011,「天使と死神」
五月三十日、火曜日。
清々しいくらいに晴れた朝、俺は目を覚ました。
体の痛みはなかった。傷も何もかもが完全に塞がっていた。
きっと心優莉の治癒が効いたんだろう。
まるでいつもの朝。
俺は顔を洗い、歯を磨き、寝癖はいつも直したり直さなかったりだけれど、今日は直した。
朝ご飯は食べない人なので、起きてから二十分もすれば、着替えて家を出る。
学校へ行くと、ボロボロになったはずの校舎は、何事もなかったかのように、いつも通りにのんびりと佇んでいた。
考えられるとすれば、恐らくは心優莉の治癒能力。
どうやら建造物にも効くらしい。最早、理屈がどうとか全く分からない。
「そうそう!あの後、好翔倒れちゃったでしょ?家に送るにしても、学校があんなになっちゃったままだし、どーしようと思ってね。治れー!って心の中で強く力んでみたの。それで気が付いたら、あら不思議!」
「とりあえず、お前は語彙力検定を是非とも受けて頂きたいな」
校舎の回復には、流石の本人も、驚いていたらしい。
心優莉曰く、昨日、あれほど暴れたにも関わらず、教職員やら近所の人らが、俺たちに気がつなかったのは、どうやら死神が校舎に結界を張っていたからなのだとか。校舎が元通りになると同時にその結界も消えたそうだが、彼女は確かに結界のようなものを視認したのだとか。
多分、死神からしても、自分の存在、死神の存在を公にしたくはなかったのだろう。
「てことは、やっぱりお前が、俺を送ってってくれたんだな。……その、ありがとな」
少し照れくさかったけれど、あれだけのことをしてもらっといて、例の一つも言わないだなんて、酷な話だ。親しき仲にも礼儀あり、という諺だってあるくらいにだ。
「好翔ってば、重いんだもの〜。昔は私の方が大きかったし、体重もあったのに、やっぱり男の子なんだね〜。途中からもう、石像でもおぶってるのかと思っちゃったよ!」
素直すぎる故なのか何なのか、どうやら彼女に礼儀はなかったらしい。
「その言い方だと、お前、昔は太ってたみたいな感じになるぞ。それに俺はこの歳の男子にしては軽い方だし。運動とかしないから」
あ、確かに!と心優莉が、両方を納得してくれた所で、もう一つ、俺は訊きたいことがあった。
「なぁ、なんであの時、俺を治癒した時、その、き、キスだったんだ……?」
俺はその単語を口にすることが死ぬほど気恥ずかしいものだと、初めて知った。
魚の方を思い浮かべて言えば、そんな気にもならないのか否か。
「あぁ〜キスね!」
「っはっきり言うな‼︎ そして声がデカイっ‼︎」
やっぱり阿保だ。コイツは。
「何となく、アレが一番、好翔に私を与えられる気がしたんだよ」
「お前は本当、言い方に気をつけた方がいいぞ」
「あ!そういえば、アレがもしや、ファーストキスってやつだ!キャッ!」
「……ノーカンだ」
何故か急に乙女チックにはしゃぎ出す彼女の真意は本当に分からない。
彼女の場合、恋愛感情自体、あるのかどうかも怪しい所だし。
けれど、俺を助けたい一心での行為だったことには変わりないのだろう。
そんな彼女の気持ちが、俺はとても嬉しかった。
「あ!好翔、そういえば」
彼女が何かを言いかけた所で、一時限目の始まりを告げるチャイムが鳴り響いた。
「全く、学校のチャイムっていっつもいいタイミングで鳴ってくれるよね〜。この前だってチャイムさえならなければ、逆転勝利だったのに!」
休み時間によくやるバレーボールの話らしい。
「そうだ!今度、好翔も一緒にやろうよ」
「よせよ。俺が行ったら皆んなどっか行っちまうよ」
冗談ぽく言ってみたが、大体合っているだろう。俺はずっとそんな扱いなんだから。
「そんなことないと思うけどな〜」
「お前だけだって、俺にそんなに優しくしてくれんのは」
あの日から、ずっと。
何があっても、ずっと。
「え〜、それでは出席を……」
うちの担任が朝に相応しいテンションと共に教卓に立つと、クラスの連中も疎らに、着席しだした。
「あ、そうださっき言いかけたこと!また後でね!言うから!」
「おう」
きっと、どうせまたしょうもない話なんだろう。そんなことかよ、思いながら訊いているのもいつものことだ。正直、話題性もなく、内容も幼くて、面白いものでもない。
苺は野菜なんだよ、とか。
もやしって大豆なんだよ、とか。
面白いものでもない。
けれど、そんな話を子供のように目をキラキラさせながら、無邪気に、とても楽しそうに俺に話てくれる彼女のことを、楽しみにしている自分がいる。
今日は朝からホームルーム。のんびりしていよう。久し振りに、何も考えずに、思い詰めずに、自分らしくいられるような、そんな気がした。
いつも通りの何気ない、何も変わらない景色。それは、この教室も、窓の外も同じだ。
一つだけ、違うことと言えば、自分が誰なのか、今の俺には説明することが出来る。
彼女も同じだ。心優莉も、自分か誰なのか、説明することが出来る。
 
俺たちは、人とそれらの間。
たったそれだけのことだけれど、俺と彼女は共に、人間だ。
たったそれだけ。
違うのはそれだけ。
変わったのも、それだけ。
これから先、その事実がどう人生に左右していくのか、俺たちにはまだ分からない。
それでも、きっと、俺と彼女は、これまで通りの日常を何よりも大切にして行きたいと思うのだろう。
きっともう、この力を使う日は——
来ないで欲しいものだ。
今はただ、そっと胸のうちで、こんなことを願ってしまうばかりで、願うことしかできないけれど。
「ね、天使、いたでしょ」
授業後、彼女は駆け寄って来た。
手を後ろで組み、無邪気に微笑む彼女。 今日の内容は少し、面白いものかもしれないな。
彼女のそれには到底及ばないけれど、返すように俺は、そっと口を横に結んでみせた。
——◇◇◇011
「死神も、な」




