薬師フィリアの魔法
突然聞こえた怒鳴り声に、フィリアははっと顔を上げた。はずみで乳鉢と乳棒を取り落としそうになり、慌てて空中で受け止める。貴重な薬草を無駄にしなくてよかった、と思わず息をつくと、ベッドの上の老女が声を出して笑った。
「相変わらず、見てて飽きない子だね。考えてることが全部顔に出るんだから」
「……すみません」
からからと笑い続ける老女に軽く頭を下げ、湿布薬の準備にかかる。そこに再び大声が響いて、開け放した扉の外を黒い軍服の群れが走り過ぎていった。王直属の魔女狩り部隊、通称〈獅子の爪〉だ。
「やだね、騒がしくて。どうせまた罪のない女を追い回してるんだろ。怪しげな術で王様を病気にしただの、馬鹿な理由をつけてさ」
常連患者の老女は、ベッドにうつ伏せになったまま辛辣な言葉を吐く。その腰に湿布をしながら、フィリアは老女の声が部隊員の耳に入りはしないかと気が気でなかった。魔女狩りを批判することは、それを命じている王を批判することに等しい。運が悪ければ、魔女の仲間として処刑される可能性だってある。
「ああ、ごめんごめん。あんたはこういう話、嫌いだったね。今のは忘れておくれ」
フィリアの表情が曇ったのに気づいたのだろう、老女はそう言って明るく笑った。
治療を終えた老女を戸口で見送ったあと、フィリアは中に戻って後片づけを始めた。
「……はあ」
魔女狩りの話題が出ると、どうしても憂鬱になる。制度を批判して反逆罪に問われるのも怖いが、フィリアにはもっと恐れていることがあった。それは、自分が魔女の疑いをかけられることだ。ふだんは隠しているものの、フィリアには不思議な力がある。魔法と思われても仕方のないような力が。
「おじゃまするよ」
背後からの声に、フィリアは二度目の溜め息を飲み込んだ。
「うっかりナイフで切ってしまってね。治療を頼めるかい?」
戸口に立った中年男性は、左手の指から血を滴らせている。
「ええ、もちろん」
フィリアはエプロンで手を拭くと、棚から止血作用のある薬草を取り出した。
まだ十七歳の駆け出し薬師とはいえ、この仕事は自分にとって天職のように思える。医師だった父の死後、田舎に戻るという母の反対を押しきってフィリアは一人王都に残った。
元気になって帰っていく患者の姿を見るのはいつでも嬉しいものだが、なにより救われるのは、治療に集中しているあいだは「力」のことを忘れていられることだった。
その夜、治療院の二階で寝ていたフィリアは、窓を叩く雨音で目を覚ました。やけに足元が冷たいと思えば、天井から染み出した雨滴がベッドを濡らしている。
「大変」
急いでベッドから抜け出し、雨漏りしている箇所すべてにバケツや皿をあてがって回った。
これで安心して眠れる、と再びベッドに潜り込んだものの、微睡みかけたところで、今度は別の物音が気になりだした。雨音に混じって聞こえてくるのは、荒い吐息。よろめくような足音に続いて、ドサリと鈍い音がした。
目を開けて、耳を澄ます。雨音のほかに、もう音は聞こえなかった。このまま寝てしまおうかとも思ったが、考え直してベッドを出る。
音は路地裏のほうから聞こえた。階段を下り、ランプを手に裏口の扉をそっと開ける。とたんに吹き込んできた雨が、ゆるく波打つ赤茶色の髪を濡らした。ぬかるんだ土の匂いが鼻をかすめていく。
人一人がやっと通れるほどの路地裏は、光の届かない谷底のようだ。その暗闇に、ランプをかざす。黄色い明かりに浮かび上がったのは、路地にうずくまる人影だった。
「そんなところで、なにしてるの?」
いつでも逃げ戻れるよう警戒しつつ、フィリアは人影に近寄る。
若い男だ。青年と呼んだほうがいいかもしれない。長身を隣の店の壁に預けて、固く目を閉じている。黒い短髪はぐっしょりと濡れ、白い額に貼りついていた。
「ぐっ……!」
