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King & Queen 2  作者: 悠鬼由宇
8/8

間宮由子の意外な決断

 龍二の家に着くと、遅くなったにもかかわらず龍二と純子ちゃんが首長竜の如く俺たちを待っていてくれる。


 沸かしておいてくれた風呂に順番に浸かり、酔い覚ましのルイボスティーを啜っていると、

「しかしお袋、大変だったねえ。災難だったねえ。これも日頃の行いの報いだねえ。」


 あのコミュ障の龍二が… 喋っている、こんなにも…

「コラ龍っ テメエいつからそんな口きくよーになったんだコラ!」

 光子のツッコミをガン無視して、純子ちゃんが

「て言うか、おばさん、母は…?」

「あーー、大丈夫じゃね。コイツのダチのキャリアがキッチリ真犯人ってのを捕まえっからよ」


 何故か龍二がギラリと俺を睨みながら、

「金光さんの朋友だったのですか、あの刑事?」

 あ、怒っている訳ではないのか。あと少しだな、コミュ力。

「そうなんだ。俺もここに来て初めて知ってビックリしたんだ」

「成る程成る程。流石金光さんのご学友、『沼津鮫』ですな。」

「ハア? 何その二つ名… ダッサ」


 笑い転げる光子。俺も旧友につけられた渾名に噴き出してしまう。

「て言うか、隣町の地主の脱税を挙げたら実は地元国会議員とズボズボで逆に署に御注進が入った所…」

「返り討ちでその議員の収賄も挙げてしまった、と言う恐ろしい刑事だと地元の商工会で大変忌諱されていますね。」

 あははは… 変わらない。変われない。実にアイツらしい。


「やるじゃん、アンタのダチ。完全懲悪、ってヤツか〜」

「お袋…ソレ… それより、間宮尊師はいつ釈放されるんだい? …金光さん、貴様何ですかその苦笑いは?」

「いや… 前はちっとも喋ってくれなかったキミが…」

「て言うか。それは彼の進化の証として評されるべき視点と愚慮しますが、何しろ言葉の使い方が半化と申しますか…」

「遺憾なり! その件に関しては僕も一考察があるのだが。キミと居を共にする事、三月と数日……」


 龍二と純子ちゃんは本当に上手く行っているようだ。人生とはわからないものだ。社畜としてゲッソリと悄然としていたあの純子ちゃんが、こんなにも活き活きと立ち振る舞っている。人間よりも動物とのコミュニケーションが得意だった龍二が、こんなにも人と関わるようになっている。

 出会うべくして出会った、いや、出会わなければならなかった二人。育った環境、価値観の違いに迷う事なく、二人で共に高め合って歩き続けて欲しい。

 こんな二人にさぞや目を細めていよう、と横の光子を窺うと、涎を垂らし熟睡している。俺も今日は本当に気疲れした。ので、二人で先に休ませてもらう。


 純子ちゃんが畳の間に布団を敷いてくれており、お姫様抱っこで光子を抱えそっと布団に降ろす。左足は全荷重を苦にせぬほど回復している。完治にはまだまだかかりそうだが、彼女を抱えるくらいは何でもない。

 布団に入り天井を見上げる。そしてこの二日間の出来事を振り返ろうとした時。鼾が止み、彼女が寝返りを打ち、俺の左肩に顔を付ける。俺は左腕を彼女の首の下に入れ、そっと抱き寄せる。

 薄闇に目が慣れ、彼女の顔を窺うとまっすぐに俺の瞳を見つめ返す。その距離が徐々に近くなり。近くなり。近く…


 互いの舌を絡め合う。頭が真っ白になる。思わず漏れる喘ぎをさらに唇で覆い被せる。その動作の勢いが増す。右手を彼女の腰にあてそっと摩る。寝巻きのスウェットの隙間からその手を差し入れ、直肌をゆっくり摩る。彼女の肌が急に汗ばむ。

 彼女の喘ぎはさらに高まり、そして自らのスウェットを脱ぎ捨てる。俺の長袖Tシャツを剥ぎ取りる。身体を合わせる。彼女の頭部に顔を埋める。灼熱の熱さを互いに貪る。


 隣部屋の二人の騒々しい議論が全く耳に入らなくなる。彼女が俺の首筋に舌を這わす。それに合わせ俺の右手が腰から下を窺う。彼女の動きがしなやかになる。まるで山猫だ。そして熟しきった山猫はさらなる悦びを得るべく、野生の動きそのままで俺にのしかか…


 グキッ


 ギャーーーーーーーーー


 ガラッ

「どうしたn……」

「大丈夫でs……」


「うーむ。このレントゲンを見る限り、髄内針の彎曲は見られず。脛骨、腓骨にも損傷は無し。強いて言うならば長腓骨筋が腫れているかな。」

 何故か三津浜動物病院に運ばれた俺は、(動物の)診察台に寝転びながら、

「つまり?」

「骨には異常無し。脛の筋肉の肉離れ。まあ、全治一週間かな、牛ならば。」

 俺は危うく診察台から落下しそうになるのを死ぬ気で堪え、

「人ですと…?」

「4〜5日かと。但し」

「但し?」

「母の様な肉食系の女性との交尾は当分控えなさい。そう、髄内針を抜くくらいまでは」

「……」

 面目無い、とは正にこの事を言うのであろう…


 呆れ顔の純子ちゃんが、

「て言うか、おばさん…」

 すっかり酔い覚めた様子の光子が驚くほど小さくなりながら、

「お、おう…」

 大きく息を吐き出し、ゆっくりと首を振りながら、

「見なかったことにするから… 私たち」

「……」

「上半身裸で金光さんの腰に顔をつけながら金光さんの左足にヒザ蹴りを入れた、あの光景を」

「………」

 親友の娘、息子の彼女に途轍もないマウントを取られ、顔をヒクヒクさせる光子であった。


 翌朝の朝食時、昨夜はまるで何もなかったかの様に振る舞う龍二と純子ちゃんに心から感謝する。実の母とその彼氏のあんな姿を間近に見たと言うのに、龍二はよくこんなに涼しげに俺らと接してくれるものだ。

