ビカム・エンジェル
ビカム エンジェル
ここはどこだろう。踏切の向こう側には夕暮れ時にさしかかった知らない町が広がっている。それは、横たわり、うとうとする巨大な生き物みたいだった。何がおかしいのか全く見当がつかないけれど、微かな違和感がある。空は踏切を境に割れ、こちら側、つまり自分の立っている方には雲ひとつない青空が広がっていた。
今年の夏は例年と比べて二週間も早くやって来た。平成最後なんて言う図々しい肩書をぶら下げて。本土は沖縄より暑く、気象庁は五年ぶりに日本の最高気温を書き換えた。これから年を追うごとに暑くなるのかもしれないが、それは寿命が二十四時間を切った病人には関係のないことだ。
僕は人生最後の午前中を学校の屋上で過ごすことにした。予約を取ってある県立の大学病院から近かったのと、屋上からの景色が好きだったのが決め手になった。嘘の余命を親に伝えるのは心苦しかったが、こうして自由に動けて良かったと思う。当日の気持ちは当日にしか分からないのだから。こっそり家を抜け出して路面電車に揺られること30分。校門に着いた時にはもう普通の生徒なら大幅な遅刻の時間になっていた。
ゆっくりと屋上を目指して廊下を歩く。すでに始業のチャイムが鳴り授業が始まっていたお蔭で、誰とも出くわさずにすみそうだった。数十年前に出来たばかりの近代的な真っ白の校舎。東側には、念入りに磨かれた小さな窓が無数に並んでいる。直接差し込む淡い陽光と、澄んだ水色の空が夏らしい。授業中特有のざわついた静寂が心地よく、耳をすませば間延びした蝉の声が聴こえた。最近、普通の人は気にもとめない細々した出来事や風景がよく目につく。世界をこの上なく美しく感じるのは、精神的にも天使に近づいている証拠なのかもしれない。これで気温が低ければ完璧なのに、世の中そう上手くは出来ていないらしい。
日本人の大半は夏をとても大切に扱う。何か非日常的な予感を感じたり、新しいことにチャレンジしたりする。だが、冷静に考えれば、こんなにも非人道的な気候が続く日本の夏が大切な訳がない。「夏が来ればワクワクする」というパブロフの犬的条件反射を植え付けられているに違いない。
額に汗を浮かべ、つま先からふともも、股関節まで細い糸につながれたマリオネットのように階段を上る。吹き抜けになった螺旋状の、滅多に使われない階段を選んだせいで埃っぽい。無心にはなれず、あのピカチュと織田信長を足して二で割ったような医者の顔を思い出す。余命宣告を受けてからはや二か月、ついに当日を迎えてしまった。アリの巣のように無数の診察室がはりめぐらされた大学病院で、普通な自分は死んでしまった、と思う。違うソフトを入れられたゲーム機のように全く知らない他人の人生を体験しているような気分。医者の言葉は意識のどこにも着地せず、未だに脳内をふわふわ漂っている。
錆びた鉄製のドアを開けると、ぬるい風が正面から顔に当たった。容赦ない日差しに目を細めていると、突然声をかけられた。
「よお。思ったより早かったじゃん」
ゆっくり目を開けると夏刈ともえと目が合った。無骨な黒縁のメガネをかけ、肩の上で真っ直ぐに黒髪を切りそろえた、クラスメイト。給水タンクの作った影の中から上目遣いにこちらを見ている。同じクラスだったが喋ったことは一度もないはずだ。
「そんな所に突っ立ってたら熱中症になっちゃうから。早くこっちに来て」
そう言ってぺちぺちと地面を叩く。中性的な印象は、ハスキーボイスと荒っぽい口調から来るものだろうか。なんにせよ事態が全く飲み込めず、混乱したまま冷たいコンクリの上に腰を下ろした。こんな所で人に会うとはついてない。
「えっと、何か用かな」
「確認したいことがあって。葉月君、人助けとか好き?」と夏刈は、正直に答えたくなってしまうような、不思議なアクセントをつけて言った。