青年はうめき声を上げると、苦しげに顔を歪めた。シャツの腹に当てた右手はタールのような液体にまみれている。雨に薄められて地面に滴り落ちる雫は、よく見ると赤っぽい色をしていた。――血だ。
ゴボ、と青年の喉が鳴った。咳とともに、口からも鮮血を吐き出す。
「しっかりして」
肩をつかんで呼びかけるが、青年は目を開けようとしない。雨に打たれた身体はぞっとするほど冷たかった。
迷っている暇はない。フィリアはランプを地面に置くと、青年の腕を自分の肩に回した。
薄暗い治療室は血の臭いに満ちている。ランプの光を頼りに、フィリアは青年の治療を進めた。どうにか部屋まで運び入れたものの、ベッドに載せることはできず、床に毛布を敷いてその上に寝かせてある。
しかし、懸命に手を尽くしても、青年の容態がよくなる気配はなかった。顔はもう紙のように白く、刻々と生気が失われていくのがわかる。
傷が深すぎるのだ、とフィリアは唇を噛んだ。鋭い刃物で切り裂かれた傷口からはとめどなく血があふれ、止血の薬草など役に立たない。父のような腕利きの医師でなくとも、青年の命が長く保ちそうにないことは見て明らかだった。
冷えきった腕をさすり、口端にこびりついた血をぬぐってやる。呼吸は弱く、胸の動きでやっと息をしているとわかるくらいだ。
そして、引いた波がそのまま戻らなくなるように、そのかすかな呼吸さえも止まった。色を失った青年の横顔に、馬車の事故に遭った父の死に顔が重なる。
「――駄目」
無意識のうちに口に出していた。
「死んじゃ駄目……! お願い、目を開けて!」
呼びかけに応えるかのように青年が咳き込んだのは、それからすぐあとのことだった。止まったはずの呼吸が戻り、白かった頬にほんのり赤みが差していく。睫毛の先が震えたかと思うと、ゆっくりとまぶたが開いた。
「ここは……?」
かすれた声で問いかける。灰色の瞳は焦点が定まらないのか、ぼんやりと宙を見ていた。
「私がやってる治療院よ。あなたはひどい怪我をして、路地裏に倒れてたの」
「治療、院……? じゃあ、俺は助かったのか……?」
「手当てはしたけど、まだ安心はできないわ。とにかく今は、ゆっくり休んで」
フィリアは微笑み、青年の身体に毛布をかけてやる。
「そうか、――ねなかったのか」
青年はうわ言のようになにやらつぶやいていたが、やがておとなしく目を閉じた。さっきとは打って変わり、規則正しい寝息が聞こえはじめる。
フィリアは笑みを消すと、くずおれるように床に座り込んだ。
「……やっちゃった」
眠る青年を見下ろし、放心したように言う。
血染めの包帯の上からかぶせた毛布に、赤い染みが浮き出てくることはない。あんなにひどかった出血が止まっているのだ。
フィリアが使った、言霊の力によって。
この力に気づいたのは、確か五歳のときだ。母に連れられて出歩くようになった街は、珍しいものにあふれていた。あれも欲しい、これも欲しいというフィリアのわがままを母は聞き入れてくれなかったが、望んだものは結局、幸運な偶然によって手に入るのだった。
自分には、幸運の神様がついているのかもしれない。そう考えたフィリアは、思いつくままにいろいろな願いを口にしてみた。
お金持ちになれますように。
綺麗な服が着られますように。
ごちそうがたくさん食べられますように。
そして、そんな願いはまたしても叶えられることとなる。
願いをかけた翌朝、治療院の前には金貨の詰まった袋が落ちていた。近所で仕立屋を営む女性は、子供用のドレスを気前よくくれた。初めて訪れた親戚の家では、テーブルいっぱいにごちそうが並んでいた。
予想以上の収穫にフィリアは舞い上がったが、その喜びは長くは続かなかった。幸運の裏にあるものを知ってしまったからだ。
金貨は、とある貴族の邸から盗まれたもの。ドレスは、それを着るはずだった子供が急死して行き場がなくなったもの。そしてごちそうは、親戚の葬儀の席で出されたものだった。
もしかして、自分の願いを叶えるために、他人が不幸な目に遭っている――?
