大人の修学旅行
今日から東京は梅雨明けらしい。数日前から気温がグイグイ上がっており、蒸し暑いことこの上ない。
今夜も仕事帰りに『居酒屋 しまだ』に向かう。もう三ヶ月になるのか、この店に通い始めてから。そして、俺の仄かな恋も同じだけの月日が過ぎている。
中学生の頃の同級だった島田光子は、あの時代この地域で『クイーン』と呼ばれていた有名な不良だった。部活と生徒会に没頭していた俺でさえ知っていた。当時は全く交流がなかったので、三ヶ月前偶然知り合って初めて彼女を知った。
暖簾をくぐるといつものメンバーだ。やはり同中だった俺のほぼ唯一の地元の友人、高橋健太。地元で左官屋をやっている。本人はインテリア専門店とほざいているが、まあ、左官屋の親方だ。
この店を手伝っている小林忍。その様相からつい『白豚』と口走り、たまにド突かれる。クイーンのかつての不良時代の舎弟? 舎妹。そう言えば、かつての付き合いがどんなのだったのか、まだ知らない。
最近この店にポツポツ昔の同中の仲間が来るようになった。所謂ダチ、という奴だ。今年で五一になるのだが、この歳でダチは恥ずい。だが彼らと喋っていると、やはり旧友や学友というよりは、ダチが合っている気がする。
三ヶ月前、健太が俺をこの店に連れてきた。色々な出来事を経て俺は今や常連であり、店主の島田光子ことクイーンとは、自分で言うのも恥ずいのだが只ならぬ関係にある。この『恥ずい』と言う言葉も恥ずかしいのだが、中三の娘の葵に感化され、普通に『恥ずい』。
健太が俺で味をしめたのか、同中の仲間を連れてくるようになった。同中とは同じ中学の意であり、やはり葵に感化された結果、普通に使用している。恥ずい。
彼は中学時代、不良グループに属していた。クイーンと同系統だ。従って連れてくるダチはそっち系だ。なので部活生徒会系の俺とは正直接点が少なく、また大卒の俺と中卒、高卒の彼らとは話が合う筈もなく、それ程盛り上がる事も無い。と思われていたのだが……
「いやー、キング。成績優秀スポーツ万能、正義の漢、金光キング。いよーっ」
「ホラここ。キングに殴られた趾な。ったく真面目グループなのに喧嘩も強え強え」
俺の人生最良の日々。成績は卒業まで学年トップ。バスケ部の主将で都大会ベスト8。生徒会会長。確か中二の時、生徒会として彼ら不良グループと対立、健太とこの青山、川村ら六人と体育館の裏で乱闘となり、双方大ダメージを受け、以来何となく互いに認め合う間柄に。
健太はこの深川西中の番長格だったらしい。裏番? 本番? システム自体がよく分からない、未だに。非常に面倒見の良い男で、三年前に妻の里子が虚血性心疾患で急逝した時も、真っ先に駆けつけ通夜、葬儀を手伝ってくれた。
「そんで、俺らの出世頭って奴な。支店長さま!」
「だから、それは去年までの話。もうお前に美味しい旅行話、回すのやめた」
俺は数年前まで某大手銀行の某支店長を務めていたのだが、まあ、色々あって去年今の職場である小さな旅行代理店に転籍となり、今に至る。
「軍司―、それは無いっしょー、って。俺まだお前から何―んもいい話貰ってないし。クイーンばっかりいい思いしてよっ ケッ」
「んだコラ健太。アタシに喧嘩売ってんのか?」
この店の店主。クイーンこと島田光子が健太に気持ちよく啖呵を切る。
「まさかー クイーン機嫌直してよお、あ、ボトル入れちゃおう、な、『百年の孤独』」
「まいどありー 忍、出してやって」
「姐さんさすがっすね。商売上手っす!」
「そー言えば、金八っつあんと、こないだ会ったわ」
唐突に川村が言い放つ。彼は自称輸入代行業者といっているが、陰で相当悪いことをしているようだ。
「マジか…」
青山が懐かしそうな、でもネズミの死体を踏ん付けたような表情で呟く。コイツもなんだか怪しい奴で、自称地元密着の不動産業なのだが、話を聞いていると地元裏社会密着、らしい。
「うわ… 懐い」
「川村、それ本当か?」
川村はジョッキを舐めながら、
「おう。こないだ親父連れて病院行ったらよ、待合室でバッタリ。老けてたわー」
俺たちの中学の社会科の教師だった、金子八朗先生。当時流行っていたドラマ通りの渾名をつけられた先生はあのドラマ通り、いやそれ以上の熱血教師だった。
「大学出てウチが最初の赴任先だったんだよな、確か」
「んで、あの就任式なー 体育館のー」
「みんなで名前からかってなー そしたら目の前のテーブル……」
「叩き割るかフツー 空手三段だっけか?」
健太はジョッキのビールを一気に飲み込んで、
「俺ら二年の時の卒リン(卒業リンチ)覚えてっか? 三年が十人で金八っつあんに殴りかかってよお、」
「三分で全滅… しかし病院送りゼロ…」
あの事件の揉み消しに、俺ら生徒会がどれ程苦労しただろう。余りの懐かしさに吹き出してしまう。
「でも、あの人達よお、卒業してからもよく学校遊び来てたよなあ」
「よく泣きながら金八っつあんと話してたわー」
正直、俺は先生が暴力を振るっている姿を殆ど見た事がない。それより、あのドラマよりも遥に熱血でお人好しですぐ泣く、とても面倒見の良い姿を未だに鮮明に覚えている。
忍におかわりのビールを頼みながら、呟く。