「最近は割と好きかもしれない。自分が具体的なことを実践しているわけじゃないけど、こんな体になると人からの善意が無条件で嬉しかったりするから」
「なるほどね」と夏刈は黒髪を少し揺らしてうなずいた。
そして僕の正直な答えに満足したのか、ゆっくりと立ち上がり、少し笑って屋上から去っていった。いったい何が起きたのか、聞きたいことは山ほどあったのに何故か追いかける気にはなれなかった。驚くほど短く、あっけない邂逅。答えの出ない問いは忘れてしまうのが一番いいのかもしれない。冗談のように分かりやすいタイムリミットを背負っていると何でもすぐに諦めがちになる。
ふと空を見上げると、鳩の一群が頭上を通り過ぎていった。平和の象徴として有名な鳥。駅のホームや公園で見かけるたび、目の奥に何の光も宿っていない彼らを不気味だと思った。
耳を澄ませば音楽室から漏れ出したピアノの音が微かに聴こえる。目を閉じ指でリズムをとっていると、今日はもう薬を飲んでいないのに、無限に広がる大地と大空に抱かれているような安心感があった。瞼の裏ではちかちかと、淡い蛍光色の何かが動いている。こんなにも安らかな気持ちになるのはいつぶりだろうか。うとうとしながら、小さい時の記憶をたどっていると野菜の音を思い出した。夕飯時にさしかかった休日の午後。自分の家(古ぼけたマンションの一室)の小さなソファーに寝転んで昼寝をしていると、いつも曖昧な意識の中で母が野菜を切る音だけが大きく響いて聴こえた。どうにも歯切れが悪く不格好なリズムなのに僕はその音が好きだった。
少し離れた所にある公立中学校のチャイムで目が覚めた。いつの間にか寝てしまっていたらしい。ぬるい風に運ばれて柔らかい音になっている。うちの高校は、他校と比べて少しだけ授業時間が長い。
面倒を避けるためにも昼食は病院の食堂でとることにした。最後の晩餐にしては質素だが、このぐらいが身の丈に合っているような気もする。それに天国に行けばもっと美味しいものが食べられるような気がした。来世なんてこれっぽっちも信じていなかったのに、ここ数日は天国がある前提で行動しているのだからおかしなものだ。いよいよ自我の喪失が始まったのかもしれない。
移動と食事を終えると結構いい時間になっていた。ぼけーっと壁に取り付けられたブラウン管テレビをおじいちゃんおばあちゃんと一緒に見るのも悪くはなかったが、予約に遅れるわけにもいかない。連続ドラマだったのか全く内容が理解できなかったし。
甘い消毒液の香りが漂い清潔な色で統一された院内には、やたら前向きなタイトルの付いた油絵がいくつも飾られている。診察室に行くときは毎回同じ道を通っているのに見覚えのある絵は一つもない。途中で、てきぱきと働く看護婦さんに何度かすれ違った。手ぶらだったり大量に布を積んだカートを押していたり、活発に動いている人の姿を見ると自分が元気を分けて貰っているような気持になる。真っ直ぐに伸びた背筋も含め僕とは対照的な存在だ。
八階にある待合室には僕以外誰もいなかった。いよいよこの吹けば飛ぶような短い人生が幕引きだというのに、意外にも、落ち着いている。これも病気のせいなのだろうか。患者は全員、帝国憲法3373条により指定された医療機関で装置に入って洗脳を受け、安楽死しなければならないのだ。
看護婦さんに呼ばれて入った診察室には、名誉教授兼副院長の叔父がいた。小さな椅子に窮屈そうに座っている。
「本当に父さんや母さんには言わなくていいんだな?装置の準備は出来ているから後はお前次第だが、まだ間に合うぞ」、本題から入る会話が叔父らしい
「うん。お別れは苦手だから。幼稚園の時とか、遊びに来た友達が帰ろうとするたびに大泣きで止めようとしたよ」
叔父は少し残念そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。命令の嫌いなお人よしで、今日も僕の無茶な約束を守ってくれた。彼のような名医がこの世界に何人いるだろうか、もしかしたら自分は凄く運がいいのではないか、と思わせられる。
