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King & Queen 2  作者: 悠鬼由宇
5/8

愛のリハビリテーション

 痛い。痛すぎる。スマホで調べて覚悟はしていたのだが、足の骨折後の数日のこの痛みは、経験したものにしかわからない、地獄の辛苦だ。


     *     *     *     *     *     *


 先週、俺は中学時代の仲間たちと『オトナの修学旅行』なる同窓会旅行を企画し、日光の鬼怒川温泉へ行った。その帰路、とあるSAで轢き逃げに遭い救急車で地元の病院へ搬送された。

 診断の結果は左脛骨および腓骨骨折、長腓骨筋損傷。簡単に言うと、左足の膝の下の骨が二本ポッキリと折れており、回復には手術が必要との事。足に二本も骨がある事を五十一歳にして初めて知る。


 住まいから遠く離れた栃木の病院で手術しても、俺も家族も大迷惑なので、出来れば自宅近くの病院での手術、入院を希望する旨を伝えると、豊洲に数年前にできた『新豊洲メディカルセンター』なる最新の医療を提供する病院を紹介され、一昨日搬送された。

 入院してみて驚いた、まあなんて綺麗で新しい病院病室であるのかと。交通事故の被害者故なのか、立派な個室をあてがわれ、ここなら数週間でも快適に過ごせそうだとホッとする。

 八十過ぎの元気すぎる老母、中三の受験生である娘の葵、そしてこの修学旅行を通じて互いの心を確かめ合った同中の元伝説の不良、クイーンこと島田光子らに嘲られ罵られ、そして少しだけ心配されながら昨日手術を受けた。


 折れた脛骨に髄内釘というチタン製の棒を挿入、固定し数年後に安定したら取り出すらしい。医師の説明では術後の入院は四十五日前後、回復次第で遅れることもあるという。その後もリハビリにリハビリを重ね、ほぼ事故前の状態に戻れるのは一年後だそうだ。

 学生の頃はバスケットボールをしていたが、社会人になってからは特定のスポーツをしたり趣味でゴルフをしてきた訳ではないので、完全に元の状態に戻れなくても然程辛くはない。まあ普通の生活に戻れればいいや、なんて考えている。

 ただ、今後飛行機に乗る際には、セキュリティーチェックでキンコン鳴ってしまうのは少し面倒かも知れぬ、まあそう頻繁に飛行機を利用することもないであろうが。

 

 幸い手術は上手くいき、今後コンパートメント症候群などの神経系の障害が起きない限り、ほぼほぼ元通りになるでしょう、と言われ少し安心したのは束の間。あまりの激痛に夜眠ることも出来ず、すっかり憔悴してしまう。

 痛み止めを点滴でぶち込んでもらうのだが、四六時中注入するわけにもいかず、薬が切れると前述したような地獄の辛苦が俺に襲いかかる。大人気なく泣き叫んでしまうこともしばしばだ、どうして俺がこんな目に遭わねばならぬのか、と御先祖様を恨んだりしてみる。


 三日ほどでICUから一般病棟へ移される。先の個室があてがわれ、少し気分が良くなる。そう言えばこの歳まで大怪我、大病を患ったことはなく、入院は人生初体験である。中学の頃、指を骨折したままバスケットの試合に出場した時の痛みなぞ取るに足らぬこの足の痛みが弱まれば、少しは入院生活を楽しもうと思うのだが、未だそんな気にはなれず。


「痛いか、痛いのか、大丈夫か、おい、アンタっ」

 クイーン… いや、光子が心配半分面白半分に俺をゆさゆさ揺らす。

「…… 頼む… そんなに揺らすな…」

「お、おう… しかしなあ、まだ犯人捕まんねえとか、どーなってんだよ日本のサツは。クソが」

 この人、自分が何をほざいているのか分かってらっしゃるのか、と、

「オマエが言うか! 若い頃散々迷惑かけたくせに!」

「お、おう… てか、マジでどーなってんだよ? 目撃者とか防犯カメラとか、犯人を特定できなかったのかよ?」

 俺はジロリと光子を睨みながら、

「まあ、お前らの誰一人ナンバーを目撃してくれなかったのが原因だな。」

 東北自動車道の蓮田SAで、俺たちの集団に突っ込んできた黒いワゴン車に俺は轢き逃げされたのだが、二十数人いた誰一人、ナンバーを確認しなかったらしい。

 俺も轢かれそうになった光子を助けるのに夢中で、数字一つ記憶に無い。


「まあ。でも。何だな、その」

 少し照れながら俺は呟く。

「は? 何だよ?」

「こうしてさ。二人っきりって、何か照れるよな…」

「え…」

 急速顔面赤化。伝説の不良が今はただの恋するアラフィフ。そんな俺も痛みのせいではなく、顔は紅直し脇汗が滴っているに違いない。

 擦り傷の残る左手を彼女の顔に当てる。綺麗な形の目が俺を真っ直ぐに見つめる。

「光子…」

「ぐんじ…」


 乱暴に病室のドアが開かれる、お約束の展開に大きな溜め息が出てしまう。

「はーーーい。そこまでーーー。パパ、食事の時間だって!」

「お邪魔します。お婆ちゃん、金光さんに優しくしてあげてる?」

 俺たちは秒で離れ、まるで何事もなかったかの様に振る舞いつつ、

「ちっ」

「クソっ おうお前ら。学校の帰りかー」

 娘の葵、そして光子の孫の翔である。共に中三。去年から付き合っている。四月にその付き合いを知った時、俺は激しく反発。然し乍ら、翔の誠実さにまず俺が首を垂れ、葵の権謀術数により既成事実化が進み、今や家族ぐるみの公式カップルとして、地域でも知られている。

