薄れ、更にふらつく足と手足の震え、予想だにしない現実を妻は受け入れなければならなく成っていた。


「あーぁ死にたくなってきたわ。お先真っ暗ってこのことね!」

投げ槍に妻はそんなセリフを毎日のように重ねて憂さを晴らしていたが、私とてどうすることも出来ないでいた。

 それは医学的にも難しい病状であったようで、誰もが気を使い温かい心で向き合ったとしても、どうすることも出来ない現実であった。


 妻はまだ四十歳の歳を迎えたばかりであった。

「無理ね!私はこの目と手で、ご飯を作り洗濯もして、それで床に転げて、どれだけ痛みに堪えて頑張っても、明るい未来などないのね。


明楽と言う明るく楽しい未来などどこにも無いようね。こんな名前をつけてくれた両親に文句の一つでも言いたくなるわ。

でもそれは私らしくないし、罰があたるわね。それでも正直悔しいわ!」

 薄暗い部屋で妻明楽が涙をうっすら光らせながらそのように独り言を言うように口にした。

 


 そんな妻が病院へ行っているある日、長男の賢真が私の前に神妙に座り、

「父さんはっきり言って母さんこれから日を追うごとに悪くなって行くのでしょう?」

そう口にした。

「母さんあまり長く生きられないだろうね・・・生きれたとしても苦しんで苦しんで生きなければならないだろうね・・・」

そのようにも付け加えた。


「でも母さんにとって今一番何が大事だと思う?長く生きる事?これからも苦しんで苦しんで辛い思いをして生き続ける事?」

そこまで口にした。

「賢真やめなさい。母さんが耳にすれば悲しむようなことを言うんじゃないよ!」

私は堪らなくなって長男にそのように言い返すように口にしていた。


「でも父さん、この二年間母さんをどこかへ連れて行ってあげた?行ってないでしょう?母さんも病気で苦しんでいるから一度も口にしたことはないけど、でも本当はどこかへでも行きたいのじゃないの?いつも行っている葛城山とか?」


「無理だよ、そんなことしたら母さん余計に辛い思いをしたり、苦しまなければならないと思うよ。家の中でも倒れたりしているから、山道なんて無理だと思うよ。可哀想だけど・・・」

「ぼくね・・・母さんに近い内に聞いてみるよ。山へ登りたくないかって?

それで登りたいって言ったなら何とかしてあげようよ。



 母さんこのまま朽ち果てるように弱っていくのなんか見たくないから。

僕の言っていることが医学的には間違いかも知れないけど、

でも父さんいつか言っていたよね、父さんが昔、癌に侵され余命幾ばくかも知れないおばさんと一日中葛城山で一緒だった時のことを、何度も聞かされたよね。

あの話今のかあさんに必要じゃないのかな?」


「そうか~賢真はそんなこと思ってくれているのか。優しいじゃないか・・・」

「どうしてこんなこと言うのかと言うと・・・万が一だよ、万が一母さんが近い将来に歩けなくなって目も見えなくなって・・・そんな風に考えたら、今のうちに母さんの人生で、悔いが残らないようにしてあげるのが家族の役目じゃないかな・・・



 たぶん母さんは父さんが何度も話している、その大阪のおばさんのことを聞かされて、母さん心が動いて貧乏小説家の奥さんに成ったのと違うの?僕はそのように捉えているよ父さんたち夫婦のことを」

「そうか・・・良いこと言ってくれるな。賢真も大人の仲間入りをしてきたようだな。ありがとうな。」

「実を言うとね、母さん仕事辞めてから家に居るだろう。僕学校から帰ってきて、母さんが台所で目を真っ赤にして泣いている姿何度か見たんだ。一生懸命ごまかして隠そうとしていたけど。


