002,「四角い青空」
鐘を模した音が一回、二回、三回と規則的なリズムで学校中のスピーカーから鳴り響く。
五時限目開始の予鈴が鳴り終わるや、校庭や体育館で遊んでいた生徒達はぞろぞろと校内に戻って来た。
会話声や足音の数は段々と大きくなる。
教室で静かに読書なり、昼休みの時間ですら勉強に勤しんでいた生徒も本鈴が鳴るまでの僅かな時間でお手洗いなどを済まそうと、教室の外へと出て行った。
たったの十秒にも満たないくらいの間だけだが、この教室は俺だけの空間になった。
有象無象の声が響き飛び交う廊下と、自分の呼吸音だけが静かに響く教室。この一瞬の時間だけ、俺だけがまるで別の世界に取り残されたようだった。
人がいない世界は、なんて居心地の良いものだろうかと、こんな世界が、ずっと続いていけばいいのに。
……
「冷てっ⁈」
そんな空気、空間に浸っていた俺の頬に突然、冷たい感覚が張り付いた。
「ほら、起きて好翔!ジュース買って来たから今日は私の奢り!」
窓の方を眺めるように机に伏せていた俺は、その声の方へと起き上る。
「本鈴で起きようと思ってたんだよ。」
缶ジュース両手に、左手のサイダーを俺の方へと差し出していたのは、幼馴染の心優莉だった。
「やけに気前が良いんだな。」
「この前、奢ってくれたからそのお返し!」
そういや、そんなこともあったっけ。
俺は礼を一言言ってサイダーを受け取る。教室の熱気とサイダーの冷気で缶の周りには雫が張り付いていた。
そうだ、タオルあるよ、と心優莉は自分の肩にかけていたタオルも一緒に俺に差し出す。
「お前、これ自分の汗拭いたやつだろ。」
心優莉も外で遊んで来たのか、彼女の首筋をツーっと水滴が重力に従い流れ落ちた。
「大丈夫、大丈夫、そっちの下の方はまだ使ってないから!」
「そういう問題じゃねぇよ。」
俺としては、別にそういうのは全然気にしないのだが、女の子として、自分の汗を拭いたものを男子に手渡すという行為に恥じらいはないのだろうか、と。
けれど、昔から心優莉はこういう奴なのは、俺が誰よりも知っている。
太陽は空の一番高い所に座っている。そのために教室は薄暗く、外に聳える真っ白な綿のような入道雲と真っ青なペンキを流し込んだような空が、自然と視界に入り込んで来る。
五月二十四日、水曜日、教室の温度計は大体二十三度を指している。
外の景色はまるで夏、という感じだが、季節はまだ梅雨入り前だ。
教室に戻って来る生徒を見回しても、運動をして来た生徒達は既に半袖か、長袖のワイシャツを腕で捲っている。汗ダラダラだ。
反して教室や校内組は比較的、長袖のワイシャツにベストやら薄いカーディガンを羽織っている。凄く涼しい顔をしている。
そんな校内の生徒達が、季節の変わり目を如何にも物語っていた。
うちの学校の校則は厳し過ぎずもゆる過ぎず、というものらしいが、服装に至っては、学校指定のワイシャツとズボン、学年カラーの男子はネクタイ、女子はリボンを身につけてさえいれば、オプションはある程度許されているようだった。
心優莉は、スカートの中にしまった長袖ワイシャツを腕捲りし、膝下までの黒いソックス。典型的な女子高生スタイルなのだろう。
けれど、心優莉の場合、ベストくらい来た方が良いと思うのは余計なお節介なのだろうか。
「うん?どしたの好翔、私のこと、ジロジロ見て、何か付いてる?」
小束のサイドテールだった心優莉は腰まで伸びている後ろ髪がどうにも暑かったのか、一束を纏めて後ろで結び直していた。
「いや、……別に。」
俺は視線をすぐに逸らした。
外で、はしゃいで来た分、心優莉は汗をかいている。言ってしまうと心優莉は、無邪気で子供っぽい中身とは裏腹に容姿はそこそこ大人びているわけで。
つまり、
下着が透けそうだった。
(体ばっか、成長しやがって。)
心優莉はぽかんとしているだけだった。
出るとこは出て、引っ込むところは引っ込み、身長はこの年頃の女子の平均ほどではあったが、充分モデルにも慣れる容姿だろう。
クラスにも一人、読者モデルをやっている奴がいるが、普通に渡り合えると思うし、俺的には心優莉の方が向いているとも言えたり、言えなかったり。
しかし、まぁ、改めて見ると、本当にスタイルのいい奴で……。
心優莉の妹にも半分、分けてやれよ。
心には思ったが口にはしなかったが、何となくだが、今度心優莉妹に会った時に、何か言われるのは確実な気がした。
キンコンカンと、再び、学校中にチャイムの音が鳴り響いた。
まるで、俺と心優莉を裂くように。
思い込みすぎなのかもしれないが、俺にはそう思えてしまう。
こんな世界がずっと続いていけばいいのに。一人の世界よりも何よりも、俺は、心優莉と二人っきりの世界にいられたら、それが本当のところ、本音だった。
永遠に孤独だなんて実際、良いとは言えないし、けれど、その他大勢は要らない。俺に身内と呼べる人間はいないし、友達なんて存在もいない。頼れる大人もいなければ、クラスメイトなんか赤の他人だ。
けれど、ただ一人。
「それじゃあ、好翔、また後でね!」
「おう。」
けれど、ただ一人。——心優莉だけは、俺を裏切らない。同時に、俺にとって特別な存在だ。
「あ、タオル、使ってていいからね!」
「いらねぇよ……。」
タオルを広げると、女の子の匂いがした。
花をいっぱいに甘い果物とミキサーにかけて、ほんのりと甘酸っぱい柑橘類でも隠し味に添えたような、そんな香りだった。
「おーし、五時限目はじめっぞー」
喉にカエルでも住み着いているんじゃないかと思えるようなガラガラな声で、教室に入って来たのは、英語教師だった。洒落た顎髭がどうも気に触る。
クラスの連中は、そそくさと席に着いた。
自席は窓側の一番後ろ。漫画の主人公かよ、と突っ込まんばかりの席に座る俺だが、心優莉は廊下側の一番前の席へと腰掛けた。
誰かが計ったように端と端だ。オセロならば、斜め一色裏返せる。
これもまた、神の悪戯って奴なのだろう。
神なんぞ、信じないけれど。
そんなことを思っていた矢先、心優莉と下校している会話の中だった。
「ねぇ、好翔。神様っていると思う?」
「何だよ、唐突に」
「質問の答え!」
—◆◆◇002
この日を境に、平凡とは決して呼べないが、それでも良かったような日々が、徐々に崩れ落ちていくことを、俺はまだ、自覚していなかった。
知るよしもなかったんだ。