序
糸野愛香はこの日、初めて「理解する」ということを知った。
もちろん、今まで彼女が生きてきた十六年という人生の中で、理解するという言葉は知っていたし、学校での勉強やテレビやネットの知識や、あるいはは家族・友人からの会話から、いろいろなことを身につけたり感じたり思ったり知ったり分かったり、頭が抜群にいいわけではなかったが、人並みには勉強のできる彼女は、この「理解する」ということを既に理解しているつもりだった。
しかし、今までの日常生活でのそれは、今日、この瞬間に起こったことに比べれば全く別物の、「理解する」ということにはほど遠い、まるで曇りガラスの向こうから外の景色を眺めるような、薄ぼんやりとしたもので、自分はそのゆがんだ景色を見て分かったつもりになっていたのだということが、彼女自身はっきりと、この瞬間「理解した」のであった。
2018年7月10日、午前7時27分──東京都立川市にある通学先の桐生院高等学校へ向かうため、通勤ラッシュで満杯だった車内からようやく抜け出し、愛香はほっと一息ついた。それから、改札へと続くエスカレーターに向かってゆっくりと歩を進めた瞬間、何気なく、本当に何気なく向こう側のホームを見て、電車待ちの列の中で気怠そうにスマートフォンを眺めている女子高生の後ろ、頭1つ大きいスーツ姿の女性と目があった瞬間、彼女は初めて「理解した」のだ。
私はこの女性を殺さなければならない、と。
それこそ、正に「理解した」というべき事柄だった。理解する、ということが、ただ知識として、長い考察の末に物事の本質を知るというような、そういうことではなく、細切れになった事象が一斉に手を繋ぐように、それこそ、パズルが自動的に見る間に完成して1つの絵になり、その絵を眺めるかのように、一瞬にして、全てを理解し、そして悟ったのだ。
私は、この女性を殺さなければならない。
──なぜなら、そうしなければ人類が滅ぶから。
それは天啓とも言えた。そして、突拍子もない妄想とも言えた。しかし、既にパズルの全ピースをはめ終えた彼女においては、瞬間的にそれが真実であることを理解し、それが紛れもない真実であることの理由を理解し、そしてこの瞬間に彼女の体に宿った新しい力のことすら理解し、その上で、この場所でそのOLと、そう、紛れもない「敵」と戦った場合、周囲に甚大な被害が出ることまでも理解しつつ、次の瞬間には飛ぶような速さで、(真実、彼女はエスカレーター待ちの人々を頭上を一蹴りで飛び越えると、勢いそのままに跳ねるように階段を上り、驚きの眼差しを向ける人々を尻目に改札を飛び越えた)駅を飛び出た。
そして、そのまま彼女の通う高校にほど近い昭和記念公園へと走りながら、彼女の思考は次の段階へと移る。それは、今自分に起こっている不可解な現象のことではなかった。それはもう、理解の内にある。それよりも今、最も重要なことは、彼女の力で、新しく得たこの能力で、相手に勝てるかどうか、だ。
もちろん、彼女は「理解」していた。
敵であるあの女も、同じことを「理解した」ということを。
自分を殺さねばならないということを「理解した」ということを。
自分を殺し、人類を滅亡させることこそが自身の使命であるということを「理解した」ということを。
そうして、後ろから猛スピードで自分を追ってきているであろう女との戦いが、人類の存続を賭けた戦いの幕開けであり、これから長く続くであろう戦いの、最初の一歩だということを。
梅雨が明け、抜けるような青空の下、糸野愛香は走っていた。
空は昨日と同じ色だった。けれども、彼女にとって、昨日とは全く違う一日が始まったのだ。