 それは真我も言っていたよ。だから僕も真我も学校から帰るときは、玄関先で大きな声を出して《ただいま》って言うことをいつの日にか二人で決めていたんだ。

母さんが泣いていたとしても、それを隠せるような時間が要ると思ったから。僕らに対する母さんの気づかいだと思ったから。



 だからあれから母さんの目が真っ赤に成っていることが無くなったけど。

僕たちに見せまいと母さんも必死だったんだろうね。」

「そうか・・・・そんなことがあったのか・・・」

「だから父さん、僕ら家族として今母さんに何かをしてあげるべきだと思うよ。母さんに万が一のことが起こっても悔いの残らない家族でありたいから・・・」

「賢真・・・賢真の言う通りだな・・・母さん喜ぶよ賢真の気持ちを知ったなら、そうか・・・そんな風に考えてくれていたんだね。」



 その賢真の思いが家族会議になったのは然程時間が要らなかった。

妻が担当の眼医者に聞き、さらにパーキンソン病の担当医に相談して、

三年近く途絶えていた家族そろっての山登りが再開されることとなった。




 さくらの季節は刹那に過ぎたころ

私たち家族は知り尽くした葛城山に向かっていた。

まだ肌寒い時節であったが、妻が一日でも早く連れて行ってほしいと嘆願したので、我が儘に似た言い方であったが聞き入れることとした。

 山頂まで登ると可成り冷たいことも想像出来たが、それでも妻はどんなに喜び、どんなにはしゃぐよう



朝一番に家族四人は電車に乗り二条山駅に向かっていた。

私はこれで何度同じことを繰り返したか、大阪城東区の徳間りこさんと出会った時からでも何度もこの山に来たことを数えた。


  ところが二条山駅まで来たところで、妻明楽が躊躇する態度に急変した。

家族の後押しで妻も山登りに動じていたが、思いのほか体が動かず、また動かすことさえ辛かったのか、ただ黙って俯きながら『自分だけが駅で待つわ。』と言い出した。



 それは不自然な光景であったことは言うまでもない。

電車の中で座っている間はわからないが、いざ立ち上がりそれで坂道を歩かなければならない現実は重すぎた様であった。

 私は妻のことをそんなに重く考えていなかったので、気持も手伝って勢いで登ってくれるものであると軽く考えていた。




 電車から降りた人々は誰もがはつらつと登山道に消えて行き、我々の家族だけが取り残されるように駅のベンチで悶々とした。

「無理だわ・・・」

妻がそう言った。

「絶対むりよ・・・」

更に念を押すように付け加えた。

「母さん辛いの・・・登ろうよ。」

長男の賢真が母の顔を覗き込むようにして、案ずるようにそう口にした。

「ごめんね。せっかく連れてきてもらったのに、この座間じゃみんなに迷惑かけるわ。」

「母さん、じゃぁ引き返すほどいいの?」

「ごめんね。急におかしくなって・・・」




「僕らが手伝うから母さん登ろうよ。あんなに楽しみにしていたのに・・・」

弟の真我も母の目を見ながら、納得がいかないようで残念そうにそう言った。

妻明楽は目に涙を光らせ二人の子供たちの肩に手を当てながら、うつむいて「ごめんね!」とそれでも口にしたので、


「そうか無理か・・・じゃぁ帰ろうか?でもせっかく来たのだから山は無理だとしても、どこかもっと楽な所へ行くなら良いだろう?子供たちが楽しめるところが」

「でも今日は母さんが主役だから」

私の言葉に賢真が切り返すように言葉を荒げてそう言った。

「賢真ありがとうな。」妻は俯いたままで賢真をかばったので、



「じゃぁ明楽が一番いい方法を言って」

私はそのように纏めた積りであったが、子供たちは納得いかないようで、思わぬ方向に進むことが情けなかったのかも知れない。

 私はその時、これから次第にこんなぎくしゃくしたやり取りを繰り返すのだろうと、家族がどんどんと暗闇に突き進んで行く未来の姿を想像していた。



 妻明楽は今私の視界の半分になっているかも知れない。いやもっと狭くなっているかも知れない。そして二本の足は思い通りに動くことさえ出来ないようであることを、私はどれだけ理解しバックアップしなければならないかを、十分理解しているか、それさえもわからない。

不安だけが私たち家族を包んでいる様に、その時ひしひしと感じた。


 次の電車で直ぐにとんぼ返りすることにしたが、駅員さんは不思議そうな顔で見送ってくれていたが、仕方なかった。

「阿倍野で何かおいしいもの食って帰ろうか?」

まだ昼には時間があったが、その言葉に妻も子供たちも笑顔になり、それでもたいしてご馳走と言う物も注文することなく、みんな質素な食べ物で満足していた。ギョーザとチャーハン精々その様な献立であった。




 私はその時気が付く事に成ったが、長年子供たちにさえ、ご馳走の食べ物がどんなものであるかさえ、経験させて居なかったように思う。

 貧乏小説家がアルバイト、その妻もパートで生計を立てて居る我が家、それは初めからで現在の姿でもある。子供たちはご馳走が何であるかすら知らないのである。


彼らにすれば余程迷惑な境遇であったろうに、結構幸せに思ってくれているようである。

だから賢真も真我も水準以上の優しさを持ち合わせてくれているように思っている。

それとも彼らは十分わかっていて、敢えて親が嫌がることを言わないのかも知れない。もしそうだとしても、彼らが親を思う優しさ以外の何物でもない。




 お腹を満腹にして自宅へ帰るなり、子供たちはどこかへ遊びに出掛けた。

妻明楽は相変わらず落ち込んでいるようで、誰よりも何度も登った葛城山に登れ無かったことが相当ショックであったらしい。

「これから私はこんな毎日と喧嘩しながら生きていかなければならないようね。」

そこまで口にして両膝をかかえ、俯きながら涙を堪えている。


私はその彼女の気持ちが痛いほどわかったが、逆に、

「なぁ明楽、初めて出会った時のような明るい君を見ることは出来ないのかなぁ?

 病気は辛いだろうけど、でも今日の君は病気に負けているように思うな。

何も分かっていない僕が生意気な事を言っているかも知れないけど。でも明楽は自分自身の視野を自ら狭めて行っているのじゃないのかな?



あの初めて出会った時のように、僕がまるで運命の人って言った言葉に、君は積極的に心を開いてくれたよね。たぶん普段はおとなしい筈の君が、あの時は積極的に心の中に飛び込んでくれたよね。友達の香苗さんが驚いていたじゃない。

 でも今はその逆で心を閉じようとしているように思うな。二条山駅で病気を外の人に見られたくなっかったから、君は億劫に成ったかも知れない。そんな風にも思ったよ。


 それは僕には判らないから、明楽自身で考えて。賢真も多くは口にしないけど、随分残念がっていると思うよ。あの子はね。母さんのことを人一倍心配しているから・・・

 それに明楽が思いのほか弱っている事でショックだと思うよ。あいつが母さんを一日でも早い内に、どこかへ連れて行ってあげたいとしぶとく言っていたから…」

「そうね。どうして私だけこんなに成るのか、いくら慰めて貰っても、私は往生際悪いけど認めたくないのね。

 いつまでも何故?なぜ?って自問自答しているのね。宿命なのかも知れないわ。父さんも結構病気がちだったから、あの歳で死んでしまったから」

「明楽、頑張っている君に、頑張れよなんて言いたくないから、君が苦しまなければ成らないなら、力に成るから何でも遠慮なく言うんだよ」

「ええ、でも亮さんはこの頃小説を書くこともなくなっているでしょう。私が働けないから、亮さんに何もかも皺寄せに成ってしまって。申し訳ないと思うわ。」



「でも明楽、私の小説がいまだ一度だって日の目を見ていないんだよ。

だから偉そうなこと言えないだろう・・・君の両親にも結婚するとき立派なことを言って挨拶させて貰ったこともあるし・・・でもお父さんももう居ないから見て貰うことも出来ないし…」

「だから気を使って?」


「そうだね。いや違う!今私にとって一番大事なことは明楽の世話を必死になってすることだと思っているし、子供たちもそう言っているよ。当たり前のように。だから私が小説を書けない事など当たり前だから、気にしなくってもいいから」

「それじゃぁ私が生きている内に亮さんの本を手にすることが出来ないかも知れないわね?私はあなたの人生まで狂わせているかも知れないのね。」



「明楽、そんな考え方しないほどいいよ。誰も喜ばないよ。そんな言い方は誰もが暗くなるだろう?