「後は僕らが見てるから、お婆ちゃんお店に戻りなよ。忍さんキレまくってたよ」

「お、おお。そんじゃ、後頼むわ。また明日な、アンタ。」


     *     *     *     *     *     *


 光子の経営する『居酒屋 しまだ』は俺たちの出会いの場。彼女の舎弟? 舎妹? の小林忍が手伝っており二人で切り盛りしている。

 ほんの偶然から初めて訪れた頃は、味は普通、値段は高めの所謂コスパの悪い店で、正直客足は少なかった。

 俺が頻繁に通うようになってからは、ポツポツと同窓の仲間たちが集うようになり、また俺が遠慮なく味や値段を批評するので、仕方なく光子と忍がその辺りを少しずつ改善した結果、最近ではほぼ満席になる程の賑わいを見せているようだ。


 俺が入院し、光子が看病で夕刻まで病院に居る為、ちょくちょく二人は店を手伝っているらしい。常連からは『若過ぎる夫婦』などと揶揄われているらしく、俺の痛みは骨のみならず心にまで達する。

 翔は中高一貫の超名門私立校なので受験の心配は無いのだが、葵は我らの母校、区立深川西中なので立派な受験生なのだ。故に見舞いに来るたびに勉強しろと小煩く言い続けると、

「毎晩翔くんに教わってるから大丈夫!」

「そうそう。コイツらアホみたいに真面目に勉強してるわ。安心しろ。こないだなんか朝起きたらまだ勉強してたわ〜」

 口に含んでいた麦茶が俺の胸を薄汚く汚す。

「なん、だ と…? 朝…」

「ヘッヘッヘ。何の勉強してんのやら〜 オマエらちゃんと着けてっか? ギャハハ〜」


 ピロピロピロ ピロピロピロ ピー ピー ピー ピー ピー


 若い看護師が病室になだれ込み、

「どうしました金光さん! 気分悪いですか? すぐに先生来ますからっ!」


 一般病棟に入り三日もすると痛みが徐々に薄れ、過ごしやすくなってくる。それを見越してか、以降毎日のように見舞客が訪ねてくるようになる。

 三年前に妻の里子が急逝し、以来人付き合いが極端に減った俺が『しまだ』に出入りするようになり、地元の旧友と交流を持つようになる。

 そんな中学時代の同級達、特に旅行に参加した者達がほぼ毎日やって来ては大騒ぎして帰っていく。特に一番の腐れ縁であり俺に『しまだ』を教えた高橋健太の騒ぎ様は出禁レベルだ。お約束のギブスへの落書き… 中学生かよ… に始まり、看護士への悪戯、俺への当て付けの為だけの病室での飲酒、窓からの咆哮及び物を投ずる行為等。


 挙げ句の果てには、俺宛の見舞いの品を漁り出し、これはと思うとその場で遠慮なく飲食。俺の大好物の船橋屋の葛餅を完食されたときは、末代まで祟ってやると心に誓った。

 この数日は、彼等の相手している間に痛みを忘れられるので多少の謝意を感じていたが、足の痛みが楽になってくると本当にウザい。よって彼及び彼らの行状を動画に録画し、ナースステーションに提出し、面会謝絶を依頼するつもりだ。近々。


 そして何よりも閉口したくなるのが、中学の恩師であり旅行を共にした金子八郎先生、通称『金八先生』が週三回は訪れては、二時間近く俺と光子に説教を垂れる事だ。これも初めの三回ほどは、俺らは目に涙を浮かべながら、

「師とはかくあるものなのか。俺たちは恵まれているな」

 と頷きあって感謝していたものだったが、翌週ぐらいから話のリピート機能が作動し始める。良い話なのだが同じ話の繰り返しにウンザリし、そのうち、

「使徒はかくあるものなのか。箱根に逃げよう…」

 などと真剣に彼女と夜逃げの相談をする始末だ。


 全く、健太や先生をはじめとする下町の人間の、この『思い込んだらのめり込み気質』は長期入院患者の精神を汚染していく、実に迷惑なものだ。

 しかし不意に一週間ほど顔を見せなくなると、途轍もない不安を感じてしまう。電話を何度も掛けなおしたり、既読がつくのを窓にもたれ待っていたり。


 結論。

 俺の様な寂しがりには、長期入院は心の毒だ。

 日に日に心が刻まれていくのをどうすることもできない。見舞いが来るとウザいのだが、来ないと寂しい。このままでは足が治るより先に、精神的に病んでしまいそうである。

 よって、なる早で退院してやる。と心に誓うのだが、そうなると今度は、光子とのこの穏やかで炭火のような暖かな毎日が終わってしまうのは嫌だ。


 この二律背反した感情を自分でコントロールすることは不可能だ。もしそれが出来る俺であるなら、もっと違う人生を送っていたであろう。

 一日の中でこのように何度も躁鬱を繰り返し、その度に光子に叱咤激励鉄拳制裁を受けているうちに、徐々に心のバランスを保つ、即ち長期入院のコツをつかみ始めてくる。

 それは、『人任せにする』ことだ。何でも自分でやろうとしたり、自分で解決しようとせずに、医師や看護師、付き添いの家族らに丸投げしてしまう。そうすれば自ずと治療に専念でき、余計な不安を抱え込むことも少なくなっていく。