「動物と違い、人間の発情期は通年性のものであり、全く問題ない。」

 母の親友と母の思い人のあんな姿を間近に見たと言うのに、純子ちゃんはよくこんなに普通に俺らと接してくれるものだ…

「と言うか、お二人には私を龍二さんと邂逅させてくれたご恩がありますので、全く問題ありません」

 なんか滅茶苦茶ぎこちない俺たちの方が子供みたいだ… 朝食後、試しに歩いてみるとやはり全荷重を掛けるのは厳しい。龍二先生の言う通り、暫くは松葉杖の助けが必要だ。

 まさかこんなことになるとは思わなかったので、松葉杖は家に置いてきてしまったのだが、何故か動物病院に頃合いの良い松葉杖があり、龍二はソレを快く貸してくれる。


     *     *     *     *     *     *


 光子の運転で警察署へ向かう。事件はどうなっているのだろうか。犯人は捕まったのだろうか。由子はいつ釈放されるのだろうか…

 車から降り光子の支えを受けながら松葉杖をつきつつ、警察署の二階にある刑事課へ向かう。昨日よりもざわついた雰囲気の中、受話器に齧り付いている青木を見つける。

 彼は俺に目配せをし、少し待てと目で合図する。俺と光子は女性の刑事に案内され会議室に通される。さすが本場の美味しい日本茶を淹れてくれた彼女に、

「犯人は捕まったの?」

「ええ、昨夜遅く。詳しくは課長からお聞きください」


 そう言うと会議室を出ていってしまう。事後処理などで相当忙しいのだろう。

「オッシャー! さすがアンタのダチだなっ」

「ああ。本当に良かった…」

 光子はしかし、首を捻りつつ

「しかしよ、この事件って一体全体何だったんだろーな?」

「ああ。俺にもサッパリ分からない」

「でもこれで、ゆーこも無事釈放って訳だなっ 夜には東京帰れるな!」

 それはそうなのだが。

「ああ。ただ、彼女はこれからちょっと大変な日々が続くのだろうな…」

 俺はスマホのニュースをスライドさせながら、顔が強張っていくのを感じる。


 部屋の扉が開き、全身に疲労感が漂い心底眠たそうな青木が入ってくる。

「お待たせした。島田さん、今回は貴女の情報のお陰で我々の想定外の速さで解決できそうです。ご協力本当に感謝します」

 怪訝な顔で光子が

「できそうって。まだ解決してねーのか、ヒロ?」

 昨夜の最後辺りから『ヒロ』扱いされている青木。光子は気に入った相手はすぐに下の名で呼ぶ習慣があるのだ。

「ヒロ… そう。昨夜逮捕した岩倉は今回のヤマの全てではないんだ」

「全てではない、と?」

 てっきり由子を脅迫していたあの男が捕まって事件解決、だと思っていた俺は面食らう。

「ああ。ちょっと長くなるが… お前らには聞く権利がある。さて、どこから話せばいいかな…」

 青木は湯気の立った日本茶を旨そうに啜りながら、ポツリポツリと語りだす。


 三年前、不動産をはじめとする物価の上昇と共にずっと下落していた絵画市場も右肩上がりの動きを見せ始める。同時に海外投資家が日本の絵画を買い付ける動きも活発化し、バブル期以来の活況を見せていた。

 そんな中、主に海外投資家を狙った贋作が出回り始める。青木達が担当したのはその中でも現代日本画家の贋作をメインに扱う闇業者だった。現代日本絵画は主にアジアで人気が高く、その贋作が出回りだすと騙された投資家達の苦情が外務省にも届くようになり、ちょっとした国際問題になりつつあった。

 捜査を進めているうちにその闇業者の拠点が静岡県内にある事が判明し、青木らは警察庁から静岡県警に出向し、その捜査本部を置く。


「へーー。ヒロの出向ってよ、アンタの出向とは大違いじゃね?」

「よせ。マジで傷付くわ…」

 その後、所謂『泳がせ捜査』を捜査の指針とし、闇業者が尻尾を出すのをじっと待っていた所、その闇業者の贋作の多くが『小倉遊亀』や『上村松園』などの既に他界している女流画家であることを掴む。そんな中、先月の中旬頃、例の『タレコミ』が入り、当初間宮由子が闇業者と直接繋がりがあるのでは、と推察される。

「間宮さんを洗っているうちに、お前や島田さんが出てきた時は本当に背筋が凍ったよ。だけどな、お前がこんな事に関わる事は絶対無い。そしてお前が関わる女にそんな事する女はいない。だから俺は初めから間宮さんはシロだと思っていたのさ」