 そんなことを思わず、今度はきちんと山へ登ることを考えてほしいな。あの城東区の徳間りこさんの話を何度かしたよね。山って引き返すのは簡単だけど登り切ってこそ山って話を聞かされたことを。

 だからこの前も君に是が非でも登って貰いたかった。痛いかも知れない、苦しいかも知れないけど、たとえ山の上で何か辛いことが起こったとしても、私たち家族がみんな側でいるのだから・・・でも無理を言ってはいけないけど。



 明楽、これからも二人の先生の言うように、君の病気は大変辛いことの繰り返しだと思う。私にはその苦しみも辛さも、情けなさも歯がゆさも、何一つわかっていないと思う。

でも賢真がいつも言っているように、君は絶対悔いの無い毎日で在って貰いたいと、家族は誰もが思っているから、また気が向いたら葛城山に登ろうよ。嫌かな?」

「・・・」

 妻明楽は返事を躊躇してうつむいてしまった。

私もそれ以上はくどくは言葉にしなかったが、妻はほほを緩ませているように私には見えて心は落ち着いてきた。



 たった四人の家族でその中の一人が重い病気に侵され、決して開ける事のない将来に向かって、歩んで行かなければならない現実が常に妻に圧し掛かっている。

 私たち夫婦はまるで丸と三角の間柄になっていて、決してかみ合うことなど無いように思うのは私だけで、果たして妻はどのように思っているだろうか・・・

 病気になって苦しむ妻の着ているものを、乱暴に荒々しく剥がすことなど出来ない。お互い健全で若いときはそれでよかった。ともに夢中になり燃えていた。

 それが恋で、夫婦としての夜であった。その激しさが二人を燃えさせ、恍惚の世界に辿り着いていたことは確かであったが・・・

 過ぎし日のあの暑い夜を思い出しながら、丸く背を折り眠ってしまった妻に夏の毛布を掛け、私はどうにもならない現状を、冬の風に曝される様に感じていた。

 

 それから暑い夏は終わり山々が色ずき始めたころになって、賢真が

「母さん、もう一度挑戦しない?葛城山が待っているよ?この頃少し調子良いのじゃないの?夏に比べて暑いのも収まって来たから、体が楽になってきただろ?もう一度山登り考えてね?」

「そうだね・・・行きたいけど・・・」

「僕ね、こんなことしていちゃ駄目だと思って、来週から学校の近くでアルバイトするから、面接もして採用されたから、だからこれから自由が無くなって、あまり休めないから、だから今度の日曜日にでも行かない?」




「お父さんに相談してみるよ。私だけで決められないから」

「いやぁ父さんなんて関係ないよ。母さん次第だよ。母さんが是非って言ったなら父さんは従うよ。ちがう?父さん前に言っていたよ。母さん次第だって、でも父さんは母さんに無理を言いたくないから遠慮していると思うよ。


 この頃アルバイトに精を出しているし、好きな本を書くことも抑えて、家族の為に頑張っているから。父さんも精一杯だから」

「そうね。私が頑張らなければいけないのに、こんなになってしまって、申し訳ないわ。」



「母さんその話はもいいから・・・だから母さん思い切って今度の休みにみんなで山へ行こう。僕らみんなで母さんを支えてやるから。真我にも紐かなんかを持って行かせて手伝わすから。正直僕も今度の休みに行きたいのだけど、頂上までは随分行っていないだろう?

 またみんなで葛城山の頂上でおにぎりでも食って綺麗な空気吸って・・・母さん行けるって!まじ行こうよ、みんなで」



 賢真はこれ迄になく必要に母に言い寄った。

その強引さが功を奏したのか、翌週の日曜日に家族は葛城山を目指すこととなった。

 アルバイトに精を出さざるを得なくなった私は、免許をとり軽四輪の中古を買って、だから今回は車で奈良県御所市の葛城山登山口まで走ることにした。また万が一のことを考えて、帰りはケーブルを利用出来るようにも考えて、万全を期す計画を立てた積りであった。



 そして実行日になり、まだ朝日が差し始めた早朝に、私たち家族は出発し、暫く走ると眩しく強烈に朝日が家族を照らし始めたが、それでも妻はまだ、はっきりわかっていないのか、私たち家族は驚かされるセリフが妻から飛び出した。