 幸い光子は自他共に認める『世話焼き気質』であり、俺に頼まれたり頼られるのを至上の喜びと感じてくれ、願った以上のことを成してくれる。

 雨降って地固まる、ではないが、怪我をして関係が深まり確固としたものとなって来ている。

 日に日に、長期入院も悪くねえな、なんて思い始めている。


     *     *     *     *     *     *


 俺が勤務している旅行代理店の関係者も、早期から見舞いに来てくれている。同窓達と行った旅行は実は仕事絡みであり、今後の社の発展に多少は寄与する案件であった。

 直属の部下の山本くんは俺がICUでウンウン唸っている時から日参してくれていたらしい。一般病棟に戻るや、すぐに見舞いに来てくれる。

「スマン、こんなザマで。あ、報告書な、今週末には出すから」

「専務。いいんです。ゆっくりで、いいんです…」

 アレ? 日頃専務取締役である俺をアホ呼ばわりする彼がやけに殊勝だ。

「イヤイヤ。手は動くからさ。何なら明日にでも…」

「無理しないで… うう、う…」

 徐に彼はオイオイと泣き始めるではないか…


「ハア? 何泣いてんの?」

 鼻を啜りながら彼は、

「だって… 専務…一生… 車椅子生活だって…」

「はあ?」

「それに… 頭も強く打ち、一生寝返りがうてないとか… あと、『ラ行』がうまく発音できない言語障害になったとか…」

「え…?」 

「深川のクイーンが、さめざめと泣きながら話してくれました…」

 

 俺はベッドの中でずっこけながら、ニヤリと笑い、

「ハア…? ! ま、まさかそんな… リェポート… あれ? リェ、リェ… あれ…?」

「ああああ… 専務、専務、うううう… ぼ、僕があんな企画立てなければ… ううう…」

 まあ、コイツ若いくせに面倒くさいし俺をバカ呼ばわりする奴だから、しばらくはこれでいいや。レポートだけはしっかり書いて社長に直で提出すれば良い。競合他社がまだ知らない外資系温泉ホテルに関するレポートは、社員五十名ほどの小さな我が社に何かをもたらしてくれるかも知れない。


 足の痛みがすっかり無くなり、精神もだいぶ安定してきた頃より、光子の不良グループの後輩であり今ではテレビでもお馴染みの人気天然俳人、間宮由子が訪ねてくるようになる。彼女は二ヶ月ほど前光子と偶然の再会を果たし、同時に俺と知り合い、それ以来の付き合いだ。

 容姿は三十代にしか見えず、女優にも劣らぬ美しさと超天然モノの性格で多くの男性を魅了してきた魔性のオンナ。俺も危うく嵌りそうになったが、ギリッギリの所で耐えてきている。


「せんぱーい。退院までは私が面倒見ますからー」

「いやいや。光子がいるから。それにキミはTVとか句会とか忙しいだろう?」

「光子先輩は夜お店でしょ。その間、わ・た・し・が!」

「まあまあ… それより、純子ちゃんは元気にしてるの?」

 こう見えて、バツ4。そして二十七歳の娘の母でもある。

「毎日楽しそうに口論してるって。いいわね、若いってー」

 光子の長男である獣医の龍二と純子ちゃんは西伊豆で共に暮らし始めてひと月。どうやら上手く行っているようだ。


「それは良かった。それより由子ちゃん、ちょっと疲れてない?」

「え、そんなことないですよ。元気元気。大丈夫ですよ」

 自分で大丈夫って言っちゃってるし。だがどう見ても疲れなのか悩みなのか、いつもの彼女らしくない暗い表情が気になる。

「あれこれ忙しい疲れ? それとも何か仕事とかの悩み? まあ一人で抱え込まないで、俺らに相談しなよ。ね」

「あは、やはりせんぱいには隠せないや。そうですね。まあその内、光子先輩にでも。だから、せんぱいはゆっくり治してね。私が側にいるから〜」

「いや、善は急げだよ。今から光子の店行ってさ、相談に乗って貰いなよ。早く元気な由子ちゃんに戻って欲しいな」

「もう! せんぱいは優しいんだからっ 益々好きになっちゃいそうです〜」


 大丈夫。もう大丈夫。俺は揺れない、揺るがない。

 身動き取れない俺のおでこに、その美しいおでこをくっつけられても。

 動じない。もう動じない。これは天然モノの天然プレーに過ぎない… あれ、なんじゃそれ…

「せ・ん・ぱ・い」

 柔らかな唇が俺の口に接近する。あああああ。やっぱり無理。誰か、誰か助け…

「おーい金光さん、フツーにリハビリの時間ですから!」


 この入院生活で特記すべき人物の筆頭に上がるのが、実はこのリハビリを担当してくれているフィジカルトレーナーの橋上先生である。

 歳の頃は全く不明。若いのか歳を召しているのか、さっぱりわからない。ショートヘアで目が大きく、顔が小さく顎がとんがっており、全体的に小柄なのだがどこにその力が、と思える程の腕力で俺を支えてくれる。