「俺も高三くらいまでは毎年正月、先生の家に挨拶行ってたんだよなあ」
「だよな、キング来てたよな、来てたよな」
「あー、俺もガキできるまではよく遊び行ってたわー」
そんな先生を思い浮かべながら現実に引き戻される。
「で、病院で会ったって… 先生体調悪いのか?」
川村は俯き、顔を歪ませ、低い声で
「ああ。周りに迷惑かけたくねえって、ずっと我慢してきたんだってよ… もうよ、ゲッソリ痩せちまってさ」
川村は目に涙を浮かべながら鼻を啜る。俺は口の中がカラカラに渇き、ジョッキを口にする。
「なんか、いぼ痔だか切れ痔だかの手術して、奇跡的に助かったってよ」
俺はおかわりのビールを口に含んだ所であった。それを盛大に噴き出しながら、
「…… 死に至る病気では無いな。そうか、お元気なんだ」
「汚ねえなー ったく… ああ、元気、元気。『川村―、親孝行かー、偉いぞー』なんて病院中に響き渡る大声でよお。ったくこっちは五十過ぎだっつーの」
「はは、先生にとっては俺らが最初の生徒だったからな。きっといつまで経っても生徒なんじゃないか?」
「そっかあ。会いてえなあ 金八っつあん…」
いつの間にかクイーンがiQOSをふかしながら俺たちに加わっている。
「おう! 今度誰か連れてこい! タダ飯食わしてやるっ」
「おっ流石クイーン 太っ腹!」
「いや腹出てねえよ、ほれ」
エプロンとTシャツを胸までさっと上げると、六分割された腹が現れる。元不良三人の反応は皆同じ。空腹で松吉屋で牛丼食べたら、間違って松坂牛だった時の顔。見てみたかったが実際見たら別の意味で凄くてちょっと引く、そんな空気に俺は一人軽い嫉妬を感じる。
* * * * * *
恩師との再会は意外に早く訪れる。コイツら地元密着人間なので、実に『話が早い』。先日の話から数日後の、金曜日の夜には先生を『居酒屋 しまだ』に連れて来ることになった、と健太から連絡が入る。
そのせっかち振りは下町気質なのだが、それにしても早い。こちらはまだ心の準備ができていないと言うのに…
あっという間にその金曜日は訪れる。心の準備はやはり間に合わなかった。楽しみよりも怖さの方がやはり大きい。
定時に仕事を終え、急ぎ足で店に向かう。何年ぶりだろう。約三十年ぶりになるのか。俺は先生に胸を張れる人生を過ごして来ただろうか。否。なまじあの頃は出来が良く優等生だった俺のこの凋落ぶりに、先生をガッカリさせてしまうのがとても残念だ。
「おう軍司。お前はその能力を必ず世の中の為に使え。神様はその為にお前にその能力を与えたんだからな」
今でもよく覚えている。卒業式の後の先生の『贈ってくれた言葉』だ。
俺は先生の期待とは違う自分本位な生き方を選んでしまった。国立大学を卒業後、大手銀行で出世の虜となり、先輩、同期を叩き落とし、後輩を足蹴にし。家庭を持つも、妻子を顧みず仕事仕事、時々オンナ。支店長となりこれから更なる高みへ、という時に妻の急逝、小指訴訟問題、そして非上場の小さな会社への転籍。
どんな顔で先生に会えば良いのだろうか。こんな俺を先生は許してくれるのだろうか。それとも昔のように真剣に叱ってくれるのだろうか…
店の前に立つ。中から昔懐かしい先生の声が聞こえてくる。暖簾をくぐる勇気がない。笑い声が聞こえてくる。その中に加わる荒肝がない。どうしても足が前に進まない。あれ程期待してくれた先生の落胆する顔が見たくない。
踵を返そうとしたその時、肩に温もりを感じる。
「どした? 中入ろうぜ、一緒に」
金色のポニーテール。白のTシャツ。細身のジーンズ。そして、いつもの真っ直ぐな瞳。肩に置かれた手から、そしてこの瞳から温かい力が俺に伝わってくる。今までの俺に無かったもの、そしてずっと欲しかったもの。
「ああ。行こうか、一緒に…」
「おっ! キングとクイーン、同伴かっ」
「ヒュー、ヒュー」
「ビミョーにお似合いだぞっ」
そんな冷やかしの声の中、中肉中背の、あの頃と変わらない先生がスッと立ち上がる。
「軍司? 軍司か。それに… 島田!」
周りの声が鎮まっていく。
クイーンはちょっと照れた顔で先生にゆっくりと近づいていく。
「変わんねえな 金八っつあん。元気そうじゃん…って、な、何だよ、泣くなよ…」
「お前… あのお前が… こ、こんなに… 立派にー ハウっ」
先生が大粒の涙を溢しながらクイーンの両肩に手をかける。
「ったりめーだろ。やるときゃ、やるんだよ、アタシは… よう」
「いーや。お前は頑張った。誰より一番頑張った」
「んなこと… ねえよ」
クイーンの目にみるみるうちに涙が盛り上がる。
「子供産んで立派に育てた。先生ちゃーんと知ってた。一人で、良く、頑張った」
「……」
俯いて、鼻を啜る。肩が震えている。こんな彼女を見るのは初めてだ。
「ああ。お前は凄い。ホンモノのクイーンだ。誰が何と言おうと、お前はこの町の女王だっ」
クイーンが先生に抱きつく。何かを言っているが嗚咽で言葉にならない。彼女が一番欲しかったもの。これまでの頑張りを誰かに褒めてもらうこと。そして…
「おいっ 軍司」
「は、はいっ」
先生はクイーンは片手で抱きながら俺に向き直る。言い訳、言い逃れを決して許さない強い瞳が俺を捉える。