「シロって。犬じゃねえんだよコラ」

「は?」

 光子は頭をブンブン振りながら、

「… ヒロは真面目過ぎるのがダメだな。もっとオマエ、頭を柔らかくしてよ…」

 青木は困惑した表情で、

「…… 金光、スルーして続けるべきなのか? 何とかツッコミを入れるべきなのか?」

「うん… まあ…」


 だが、どれだけ調べても闇業者と間宮由子の接点が見つからない。やはり直接繋がっているという意見が強くなる中、青木は2パターンを想定し、直接派と間に誰か入っているという間接派に捜査を振り分ける事にする。

 そして句会当日。極秘裏に『あおば』滞在中の間宮由子の監視体制を整え、句会終了後の逃亡を阻止すべく包囲網を引く。そして翌朝、

「お前との数十年ぶりのご対面、と相成った訳だ」

「そうだったのか。お前も大変だったんだな…」

「国際問題に関わる案件だからな。ただ、二つの誤算があったのは認めよう」

「それって?」


 青木が人差し指をピンと立て、

「まず一つ目は、間宮由子が全く闇業者と関わっておらず、俺たちが知りたい情報を殆ど持っていなかった事」

「それって直接派にとっては大誤算だよな…」

「ああ。しかも間宮さんは贋作とホンモノを取り替える意思なぞ微塵もなかった、なのに何故部屋に踏み込んだ時に絵がすり替わっていたのか。それも全く謎だったんだ」

 ウンウン、と頷きながら、

「それなっ アタシも言われてホントにビックリしたわー 全然気付かんかったわー」

「そして二つ目の大誤算がー」

「ゴクリ。何?」

「ゴクリ。な、何だよ…」


 青木が柔らかくも鋭い視線で光子を見つめる。

「貴女です。島田さん。」


     *     *     *     *     *     *


「間宮さんは業者からの絵の購入に関して黙秘していた。なので、業者からどのように絵を購入したのか俺たちはサッパリわからなかった。午後、島田さんがくれた情報は正直驚くべきことだらけだったんだ。」

「そ、そーかー?」

「ええ。間宮さんと闇業者の間を取り持ったのがフリー記者の岩倉である事。この男に関して我々は全くのノーマークだった」

「ほ、ほう… そうかね…」

「すぐに岩倉の事を調べた結果 〜まあこれは今朝わかった事なんだが〜 闇業者とズッポリの関係だったんだ」

「やっぱり。由子ちゃんは騙されていたんだな?」


 目の下に真っ黒の隈をこさえている青木の肩を思わず掴む。

「その通り。では岩倉と間宮さんの接点は? これも島田さんが教えてくれなければ岩倉を完落ちさせる事は出来なかったよ」

 なんと… 全て、光子の供述によって捜査は解決に向かっていたのか… 光子はちょっと照れた様子で、

「まあ、まあ〜」

「それって… 由子ちゃんがフリーの記者に脅されていた事と関係あるんだな?」

「ああ、お前も知っていたのか。そう。岩倉が過去の事を記事にすると間宮さんを脅した。島田さんに相談した。島田さんの友人が岩倉を脅した。ここまでは知っているな?」

「ああ。でその後?」

「間宮さんは『お詫びの印に安く絵を紹介された』と思い込んでいるがー」

「んな訳ねーじゃん。なっ」


 青木は力強く頷きながら、

「はい。島田さんが『岩倉はゆーこを逆恨みしているはず。なのにゆーこに擦り寄って甘い思いさせて。怪しい』と推理したんだ。それを聞いてこの事件の筋書きがほぼ見えたんだ。」

「それはつまり… 由子ちゃんを妬んだ岩倉が、由子ちゃんを絵画泥棒に仕立てた、と?」

「流石。その結果、ほぼ岩倉の思い通りに…」

「由子ちゃんは捕まり、マスコミに叩かれ…」

 光子はちょっと不貞腐れながら、

「地の底に落ちたって訳だ。ったくヒロがもっと早くあの野郎をとっ捕まえてりゃ、こんな事にならなかったのによ。この税金泥棒がっ」

「おい光子。一応コイツはお前に感謝しているのだぞ…」

「そう。貴女が居なければ、我々は岩倉に辿り着くのはもっと遅れ、間宮さんは再起不能なほど世間に叩かれていたと思う。昼のニュース、見たか?」

「いや、まだ。ちょっと調べさせてくれ〜」

 俺は慌ててスマホのニュースアプリをタップする。

「…… おおおお! 光子! これ、見てみろ!」

「どれさ? って、小さくて読めねえっつーの」

「よし。丁度昼のワイドショーの時間だな。こっちに来いよ。」


 刑事部の大型液晶テレビの前には人だかりが出来ていた。岩倉がこの署に連行されるシーンが何度も映されている。記者会見で無実に安堵している由子の映像も… ん? え… それここで言っちゃう?