「まだ暗いのね。」

 目が侵されていることがその一言で分かった。

誰も「まぶしい!」と言うことさえ言えず、子供たちは母の言葉を、かみ砕いて呑み込もうとしている様に私には思えた。



 妻明楽が可哀想すぎた。手足の自由を奪われ始め、そして目も今のセリフが示すように、遠くない時期にその役目が終わるかも知れない・・・

 私は突き刺さる朝日に向かって目に湧き上がってくる涙を、どうすることも出来なかった。そして神様は意地悪だとつくづく思えてきて悔しかった。


「母さん真っ赤な朝日が出てきたよ。今日はかなり天気がいいと思うよ。

それにこんなに朝早くだからまだ登山に来る人も少ないと思うから、今日は気楽に頑張って登ろうな。」


「そうね。少し明るくなってきたわねぇ。みんなに迷惑かけるかも知れないけど、賢真も真我も父さんも頼んでおくわよ。」

「大丈夫だって母さん。僕ねこれ見て!」

「なに?」

「これ触って」

「紐?」

「そう兄ちゃんがこれで母さんを引っ張ってあげなって」

「そうだよ母さん。みんなで母さんを頂上まで連れて行くから。」

「ありがとうね。みんなうれしいよ。母さんうれしいよ。頑張るわ。」


「明楽、こうなったら登らないわけにはいかないね。いよいよ母さん次第って事に成って来たね。子供たちの為にも頑張ってあげて。でも決して無理の無いように、明楽が気持ち良いと思うことが大事だから。


 だから前のように途中で無理だと思ったなら、引き返すことだって間違いじゃないから。それが為にも今回はケーブルの乗り場の横から山へ登るから。」

「初めてだね。葛城山の登山口から登るの?」

「そうだな、父さんがまだ独身の頃に一度だけ登ったことがあったけど随分前のことだな」


「ねぇ、父さんが母さんと知り合ったのは、二条山の登山口から登った時だっていつか言っていたね、もし、もし父さんも母さんも二条山登山口から登っていなかったなら、二人は出会わなかったわけだね?運命の人なんてかっこういいこと言うことも無かったんだね?」



「賢真、父さんはね私にあんなこと言ったけど、あの言葉は誰でもよかったのよ。父さんは小説家でロマンチックだから、相手かまわず『あなたはまるで運命の人だ』なんて言っていると思うわ。だから私は父さんのその言葉を真に受けて、でも結果的には私お父さんの人生を台無しにしてしまって」

「おいおい明楽、今日はその言い方はご法度だから。止めなさい。」

「ごめんなさい。」

 

 

私は妻が同じ落としどころへ持って行くことに、苛立ちさえ感じながらハンドルを持ち続けている。

 この早朝の限りない爽快さも、澄んだ空気も彼女はわかっていないのか、時折外を見るだけで殆ど俯いている。

 これは彼女にとって一番快い形なのか、私にはわからないが、決して景色のことは口にしない。

 これから先、間違いなく終わることなく、この思いを継続しなければならないのである。

 かみ合わない会話もかみ合うようにしなければならない。


 まだ四十歳半ばにも成っていない妻明楽、そして私でさえまだ四十歳の中ほど。何が二人に試練を与えるのか私にはわからない、神を冒涜したこともなければ蔑ろにしたこともない。先祖を嫌な思いにさせたことなど考えられない。粛々と歩んできた我が道、そして妻明楽の道


 これだけの試練など私も妻も考えていなかった。でもいよいよ現実に圧し掛かって来ているその重みが、更に増したように感じた。

「父さんも母さんもまるでお通夜に行くみたいだね。黙ってしまって」

賢真が私たち二人の心に通っているものを感じたのか、そのように明るく言った。

「そうだお二人さん元気出して」

弟の真我までもがつけくわえた。



 私たち家族は山麓線に入りやがて御所市櫛羅につき、葛城山登山口の駐車場に着いた。

 妻の目は明るさに慣れてきたのか、最近家の中でほとんどを過ごしている性か、限りなく晴れ渡った青空の元では、いつもより視界が良好なのか、思いのほか明るいことに気が付いた私は、何故か肩の荷が降りて行くように思えて、

「さぁついたぞ!明楽、今日は我が儘言わせないぞ!」

私は笑いながら無理にそのように元気よく敢えて口にした。

「わかっています。」

妻も私に待ってましたと言わんばかりにそのように答えた。

そして二人は見合って笑顔になった。




 登り口は階段があり妻にとってはかなりの難所であったが、何とかごまかしながら、皆は一歩一歩ずつであったが登り始めた。

まだケーブルが動いていないこともあり、登山客はまばらで、何も気を使わなくってもいいからと、その事を妻に告げ、妻は気に成っていたより遥かに力強く歩き続けてくれる事が嬉しくて、妻を無理に連れて来たことが正解であったとしみじみと感じ、無理に妻の心を動かせてくれたことに、今さらであったが、どこまでも思いやりのある兄賢真に感謝していていた。



「明楽、案外大丈夫じゃない?来てよかったね。賢真が無理やり強引に言ったから実行出来たけど、賢真ありがとうな」

「よかっただろう。父さんも母さんも、これでまた来れるように今日は頑張らないとね母さん」

「あぁ頑張るよ!今日はみんなの為にも」

「そうだよ、僕はともかく真我はまだ子供だから、母さんにまだまだ頑張って貰わないと。もともと目が見えない人も世の中に沢山居るのだから。みんな頑張っているのだから」


「そうだね。賢真の言う通りだね。おまえさんも来週からアルバイトしてくれるんだね。亮さん、そうらしいわよ。私がこんなことになってみんな苦労だね。ありがとうね。」

「それが家族じゃないか。賢真も体に気を付けて頑張れよ。勉強もおろそかにしないようにだけ気を付けて」

「あぁ」


 私たちは他に誰も居ないことをいいことに大きな声を出しながら、僅かずつであったが頂上を目指していた。

 いつの日か私が一人でこの山に来たとき、それはこの葛城山ロープウエーがある正にこのコースで、たまたま出会った徳間りこさんと、終日お供をさせて貰って聞かされた多くの話は、今に生きていることを感慨深く思い出しながら歩き続けていた。