「お前も、良く頑張ったな」
穏やかな優しい目。かつてのような熱く燃えたぎった瞳ではなく、傷ついた者をどこまでも暖かく包んでくれる、穏やかで柔らかい瞳。
「いや、先生… 俺はー」
違うよ、違うんだ先生。俺は、俺は自分のことばかりを…
「知ってる。聞いてる。お前の事も」
「だから、俺はー」
先生は優しい笑顔で首を振りながら、
「いーんだよ。今こうして生きて元気で、先生の前に居てくれる。そんだけでいいんだ」
全身の力がスッと抜ける。同時に心に温かいものが込み上げてくる。
「せ、先生……」
「お前みたいにプライド高い奴があんな事になって。先生はお前が死んじまわねえか、それだけが心配だったんだ、娘とババア残してな。でもお前は耐えた。過去を悔やみながらそれでも生きた。人はよお、天辺からドン底に落ちた時にこそ本当の強さが問われんだよ。お前は昔から強かった。だから先生は信じてた。お前の強さを。そんで必ず這い上がってくるって」
脳天を殴られた気がして、思わず床にヘタリ込む。
床にボタボタ、大粒の涙が零れ落ちる。
俺の両肩に熱い力を感じる。
「お前は今でも最高だよ。キング」
しゃくり上げる息が切なく苦しい。先生が耳元でそっと囁く
「お前は、俺の、最高の教え子だ!」
* * * * * *
クイーンの温かさは俺に勇気をくれる。先生の熱さは俺に力をくれる。俺は一人カウンターに座り、キンキンのビールを喉に流し込む。店はまた笑い声が溢れ出し、一人また一人懐かしい教え子が店にやって来ては、先生に熱く歓迎されている。
隣にクイーンが座る。今夜は忍に全部任せるつもりらしい。店は貸切りにしているようだ。
「たまんねえな…」
泣き腫らした、然し乍ら初めて見る、優しい目で俺に言う。
「ああ。たまんねえ…」
妻の里子が急逝してからこの三年間で、これ程心打ち震えた事は無かった、いや今までの人生でもこんな事はあったのだろうか。高校生の時以来だろうか。
里子が死んだ時も俺は涙一つ溢さなかった。梅雨入り前にクイーン、葵、クイーンの孫であり葵の彼氏の翔と四人で箱根に行った帰りに、目が曇ったのが何年何十年ぶりの涙だった。
そして今。本当に何十年ぶりに心穏やかな心境にいる。多分隣の彼女も同じだろう。共に滂沱の涙を流し、それぞれに抱えた苦労、苦悩、穢れ、煩悩が洗い流された。
「すげえな。やっぱ」
「ああ。俺らにはもったいない恩師だ」
酒が入るに従い、店内は徐々にカオスと化してくる。序盤の感動の再会は何だったのか… あちこちで思い出したくもない過去話が飛び交っている。かと思うと、至る所に地雷が敷設されており、自分以外は全員敵状態だ。
「練習、キツかったわー 毎週ゲロ吐いてたよな」
「そうそう。体育館の出口にバケツ用意してな」
バスケ部の小室と清水。三年前の里子の葬儀の時に来てくれた。今もこの界隈に住んでいるので、今回誘ったら渋々来てくれた。何でもクイーンがおっかなくて逡巡していたらしい。どんだけ彼女は恐ろしい存在だったのだろう。
「そりゃあ、江東区シメてたからな…」
「いや… 台東も葛飾も…」
「大江戸連合だっけか… 何百人も束ねてたんだよな…」
「いや千人超えてたろ…」
こいつら何を言っているんだ。いくら『深川のクイーン』とか呼ばれてたにせよ、精々地元を束ねていたに過ぎないだろうに。
「オマエら… そんな漫画みたいな話あるかよ。おーいクイーン、ちょっとこっち来てくれや」
二人は急速に青褪め、
「え、ちょ…」
「ゲッ マジ?」
「何だオマエら、そんな端っこでー」
クイーンがビールジョッキ片手にフラフラとテーブルにやってくる。小室がゴクリと唾を飲み込み、清水は視線を泳がせる。おい、俺たち今幾つだよ… いい大人がそんなにビビってんじゃねえよ…
「いや、こいつらがさ、お前が何とか連合やら千人束ねてたとか、夢物語を語るからさあ」
クイーンは懐かしそうな表情で、
「おー、懐かしいな。二千人な、市川と船橋入れて」
なん…だと…? 二千人、だと…
こ、この女がかつて、二千人の不良達を仕切っていただと…
俺は開いた口が塞がらず、呆然と彼女を眺めている。
小室と清水が然もありなん、と頷きながら、
「やはり…」
「あ、あの、島田さんってさ、レディースのヘッドだったんですよね…?」
レディースとは、女子だけで構成された暴走族のことである。とこの店で忍に教わった。
「んー、ヘッドっつうか、幹部な。『深川メデューサ』ん時な。いやー、あん時は育児忙しくってさー、途中で抜けたんだわー」
「い、育児…!」
「族を… 育休ですか…?」
「そ。あん頃は忙しかったわー 母乳で育てたしなあ」
二人は目を見合わせ、
「さすがですっ」
「おみそれしましたっ」
クイーンに深々と頭を下げる。その姿を苦笑いしながら
「んだよ、意味不―」
「いや、俺らバスケ部だったじゃないすか、マジ島田さん怖かったんですよー」
清水が恐る恐るカミングアウトする。
「一度島田さんに見惚れてたら、『何ガン飛ばしてんだコラ』って… 殺されるかと思った…」
小室も恐る恐る淡い思い出を語りだす。だが、見惚れる、と言ったか? は? 見惚れる?