「…これも全て、私が不良少女だった頃、お世話になった先輩方が私を信じ助けてくれたおかげでございます。あの頃の私はもう手のつけられない不良で〜」

「ありゃりゃ…」

「地元では『赤蠍』なんて呼ばれておりまして。今思うとホント恥ずかしい…やはり、『紅蠍』にすればよかったかしら〜♫」

「いや… ソレも恥ずかしいし…」

「万引きで捕まった事もあるんです。本当に子供でした〜」

「いやいや… 子供、普通に万引きしないし…」

「そんな私でしたが、多くの方々に支えられて今まで幸せに暮らす事が出来ました」

「ふーーん。そっかー」

「そしてこの度も大勢の方々に救っていただきました〜」

「………」

「この場をお借りして、御礼申し上げます」

 フラッシュの嵐の中、三十秒ほど深く頭を下げる由子。

「そして。この度は世間の皆様に大変なご迷惑をお掛け致しました。深くお詫び申し上げます」

 更なるフラッシュから俺は目を逸らし、深く溜め息をつく。


     *     *     *     *     *     *


「先輩ーー! と、せんぱーーい!」

 ちょっとやつれた由子が嬉しそうにこちらに走ってくる。

「ゆーこっ ゆーこ! オマエ… 」

「先輩っ」

 二人が深く抱き合う。二人の目からみるみるうちに涙が迸る。

「先輩っ 聞いたよっ 先輩がぜーーーんぶ話してくれたんだってねっ アイツのこと全部話してくれたんだってね。お蔭でアイツ、すぐ捕まったって!」

「ッキャロー、そんなん当然だろうがっ」


 光子の胸の中で泣き崩れる由子を眺めつつ、青木に聞く。

「ところで。由子ちゃんの絵と宿の絵がすり替わったのはどうしてなんだ?」

「そこは間宮さんのお手柄なんだ。彼女は句会の最中、マスコミ席に座っていた岩倉を見つけたんだ。」

 そう言えば句会が終わり由子が下がる時に、一瞬ギョッとした表情を見せた。それか…

「岩倉は偽名で句会の取材陣に入り込んだ。その後間宮さんのマネージャーを装い、島田さんから部屋の鍵を借り出した。岩倉はその鍵を使って『楓の間』に入り込み、持っていた贋作と壁にかかっていたホンモノを架け替えた。そしてホンモノを間宮さんのバッグに入れ、部屋の鍵を締めてフロントにしれっと返却したんだ」

「何てことを… 光子も騙されたのか…」

「ああ。だが間宮さんの観察眼は凄かったんだ。一瞬チラッと見ただけなのに、マスコミ席に座る岩倉の帽子や服装を覚えていたんだ。ありとあらゆる防犯カメラにそのまんまの映像が残っていたよ。『ハゲ隠し 帽子の男を 追跡し』〜皆、プロの標語に笑いを堪えながら映像のチェックをしていたってさ」

「何と…」

「捜査本部への報告も『ハゲ帽、三島駅前カメラでヒット』から『丸ハ、名古屋駅で下車確認』とか… 遊びじゃねえんだぞ、と思いつつ、笑ったわ」

「お前ら… 税金、返せ…」


 署長の計らいで、押し寄せるマスコミを避けるために地下の駐車場へ光子が車を回す。俺と由子がそれに乗り込む。

「じゃあね、ヒロくん。また後で♫」

 満面の笑みでサラッと由子が言うのだが、青木はげっそりとし、

「…… 俺、もう二日寝ていないんだけど…」

 寝不足で弱っている青木に容赦無くダメ出しをする。

「ダメっ 昨日先輩達と楽しく美味しい料理食べたんでしょ? 今夜は私の出所祝いよっ」

 マジかよ、と大きく肩を落とし、

「出所って… 金光、昨日のトコでいいか?」

 俺も由子に乗っかり、

「ああ。楽しみにしてるよ。ヒロくん!」

 俺に苗字以外で初めて呼ばれた青木はショックを受けながら、

「おま… ったく。じゃあな。さ、早く行け!」

 三人で大笑いしながら地下駐車場から地上に出る。目敏く見つけた記者が押し寄せ…


「おーーーっ 燃えるぜ、このシュチュエーションッ」

 言葉の間違いを正そうとした瞬間。光子はシフトレバーをNに入れ、アクセルを思いきり踏み込む。凄まじいエンジン音が警察署内に響き渡り、記者達の足が止まる。

 即座にレバーをDにチェンジ。車はタイヤを軋ませながら急発進する。驚く記者達は逃げ惑い、その隙を縫って車はあっという間に署から遠ざかる。

「お、お前… なんという事を… あああ… タイヤが… エンジンが…」

 まだ買って2000キロも走ってない…

「ったく。セコい事言ってんじゃねーよっ どーよアタシのテク!」

「先輩、サイコー! 昔を彷彿とさせますねえ。流石でーす」


 制限速度を遵守している軽トラックを軽々と追い抜き、更に加速していく。

「おいっ 制限速度守れっ ここで捕まってどうするっ」

 おい。今、駐在所の前を通り過ぎたぞ。ほら、警官が出てきてこっちを睨んでいるぞ!