 ぶっきらぼうで無口。しかし的確なサポート、アドバイスは信頼感しかない。さらにリハビリ後のマッサージはいつも昇天気分、骨折って良かったと毎度思う程だ。

 今時の医療事情によると、術後の安静、という概念は古く、動かせる所は積極的に動かす、のがコモンセンスらしい。よって足の痛みに苦しみながら上半身、右脚などを動かす。


「今日もフツーに頑張りますよ。はい、そこの綺麗なおねえさん。お引き取りくださいね」

 チッと小さく舌打ちをし、

「ではせんぱい、また来ますねー」

 と言って間宮由子は帰っていく。

「って、今の人、フツーにあの天然俳句の人ですよね、やるじゃん金光さん。あ、奥さんには黙っとくから。フツーに。」

 いつの日か丁寧なお礼をしなければならない… ありがとう橋上先生。


     *     *     *     *     *     *


 余りに突然、大学時代の仲間達が訪ねてきたのは術後三週間ほど経った九月の頭。卒業した国立にある国立大学のゼミ仲間と、バスケサークル仲間が連れ立って見舞ってくれる。皆社会の最前線で働くエリート中のエリート達。数十年ぶりの邂逅に俺はすっかり舞い上がってしまう。


「金光、お前大変だったな、驚いたよ」

「まあな。いやいやいや、それよりどうしてお前ら突然…」

「お前、轢き逃げにあったんだってな?」

「まあ、そうだけど…」

「その犯人が昨日捕まったって。ニュースになったの知ってるか?」


 何だって? そんな大事なこと、全く知らなかったぞ…

「え、ホント? 全然知らなかった…」

「そのニュースを青木が俺に送ってくれて。それで俺がこいつらに」


 青木裕紀。俺の大学時代の一番の親友。


「成る程。青木か、懐かしいな。卒業以来会ってないよ」

「実は俺らもなんだ。ウワサはちょいちょい聞くけど…」

「アイツ、国家一種受かって警察庁だったよな、キャリアな?」

「まあ普通にやってりゃ今頃警視ナンチャラのお偉いさんだったのにな〜」

「だったのに〜って、アイツ普通にやらなかったのか?」

「金光、何も知らないの? 青木さあ、色々やらかしまくって、今はどっか地方の県警の一警察官だって」


 バスケサークルでは、俺と青木が経験者でチームを引っ張っていった。兎に角、熱い奴だった。勝ち負けに拘り、ちょっと手を抜いて負けたりしたら、胸ぐら掴まれて怒鳴られまくった。格上の相手に全力で挑み、当然ながらボロ負けした後、一人コートの裏で号泣。

 気になる女子がボーカルやるバンドを見に行く為、嘘ついて練習をサボった後の地獄の説教。以来バスケでも仕事でも練習や事前準備をサボる事は無くなった。ある意味今ある俺の恩師でもあるのだ。学生時代に唯一尊敬していた同級生であった。


「でも何で青木が突然お前に…」

 栃木の交通事故を知っていると言うことは、今栃木県警に勤めているのだろうか。年賀状のやり取りもなく、奴の消息は全くと言って知らなかった。

「さあー。知らんけど、何か栃木だかの地方のニュースだから皆は知らなかっただろ?って」

 俺は成る程と頷き、そして笑顔で

「でもお陰でさあ、こうしてみんなに再会できたのは嬉しいわ、連絡先置いていってくれよ」

「そうだな。これも金光が死にそうになってくれたお陰だね」

 皆、頷きながら吹き出す。


「ところで金光、今どこの支店だっけ?」

 俺は頭を掻きながら、

「銀行は去年辞めて、今は小さな旅行代理店。で、お前は?」

「俺は今年から東京戻って本社勤務な」

 これぞ正に、怪我の功名。数十年ぶりに切れていた仲間の縁が復活する。


 出来ることが一日ずつ増えていく。この喜びにハマると退院したくなくなる、なんて事は無い。カレンダーに記された『退院予定日』に向けて、一日一日を大事に過ごす。リハビリにおいて、課せられたメニューがどの筋肉にどの骨にどう作用し影響を与えるのか。それを知らねば凡庸な回復しか見込めない。

 と、橋上先生にボソボソと言われる。お世話になり始めてひと月が経ち、ボソボソながら色々な体の知識、リハビリの知識を俺に与えてくれる。このまま弟子入りして俺もトレーナーになりたいと言うと、