ふと浮かんだ考えに、幼いフィリアは震え上がった。ただの偶然として跳ねのけるには、あまりにもできすぎていた。
それからというもの、フィリアは聞き分けのいい子供になった。欲しいものはないかと訊かれても、黙って首を振るような子供に。
奥の小部屋でお湯を沸かしていると、治療室から物音が聞こえた。慌てて戻ってみれば、青年が床の上で身を起こしている。
「駄目よ」
フィリアは青年のそばにしゃがみ込み、首を振った。急に動いたりしたら、傷が開くかもしれない。
「心配ない、もう傷はふさがっている。そっちのベッドに移るだけだ」
青年は床に手をついて立ち上がると、ふらつく脚ですぐ脇のベッドによじ登ろうとした。途中で後ろに倒れかけたところを、フィリアがどうにか受け止めてベッドに押し上げる。
「……なにも訊かないんだな」
乱れた息を整えながら、青年は試すような目でこちらを見た。
「俺が何者か、気にならないのか」
フィリアはその目を見返し、また小さく首を振る。
「あなたがどこの誰でも、私の患者ってことに変わりはないわ」
まったく気にならないといえば嘘になるが、薬師たるもの、患者を選んではいられない。どんな素性の人間にだって、適切な治療を受ける権利があるからだ。
「変わってるな、あんた」
青年はぽつりと漏らし、天井を仰いだ。気が抜けたようなその顔は、少年じみたあどけなささえ感じさせる。二十歳くらいかと思っていたが、案外もっと年が近いのかもしれない。
「……レヴィン」
「え?」
「俺の名前だ」
そう言うと、青年は壁のほうを向いた。
「わ、私は――」
慌ててフィリアが名乗り返そうとしたときには、すでに寝息を立てている。
「もう、勝手なんだから」
傷口を消毒しようとして、ふと気づく。床からベッドに移動したぶん、しゃがむことなく楽に作業ができる。
「まさか、そのためにわざわざ移動してくれたの……?」
尋ねても、当然答えは返ってこなかった。
レヴィンという名の青年は、その後も驚くような回復ぶりを見せた。乾燥して小さくなっていく傷口を目にするたび、フィリアは嬉しさと罪悪感の入り混じった気持ちになる。
不思議なのは、怪我が治るにつれてレヴィンの表情に陰りが出てきたことだった。ときにはベッドに起き上がって、壁の一点をじっと見つめていたりもする。その憂いを含んだ眼差しを内心気にかけながらも、フィリアはふだん通りに治療を続けた。
「なあ」
思いつめたようにレヴィンが口を開いたのは、包帯を取り替えていたときのことだ。
「魔女というのは、本当にいると思うか」
飛び出した単語に、フィリアの心臓はどくんと跳ねる。
「……どうしてそんなことを訊くの?」
もしかして、「力」のことに気づかれただろうか。身を強張らせながら反応をうかがうが、返ってきたのは意外な言葉だった。
「自分も魔女だったら、と思うことがあるからだ」
そう言って微笑むレヴィンの瞳には、昏い光が宿っている。
「魔女は魔法を使って、他人を呪い殺したりできるんだろう? 直接手を下さなくていいなんて、便利じゃないか。いっそ俺にもそんな力があれば――」
あふれ出した台詞は、しかし最後まで続かなかった。パン、と乾いた音が響き、レヴィンの上半身がわずかに揺らぐ。
「馬鹿なこと言わないで」
フィリアは押し殺した声で言った。レヴィンの頬を打った右手が、しびれたようにじわりと痛む。
「呪いなんかじゃ、誰も幸せにはなれないわ。『力』を使えば、それ相応の報いが返ってくるのよ」
幼い自分の他愛ない願いが、他人の命を奪ったように。
フィリアはレヴィンを睨みつけた。彼は打たれた頬に手をやったまま、呆然とした顔をしている。そして我に返ったように唇を引き結ぶと、小さくつぶやいた。
「悪かった」
その目はもう、澄んだ灰色に戻っていた。
治療があらかた終わると、レヴィンは治療院を出ていった。一週間以上も休業していた治療院は通常営業に戻り、また患者たちが通ってくるようになった。