「ウッセー。黙って座っとけコラ」

 アカン。早く脚を直しコイツからこの車のハンドルを奪わねば… 

 だが、確かに彼女の運転は、上手い。普通の走行は勿論、車庫入れなぞは必ず一発で決めるし、縦列駐車もこの狭い空間によくぞ… という感じで難なくこなす。


 そんな彼女の運転で、ひとまず『あおば』へと向かう。社長をはじめとするスタッフは昨日のうちに帰京しているが、山本くんが一人残り残務処理をしてくれている。また、今回多大な迷惑をかけた宿にも事実を伝えねばならない。

 車を駐車場に停めると、女将達が駆け寄ってくる。後部座席から由子が降り立つと、彼女の手を握り締め、信じていました、信じておりました、と何度も頭を下げるのだった。

 その後ろに山本くんが呆然と立ち尽くしている。

「え… まさか… もう解決したんですか?」

「ああ。山本くんもさぞや心配しただろ? 済まなかったね。今日は一人悶々としていたんじゃないか?」

 視線はあちこちに彷徨い、顔が少し赤くなる。コイツめ…

「あ、いや、ええ、まあ… そうですか… もう…」

 光子が彼の胸襟をガシッと掴み、

「コラ、舎弟。テメー一人でのうのうと温泉浸かってメシ食って楽しんでたんじゃねーだろうなコラ」

「ヒーーーーーーーーーーー ね、姐さんっ も、申し訳ありませんでしたあーーー」

 光子の形相に嘘をつく訳にもいかず、つい謝ってしまう山本くん。

「ったく今のわけーモンは。オラ、荷物まとめてとっとと帰れっ」

「ハイーーーーーーー、すぐに片付けてとっとと帰りまするーーー」

 …… 凄い。いつの間に彼を手懐けたのだろう。こんな素直な彼は直属の上司である俺すら見た事がない。


「女将。詳しい事は、県警から説明があるかと思いますが。今回は本当にお騒がせしました」

 由子を抱きしめている女将に深々と頭を下げる。

「専務、そんな謝らないでください、犯人を入れたのは私達のミスですし… 間宮先生。良かった、本当に良かった! 」

「ご迷惑お掛けしちゃいました。客足に影響とか無いといいのだけれど…」

「そんな事心配なさらないでくださいっ 私達は先生が無事に疑いが晴れればそれでいいのですから」

 由子はニッコリ笑顔で、

「落ち着いたら、またお邪魔したいな(せんぱいと二人で)」

 こら。爆弾を投下するな。

「ええ、ええ、勿論お待ちしております。それに私達のミスで先生に大変な迷惑をお掛けして… 私達は先生がどんな過去を背負ってらしても、先生への尊敬の念が変わる事はございませんから」

「嬉しい。ありがとう、女将さん」

「これからはここを自分の家だと思って来てください。あれだけご迷惑お掛けしたので、今後は宿代は遠慮させて頂きますので」


 これはなんと気前の良い…

「え… 流石にそれは…」

 だが。女将の目はギラギラに輝いている…

「その代わり… 先生〜♫」

「な、なぁに?」

「捜査終了後に贋作は返却されますよね?」

「うーん、どうかな… 多分、ね」

 目の前に極上のステーキが湯気を立てているが如き表情で、。

「是非、その絵に先生の一句を添えて当宿に寄進して頂きたく〜」

 光子は女将の背中をバシバシ叩きながら、

「女将っ ったく商売上手じゃねーか。なんだよ、『間宮由子センセー 受難の絵』とか言って飾ろうって魂胆だろう?」

「ふふふ。奥様、中々の慧眼ですこと」


     *     *     *     *     *     *


 宿への挨拶を終え、残務処理の山本くんを駅に送って行くと、辺りはすっかりと秋の夕暮れである。この辺りは西伊豆なので、海に夕陽が沈んでいく。その光景を目の当たりにし、旅に出なければ決して目にできない美しさに思わず車を路肩に停めてもらう。

「この数日、色々あり過ぎて、こんな綺麗な光景をずっと見過ごしてたんだな」

 と呟くと、

「ホントです。娑婆でこんな景色がこんなにすぐに見れるとは思ってませんでしたよ、ありがとね先輩とせんぱい」

 確かに、光子の活躍がなければ、由子は未だに留置所の中だったのだ。


 三人で太陽が水平線の彼方に沈んでいくまで、物も言わずに眺めていた。

 それから俺たちは、昨夜と同じ内浦湾沿いにある小料理店に車を走らせる。店に着くと今夜は奥の座敷に通される。

 案内をしてくれる若い女性が由子をガン見し、口をパクパクさせている。その驚きは痛いほど理解できるよ、まさか昼のワイドショーで頭を下げていた女性がヘラヘラと目の前にいるんだからね。