 今横で歩き続ける妻は、せいぜいと喉を鳴らす音が聞こえる苦しそうであったが、敢えてこちらから声を掛けることをしないで、出来るだけ強い心で歩き続けてくれる事を願いながら見守っていると、弟の真我がリュックに仕舞ってあった紐を取り出し、妻の手にその端を持たせ、せっせとその紐を引き始めた。」



「うわぁー助かるわ、楽ちんだわ。待って腰に巻くわね。」

妻は大きな声を張り上げて、思いがけない有り難いことをして貰ったように大げさにそう言った。

 真我は殊の外嬉しかったのか、腰に紐を巻き付けて牛の様にせっせと引き続けたので、妻がこけそうになったが、慌てて私は真我に注文を付けたりせず、妻の脇に肩を入れ倒れないように妻を庇った。

「父さん、僕が変わってあげるから」

兄賢真が私を見てそんな風に言って私に変わるように催促してきた。



 賢真に支えられてそして真我に引っ張られて、妻は一生懸命歩き続けている。

「どうか神様妻がこれ以上悪くならないようにお願い出来ないでしょうか?

私たちの家族に何か許されない事があるのでしょうか? お願いです妻も子達もこのように必死なのです。」

 グラグラとなりながら、必死で歩き続ける妻の姿を見つめながら、私は祈りながら心を熱くしていた。

 

 歩き始めて二時間も過ぎた頃に、さすが妻はとうとう苦しさを正直に口にするようになった。

「ごめんなさい。みんな申し訳ないね。これ以上母さん無理かも知れないわ。」

そのように言ったので私は妻の前にいき

「母さん私がおんぶするからそれなら行けるだろう?引き返すにしてもかえって辛いと思うよ。だからとりあえず登り切って、それで辛かったなら、辛抱出来ないなら、ケーブルで降りればいいから。



 だから私がおんぶするから登り切ろう。きっと上に行けば何か得るものがあると思うよ。」

「そうだよ母さん僕も父さんと代わり代わりでおんぶしてあげるから」

賢真も力強くそう言い、私達はそれから妻を代わる代わるでおんぶして頂上を目指した。

妻も歩ける所は歩いたが、それでも相当辛かったのか常に倒れそうで、恐々であることが、私たち家族が悲壮感を感じる結果となったが、  

 それでも私も賢真も何一つ泣き言を言わず妻を背負って頂上に向かっていた。


 頂上に着いたときは既に昼になっていて、相当時間が掛かったことは言うまでもない。

 まだ暑さの残る九月だったので、その疲れは少なくとも私は相当なものであり、足の筋肉が引き吊っていることが判り、今にもこむら返りを起こしそうであった。

 賢真はそうでもなかったのか若さがそうさせていて、いや彼の場合は物理的な物よりむしろ心に只管なものがあったようで、それは私以上だったのかも知れない。母を思う気持ちが誰よりも強く只管であったようである。



 それは私に要因があるのではなく、むしろ妻の心の温かさを彼は引き継いでいるように思えた。

 草むらにシートをひきみんなで座り、弁当を広げそれをほう張り、冗談を言って笑いあっているのは、まさしく素晴らしい家族であると、私は嬉しさで堪らなく心が熱く成って来るのを抑えられなかった。

だからいつの間にか黙ってしまって、

「とうさん、母さんをおんぶして疲れたから無口になって・・・息をゼイゼイさせて黙ってしまって・・・」

真我がそのように言って私をからかってみんなを笑わせた。


「そりゃ父さんは小説ばかり書いてきたから、いつも椅子に座って足腰が弱っているからなぁ・・・でも今はいくらかはましになっていると思うよ。だってアルバイトで鍛えられているから。帰りは真我が父さんに変わって母さんをおんぶして貰おうかな?」

「無理無理、僕は紐で母さんを引っ張ってあげるから」

「でも真我帰りは下りだからその必要はないと思うよ。」

「そうだね。代わりに荷物を持って貰おうかな?」


 たわいもない会話を交わしながら至福の時が流れる。

この家族にまるで不幸など来る筈がないように。

 しかし妻は時折笑顔を忘れる。食事を済ませ子ども達がはしゃいでいる時も、何故かもの悲しそうな仕草を取り戻すようにする。

 それは声ははっきり聞こえているにも拘わらず、彼女には子供たちの姿が、時折視界から消える歯がゆさや悔しさを、苛立つ心を表情で表しているような気がする。



「母さん来てよかったね。美味しい空気吸って、美味しいおにぎり食べて、来てよかっただろう?」

「ええ、賢真が強く言ってくれて決心がついて、来てよかった。でも来年も来たいかって聞かれたら・・・そうね・・・来年も来れるかって聞かれたら・・・」

「そんな先の事を今考えなくっても今が大事だから・・・昔同じ様な話を聞かされたことあったけど、今は今日のことだけを考えて」

「そうね。世の中は成るようにしか成らないものね。今日の日に感謝ってことね。子供たちに感謝、あなたに感謝ってことね・・・」

「そうだよ・・・美味しかったおにぎりに感謝、それを作ってくれた明楽に感謝だよ」

 

 私たちはたわいもなくそんな会話を交わしていると、子供たちが戻ってきてどこかへ行こうと言い出した。

 山には何もない。あるとすればロッジの建物があるだけで、それが心を打つほどのものであるかなど私は知らない。

 おそらく今まで利用したかったとも思わなかったし、興味等無かった。だから今まで何回も来ているのに、一度も行ったことはない。



 それと言うのもこの山に来るのは、もっと情緒的で、正直に言って、気が詰まった時や、人生に戸惑いを感じた時などに来ていた根底があったので、言い換えれば人様を避けていたから、それなりに意味はあったが、ロッジに泊まって夕焼けに酔い知れる様な、ロマンチックな事など結婚するまで考えた事は無かった。