何となく見覚えのある看護婦さんに案内された部屋には、巨大なMRIのような黒光りする機械が置いてあった。ガラス張りになった壁の向こうには叔父とその他数人の医者が待機している。ひんやりとしたアルミの上に寝転び、手足をベルトで固定されると不思議な気分になった。生きたまま棺桶に入っているような感じ。
何もかも忘れて新たな世界に旅立つ予感。
女神様。やっと貴方のもとに――
僕の思考を遮るように、突然聞き覚えのある大声がした。
「君は無神論者のはずなのに、女神でも見えたか。どこに行こうとしてたのか知らないけれど自分の発言には責任持って、最後に一仕事してもらうよ。コンテニューだ!」
壁の向こうには看護婦の恰好をした夏刈ともえが立っていた。さっき見覚えがある気がしたのは、変装していたからか。叔父の率いる医師団は全員ロープで縛られガムテープで口を塞がれている。
「人界と天界の癒着ここに見たり。他人の幸福を無理矢理押し付けるこの装置、洗脳用に採取されたサンプルの代わりに普通の人間を繋げば、その精神世界内にダイブできるはず。まあ詳しいことは向こうで説明するから、いっちょ行ってみよう」
勢いよく啖呵を切られ無茶ぶりをされた哀れな機械が悲鳴を上げている。所々から蒸気のようなものが漏れて熱を持ち始めた途端、脳みそが引っ張られるような感覚に襲われた。目の前が真っ暗になる。
「さあ、羽ばたけ」
頭蓋から無限に広がる暗闇に向かって、ドロドロに溶けた僕は、流れ星と並行して飛んでいた。目まぐるしく場面が変わる。厚い緑色の雲が浮かぶ、茜色の大空。極彩色のガラス玉が、真っ黒のスピーカーになった空から、音になって弾けた。万華鏡の中に放り込まれ、醜い昆虫になり朝露を舐め、イノシシの姿で森を駆け回る。生の奔流が、絹のように滑らかな妖精のイメージになって脳内を飛び回っている。
ああ、やっぱり思った通りじゃないか。
生きることはこんなにも素晴らしく、世界は美しい。
仰向けになった僕をシャーマンが輪になって見下ろしていた。葉っぱで出来た簡易な住居。どのシャーマンもきらびやかな装飾品を身に着けている。全員が細く気高い口笛を吹き、優しい呪文を唄う。何千、何万、何億もの人間が手拍子でリズムをとっている。音圧で今にも頭が割れそうだ。
気が付くと僕は踏切の前に立っていた。オーケストラチューニングになったドとミで構成された警報音が鳴り響き、赤いライトがちかちかと光っている。約八秒後、地面を震わせながら、古ぼけたクリーム色の電車がやって来た。まだ明るいのに名一杯ライトをつけている。
「ちょっと。いつまでここに留まるつもり?」
正面に来た輪軸が轟音をたて、風が前髪を揺らした瞬間、足元から声がした。下を見てみると地面に転がった子犬の目玉と目が合った。こっちに着いてからずっと、僕の靴の隣には潰れた犬がいたらしい。頭部は特に損傷が激しくピンクの肉が剥き出しでほとんど原型をとどめていない。前足は重力に逆らった方向に曲がり、腹からは腸がはみ出している。
だが、そんなのお構いなしに犬は喋った。
「気づいたと思うけど、私は夏刈。本当は人間の姿が良かったんだけど規格が違うみたいだったから、わざわざ犬の姿で入ったのに失敗しちゃった。まあ移動もなんとか出来るみたいだし気にしないで」
「いや、そんなことより山ほど聞きたいことがあるんだけど。規格とか、仕事とか、ダイブとか、正直意味が分からない」と僕は早口に言った。潰れた犬は面倒くさそうな顔をした。
「分かった、まずは自己紹介から始めようか。私の本名はサマル=ジャ=マリ。銀河の彼方からやって来た、いわゆる宇宙人。地球には観光目的で来てたんだけど、途中でペットを逃がしちゃって」
「ペット?」
「そう。五次元動物のデム。ほっとくのも流石にまずいかなと思ってね。追いかけっこをしてたら一般人の精神世界内に逃げ込んじゃって」