「今の仕事フツーに続けた方がいいですよ」

「え?」

「この仕事、フツーにメチャキツいですよ。薄給だし。腰痛になるし。ストレス多いし。酒量年々上がるし。上司ウザいし。患者ワガママなの多いし」

「うーん。でも仕事なんてみんな似たり寄ったりじゃないかな?」

「そうですかねえ。でもフツーにOLやっていた頃よりはマシかな」

「へー、転職したんだ?」

「ハイ。会社辞めて資格とって病院を転々として」

「そっか。頑張ったんだね。どんな会社に勤めていたの?」

 俺の妄想によると、地方の高校を卒業後、地元の金融機関に就職、数年で退職し上京、専門学校に通い…


「三葉物産です。」

 ……

 俺は口をポカンと開けて、先生をまじまじと見詰めてしまう。

 は? 日本を代表する商社?

「そ、そうなんだ… 一般職?」

「いえ、フツーに総合職。私たちの時代に一般職有りませんから。金光さん、古ーい」

 …… 先生の笑顔、一月目で初めてその尊顔を貴見る。

「て事は、大学… どこだったの?」

「フツーに日吉経由三田ですよ」

 それって… 超名門私立大学じゃないか!


「フツーじゃないっ 断じてっ なにその高学歴! そして何その行動力! 凄い、ウチの会社に欲しい、キミが!」

「え? フツーに口説いてます? 私の事」

「いや。本気だ。」

 先生はケタケタ笑いつつ、

「奥さーん、旦那さんが私の事口説いてますけど」

 光子は面倒くさそうに、

「んだとコルラ。テメエ何若いオンナ口説いてんだ、殺すぞっ」

「まあ待て。こんな優秀な人材を当社に欲しいと言っただけだ」

「ん… そうか。確かにコイツは無愛想だが使えるヤツだ。おう、何ならウチの店手伝うか?」

「フツーに私のモテ期到来っすね」


 一見暗く無愛想な橋上先生と光子は意外に相性が良い。先生はトレーナーの技術を幾つか光子に伝授し、それを俺に甲斐甲斐しく…

「コラ! 中坊の頃の方が、根性見せてたんじゃねえのか? 気合たんねえぞ!」

 まるで俺の苦痛を楽しむかの如く、彼女はリハビリのサポートをしてくれるのだ。

「まだまだまだ! そんなんじゃてっぺん取れねえぞっ いけえ!」

 この病院のリハビリ王は花道クンにでも譲るとして、こんな風に彼女なりに懸命に俺を支えてくれるのが嬉しい。今は。来週辺りからウザく感じ始めるかもしれない、フツーに。


     *     *     *     *     *     *


 会社の仕事も病室でこなすようになる。今俺にとっての一番の仕事は、この秋に修善寺の名旅館で予定されている間宮由子先生の句会だ。

 梅雨明けに光子と由子先生と俺との三人で泊まった修善寺『あおば』にて、マスコミも集め割と大々的に告知しての句会開催を目論んでいる。


 山本くんによると、当社でこれだけ大々的なイベントは創立以来初めてであり、全社員、特に企画部の連中がかなり浮き足立っているそうだ。社長なぞ毎週俳句教室に通い出したという。

 確かにこれまでのネット販売がメインの我が旅行代理店の販売施策としては、画期的かつ斬新的だ。このイベントが上手くいけば、我が社への注目度はこれまでと比にならないほどのものとなるであろう。


「専務が来て、ウチの会社も変わり始めましたね。あの間宮由子さんみたいな有名人とコラボした企画をウチが立てるなんて。信じられません…」

 山本くんが若いくせにしみじみと呟くので、

「おいおい。まだ企画段階なんだからな。大変なのはこれからだよ。俺はこの通り、半年は戦力にならないのだから、お前ら若い連中がしっかりと仕切ってくれなくては、な」

「ええ。この企画が上手く行ったら、ウチの会社大きく変わりますよ、ね?」

「そうだな。嘗てないほどの注目を浴びることになる。先の話だけど、そこからどう我々が立ち振る舞うか、だよ。大きく進むか、フツーに停滞するか」

「うわ… そんな先の事、まだ考えられませんよ。目の前のことに一杯一杯ですから」

「それでいい。目の前のことに集中しろ。全力でぶつかれ。後の事は俺がしっかり考えておくから。」

「専務… 金光さん… オレ、今、初めて金光さんのこと尊敬しましたっ」

「山本くん。光子がー、あの、伝説のクイーンがお前に話あるってさー」

「いやーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」

 以前『しまだ』に連れて行き、本人の目の前で伝説の不良の過去をネット検索して以来、彼は光子を心底恐れている。きっと昔不良にカツアゲされたか、ボンタン狩りにあったとかのトラウマがあるのだろう。