 それから結婚してからも妻明楽と話しはしたが、何しろ安く泊まれることはわかっていたが、それさえもままならない家庭事情であった。


 だから子供たちにもこの空気を吸い、目の前に広がるススキが、やがて秋の色濃くなった頃に、十分憂いを感じることを口にするだけで、他は何も要らないと思っていた。

 それに初夏に来て満開のつつじに酔いしれる事など今まで一度も考えもしなかった。



 でも子供たちはそんな憂いで満たされることなど考えられないのか、或いは余計なのか、退屈を感じた彼らは草の上に座り、どこかへ行こうと言いながらゲームを夢中でしている。

 それから私たちは十分九月の快い風を感じながら下山する事を決めた

 まだ下山には少し早かったが、万が一のことを考えて、また妻があまり人が多くなると辛いだろうと思い、私なりに気を使って判断した。

 

 下りは思いのほか急で、それでも妻は何とか私たちに支えられながら頑張って下り続けた。

 何度も何度も休憩をはさみ、妻の心が乱れないようにと十二分に気を使いながら、機嫌よくみんなは車の在る所まで戻ることが出来、妻が駐車場を離れ際に、《山の神様、また来れるようにお祈りいたします。》そうか細く神妙に言ったのが身に詰まっていて可哀想であった。




 何度も思うが、妻はまだ四十歳半ばにも成っていない。だから私の心のどこかで妻と同様に、現状を認めたくないのか、往生際が悪いようで、妻の一言にも僅かな動作にも一喜一憂している。

 これは只管に愛しているからか、それとも現実を認めたく無く、奇跡などと言う言葉を信じようとして、単に往生際が悪いだけなのか、隣で眠りについた妻、車のハンドルを持ちながら重い気持ちに成っていた。

 子供たちもすやすやと死んだように眠っている。

 この幸せな家族では何故いけないのかと、またしても私は神様に問い訪ねている。


 何とか葛城山登山は無事こなすことが出来、家族の誰もが心を豊かにしていた。

長男は宣言通りアルバイトに行くようになり、これまでにない引き締まった家族に変わろうとしていた。兄の影響で弟の真我も、いつの間にか家族の為になるような行動を自然としているようで、それは母親の辛さを思っての優しさから来ているものであることは言うまでもなかった。

 

 

家族って、幸せって、何でもないことを言うのか、それとも切羽詰まった環境でピリピリと神経を尖らすとか、何か逆風を感じながらそれを乗り越え生き続けることが、それもある意味幸せに感じるのか、

 私は我が家族がいかなる状況であっても、見失うものもなく冷静に常に幸せを求めているように思える。この思いは繰り返す毎日毎日を大事に生き続けているからだろう。

雨降って地が固まったように、山登りはそれなりに成果はあった。 


 妻はそれからも口にこそ出さなかったが、あの登山を境に体の調子が良くなったかと言えば、決してそんなことはなく、医学は滅多と嘘をつかないようである。


 言い換えればあの日から更に少しだけでも状態は悪くなっているように思うが、暑すぎた真夏の時期に比べれば、朝夕涼しくなったこの季節は、比較的暮らし易いだろうと思えた。


 月三回ほど行く病院も、妻の当たり前の行事に成っていたが、症状を詳しく聞くことも無くなり、妻もまた私や子供たちに心配をかけたくないのか、あまり病気の現状に触れることは無くなっていた。

 それでも私もアルバイトに朝早く出かけることもあり、妻の様態を私から聞くことをしないようにしていたので、健全な者には判らない現実が、妻の体や心をむしばみ始めていたことは確かであった。

 妻はバランスを崩し倒れることも時々あり、それはパーキンソン病独特の症状で、病院の先生にお任せする以外に私たち家族はどうする事も出来ないでいた。



 勿論目の方も相当視界が狭くなっているのか、夕方に成るとまるで勘で動いているような仕草であるのか、子供たちも相当気に成っているようである。

 長男は学校が終わるや否や、すぐにアルバイト先に行き仕事着に着かえて、せっせと働いているようで、夜の九時近くになったころ、疲れ果てたように帰って来てることが当たり前の姿になっていた。

 妻は私と長男が家に帰って来るまでにどれだけの思いをして、夕食を作ってくれているかなど想像することもなく、質素だったが美味しく夕食を頂く毎日を繰り返していた。

 ところがそんな日を当たり前のように繰り返していた時、妻が大けがをした。転んで右手の肘から床に倒れ複雑骨折をしたのである。



「可哀想に・・・」私にはそれ以上の言葉が見当たらなかったのは、そんな日がいづれ近い内に来るだろうと、心のどこかで思っていたからで、まさにそれが今来たのである。

 病院のベッドの上で横になる妻は悲しそうに私を見て溢れる程涙を流したが、それは今の姿に泣いていると言うより、これからもっともっと苦しまなければならない将来を予感しての、助けを求めての涙だったのだろう。


 止め処もなく涙は妻を責め立てるように出続けていた。気丈だった妻明楽は間違いなく様変わりしていた。

 その現実を裏付けるように妻は小さな声で「これが私の生きざまね!悔しいけど・・・もう無理・・・」吐き捨てるようにそう言った。




「十分気をつけてあげてください。これから患者さんは次第に症状が重くなって行く事が考えられます。二つの大きな病気を抱えていることから、逃れられないわけですから、家族の支えが何よりです。場合によっては突飛な事の繰り返しになると思われます。入院されることもご検討下さい。」

 担当医にそのように神妙に言われ、私の心が硬く成っていくのを覚えながら聞き入っていた。

《目が見えなく成っていく様な妻が、足腰がふらつくパーキンソン病と言う大病を抱えてどうする?》




私にはわからなかった。先日葛城山へ登った時に頂上にあるポールに向かって、あの感謝の気持ちがしみ込んだと思われる、あのポールに向かって《どうか妻がこれ以上悪くならないようにお願いしておきます。徳真りこさん。助けてあげてください・・・・・》