いやー、まいったよ。と額を叩く宇宙人はどこか楽しそうだった。この後約30分、要領を得ない説明でだいたいのことが分かった。つまり僕は五次元動物とやらを回収するために哀れな被害者(日傘透子という名前だと宇宙人は言った)の精神世界内に無理矢理連れてこられたらしい。文字通り最後の一仕事をするハメになったのはただの偶然(たまたま僕の通っている大学病院に昏睡状態になった日傘が運ばれてきた)だそうだ。本当についていない。
「協力しろって言うのは、強制?」
「人助け好きって言ってたじゃん。それに、帰り方知らないでしょ」
「確かに……で、結局僕は何をすればいい?知っていると思うけど、僕には時間がない」
「とりあえずはこの町の散策かな。手掛かりは皆無だし。病気のことならもちろん知ってるよ。君が患っているのは、余命が24時間をきると徐々に天使に近づく奇病。具体的には身体能力の大幅な向上、翼の発生、自我の喪失だったかな。ちなみに女神さまの声が聞こえるようになるっていう情報は正しい?」
「正しいよ。病院の食堂に入った時からずっと優しい歌声が聴こえる」
へえ、と夏刈はどうでもよさそうに言った。どうやら信じていないらしい。あの時人助けが好きなんて言わなければ良かった。
踏切を超え、町を散策すること一時間。僕ら以外に生き物は見当たらず、いつまでも夕暮れ時が続いた。時折吹く風は冷たく街路樹は紅葉している。日照時間の長い夏の夕方とは違う、母の温かい手料理が恋しくなるような秋の夕暮れ。こんな世界を心に描いている日傘透子とはどんな人間なのだろうか。
ノスタルジックな気分に浸っていると、前足を引きづって歩くことに疲れたのか、哀れな犬は作戦会議をしようと言い出した。そんな時間はない、と僕が反対するより先に喫茶店に入ろうとしている。
仕方なくレトロなドアを開けると、複雑な装飾の施されたドアベルが上品に鳴った。店内は薄暗く、客は一人もいない。天井には全て同じ色、形の風鈴が等間隔に満遍なく吊るされている。カウンターの中には店主らしき老人が静かに立っているだけだった。ぴくりとも動かず、顔は蝋人形のようでKFCの前にいつも立っているカーネル・サンダースを連想させる。人がいるなんて予想外で、僕も夏刈も固まってしまう。
「お前たちどこから入って来た?」と抑揚のない声でカーネル・サンダースは言った。
「入口からです。この世界に僕ら以外の生き物がいるなんて、あなたはいったい」
「何者か、なんてセリフを現実で聞くことになるとはの。私はこの店の主。そして日傘透子の心の一部じゃよ」
「一部?」
「左様。私は彼女の、どちらかと言えば慈悲寄りの、精神の一部じゃ。独立した人格を持ち、この店を経営して精神世界のバランスを保っておる」
「へえ、そう。それで、慈悲の心様は私たちに何かしてくれるの」と夏刈は話に割り込んで来て聞いた。
「直接助けることは出来ないが、君たちの目的地ぐらいなら教えられる。ここから道なりに数キロ行ったところに中学校がある。本体はそこに――」
店主の声に混ざって聞き覚えのあるメロディーが聴こえてきた。すると天井に吊るされた風鈴が一斉に鳴り始めた。海底で波を受ける水生植物のように揺れている。
「ニャオーン!」、事態が飲み込めないまま立ちつくしていると、店主が突然奇声を上げ、消えた。
急いで外に出ると、聞き覚えのあるメロディーの正体はすぐにわかった。防災無線の保守点検のために流れる、日本中の夕方六時を代表する交響曲。ドヴォルザークの『新世界より』が大音量で鳴り響いている。
「なんだ、あれ」と、後をついて店を出てきた夏刈は間の抜けた声で言った。じっと空を見つめている。その目玉の零れ落ちた深い闇が捉えたのは、空に浮かぶ人型の影だった。右手に持った黒い槍をふりかぶって投げようとしている。平面的で距離感はいまいち分からない。