「ずっと寝込んでたんですって? 薬師が病気になんてなっちゃ駄目じゃない」
呆れ顔をする常連患者の女性に、フィリアは曖昧な笑みを返す。休業の理由は、表向きには風邪のせいということにしてあるのだ。
女性が帰ってしばらくすると、室内に長い影が差した。
「今、いいか?」
戸口に立っているのはレヴィンだ。薄手の黒の上下に黒い編み上げ靴を履いていて、まるで彼自身も影のように見える。
「どうぞ」
フィリアはレヴィンにベッドを勧め、薬草の用意を始めた。レヴィンはいったんここを去ったあとも、治療のために毎日のように通ってくる。傷はもう放っておいても治るくらいなのだが、まだ痛むのだと言われては断れない。
「これでいい?」
かさぶたの上に湿布を当てながら尋ねる。
「ああ」
レヴィンは気持ちよさそうに息を吐き、「ところで」と切り出した。
「ここの経営は上手くいっているのか? あまり患者が多いようには見えないが」
言いながら、ざっと室内を見渡す。全部で四床あるベッドは、今使っているものを除いて覆い布がかけられている。患者が何人も同時にやってくることはまずないからだ。
「失礼ね、ちゃんとやっていけてるわよ。毎日来てくれる常連さんだっているし」
「それでも、全体の人数は減っているんだろう?」
「そりゃあ、ね。まだ治療が途中なのに、ぱったり来なくなっちゃった患者さんもいるわ」
「『魔女狩り』のせいか」
「……たぶんね」
フィリアはためらいながらうなずく。
このところ、〈獅子の爪〉の動きが活発になってきている。王の病状が思わしくないため、王に呪いをかけた魔女とやらを必死であぶり出そうとしているらしい。
数日前には、王城に茶葉を納入していた店の女主人が部隊に連行されていった。魔女は茶葉や薬草を調合して、さまざまな効能の飲み薬を作り上げるという。薬師であるフィリアも、魔女として疑われる可能性はあった。
「怖くないのか? 次に連れていかれるのは、あんたかもしれないんだぞ」
レヴィンは平然とした口調で、物騒なことを言う。しかし、フィリアがそれに怯むことはなかった。
「怖いわよ、もちろん。でも、薬師が薬草を使ってなにが悪いの? 私は患者さんを治療してるだけで、王様を呪ってなんかいないわ。できることなら、病気を治してあげたいくらいなんだから」
唯一の気がかりは「力」を使ったことへの報いだが、今のところ、レヴィンの命が助かったというほかに影響は出ていない。
堂々と言ってのけたフィリアに、レヴィンは面食らったように目を丸くする。そして、唐突に笑いだした。
「あんた、やっぱり変わってるな」
湿布を貼りつけた腹を抱えて、なおも笑う。
「ちょっと、お腹痛いんじゃなかったの?」
フィリアは呆れながらも、初めて見る彼の表情から目が離せずにいた。憂いを取り去った、子供のようにまっさらな笑顔。
変わってるのはお互い様よ、と心の中でつぶやく。魔女狩りに遭うかもしれない薬師のもとへしつこく通ってくるなんて、変人としか思えない。
けれどいつの間にか、彼の来訪を待ちわびている自分がいるのも確かだった。霧が晴れるように少しずつ表情が明るくなっていくさまを、ずっとそばで見ていられたら。――そんなふうに思うのだ。
「じゃあ、また」
治療が済むと、レヴィンは満足顔で治療院を出ていった。
入れ替わりにやってきたのは、常連患者の老女だ。フィリアの顔を見るなり、慌てた様子で駆け寄ってくる。
「ああよかった! 無事だったんだね」
老女はフィリアの両手を取ると、大きく息を吐いた。気分でも悪いのか、しわだらけの頬が青ざめて見える。
「どうしたの、そんな顔して。私なら大丈夫よ。ここだって、朝から平和そのものだし」
フィリアはなだめるように言った。しかし、老女の顔からはますます血の気が引いていく。
「馬鹿だね、平和なもんか!」
老女は悲鳴じみた声を上げると、振り返って入口のほうを見た。