 座敷には既に青木が座っており… 正確には胡座をかきながらうたた寝をしている、いや爆睡状態だ。二日連続で徹夜と言っていたが、寝顔は実に穏やかなものであった。

 由子がそっと近付き、耳元にふう〜と息をかけると、ビクッとして目を開ける。そのまま由子が青木の隣に座り、俺と光子は反対側に腰を下ろす。


「ヒロくん、凄かったんだよっ 電話しながらメールしながら部下に指示出しながら… もー、本物の刑事ドラマなんて比じゃなかったわー」

 青木は口を尖らせながら、

「アンタがもう少し早く全て話してくれてたら、もっと早く解決出来たんだぞ… ったく」

「だって〜 ヒロくんが私を怒らせるんだもん。」

「だもんって… アンタ歳いくつだよ、痛いなあ…」


 由子がムッとしながら、

「も〜 先輩とせんぱいの事も自白させてやるっ なんて言うからじゃんっ アッタマきたわーあん時マジで…」

「ハア? じ、自白させるなんて言ってねえだろっ オマエどんだけ頭に羽生えてんだよっ」

「あら失礼しちゃうわ。すっごく意地悪そうな顔してたくせにっ」

 青木は俺と光子に縋るような表情で、

「…なあ、アンタらこの人と話してて、頭痛くならないのか? 俺はもうダメかもしれない…」


 俺は思わず腹を抱えてしまう。光子も笑いながら、

「ブハハハッ まあ慣れだよ慣れ。オメエも少し慣れてみ。その内…」

「無理だと思う… 突然ブチ切れるし…」

「いやー、俺もあん時はビックリしたわー、あんな由子ちゃん初めて見たから…」

 正直。天然美魔女俳人としての由子しか知らなかったので、あんな般若のような由子には肝が冷えた。赤さそり? 納得だわ。


「そーかー? 中学ん頃なんて毎日ブチ切れてたよなゆーこ」

「そうでしたねー。何に憤怒してたのでしょうか。忘れちゃいました… ああ!思い出したあ」

「因みに、何なの?」

 なんか嫌な予感…

「せんぱいが私に振り向いてくれなかったから〜 キュン」

 だから… もう爆弾投下は懲り懲りですから!

「お、おめ… マジか…?」

「信じるか、普通…? お前も本当にお人好しだよな。」

 俺が光子を揶揄うと、青木が

「そんな女にベタ惚れな訳なんだな、グンちゃん」

「ちょっと! 人のせんぱいに『グンちゃん』なんて失礼でしょ。プンッ」

 青木は肩をすくめつつ、

「でもな。アンタ、偉いよ。立派だよ。」

 と改まって由子に語りかける。

「……な、何よ急に…」


 青木が顔を真っ赤にして盃を口に含みながら呟くように話し始める、確かこいつは俺よりも酒が強かったはずなのだが…

「プレスリリースでさ、自分で言わなくてもいいのに、自分から過去の事話すとか。中々できる事じゃ無い。俺は今まで誤魔化すことしかしない奴らを嫌っていうほど見てきた。そいつらは普段は愛想が良く、虫も殺さないって顔して生活してんだ…」

 テーブルに頬杖をつき、ちょっと欠伸をしながら

「ねえねえ、話長い人なの、ヒロくんって〜」


 その突っ込みをまるで無視しながら、

「でも自分に不都合な事が起きると必死でそれを隠して。嘘ついて。周りはみんな本当の事を知ってるのに、だ…」

「ねえねえ、面倒臭い人なの、ヒロくんって」

 急に青木が隣の由子に向き直り、

「でもアンタは違う。黙ってりゃいい事まで曝け出した。教えてくれ、あれ何でだよ?」

「えーー。だってホントの事じゃん。先輩に助けられたって。ちゃんとお礼言いたかったんだよ。アタシが今までこーしてやって来れたんは、光子先輩のお陰だって。この人がいなかったら、アタシはグレたまま高校も行かず、クスリでもやってどっかでカラダ売ってたんだと思う」


 あれれれ? 由子の口調が微妙にいつもと違う… いつものご丁寧な口調は何処へお隠れになったのだろう?

「あ、あ、そうなのか…?」

「そうよ、絶対。光子先輩の卒業式、アタシ言ったんだ。『一生付いて行きます』って。そしたら先輩、『バッキャロー。オマエは頭いいんだから、勉強して都立行け。ついでに大学まで行っちまえ。そんでいつかビッグになってからアタシんとこ挨拶こいっ』って。」

「お、お、そうなのか…で?」

 さすが一流の刑事。絶妙な合いの手だ。


「アタシ誓ったよ。絶対ビッグになるっ 都立行って大学行って、いつかテッペン取ってやるって。ヤンチャしててろくすっぽ勉強しなかった自分を戒め、勉強に打ち込んだよ。そしたら周りが変わったんだよ。ガッコの先公が急に面倒見良くなって勉強会開いてくれるようになったんだ。『何で急にアンタらアタシに構うんだよ?』って言ったら、『オマエが変わったから。それに光子に言われたよ、オマエのこと頼むって。』あたしゃ泣いたよ。先公も泣いてたよ…」


 正直、唖然としてしまう。由子の話の内容に、ではない。彼女が本音を吐き出しているのを初めて見たからだ。今までの由子はその天然系の物言いを隠れ蓑にして、自分の思いを深く語ることはなかった。だが今はどうだ、自分の奥底にある記憶と想いをありのままに披露しているではないか!