 入院してからひと月ほどが過ぎたある日。久しぶりに間宮由子が訪ねてくる。元気が無かった数週間前とは打って変わって、とても元気そうな様子にホッとする。

「あの後、せんぱいの言う通り、光子先輩のお店に行って話を皆さんに聞いて貰ったんですよ」

「そもそも、悩みって何だったの?」

 由子は眉を顰めながら、

「あの頃、フリーの雑誌記者に脅されていたんです」

「何だって!」

「ちょっと有名になっちゃったじゃないですか、最近…」


 ちょっとどころか… 先月だか、彼女は国内で最も権威のある日本俳句協会賞を受賞し、名実共に実力派俳人として脚光を浴びている真っ最中なのだ。

「岩倉って名乗る記者から、間宮先生の過去をある雑誌に載せるので記事を確認してください、ってファックスが送られてきたんです。」

「マジか…」

「そこには、まあ有る事無い事… 私が地元では有名なヤンキーだったとかー」

「…それは事実だろう?」

「みんなから『赤蠍』と呼ばれて恐れられていたとかー」

「…それも事実だろう?」

「男を次々に手玉に取り、高級マンションを貢がせたとかー」

「…おい。全て身から出た錆、とは思わないのか?」

「それで、光子先輩達に相談したんです。そうしたら、健太くんとか青山くんとか川村くんが怒り狂ってー」

「まあ、そうなるわな」

「俺たちが話つけてやるって。」

「は?」


 健太は地元の左官屋の親方だからまあ高が知れているがー。そう言えば青山とか川村は元健太グループ、今何をやっているのかこのあいだ鬼怒川で聞いた… わっそれはヤバ…

「ええと、青山くんが不動産屋さんで」

「…ああ。業界専門の悪徳不動産屋な…」

「川村くんが、輸入代理店やってるって」

「ああ…。業界専門の不正輸出入業者な…」

「それからしばらくして、その記者から連絡があって、どうしてもお詫びをしたいって」

「…… ハハハ。まあ、そうなるだろーな…」


 後日見舞いに来た青山、川村の両者を問い質したところー

「あんなセコいヤツ、ちょろかったわー」

「木場に呼び出してな、お前もこの材木みたいに水に浸かりてえか? ってな」

 おい。人を材木扱いするのはよしましょう。

「んで、ケツ持ちいるなら出せよって言ったら、」

「こっちは西から東まで、話つけられるんだけどよって言ったら、」

 ケツ持ちって… お前らの行為は暴対法に明白に違反しているのだが…

「すみませんでしたー出来心でー ヒー だってよ」

「ったく。俺たちの由子ちゃんを威そうなんて許せんっ」

 そこは激しく同意。だが、も少し堅気なやり方しないと逆に由子に迷惑が、とは考え付かなかったのかね?

「金だけじゃなく、カラダまでも狙って… やっぱ沈めとけばよかったんじゃね?」

 何故すぐに沈めなかったのだ! 昔から口ばっかだったなコイツら、何なら俺が今から…

「…… やっぱ、キングいなくて良かったわ、あの場に」

「それな。絶対殴り飛ばして木場に沈めてたわコイツ」

 二人は爆笑する。


「それで、岩倉は私が絵を集めているって聞いたって」

「へー、そうなんだ?」

「はい。で、お詫びに格安で買える画商を紹介したいって」

「絵画かあ。そういえば…」


 今の旅行代理店に転籍する前、俺は大手都市銀行の支店長だった。バブル期ほどではないが、顧客の資産絡みで絵画のやり取りは日常業務内。

 一時期絵画、特に日本画家の作品の値崩れがひどく、資産評価の頭痛の種であった。しかし最近は主に外国人の買い支えが入り、その価値が年々上昇傾向にある。


「それで先日、その岩倉と画商が家に来て、私の大好きな画家の絵をー きゃー」

 本当に嬉しそうに身悶えをする由子。因みに誰の絵を?