「は? 何で見惚れんの?」
「そりゃー、なあ」
「おおー、そりゃーなあ」
俺は頭にハテナマークが浮かぶ。クイーンに見惚れる? 何じゃそれ?
「は? だから何なんだよっ」
「何つうか、明菜的な?」
「イヤイヤ、三原順子チックな?」
「へ?」
俺とクイーンは真顔で首を傾げる。
「だから〜、マジおっかなかったけど、超絶美少女だったじゃないッスか!」
俺はマジマジと二人を見比べる、どうやら嘘はついてないようだ。
「ホントか?」
清水が心底呆れ顔で、
「キングーーー お前あん頃、ほんっと女子に興味無かったもんなあ」
クイーンが俺たちのテーブルにドンっと腰掛け、興味深そうに俺を覗く。
「お前、あん頃彼女いなかったのかあ?」
何故か小室が全身全霊で、
「いませんいません! てか、キングさあ、彼女禁止令出してたよな、バスケ部で」
…… ああ、そう言えば… 俺のパワハラ体質はあの頃から…
「そーそー。で、彼女作った大澤? 罰として丸坊主ギャハー」
「でもその彼女、坊主頭にハマりにハマって、」
「今では坊守さんっ」
二人は内輪ネタで大笑いだ。
「ともかく、コイツは中坊の頃はホント女っ気無かったわー」
「…… ウソつけ」
クイーンが小室を睨みながら言い放つ。
「は?」
「へ?」
「コイツ、生徒会の副会長と付き合ってたろーが…」
「はあ? あの秋本とー?」
「ないないない。島田さんそれ何のギャグ?」
クイーンは颯爽と立ち上がり、向こうのテーブルの一団に向かい大声で、
「おーい、律子ー キングって秋本ってえのと付き合ってたんだよなー?」
店内は一瞬静まり、そして大騒ぎとなる。
「えーーーーーー」
「マジーーーーー」
「ひょえーーーーー」
店内が騒然としている中、小柄で眼鏡をかけた真面目そうなおばさんがこちらにやって来て
「私達、付き合っていませんでした」
その毅然とした言い方に、一瞬にして騒ぎが収まる。それにしても、この目の前の女性…
「え…… 秋本?」
おばさんは眼鏡の奥からニッコリと笑いながら、
「金光君、お久しぶり」
その後、俺たちバスケ部は生徒会メンバーと合流し、清き麗しき青春の懐かしい思い出話に花を咲かせ…… る事が相成らなかったのはまあ想定内なのだが…
「こ、これが噂の! 同窓会ラヴって奴かあー?」
「アホか! なに下唇噛んでんだボケ」
「そこじゃないでしょー で! ホントはあの時二人付き合ってたの?」
「違うよ。私、木村君と付き合ってたんだよ。ね!」
「うわ… それ言う? この場で、この空気で言う?」
「木村ー 脂汗かいてるぞお、手汗スゲーぞお」
「ちょ、ちょ待て! こ、これが本場のー 同窓会ラヴかーーー!」
「んだよ。じゃあキングって、ホントに彼女居なかったのかあ?」
「そうだよ。バスケ一筋。勉強一筋。生徒会一筋…」
「何筋あんだよ… 京都かよ」
「で、木村君、今どうしてるのお?」
「んーボチボチ。アコちゃんは?」
「た、只今、本物の同窓会ラヴ、実況中継なうーーー」
* * * * * *
ちょっとアホ臭くなってきたので俺はそっと席を外し、健太達のテーブルに向かう。先生が溶鉱炉の如く暑く熱く語っている…
「ホンッとお前らには振り回されたわー。大学出て最初の学校がオマエらだもんなあ」
「てか、アレはヤバイっしょ、テーブル叩き割ったの」
「オマエらがちっとも話聞かないからだろうが! 三日前から挨拶の練習してたのにぃ」
「アレ、メチャ緊張してたよな金八っつあん、声震えてるわ噛みまくるわ」
「それそれ! もう大爆笑したわ。三年なんて床ひっくり返って笑ってて」
「そしたらいきなり『テヤーーーーっ』『バキッ』 静まり返ったよな…」
先生はおしぼりでおでこを拭きながら、
「あれぞ若気の至り、だったなあ。でもあの後大変だったんだぞ」
「なになに、校長の説教とか? 弁償とか?」
「違うよ。中三の番グループが取っ替え引っ替え、俺に勝負挑んできたんだよ」
健太達は顔を青褪め、
「ゴクリ。俺らの2コ上って… ヒロシ君達の代じゃん… 深川最恐の…」
「先生… 御愁傷様でした…」
「それは災難だったな、金八っつあん…」
先生は何度も頷きながら、
「ああ。アイツらに怪我させないようにするのがな…」
「「「へ?」」」
一同、目が点になる。
「は? 俺が怪我するわけねーだろうが。相手は所詮中坊だぜ」
「「「え?」」」
「俺空手、合気道の段持ちだぞ。お前ら不良如きのパンチなんて、止まって見えてたわ」
一同10センチほど下がる。
「それで、素手では敵わないからってナイフ振り回すガキもいたし」
「うわあ、それジャックさんじゃん…」
「切り裂きジャックさん… 確かおまわり相手に斬りつけたとか… 最悪だな…」