僕は夏刈を右わきに抱えて走り出した。
「おい、急にどうした」
「見たらわかるだろ、逃げてるんだよ。あれは絶対やばいだろ」、僕が舌を噛みそうになりながら喋っていると、後ろから轟音が聞こえた。カーネル・サンダースの店でも吹き飛んだのだろうか。土埃と瓦礫に混ざって欠けた風鈴が飛んできた。
脇目もふらずに全力で走った。額から汗がにじむ。
僕は得体の知れないものに追いかけられる恐怖で、ちらっと後ろを振り返った。瞬間。なにか、黒いものにぶつかった。鉛筆で書きなぐった細い線のようなものが集まって体を構成している、目の前にいるのはさっき頭上を浮遊していた影だった。
「ヴァァー」、影はどこかから奇声を上げ、腕を振り上げた。頭が真っ白になって体がすぐに動かない。はやく、よけ――
今まで経験したことのない衝撃が左肩に走った。とっさに跳ねて数歩下がる。
「葉月、大丈夫か?」と、声をかけられてやっと頭が動き始めた。影はアスファルトにめり込んだ右腕を引き抜こうとしている。僕の左腕は肩からごっそりなくなっていた。
大丈夫、と答えて僕は夏刈を地面に置いた。そう、これくらいなら問題ない。血はもうほとんど止まっている。大量に分泌された脳内麻薬のおかげで痛みも感じない。反撃するなら、今しかない。
力いっぱい地面を踏み切り、影と一気に間合いを詰める。そして、全力で殴りつけた。
予想に反してそれはゼリーのような質感で、あっけなく弾けた。黒い泥のようなものが四方に飛び散る。倒せたか。
安心した途端、痛みが戻って来た。視界がかすみ、立っていられない――
「葉月!葉月!」
「んん、ん!」、僕は夏刈の怒鳴り声で飛び起きた。
「今何時だ。あれから何分立った?」
「一時間ぐらいかな」と、落ち着いた声の返答が帰ってきた。夏刈は僕の横で後ろ脚を崩してお座りをしていた。口にくわえた煙草のせいか、全身から煙が立ち上っている。潰れた犬と煙草というのはなかなかシュールな画だった。そう言えば、こっちの世界での死は現実世界での何を意味するのだろうか。だいたい他人の精神世界にダイブして歩き回っているというのがいまいちピンと来ない。
「その煙草どうしたの?」
「拾った。そんなことより、患者は末期になると身体能力が上昇するって書いてあったけど、まさかここまでとはね。人間がルールを作って安楽死させたくなるのも、わかる気がするよ。一時間足らずで腕が生えてくるなんて、神様の定めた四百四病にも載ってない奇病ってだけのことはある」
「おかげで足輪を付けられて四六時中監視されてるけどね。脈拍とか、位置情報とか。そんなことより天使のラッパでも貸してくれればいいのに」
「はは。ヨハネの黙示録に出てくるやつか」
そうそう、とうなずきながら僕も笑ってしまった。なんで宇宙人がヨハネの黙示録なんて知っているのか。
「よし、そろそろ行こうか。目的地を目指して」
道なりに歩いていると大きな商店街が見えてきた。僕らは入口にあった町の地図で中学校の正確な位置を把握した。そこは黄ばんだ天蓋に覆われた、いわゆるアーケード商店街で、中に入ると動物の体内にいるような気分になった。巨大なくせに、人の気配のない空虚な空間が真っ直ぐ続いている。
「人間ってのは不思議な生き物だね」
「どうして?」
「私の星にはこんな場所なかった。まるで群れていないと生活できないみたい。そのくせ自分以外の考えている事や、見ている物は共有できないような体の造りになっている。よく平気でいられるね」
「地球に生命が誕生してから約38億年。その間にただ慣れただけだよ」
「なるほど」
商店街を抜けて住宅街を歩いていると、三叉に分かれた路地の前でセーラー服を着た少女に出くわした。軽やかにステップを踏み、長い黒髪を振り回して、エレキギターをかき鳴らしている。
「―――――――――」、聞き取れないがなり声で何かを歌っている。僕らは仕方なく演奏が終わるのを静かに待った。