「いいかい、あんたは知らないみたいだから言うけど――」
低めた声に、フィリアの胸がざわりと波立つ。
「今出てった男、〈獅子の爪〉の指揮官だよ」
その夜はなかなか寝つけなかった。昼間患者から聞いた一言が、いつまでも耳の中でこだましている。レヴィンが魔女狩り部隊の指揮官だなんて、悪い嘘だと思いたかった。
しかし患者の老女は、彼が〈獅子の爪〉を率いて街を歩いているところを見たという。部隊員の証である、獅子の紋章入りの軍服と軍靴を身につけていたとも。確かにレヴィンは、いつも黒い編み上げ靴を履いている。折り返し部分に型押しされた模様は、言われてみれば紋章に似ていた。
寝返りを打つと、ベッドが軽くきしんだ。あの雨の夜とは逆に、息の詰まるような静寂が眠りの邪魔をする。
もし本当に、レヴィンが〈獅子の爪〉の一員だとしたら。いったい彼は、今までどんな思いでフィリアのそばにいたのだろう。魔女になりたいなどと言ったのは、フィリアを試すためだったのだろうか。傷が癒えても治療院に通ってくるのは、フィリアという「標的」を監視するためなのだろうか。
疑問は次々と湧いてくるが、答えは一つとして見つけられそうになかった。真実は、きっと彼自身しか知らない。
今度レヴィンがやってきたら、思いきって訊いてみよう。フィリアはそう決意して、浅い眠りに落ちていった。
翌朝、鐘を打ち鳴らすような音で飛び起きた。窓の外はまだ仄暗く、欠けた月が淡く光っている。
騒々しい音は下から聞こえてきていた。誰かが入口の扉を外から叩いているのだ。
「フィリア・クラーク! いるんだろう? 鍵を開けて出てくるんだ」
早朝の表通りに、野太い声が響き渡る。フィリアはベッドから出ると、カーテンの隙間から外をうかがった。
治療院の前には、黒服の男たちが集まっている。揃いの軍服の胸には、獅子の紋章。――〈獅子の爪〉だ。
とうとうフィリアのもとにもやってきてしまった。覚悟はしていたものの、実際にその姿を目にすると足が震える。よろめきかけたところを、カーテンをつかんでどうにか踏みとどまった。
そのかすかな音に気づいてか、部隊員の一人がこっちを見上げた。すぐにカーテンを引いたが、間に合わない。
「二階だ! 二階にいるぞ!」
「よし、扉を破れ!」
怒鳴り声とともに、扉に体当たりする音が聞こえる。フィリアは裏口から逃げようと階段を駆け下りた。
裸足の足が一階の床を踏むのと、玄関の扉が破られて男たちがなだれ込んでくるのとはほぼ同時だった。ナイフの一本も持たないフィリア相手に、部隊員たちはためらいもなく剣を抜いた。
「おとなしくするんだ」
ひときわ体格のいい部隊員が、こちらに剣を向けて酷薄な笑みを浮かべる。しかし、丸太のようなその腕に後ろからしがみつく者がいた。
「なんの真似だ! 一緒に連行されたいのか!」
不意を突かれた隊員は、剣先を揺らしながら叫ぶ。
「おお怖い。いたいけな年寄り相手に、よくそんな口が利けるね。――ほら、今のうちだよ! 早く行きな!」
部隊員の腕にぶら下がった老女は、振り落とされそうになるのをこらえてこっちに目配せした。フィリアははじかれたように身をひるがえし、裏口へと向かう。
だが、裏口の扉を開けたとたん、凍りついたように足を止めた。目の前に、黒い軍服を着た青年が立っていたからだ。
すらりとした長身に、漆黒の短髪。澄んだ灰色の双眸がこちらを見下ろしている。
「……レヴィン」
フィリアは全身から力が抜けるのを感じた。〈獅子の爪〉が現れたときから、予想はしていたことだ。それでも、完全に希望を捨てたわけではなかった。こうして彼の姿を目にするまでは。
「フィリア」
レヴィンは息を切らしていた。よほど急いで来たのだろう。フィリアという「魔女」を、逃がさないために。
「ったく、手こずらせやがって」
老女を振りきった部隊員が、背後からゆっくりと迫ってくる。カチャ、という音とともに、レヴィンも腰の剣を抜いた。挟み撃ちだ。