「そ。寺村なー。さすがにあん時はナイフ取り上げてから、キツ目にシメたわ。右腕へし折ってやったら、校長にやり過ぎだってめちゃくちゃ叱られたよ」
一同、ドン引きしながら、
「お、俺ら如きが敵うわけ無かったわー」
「そーいえば、俺、バットで金八っつあんに殴りかかって、あっさり取り上げられてへし折ってたよな… 金属バット…」
「俺も若かったよなあ。物は大事にしなくてはなあ。反省反省…」
「でも、卒業式。あん時は泣いたわー 俺、西中行って良かったーって今でも思ってるよ」
健太が唐突に遠い目をしながら呟く。俺たちの代の卒業式。どんな風だったかな、記憶のファイルを検索してみよう。
「なー。俺らん時も警察いっぱいいてなあ」
「俺らが金八っつあん取り囲んで胴上げしよーとしたら」
「お巡り達がソッコー引き剥がしてな」
川村がニヤリと笑いながら俺を指さして、
「そしたら、キングが『やめてください』って入ってきてなあ」
全く忘れていた。そして唐突に思い出した。
不良達が先生を取り囲み、胴上げしようとしたのを機動隊の隊員達が盾を構えながら突進し、先生を確保しコイツらを地面に押さえつけていたなあ… それを俺が割って入って、なんか叫んだなあ、なんて叫んだったっけ?
「それそれ。『コイツらは腐ってなんかいませんっ』て。俺吹いたわ、あん時。ブハハハ」
一同腹を抱えて大爆笑となる。金子先生なぞ笑い過ぎて咳が止まらない。
…… そう言えば、そんなようなこと、叫んだわ…… 恥ずい。恥ずかしくて消し去りたい。ファイルから削除し消去したい、その過去を…
「んで、金八っつあんも、マジでブチ切れてな」
「そーそー、『キミ達、この子達を離すんだ』って叫びながら、機動隊員をビュンビュン放り投げてな」
「『キミ達はこの子達の何を知ってるんだ! この税金泥棒が!』って、きゃははっ」
「最後の方、拳銃突き付けられてたよな、ウケるー、ギャハハ」
ああ… 覚えてるぞ。過剰防衛だ何だと、機動隊長に叱られてたぞ先生…
「で、あの後先生達と俺ら、抱き合って号泣してな、」
「最後の最後まで俺らを守ってくれてな、あんな先公、後にも先にも金八っつあんだけだったぜ」
「校長も、教頭も泣いてたよな」
「お巡りもそれ見て、泣いてたよなあ」
「………」
「なーーーに辛気くせえんだよ、こっちは」
ジョッキ片手にクイーンが入ってくる。
「卒業式ん時、メッチャ盛り上がったって話。あれ、クイーンは卒業式出れたんだっけ?」
「あー、卒業式は何とか出れたわー」
先生はしみじみと、
「コイツはなあ… 卒業式はともかく、修学旅行とか参加できなかったんだわ。大人の事情ってやつでさ。ホント悪いことしたよな… 当時の大人…」
「ま。しゃーねーわ。やっちまった事の落とし前だからなあ」
「でもクイーン、ホントは修学旅行とか行きたかったろ?」
あれ、そうだったんだ、コイツは修学旅行に参加しなかったんだ… 全然覚えていないわ…
「そん時はそーでも無かったけどよ、この歳になるとあん時行ってれば、オマエらとそん時話で盛り上がってたのになーとか、ちょっと思うわ」
先生が俯く。俺らも俯く。ちょっと空気が重くなったのを振り払うかのように、
「へへ。行ってみたかったわ、修学旅行。オマエらどこ行ったんだっけ?」
「日光。行ったことあるか?」
「ねーわ。へー。日光かあ。どんなとこよ?」
* * * * * *
「よーし。光子。行くぞ、みんなで修学旅行!」
先生が突如顔を起こし、突然叫び出す。
「三十八年ぶりか? 行くぞ、日光!」
クイーンが呆気にとられた顔をする。でも目は嬉しそうで口角もちょっと上がっている。
店内の生徒達は口々に日光、日光と呟きそして、いいね、それいいじゃん、と声を掛け合い、やがて笑顔で、
「マジか、いいじゃんいいじゃん!」
「うおーー 行きてえ、このメンツで、行きてえ!」
健太がニヤリと笑いながら、
「これは軍司の出番だな。なー、生徒会長さんよ」
俺の肩をポンポンと叩きながらゆっくりと立ち上がり、一つ咳払いをする。
「おーーい、みんなーー、ちょっと注―目。えー、只今、金子先生のご発案で、深川西中オトナの大修学旅行っ in 日光! が決定されましたあーー」
店内が今宵一番の盛り上がりを見せる。ヤンチャ軍団も、不良グループも、真面目グループも雄叫びを上げ、何だか勝鬨に聞こえるぞ…
「つきましては、先生と相談し日程を調節したいと思いますう。尚この旅行を全て取り仕切るのが、今や飛ぶ鳥の羽も落す勢いの、有名旅行代理店の専務取締役を務めまする、キングこと金光軍司クンですうーー」
おい健太、何を勝手に… 飛ぶ鳥の羽じゃなくて、飛ぶ鳥、だろうが。人の会社を勝手に落とすんじゃねえ!