少女は演奏を終え僕らに気づくと、呼吸も整っていないまま、にこやかに話しかけてきた。襲われることはなさそうだ。
「ご清聴ありがとう。お客さんが来るなんて予想外だったよ。どうだったかな、私の演奏」
「独創的で素敵な世界観だった」と夏刈が言った。
「本当に?人前で披露するのは初めてだったから凄く嬉しいな」
「そう。さっきは影に急に攻撃されてびっくりしたけど、あなたとはまともな会話が出来そうで安心したわ」
「私はすごく少数派だから。君たちがあの不思議な動物を回収するのを阻止するために、今も本体の周りに影が集まってる。彼女は誰も信用してないし、誰かの助けも必要としてないんだ」
「外の世界には未練がない、と」
「そういうこと」
「でも、心のどこかでは僕らの助けを望んでいる。君やカーネルがその証拠だ」
「確かにね」と少女は悲しそうに言った。
僕らは少女に別れを告げ走り出した。少しでも早く本体のところへ行くために。
私はいつからこうしているのだろう。誰もいない教室で不細工な動物と仰向けになって寝転んでいる。厚い遮光カーテンに閉ざされた薄暗い室内は、机が全て撤去されているせいか、妙にだだっ広く、魂が抜けたようで、なんだか輪郭がぼやけている。世界はこんなにも淡かったか。重要なことを忘れているような気もする。
まあ、きっとどうでもいいことだ。ここはとても居心地が良い。私にはそれだけで十分だ。
走ること数キロ。遂にカーネルに教えてもらった中学校に到着した。パールグレイを叩き潰したような色の校舎と校門の間。整備されていない土のグラウンドには、僕たちを本体に近づけさせまいと、影が集まっていた。
「あれは僕が相手をするから、夏刈はペットのところまで行ってくれ」
「どうやって?」
「こう、やっ、て!」、僕は夏刈を屋上めがけて投擲した。もとから潰れているし大丈夫だろう。同時に僕も全速力でグラウンドに突っ込んだ。
僕が校門を超えると影たちは一斉に奇声を上げ融合を始めた。奇声は徐々に肉声に変わる。
「――――」
「―――――――――――ナゼ」
「タニンガナニヲカンガエテイルノカリカイデキナイ」
「ナゼ、コンナニモイキルノガ辛く、わタしハコドクナノカ」
「デモいいんだ、ソれでも。私にはワタシがいるかラ。誰も理解はしてくれない。私を包むこの世界全体が理不尽で、どうやら私とは全く違う思考回路を持って動いているらしい。でもいいんだ、それでも。一人だって生きていけル」
影たちは一体の巨大な影になった。校舎をゆうに超えて両腕を天に伸ばしている。
唖然として見ていると背中に鋭い痛みが走った。体の中から何かが生えてこようとしている気がした。それは肩甲骨を砕き、僧帽筋を突き破って体の外に出ようとしている。
激痛に耐えられずその場にしゃがみ込んでいると背後から血飛沫が上がった。瞳孔が限界まで開く。額から汗がにじみ動悸がする。
僕は自分に翼が生えたと感覚的に理解した。血と脂にまみれ痙攣するそれをゆっくりと羽ばたかせる。自分の一部にするように。二回目は全力で羽ばたいた。
翼は突風を起こし僕を怪物の目の前まで浮かび上がらせた。これなら戦える。
日傘透子、お前は現実に戻って弱い自分を許すべきだ。他人と触れ合い生きていくために。僕が17年しか生きられない自分を許したように。
さあ、人生最後の人助けを始めよう。これが僕の人生のテーマだというのなら。
昭和最後の夏にピアスを開けた。というのは母の口癖である。その娘である私は平成最後の夏の大部分をベッドの上ですごした訳だが。
長い昏睡のさなか私は夢を見た。まるでアンデルセンの書いた童話のような、幼いときに午睡で見たような、優しい夢だった。
それ以来私は少しだけ前向きになった。少しだけ精神の形が変わったのだ。具体的に言えば、心に描いたその夢を物語として綴り始めた。
そう、タイトルは
『 ビカム エンジェル』