これは「力」を使った報いだろうか。レヴィンの瞳を見つめ返し、フィリアは思う。
だとしたら、逃げるわけにはいかない。すべては自分が招いたことなのだから。フィリアは奥歯を噛みしめ、白銀の剣の切っ先を目で追った。
しかし、その剣がフィリアに向けられることはなかった。
「ここでなにをしている」
冷えた刃にも似た声音が、レヴィンの口から漏れる。
「レ、レヴィン王子……」
長剣を突きつけられた部隊員は、岩のようにごつごつとした顔を引きつらせた。
「この者には手を出すなと言ったはずだ」
「し、しかし、ゲイル王子が――」
「兄上がどうした? 部隊の指揮官は私だろう。わかったのなら、さっさとここから退け。この者の処遇については私が責任を持つ」
レヴィンはぴしゃりと言い放つ。部隊員はまだなにか言いたそうにしていたが、やがてあきらめたように剣を収め、仲間と一緒に治療院を出ていった。
扉が閉まったとたん、フィリアは床にへなへなと崩れ落ちる。静けさを取り戻した室内に、大きな溜め息が響いた。自分ではない。レヴィンだ。
「ふう、どうにかごまかせたな。もう駄目かと思ったが」
すでに厳しい指揮官の顔は消え去り、ゆるい笑みさえ浮かべている。
「ごまかせた? どういうことよ。それに『王子』って――」
日常とかけ離れた単語に、フィリアは混乱を隠せない。
「そのままの意味さ。といっても、妾腹の第四王子だが。見ての通り、〈獅子の爪〉の指揮官でもある」
「な――」
フィリアはとうとう絶句した。その目の前に、大きな手が差し出される。
「だが、その身分ももう捨てる。――俺と一緒に、逃げてくれないか」
「……逃げる?」
フィリアはレヴィンの手と顔を交互に見つめた。
「悪いが、時間がないんだ。〈獅子の爪〉の指揮権は、もう兄の手に落ちかけている。奴らが戻ってくる前にここを離れないと」
ほんの数時間前に王が死んだのだと、レヴィンは小声で明かした。
「自分以外の王位継承者を消そうと、兄たちはまた刺客を放ってくるだろう。今度こそ討ち漏らさないようにな。それに、兄のゲイルは王以上に魔女狩りに積極的だ。このままではあんたの命も危ない」
だから一緒に逃げよう――レヴィンはそう言うのだ。
なにも考えず、この手を取ってしまえばいい。心のどこかでそうささやく声がした。しかし、フィリアは伸ばしかけた手を引っ込めて首を振る。
「私が怖くないの? 魔女だって疑われてるのよ」
「怖いものか。本当はわかっていたんだ。魔女なんてものはいないんだって」
レヴィンはまったく動じず、笑みさえ浮かべている。その信頼が、今は痛かった。
「でも、私には本当に『力』があるの。あなたを助けたときだって――」
「知っている」
絞り出すような言葉は、レヴィンの一言にさえぎられる。
「え……?」
驚いてまばたきするフィリアに、レヴィンは穏やかな視線を向けた。
「あれは、治るような傷じゃなかったからな。嫌いな『力』を、俺のために使ってくれたんだろう?」
では、初めから気づかれていたのだ。
「でも……どうして」
魔女ではないと、どうして言いきれるのだろう。「力」の効果を、身をもって知ったはずなのに。
「どうしてだろうな。最初は助かったことを恨みもしたのに。ただ、あんたを見ていたら、もう少しだけ足掻いてみようって気になったんだ。父の手の平で踊らされる人生から、脱け出すために」
俺と行くのは嫌か、とレヴィンは顔を覗き込んでくる。
「……嫌じゃない」
嫌なはずがないじゃないか。
フィリアはためらいを振りきり、レヴィンの手を取った。瞳と瞳を合わせて、温かい手を強く握りしめる。彼と自分とを結びつけてくれた言霊の力に、生まれて初めて感謝した。
でも、それとももうお別れだ。彼の隣を、自分の力だけで歩んでいきたいから。
フィリアは小さな声で、最後の「力」を使った。
「もう、『力』なんていらない」