「このキングは、何と、あの、俺たちの永遠の愛怒流、クイーンこと島田光子さんを虎視眈々と狙う、俺ら西中男子の敵でありますっ」
ふざけるなぁー ブッ殺すっ 死ねー
かつて聞いた事のない大ブーイングだ、おしぼりや割り箸が飛んでくる。何故だか忍まで俺に唐揚げを投げ付けてくる、こら食べ物を粗末にしてはー
「だが、俺らもオトナだぁ、もしその償いにぃー、日光の高級旅館、一泊二食付き9800円送迎代込みならー どーするみんな〜?」
「許すー」
「恩赦ーー」
「認めたーーー」
「ご愁傷様ーーーー」
そんなので許してくれるのか… 何と慈悲深い奴らだ… いやいやそんな話ではなく… そして何件かお悔やみの言葉を賜ったぞ?
健太に無理やり立たされ、仕方なく咳払いをしてから、
「えーー、許されし金光です。(しーーん)ゴホン。えー、金子先生のご発案という事ですので是非私が仕切りたいと思います。(パチパチパチ)えーと、では皆さんの連絡先を順番に教えてください。それと、もし参加したい同級生がいたら是非にとお伝えください。(いーねーー)参加費はーー 仕方ありません、高橋君の言う通りで、探してみましょう!」
「いいぞーー」
「さすが、生徒会長――」
「西中のキングーー」
「キング キング キング キングっ」
店内に謎のキングコールがこだまする。チラリとクイーンを見ると、皆と一緒になって手を叩きながらコールしていやがる。金子先生も踊りながらコールしている。
今宵二番目の盛大な盛り上がりだ。
「やっと… やっと俺も高級旅館に行ける。やった!」
健太が本当に嬉しそうな顔で大喜びしている。そんなに? と思いつつ、もし本当に行くなら、日程を先に決めておかねば。
「ははは。良かったな。で、先生、いつぐらいにしましょう?」
「そうだなあ。あんまり先だと盛り下がっちゃうから、どうだ、来月とか?」
この人も下町の人だわ。早っ 決めるのもやるのも早っ
「お盆の辺りですか。帰省する奴いないかな?」
「根っからの江戸っ子だろが俺ら、田舎なんてねーし。しかも江戸の盆は今月だし」
確かに。俺のお袋も親父も、この辺の生まれ育ちなのである。
「なるほど。先生ご予定は?」
「ないよ。うん、その辺りなら」
「皆も平気かその辺り? ウチは大丈夫だな…」
こんなに大勢で一つの事をワイワイ決めるのは新鮮だ。そして懐かしい。あのクイーンですら店のカレンダーと忍を交互に見ながら、あーでもないこーでもない、と忙しそうだ。
先生と俺たちの日程調整の結果、来月八月の山の日の翌日から一泊、という事に決まった。そして各々が先生にお世話になった級友に声を掛ける事にもなった。まあ急な話だからそれ程人数は増えまい。締めて二十人程、と想定し、あとは来週にでも会社の優秀な部下である山本くんに丸投げしよう。
宴が終わり、店の時計は土曜日になっている。後片付けを終えたクイーンがカウンターの俺の横に座る。
「あーー、つっかれたあ」
と言いながら、iQOSを一本吸い始める。
「お疲れ。でもこんなにこの店が盛り上がったの、初めてじゃないか?」
「そーだな。健太とかオマエとか、友達連れてきてくれっから、最近忙しいったらありゃしねえわ、ったくよ」
は? なんでキレられる?