「小倉遊亀さんのです♫」

 渋い。シブすぎる。俺も詳しくは知らないが、日本の現代女流画家の原点とも言うべき大御所だった気がする。

「色遣いとか、超カワイイじゃないですか?」

 直ぐにググール老師に問い合わせると… うーん、なんか思っていたのとは違う。大物感ゼロ、俺でも描けんじゃね? 何この日常感溢れる…

「そこですよ! 俳句だって誰にでも詠めるでしょ。小倉先生の絵も誰にでも描けそうでー」

「あああ、成る程。描けそうでー描けない。間宮先生の俳句と同じ、か」

「ウフフ。この親しみ易さの裏にある突き抜けた才能。手が届きそうで届かない… すぐに抱けそうなのに、抱けない〜」

「それ、由子ちゃんそのものじゃんか! アホ!」

「キャハ、せんぱいったら♫」

 溜め息しか出ない、この魔性ちゃんには。光子を呼ぼう、今直ぐ…

「大好きな小倉先生の絵、三幅を格安でっ もう幸せすぎて死にそう〜」


 由子が帰った後、洗濯物を届けてくれた光子にその話をすると、

「へー。そんな事になってたんか」

 棒な返事に呆れながら、

「嘘つけ。オマエ全部知ってたんだろうが?」

 光子はニヤリと笑いながら、

「へへへ。ま、うまく収まったからいいじゃねえか」

「ったく。下手したら恐喝で捕まるぞアイツら…」

「そんな下手打つ訳ねーだろ。アイツらが」

「…… まあ、そうか。そうだな」


 確かに。妙に悪知恵の働く奴らであった、昔から。

「そーだ。信じろ、仲間」

「んーーー、仲間、かあー」

「仲間だろ。ゆーこを守る」

 ったく。仕方ねえなあ、地元の奴らは。

「そうだな。あ、お前も由子の句会、勿論行くよな?」

 まるで血の滴る松阪牛を目の前にしたハイエナの如く、光子は両目を見開き口から涎を垂らしながら、

「行く行く行く行く行く行く逝く〜」

「そんな… カワイイ顔して悶えないでくれ…」

 と揶揄うと、

「ば、バカヤロウ、おま… おう、リハビリだリハビリ! オラ、立てコラ!」

「かしこまりました女王様。今日のメニューは何でしょうか?」

「天辺目指せ、てっぺん! 桜木なんかに負けてんじゃねーぞコラ!」

 だから、リハビリ王は…


     *     *     *     *     *     *


 入院生活も一月を越え、リハビリも順調に進み、そろそろ退院というゴールが見え始めて来た頃に、今回の轢き逃げ犯の弁護士が俺を訪ねてくる。

 犯人の男性は二十一歳の大学生、道路交通法の救護義務違反、報告義務違反、そして自動車運転処罰法の過失運転致死傷などが適用され、逮捕勾留中であるとの事。本人は前方不注意による過失によるものであり、故意による事故ではないと主張していると言う。


 また、轢き逃げ事故なので自動車任意保険は適用できず、本人と直接示談を成立させるべくこの弁護士が来たとの事。学生の親が相当立派な人なのだろう、いかにもキレ者と言った感じの若い弁護士である。

 彼は長々と過去の事例を列挙し、今回のケースで最も近似した示談金を事細かく説明してくれる。その金額には、治療費、入通院費、休業補償。逸失利益と共に慰謝料も含まれていると言う。慰謝料は轢き逃げの場合、通常の交通事故よりも五割近く増額されるとのこと。


 たまたま見舞いに来ていた葵が、

「でもこれって、後で出頭した場合じゃないの? 警察に捜査、逮捕された場合、被害者の心情がそれで許すかなあ。あとさ、前方不注意って言ってるけど、その車急加速したってみんな言ってるよ、それって過失なの? 健太さんが言ってたよ、前の日にサービスエリアでトラブルになった黒いワゴン車に似てたって。その辺の話、容疑者から聞いてるのあなた?」


 それまでは事務口調で淡々としていた若い弁護士が、

「そんな話は伺っておりません。私はただ、」

「前の日は若い女子が助手席に乗ってたって。警察に捜査してもらった方がいいと思うけど」

「ですが、その車両が当事件と同一車両だとは、」

「捜査本部、栃木だよね、今から電話しますね」

 弁護士は口をポカンと開け、額の汗を拭き始める。


 葵が情報を伝えてから三時間後。栃木県警交通課及び捜査一課の刑事が訪れてくる。

 まだ蓮田の病院に入院していた時に、事情聴取で来たのと同じ交通課の刑事だ。

「まだ大学生だけどちょっと悪質なヤツでしてね、事故の後すぐに車を処分していたんですわ。それで捜査が遅れに遅れ… でもね、不思議だったんですわ、たかが轢き逃げしたくらいで車を処分するなんて」

「たかが轢き逃げって、何ですかそれ?」

 葵が睨み付けると彼は縮こまる。捜査一課の刑事が、

「でもお話を聞いて納得です。前の日に金光さんの友人達に女友達の前で恥をかかされ、その復讐のために貴方を轢いた。これは刑事事件になります」


「それって、もし父が死んでいたら殺人罪になるの?」

 葵が刑事に聞くと、

「そうだね、この場合だと少なくとも未必の故意を立証しなければ殺人罪にできないよ」

 何故か葵は目を輝かせ、

「未必の故意、って何ですか?」

「これをやったら相手は死ねかも知れないけどそれならそれでいいや、と思って犯行する事だよ。因みに、『コイツぶっ殺す』と思って犯行した時は『確定的故意』って言うんだ」

「へぇーーー。じゃあ、その未必の故意を立証するのって、どうするの? 自白とか?」

「ドライブレコーダーに「ザマアミロ」とか録音されていたら、それが証拠となるんだよね」

「へぇーーーー。よかったねパパ、死なないで。その犯人のためにもさ」


 成る程、俺が死んでいれば殺人犯を一人生み出すところだった、という訳か。面白い発想だ。

 ともあれ、県警の刑事達の話では、示談金交渉とかは事件の全容が解明されてからになるだろうから、もう少し待って欲しいと言われ、どうぞどうぞと返事をした。


 長いようであっという間だった入院生活。明日の退院を控え、色々と準備をしている中、ある意味俺と光子の縁結びの神が訪ねてくる。

 ISSA、世界温泉評価機関という我々の業界では知らぬ者はいない団体がある。飲食業界のミシュランのような存在だ。その団体の世界に数名しかいないシニアインスペクターである泉貴志氏が、俺を見舞いに来てくれた。