 半年近くの付き合いであるが、こんな由子は見たことがない。

 不意に、鼻を啜る音が聞こえてくる、あれま光子が思い出し泣きか? と思いきや。

「そうか… うんうん」

「は? 何泣いちゃってんのかな〜 ヒロぴょんは〜♫」

「ヒロぴょんだってなあ… 泣く時は泣くんだっ」


 やはり、変わっていない。青木は何十年経っても、変わっていない。

 勝てる見込みのない試合でボロ負けしてからの号泣。カンニング容疑の仲間の疑いが晴れた時の歓喜の涙。熱くて涙脆い、全くもって昔からの青木の姿なのである。

 だが。それにしても、余りにも由子の様子が変というかおかしいというか…

「…… 光子、ひょっとして由子ちゃん、酔っ払ってない?」

 驚愕の表情で首をカクカクしながら、

「初めて見たわ… 割と面倒くせえなコイツ…」

「しかも、話、長っ 青木のこと言えねえじゃん…」

「でもよ、ヒロ坊も聞き上手だよな。さすがデカだな…」

「ああ。俺らも聞いたことのない由子ちゃんの過去を次から次へと… お前、卒業前に本当に先生方に由子ちゃんの事、宜しく頼んだんだ?」

「んーーー? 忘れた〜 今度金八っつあんにでも聞いてみよっと」

「トボけた顔してこのヤロっ ありゃ〜 由子ちゃんまで泣き出しちゃったよ…」

「でも、ヒロ坊も変わったヤツだな。案外ゆーこに合うかも、な」

 いやいや、それはないだろう。絶対無い、断じて無い。青木という男をよく知っている俺が言うのだから間違いない。

「バーカ。オンナの勘は外しゃしねーよ」

 オンナの勘…


「…… なの。ホントひどいっしょ? あれ… ちょっと、ヒロぴょーん! 聞いてんの〜?」

 どうやら青木は撃沈したようだ。お前はよく頑張ってくれた。本当に有難う。由子も深く感謝しているぞ。

「オラ、ヒロ助っ 起きろっ アタシの話聞けやコラー」

 …… そう、思うぞ。俺は。


 店の人に胡座をかいたまま熟睡している青木の事を頼む。酔い潰れたというよりは寝落ちした、のだが、こんな沼津鮫は初めて見た、と店の主人が大層驚いている。どうぞ後はお任せ下さい、と俺らの代行を呼んでくれる。

 一方の由子… 俺と光子に挟まれずっとクダを巻いている。俺は半年ほどの付き合いなのだが、一升瓶を二本空けてケロリとした姿しか思い浮かばない。酒で乱れた姿は全く想像つかない。


「いやー、アタシもこんなゆーこ初めて見たわー。ってアタシも半年の付き合いか」

「先輩。酔ってねえし。ぜんぜん〜酔ってねえし。」

 俺は涙で化粧がグチャグチャの美魔女崩れを呆れながら見て、

「青木といい、由子ちゃんといい… なあ、ホントにこの二人はお似合いなのかあ?」

 と光子に叫んでしまう。

「あああ? 何でえ、あんなヤツっ せんぱいの方が百倍ス・テ・キ!」

 光子は由子の頭をゲンコツで殴りつけてから、

「なあ。ヒロって昔からああやって自分さらけ出すヤツだったか?」

「いいや。それは無い。どんだけ飲んでも潰れたりクダ巻いたり… あれ…」


 ニヤリと笑いながら、勝ち誇ったように

「だろ。コイツもそう。二人共、よっぽどの事がねー限り、自分の事、さらけ出さねえ」

「よっぽどの事… って、どゆこと?」

「ったく。オメエも鈍いヤツなー。相手の事認めて、相手の事知りたくて。だから〜」

「だから、自分を曝け出す。成る程。え? それって…」

「だから言ってんだろ。ちょっと見ててみ。 おいゆーこ。お前ヒロに惚れたろ?」

「…ちょ…先輩〜、ソレせんぱいの前で言っちゃう? せんぱいショック受けて自殺しちゃうよ〜〜ん」

「マジか…」

 流石、飲み屋、と言うか居酒屋の主人。人の心の機微を熟知している様子で…


     *     *     *     *     *     *


 代行が龍二と純子ちゃんの家に到着する。由子を抱えて家に入ると、純子ちゃんが深い溜め息をつく

「て言うか… 何… 何が生じたのですか、金光さん、我が母堂に…」

「大丈夫か純子ちゃん… 喋り方、いつもに増して変だぞ… ああ、お母さんは大丈夫。ちょっと飲みすぎただけ。あと昨日からの疲れも…」

「『ゆうこたん 赤蠍よりも 紅サソリ』… ネットでお祭り状態ですよ。人騒がせな義母だ、険呑険呑。」

「おい龍っ 布団敷け、布団。な、何だよその目は! ば、バカヤロー、も、もう…」

「金光さん。交尾は当分控えてく…」

「はい先生っ わかってますわかってます…」

「じゅんじゅーん〜 今日はママと寝るわよお〜」

「ママ… 一体何が…」


 と言う訳で、今夜は畳の間で光子、由子、純子ちゃんが寝る事になる。引き戸を閉めた直後に三つの鼾が聞こえてくる。

「母も気苦労が多かったんでしょうね。本当に昔から他人の事に奔走し己を削って生きてきて… まあ僕に対しても、ですけどね」

「ああ。誰もが皆そう言うよ。本当に凄い人だよ、君の母さんは」

「まあ僕等子供三人に言わせれば、文句の一つも有りますが。例えば… この歳になって父親と酒杯を共に上げられない事 〜父有り遠方より来たる、亦た楽しからずや〜 僕の夢、です。」

「それ…友有り、でしょ、論語だっけ?」

「ええ。僕に朋友は二人居ます。遠くから来てくれます。が、父は居ません。遺伝学上の父は存在しますが。それがかなり寂しいです。この歳になると…」

「そっか」


「なので、相当期待しています、貴様に。」

「き、貴様…? また… えっと、何を?」

「僕の… 戸籍上の…父となられん事を。」

「そ……それ…な」

「あとの二人の姉弟は知りませんが、」

「えっと…真琴さんと、?」

「弟の隼人、です。」

「真琴さんは、今どちらに?」

「山梨で弁護士として励んでおります。」

「そうなんだ… で、そのハヤトくんは?」

「みなさんの方が良くご存知かと。」

「は? へ?」

「隼人は、名前を言えないバンドのボーカルです。よくTVで聞くのですが… 芸能の世界に疎くて…」

「まさか…『ヴォルデモード』? 嘘だろ? 娘、大ファンだよ…」

「流石、我が義父は回転の早い方で話が澱まずに良い。酒が進む。『一杯一杯 また一杯』」

「聞いてねえよ… 何なんだ、君達兄弟姉は!」

「我酔うて、眠らんと欲す」

「え、そうか、もう遅いもんな… しかし…」

「卿且く去れっ」

「え? は? きょうって?」

「明朝意有らば…」

「『い』? 明日の朝、何なの?」

「母を抱いて來たれ」

「母? え、抱いて…誰?」

「李白です」

「…そっちか。次回からは、翔を連れてくるわ…」


 翌朝。スッキリとした秋晴れである。グッスリと寝た二人は朝からテンション高く、潮風の冷たさをまるで感じさせない。すっかり世話になった若い二人に頭を下げ、光子は車を出す。