私は目を瞑ってその様に只管お願いしていたが、

 でもあれからまだ僅かの日なのに、妻は次のステージに容赦なく移されたように思った。宿命なのか運命なのか・・・私にはわからないが・・・

 

 私は泣き続ける妻のほほに手をやり優しくなでながら、その手で妻の手を握り「体のことを考えてこれからは慎重にな?みんなに心配かけるから・・・」そんな風にしか言えなかった。

「随分と弱ったな!」とは思いたくなかった。

むしろ慌てていて躓いて転んだのだと思いたかった。

 妻はそれから一か月近く入院したのち退院してまた家事を始めたが、今までと同じにはいかず、筋肉も劣ってしまって何とか歩いて、ごそごそするだけで精一杯のようであった。



 夕方になると殆ど見えないのか危なっかしいと自分で言い出した。

だからあまり手の込んだものなど作れないと言い出したので、私は妻に、惣菜を私が買って帰り、妻はようやくご飯を炊くだけで、それ以上はしないように強く口にしていた。

 妻はそれだけでもやっとだったのか、次第に借りてきた猫のように大人しく毎日を過ごすようになり、ボンボンベッドで横になり、静かにイヤホーンで演歌を聞くのが落ち着くのか、まるで優雅な奥様のように、昼日中からそんな毎日を繰り返していた。




 目の不自由な人でも炊事洗濯をこなしている人もいると思われたが、妻の場合は毎日変化して今の状態になったわけで、それに筋肉が硬直したり震えが来たり、思わぬ現象が起こったり、それは厄介なものであった。

 だからまるでベッドへ寝転んで気楽な毎日に見えたが、決してそうではなく、彼女にとって数少ない選択だったのだろう。




 ところがそれから一年が過ぎたころ、妻明楽の目は何とか膠着状態で保っていたが、パーキンソン病は決して全壊することなく、やや酷くなった状態で不安定ではあったが、それでもそれなりに落ち着いていて、妻は明るく振る舞っていた。

「母さんあれからどれくらい経つ?」

「あれからって?」

「だから葛城山へ登った日から」

「そうだね。・・・一年以上なるね。」

「もう嫌?あの山へ行くの?」

「無理だと思うわ。そんなこと言っても・・・」

「いや無理じゃないよ。僕たち居るから、それに真我も高校生になり体でっかくなったから、今じゃ彼だって母さんをおんぶしてくれるから。だから母さんさえ行きたいと思ったならいつでも行ってもいいから。」



「でもはっきり言って、母さんあの山道を歩くことなど出来そうにないわ。」

「母さん、だから僕たちが居るって、男三人も、またおんぶするって、

登れば風が違うし流す汗も違うから。第一母さんの心の中も洗われるだろう?誰よりも山が好きな母さんじゃない?」

「それはそうだけど」

「母さん、僕変なこと言うけど、真我にも母さんの温かさを教えてあげて貰えないかな?」

「温かさなら毎日感じてくれていないの?母さんはこんな体だけど、お前たちは何より大事に思ってきた筈だよ」



「いやそうじゃなくって、真我も母さんをおんぶして思いっきり汗を掻きたいと思うよ。あいつはそんなこと言ったことないけど。

 母さんはっきり言うけど、母さんも父さんも僕たちより早く死んで逝くと思う。だから・・・・うまく言えないけどあいつにも母さんの温かさを背中で感じさせてあげたいと思ったから。

 それって以前に母さんをおんぶした時に、どうしてか知らないけど、あの時のことが忘れられなくって、よく思い出すんだ。これが親孝行なんだとあの時思って、それが今でも思うから。僕には一番の思い出になっているから。」 

「そうなの・・・ありがとうね。」



「だからもし母さんが構わないならまた暖かくなったら、それともつつじの季節になったなら葛城山へ行こうよ。」

「つつじのころね・・・ええ、私にそれだけの力が残っていたならね・・・

賢真、母さんね、今こんなにしてボンボンベッドでほとんど寝転んで、音楽聞いているような毎日だから、これでいいのよ。

たとえ目が見えなくなっても、別に美味しいもの食べられなくっても、今が一番幸せだと思うわ。




 この儘あと僅かの命であっても、十分幸せな毎日を過ごさせて貰ったと、いつも感謝しているのよ。

 賢真たちが結婚して赤ちゃんが出来て幸せになって、それも見たいけど、でもあなたたちなら間違いなく幸せになってくれると思うから、何も心配していないのよ。」

「でも真我にも僕と同じような経験をさせてあげたいから。確かに前山へ行ったときは、紐で引っ張って頑張ったから忘れることないと思うけど、それはそれとして・・・また考えておくからその時が来たら考えてね。つつじの頃がいいと誰もが言っているから、ロッジに泊まってもいいんだよ。母さんも父さんも葛城山に何回も行っているのに泊まったことないんだろう。安いし親切にしてくれるようだよ。行けたら行こうよ。」

「あと半年向こうね、。でも私は残念ながら目が見えないかも知れないと思うけど。それに足だって・・・」



「だから母さん目だけじゃないだろう?耳も鼻もあるだろう?風だって見えない人には匂うかも知れないし、聞こえるだろうし、想像することもできるし、歩け無かったなら僕たちがおんぶするって」

「わかったわ。贅沢なこと言っちゃいけないわね。」

「そうだよ。ベッドで寝てばかりでいないで、杖ついてでも歩いて、少しでも足腰を鍛えてくれないと、母さんが誰よりも頑張らないといけないんだよ。負けないで負けちゃ駄目だから」