 彼と俺の出会いは本当に長くなるので割愛する。彼は心臓を患って入院していたが、先月晴れて退院し、俺と光子に会いにわざわざ来てくれた。


「いやー、大変でした、金光さん。僕もちょっと忙しくしてて… でもやっとこうして貴方を見舞うことが出来ましたよ」

「わざわざ有難うございます。そうそう、アンバサダーホテル、当社で大人気です、売り上げダントツ一位だそうです」

「いやー、良かった良かった。台湾の李代表から連絡来まして、グループ内でも今月の売り上げトップだそうで。大層貴方に感謝してましたよ」

「いやいやいや… こんなタチの悪い客筋を本当に良くして貰って。皆大喜びでした。なあ、楽しかったろ?」

「サイコー 超楽しかったよじーさん。マジあんがとな!」

「いやいやいや〜 貴女に喜んで貰えて、僕こそサイコーですよ」

 …… なんか今、一瞬ムカッときた。あれ?


「さておき。金光さんが素晴らしいアドバイスを幾つもして下さったとか」

「とんでもない。普通に感想を述べた程度ですよ」

「その感想が台湾本社の幹部会議で議論されたとか」

「え… 恐縮です」

「修学旅行、現地ではこう書くんですー」

 ベッド脇のメモ帳に達筆で泉さんは『畢業旅行』と書かれる。


「でも金光さんが提起した、大人の修学旅行。これは彼らにも非常に斬新なアイデアだったようで、『修学旅行』としてまずは台湾で売り出す事にしたそうですよ」

「え… はあ… そうですか…」

「いやー。李代表に、『キミはすごいブレーンがいるね』と羨ましがられましたよ」

「そんな… 恐れ多い…」

「台湾にはね。日本人、いや世界の人が知らない素晴らしい温泉が山ほどあるんですよ」

「何ですって? そうなんですかっ 知らなかった…」

「なので、李代表の信頼を得られたのは僕にとっても貴方にとっても…」

「ゴクリ。泉さん、今後も…」

「ええ、ええ。こちらこそ、是非良きパートナーとして…」

「よろしくお願いします!」

「こちらこそ。あ、貴女とも是非!」

「おう、じーさん。仲良くしよーぜ。一緒に温泉行こーなー」

 ジリッ まただ。胸がひり付く痛み。


 退院。これからは自宅で生活し、リハビリもしなければならない。

 退院。これからは光子と会うには、店に行かねばならない。


 そんな訳で、今日という日を待ち望んでいた割にはそれ程嬉しくもない。むしろ少し落ち込み気味ですらある。

身の回りの片付けは葵と翔がまるで夫婦のようにあっという間に… 気分が悪い。翔は最近調子に乗って俺のことを『おとうさん』と口走る。その度に

「今なんと言ったのかな」

 と睨みつける。すると葵が

「パパ、キモい。パなくヤダ」

 などと言い、機嫌が悪くなる。それを光子に愚痴ると

「それなっ アオジルがアタシのこと『お祖母様』って、ババア呼ばわりするんだぜ、ザケンなあの小娘…」

「いや… それ正しい。あと青汁じゃない、葵だ」

「ん? あそっか。そーだな。それでいいっ」

 俺にも彼女の半分ほどの器、若しくは漢気があれば、とつい思ってしまう。


 一月半ぶりだろうか、病院の外に出るのは。入院した頃は酷暑の真っ最中だったが、既に秋の気配が漂う空気を胸いっぱいに吸い込んでみる、そしてゆっくりと吐き出す。

 娑婆の空気は美味い、なんて極道映画で出て来そうなセリフであるが、その気持ちを実感してしまう。なんと外界の空気の美味しいこと。もう二度と長期入院なんてしたくない、曇りがちの空を見上げながら、つくづくそう思ってしまう。


 光子が我が家から乗ってきた車を病院のエントランス前に着けてくれる。看護士が花束をくれる。素直に嬉しい。

 リハビリトレーナーの橋上先生が来てくれる。これからは週に三度ほどこの病院に通い、半年ほど彼女と共に完治目指して戦わねばならない。

「金光さん、頑張っちゃダメだよー」

「え?」

「フツーにやれる事をしっかりやりなさい。無理は絶対ダメ。わかった?」

「おう先生。アタシがしっかり見張ってっから。無理はさせねえよ」

 光子が胸をパンパン叩きながら笑顔で答える。


「奥さん、頼んだよ。この人すぐにムキになってフツーに無理しそうだからー」

「昔からコイツはそーなんだよ。手の骨折れてんのにバスケの試合出たりとか、な?」

 すると先生はニヤリと笑いながら、

「そう。だから、早く籍入れてフツーに毎日見守ってやんなよ」

 なんて爆弾を放り投げてくる。

「ちょ… 先生… はあ? 何仰られていらっしゃりますのでしょうかしら…」

 あ。光子が壊れた。先生は容赦無く次々に爆弾を放ってよこす。


「早くさ、『金光光子』になっちゃいなよ。あ、スゲー、『カネミツミツコ』、いや、『キンピカピカ子』じゃないですか、フツーにピカピカじゃないですか、ウケるー」

 先生が腹を抱えて爆笑している。


 あ… ホントだ… ピカピカじゃないか… 流石、先生。これからも俺らを宜しくお願いします!


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