 由子がどうしても、と言うので三たたび警察署へ向かう。あれだけ群れていたマスコミは影も形もなく霧散している。

 予め電話をし、下に降りてきてもらう。青木が姿を現わすと、由子が車を降りて青木の方へ向かう。

 由子が何事かを青木に話すとひどく驚いた顔をする。何だかカツアゲされているみたいだ。見た限りだと、かなり強引に連絡先の交換を行ったようだ。満足げな表情で車に戻ると、

「さあ、先輩とせんぱい。帰りましょう、東京にっ」

 流石の俺でもわかる。上手くいくといいな。頑張れよ、こうはい!


「しっかし、色んなコトあったな… 」

「全くだ。未だに信じられない…」

「デスよね〜 ところでせんぱい。どうしてまた松葉杖してるんですか?」

 ハンドルが急にきられ車が左右に流れる。

「お、おい危ないだろう」

「お、おお、すまぬすまぬ」

「あーーーーーー。何か〜あやしい〜〜〜」

「゛え?」

「゛いっ?」

「ふーーーん。人が留置所で寒くて寂しい思いしている時にい〜」

「いやいや…」

「チゲー、チゲーって…」

「信じられない〜」

「ば、バカっ ホントにしてねえって! マジだって! な、なあ」

「お、おう。本当だ。してないっ 信じてくれっ」

「じゃあ、どうしたんですか。その足?」

「んぐっ」

「ふーーん。ま、いーですけど、どーでも。」

「そ、そーか、ほっ」

「だって。私…」

「え?」

「ヒロくんと付き合う事にしたので〜♫」


「それなっ それ!」

 光子が勝ち誇り俺の脇腹を肘で打つ。

「ウーン… 成る程…」

 心の機微、ですか。

「ま、向こうは相当ドン引きですけど〜」

「ははは…」

「まあ長期戦で頑張ります〜」

「よし。頑張れっ お前なら出来るっ」

「だーかーらー 先輩とせんぱいがナニしよーと、どーでもいーでーす♫」

「だ、だからゆーこ、ホント何にも無かったって…」

「ハイハイ。あー先輩、なんかコーヒー飲みたいなあ〜」

「わ、わかった、よし、次のSAでな、買ってきてやるからな、美味いヤツ…」


     *     *     *     *     *     *


 東京に戻って一週間後。ようやくマスコミの騒々しさが落ち着いてきた頃、由子が千鳥ヶ淵のマンションを引き払って修善寺に引っ越す事を知る。まさに有言実行。恋するオンナの行動力は時に周囲の想像を軽く乗り越える。

 そろそろ会社を出ようか、と言う時にスマホが鳴る。

「由子ちゃん、聞いたよー。本当に引っ越すんだって?」

「はーい。久し振りに、燃えてます! それでせんぱい、光子先輩に渡したい物があるんですけど… 直接渡す訳にはいかないので、ちょっと家まで取りに来てもらえませんか〜?」

「了解! 今から会社出るから、三十分後くらいでいいかな?」

「はーい、お待ちしてまーす」


 会社を出てタクシーを拾い、千鳥ヶ淵へと向かう。彼女が光子の店に来るようになって半年。本当に色々なことがあった。その思い出が走馬灯の様に俺の頭の中を駆け巡る。

 何度か車で送迎したことはあるが、部屋に入るのは初めてだ。殆ど片付いており、やけに広く感じる。

「ハイこれ。来月出版される私の句集です。先輩と、せんぱいのお母様の分。」

「おーー、これは有難い。お袋メチャ喜ぶよ。光子は…どうかな?」

「ですよねー。なので光子先輩には、別のものも…」

「そうなんだ。何々?」

「せんぱい、ちょっとこっち来て〜」

 寝室の扉を開けると段ボールが山積みにされている。カーテンの外された窓からの夜景は、真っ暗な皇居の手前の首都高を走る車のテールランプとヘッドライトの流れが美しい。車の騒音は全く聞こえない。

「すごい、綺麗だね…」


 背中に温もりと、暖かい息を感じる

 背後から回された腕が俺の胸に絡みつく

 マットレスだけのベットの縁に誘われる

 縁に腰掛けると痛みのない両腿の上に跨る

 頭を柔らかい胸に押し付けられる

 頭頂に温かい息吹を感じる

 目を瞑ってと耳元で囁かれる

 額と額 鼻と鼻がそっとあたる

 柔らかい唇を感じる…


*   *   *   *   *   *


 その翌日、間宮由子は東京を後にした。

『光子先輩。餞別にせんぱいをお渡ししますね』

 そんなメールが光子の元に届いたという…


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