「何だよ、売上げに貢献してるだろうが」
クイーンはプッと膨れっ面をしながら、
「でもよお、忙しすぎてよお」
彼女がジョッキを一口啜る。
「キングと… ゆっくり話せねーじゃん…」
顔面急速赤面化を感じつつ俺はボソッと、
「それ、な」
思わず俯いてしまった顔を上げると、iQOSの薄い煙越しにやはり顔面赤化したクイーンが照れた顔をしていた。
* * * * * *
それにしても、修学旅行。
正直言って、生徒会長だった俺は旅行の立案企画の大変さは何となく覚えているのだが、実際に行った日光のことを殆ど覚えていない。ことが今宵よく分かった。ホント、つくづく旅行が好きでない俺なのである。それ故かどうか分からぬが、クイーンが修学旅行に不参加だったとは思わなかった。
「なんか… 悪いな。俺、全然知らなかったわ、オマエが修学旅行に行けなかったこと…」
何故か彼女は咥えたiQOSをポロリとカウンターの上に落っことす。
「あ、ああ… ま、まあウン十年前のことだしな… 忘れてて当然だわ、な…」
生徒会会長だったのだが、正直あの頃の生徒会に関わる事、特にクイーンに関する事がイマイチ鮮明に思い出せない。あの頃のことで思い出せるのは、健太達や先生のこととバスケ部のことばかりである。
「そーだ。上にさ、卒アルあるから、一緒に見よーぜ」
パッと嬉しそうな顔でクイーンが上を見上げる。
「へ? 今から、か?」
「いーだろ。明日土曜だし、会社ねーんだろ? たまにはゆっくりしてけよ。よし、ちょっと待ってろぉ」
「おいっ、ちょっ……」
ふー。ま、いいか。確かに明日と言うか今日は土曜。仕事も予定も何もない。それに… こうして彼女と二人きりの時間は滅多にないのだし。
しばらくしてクイーンが階段をテケテケ降りてくる。
「へへへっ アタシもこれ見んの、スッゲー久しぶりなんだよなあ」
などと言いながら俺の横に座りアルバムを開く。そう言えば俺のアルバムは何処にあるのだろう。母親に聞かねばその所在もわからない。
「オマエ、3Bだったよな、どれどれ… きゃは、いたいた! ほれっ!」
あはは。ホントだ。俺ガイル…
しかし… 久しぶりに見ると、相当痛いなコイツら… クラスの七割はツッパリだ。剃り上げたリーゼントやパンチパーマ、ニグロもいる。そして太いズボン、ドカン、ボンタン、今の子供が見たら、唖然とするようなファッションセンスである。それに上着は単ラン、長ラン、確か裏地は紫色で金の刺繍を入れている奴が多かったな。ダッサ。
しばし懐かしの旧友を眺め、そういえばクイーンの若かりし頃… あれ…
「あれ、オマエ何組だったっけ?」
一瞬ギョッとし、瞬間悲しそうな顔をした後、作り笑いをしながら
「へへ、ちっと貸してみ。アタシはねえー」
ダメだ。本当に、思い出せない。あの頃のコイツのことを俺は何一つ…
「これなっ うわ… 若けーーだろーーへへ。」
3年G組の集合写真の彼女が指さした先に、少女Aはいた。しかもさっきバスケ部連中が言っていた通り、不良アイドルそのものである。恐らく普通の格好、髪型をしていたなら、学年一、いや深川イチの美少女であろう。原宿を歩いていたら、間違いなく芸能事務所に声をかけられるであろう。それ程光り輝き美しい少女である。
髪は金色、ボブヘアーは川合奈保子風か。細く鋭く美しい目は仲森明菜を彷彿とさせる。スタイルの良さ(胸をのぞく)は松多聖子チックと言えよう。これ程の少女がいたのに、俺は全く思い出せない。
だが。この写真を眺めているうちに、唐突に思い出す。
「俺とお前、話した。話したよな? 俺、オマエと話したよなっ? 覚えてる! 生徒総会の後とか、あと卒業式の時とかにも!」
彼女は嬉しそうな顔で俺の腕を握りしめ、
「えへへ。やっと思い出してくれたか」
「そっか。島田光子な。そっかそっか。これが、あの『西中のクイーン』……」
思い出した。当時の俺はこの少女をハナから不良と決めつけ、まともに目すら合わせなかったことを… 不良少女には近寄るまいと、その存在すら否定していたことを……
「ま、マジで思い出したか?」
「…… ああ。でもあの時何を話したんだっけ? あの修学旅行前の生徒総会の時とか?」
クイーンはスッと視線を逸らし、天井を眺めながら
「んーーと。アタシも覚えてねーわ…」
「そっか。」
この数ヶ月の付き合いで、コイツのことでわかったこと。嘘つくときに視線が斜め上を向くこと。コイツ、絶対に覚えている。俺たちが何を話し、俺が何と話しかけたか、を。俺が忘れているから、それに合わせてくれてるのに間違いない。
これ以上このアルバムを一緒に見ているとコイツを哀しくさせてしまう。情けない、何一つ思い出せない自分が。
「それよりキングッ 頼むぞ、ホテル! アイツらが喜びそうな、豪華でキラキラしたトコな」
そうか、お前、本当はキラキラしたホテルが好きなんだな、今まで連れて行ったような渋い和風な旅館より? それよりも、日光、か。ううむ、日光、日光……