「そうだね。賢真の言う通りね。みんな頑張ってくれているのに私が頑張らないとね。」


 それまで妻明楽はまるでパンダのように、ボンボンベッドに身を沈めることがよくあったが、それがいつの間にか無くなり、四つん這いになってでもごそごそと、常に家事や何かをするようになった。

 それはまだ四十歳半ばの年齢であることは誰が見てもわかることで、決して母に甘えや緩みなど、心の中にあってはいけないと言わんばかりに、以外と一番優しい筈の長男賢真が母にきつかった。

 それでも妻明楽は確実に目も体も悪くなって行っているようで、口にこそ出さなかったが、日常の動作からもその衰えを感じさせられる毎日を繰り返していた。




 長男賢真の優しい心遣いでその思いに応えるために、母明楽は今一度葛城山へ登りたかったが、家族が思う以上に衰え続ける現実に、怖ささえ感じる毎日を繰り返していた。

 それから半年が過ぎ、長男賢真が高校を卒業する時期になり、進学の話を考えることは考えたが、経済的にその道は不可能であった。それより

高校生の間にアルバイトを重ね母を案じ、また好きな彼女も出来、賢真は躊躇なく就職を選んでいた。

 弟の真我も兄に変わって高校生活が二年目を迎えていたが、躊躇うことなくアルバイトを見つけ力強い若者になっていた。


 初夏になりつつじの咲くころになった葛城山は、風の頼りを大阪の和佐俣家にまで届かせていた。

「明楽、葛城山でつつじが咲く時期が近づいてきている様だよ。今日の新聞に載っているなぁ」

「そうですか。きれいでしょうね。」

「でも不思議と私たちはこの時期には行ったことないからなぁ。つつじが咲くころには。」

「結婚するまでにも?」

「行ったことないよ。あの山は気が詰んだ時とか、嫌なことがあったときとか、気分転換にそんな時行っていたから」


「賢真がね、今度つつじが咲くころに行かないかって言うのよ。それも真我も大きくなったから私をおんぶさせてあげたいらしいわ。

あの子私をおんぶして何か思うものあったのでしょうね。優しい子だから。照れくさそうにこの前聞かされたわ。」

「そうだね、あいつ私にも説教染みたこと言うからなぁ。母さんが元気な内に、母さんの思うようにさせてあげたらってしつこく言われたよ。心底優しい所あるようだな。」

「でも結構きつくも言うのよ。」

「それは母さんを思ってのことだからだよ。」

「わかっています。みんな腫物を触るようにするからね。父さんも・・・」

「そうだな。変わってやれないからな、たった一日でも」

「ごめんなさいね。せっかく小説書きたくて生まれてきたような人なのに、こんなことになって・・・」



「それはお互いさま。言いっこなしだよ。この十八年間私は明楽が稼ぐお金で食わせて貰っていたようなものだから。それを言えば私が誰よりも辛くなるから。明楽のお父さんやお母さんにも大きなこと言ったことあったから、面目ないから・・・それに明楽の目の病気だって私の性だと思うから」

「そんなことないわ。私の勘違いからよそれは。

亮さんあの時必ず売れて見せますって言ったわね。あの時大きな声で、声震わせて」

「そう、だから・・・もうこの話はお仕舞」

「でも時間が許せる限り遠慮なく書いてね。あなたの作品見たいから。」

「あぁ出来れば」

「真我に朗読してもらうから」

 

 長男賢真は近くのスーパー銭湯へ就職し、母明楽はそれなりに重病に纏わり着かれたような毎日であったが、子供たちが順調に成長していることで心は穏やかになっていた。

 病気は改善することなく進行を遅らせる程度の治療を繰り返されていたので、気の晴れることはなく、 それは家族の私にも主治医から聞かされていて、妻同様に同じ思いと覚悟の毎日であったので、それ以上のことは望めなかった。


 落ち着いていた筈の妻が、五月の連休明けの五月六日、急に悪くなり、体の異変を訴え救急車で病院に担ぎ込まれ、私たち家族は冷や水を浴びる思いをさせられた。

 誰も居ない家で妻は何とか電話にしがみつき救急の電話を入れた様で

その切羽詰まった有様を涙一杯にして話した時、私は不謹慎であったが、妻の命が一本の蝋燭ろうそくに変わったように思えた。



 そのことがあってから慌てて妻にも携帯を持たせる手続きをしたが、いつ何が起こってもありうる状態であることを容赦なく知らされた。


 妻が二日後退院して落ち着きを取り戻したが、私は兎にも角にも仕事を休まなければならなくなり、一日も早く正常には成らなくても、これ迄と同じような環境に戻るように願った。

 壊れそうな危なっかしい家族であったが、それでも妻は次第に元気を取り戻し、鬼気迫るものを忘れそうになったとき、妻の口からある思いを口にした。

「ねぇみんな、賢真がいつか言ってくれていたように、母さんもだいぶ落ち着いたから、葛城山へつつじ見に連れて行ってもらえないかな?

賢真、連れて行ってくれるね?」



「いいよ、いつでも母さんさえ問題なければ。元気が出てきたんだね。僕また母さんおぶって登るから。それに真我も今度は母さんをおぶれば何ら問題ないから、

父さんだって居てるし・・・母さん行こうよ。また山に行ってつつじを見て、みんなでワイワイやれば気も晴れると思うよ。行こうよ!行こう!」

「僕も兄ちゃんと代わる代わるで母さんをおんぶするから。」

弟真我もまんざらではないように力強くそのように口にした。

 五月も半ばになっていて、刹那の内に終わる花の盛りもはっきり調べず、ただただ家族で葛城山に行くことが、何にもまして意味のある事だと、少なくとも長男の賢真は強く思った。



 続く・・・

続きます。

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