「俺、日光ってそれこそあの修学旅行以来なんだよな… ま、会社の優秀な部下に任せるわ」
「んだよ、頼りにならねえなあ、ったく… お めー は…」
不意に肩に重みを感じる。え…? クイーンが俺にもたれて船を漕ぎ始める… こんな事は初めてだ。車の助手席ではよく鼾かいているのだが。
その横顔をそっと眺める。何故あの頃― 中学生の頃、俺はコイツを女子として意識しなかったのだろう。奴らの言う通り、これほど超絶美少女だったコイツを、どうして俺は一人の女子として眺めなかったのだろう。どうして不良だから、と一括りにしてその存在を否定してしまったのだろう。
写真の顔と今の横顔を比べる。どちらもあどけない顔をしている。
コイツは昔から何も変わっていない。変わってしまったのは俺の方だ。俺ら周りの奴らなんだ。
今回俺が企画する大人の修学旅行とやらで、変わってしまった俺らが昔に戻れるだろうか。
そして、あの頃に戻った俺たちに、俺に彼女はなんと言うのだろうか…
この旅行はひょっとしたら俺とクイーンの今後に、多大な影響を及ぼす旅となるかも知れない、それが良い方向なのか悪い方向なのか今は分からないが。
俺が今まで毛嫌いしてきた旅行。それが運命を左右する程の効果と言うか威力があるとは今まで想像すらしたことがない。
安らかな寝息を立てているクイーンを眺めながら、この旅行は必ず大成功させねばならない、そう決意しジョッキの残りをグッと飲み干した。
* * * * * *
「金光さん」
「何?」
「アンタ、馬鹿ですか?」
ここは有楽町にある、俺の勤める小さな旅行代理店『鳥の羽』。痛い社名とは関係なく、そこそこ有能な若手主体の社員がそれぞれのスキルを発揮し、業績も中々のものである。
俺は昨年、もともと勤めてきた銀行から転籍を打診され、この会社に専務取締役でやって来た。当初、というかこの春まで俺はこの業種を知ろうともせず、彼らに溶け込もうともせず、漠然と過ごして来た。
それがこの春先のちょっとした事がキッカケで俺は少し変わり、それに呼応するかのように数名の社員と関わりを持つようになった。その内の最も俺と距離が近いのが、今俺を激しく罵倒している山本くんだ。仮にも直属の役員に対し、馬鹿は無い。
俺は大人気ないと思いつつ、少しムッとしながら
「今、何て言った?」
山本くんは更に険しい顔で、
「馬鹿ですか? と申し上げましたっ」
銀行時代、俺に対しこのような態度の人間は一人もいなかった。俺でさえ、ホンモノの馬鹿な上司に対して面と向かってバカと言ったことはない。山本くんが少し羨ましくなる。
「では、俺が君にバカ呼ばわりされる理由を具体的に言ってくれ」
すると待っていましたとばかりに山本くんが捲し立てる。その勢いの凄いこと…
「あなたねえ来月ですよしかもお盆ですよそれで二十名様お一人九八〇〇円で二食付きしかも送迎付きって平成ですよ平成昭和中期じゃ無いんですよしかも日光ですよね丸一個足りませんからホント舐めてますねしかも…」
本気だ。マジでキレている。俺は若い社員をキレさせてしまった…
「ちょ、ちょっと待て。分かった。済まなかった。俺が本当に無知だった。この通りだ…」
頭を深々と下げ、銀行員時代に培った、本当は全然思ってないけどマジで申し訳ありませんでした、の姿勢を彼に対してとる。すると
「―なんか言い足りませんが… 分かってくだされば…」
と溜飲を下してくれたようだ。流石、俺。
そうか、そうだったのか。俺は本当に無知だった。旅行業界では八月のお盆とはそのような位置付けなのか。そんな事も認識していない俺は本当に馬鹿だ。
しかし、己が馬鹿である事を知らない人間に成功はない。バカと知り得て初めてその先に大いなる成功があるのだ。そして銀行時代、俺がトントン拍子の出世を勝ち得た理由の一つが、部下を煽てて脅して最大限のリターンを俺にもたらす仕事をさせて来たからだ。
有名大学を優秀な成績で卒業してきた若手銀行員に比べたら、山本くんを煽て脅すなんて屁のカッパだ。言い換えれば『ど楽勝』と言うヤツである。
俺は本当に済まなさそうな表情で、声のトーンを落とし、
「済まなかったな。いや、先月、先々月とあれだけの仕事をしたキミだから、こんな事くらいお茶の子さいさいだと思ってしまったんだ… 本当に申し訳ない」
「え… いやあ」
「あんな凄い高級旅館と交渉してさ、いとも簡単に仕事持って来て… そしてあんな立派な企画書。うん、銀行にもいなかったよ、キミみたいなタフネゴシエーターは…」
チラリと山本くんを眺めると、喜色満面だ。よしよし、引っかかったみたいだな。
「あはは、そんなー かっけー」
ここまで有頂天になれば、あとは楽勝だ。
「今夜さ、空いているかい? お詫びとこれまでのお礼にさ、一杯ご馳走したいと思って」
ガッツポーズを決めながら彼は叫んだ。
「やった! 喜んで! ウエーイ」
俺はすぐにスマホで予約の取れない人気店の、今夜のテーブル席を予約した。