10(終).スカイ・ドリーマー
よく聞きたまえ。君たちは、戦士だ。生まれた瞬間から、戦いに身を投じることを宿命づけられた者たち、だ。君たちは死を恐れてはいけない。何故なら、君たちにとって死とは名誉なことだからだ。戦場で敵の流れ弾に倒れた時、君たちは今までに土へ還った同胞達からの、心からの祝福を授かるのである。
彼はエントランスにいた。
俺は彼の隣に腰かけると、側の棚から新聞を引っ張り出した。
「探したよ」
「なぜ?」
「会わなきゃならない、って思った」
俺は煙草に火をつけ、灰濁色の煙を琥珀の天井に向けてぷわーっと吹き出した。
「戦争が終わったのに、まだ空で戦ってる奴がいると聞いてな」俺はいった。「顔を見てみたかった」
「別に珍しくもなんともないよ」
「好きだから飛ぶ、のか?」
俺が訊ねると、彼は重く垂れた前髪から覗く生気のない目を光らせた。
「空にいると自分を忘れられるんだ。僕が名前のある人間で、この世界に生まれついて、そして生きているということを、忘れられる」
彼の声は低く籠っていて、おまけに頻繁につっかえるのでとても聞き取りにくかった。
「自分が嫌いなのか?」
「好きではないよ」
彼はまた視線を床に落とすと、俺が入ってきた時と同じように指を複雑に絡ませて弄び始めた。
「君は?」
彼がいった。
「俺はリュトーという。基地では同期だったはずだ」
「ごめん、気付かなかった」
彼は一拍置いていった。
「人の顔を覚えるのが、苦手なんだ」
俺は漠然とした気分でホールの壁に視線を彷徨わせた。
時折通りかかる兵士たちが、遠巻きに俺と彼とをじろじろ眺めていく。
「俺には大切な人がいた」
彼が黙っているので、続けた。
「今はもういない」
静寂。
「お前には、そういうものがあるのか?」
「僕は誰かのために戦ってるわけじゃない」
「本当に?」
「うん」
「彼女は流行り病でこの世を去った」いった。「死に際に、生きさせて欲しいといってくれた。」
「生きさせて?」
「俺の中で、だ」
俺は胸を叩いた。
彼の顔に緩慢とした動きが見られた。
「人は有機物であって、そんな概念的な存在なんかじゃないよ。死んだらそれで終わり、だろう」
「俺はよかったと思ってる」
「もし彼女に、彼女の側に付き添ってやる人がいなかったら、そう考えると空恐ろしくなる。彼女が存在したという証は消えてなくなってしまう。」
「みんないつかなくなるんじゃないか。ただほんのちょっとタイミングがずれただけだ。」
「ああ」俺はいった。「お前のいってることは正しいよ」
「でも、気のせいだろうか、お前の言葉からはまるで人間味といったものが感じられない」
「うん」
「でも」
「何」
「一緒だ、俺もお前も。それだけは、事実だ。俺たちは綺麗な道を歩けない。必ず、汚れを残してしまう」
「それだけの事実が、僕らを繋ぎ止めて、永遠にこの場に縛り付けている」彼はいった。「僕らに与えられたのは、かりそめの自由だ。みんなが空に飛び立つのを、鳥籠の中で待ち続けている」
「そして抜け出したんだろう、俺もお前も」
「うん」
「俺にはある友達がいて」
「友達?」
「ああ。基地の連中じゃなかった。俺が鳥籠を抜け出そうと思ったのは、そいつに惹かれて、かもしれない」
イーセルトの白い顔を思い出した時、胸の奥がつん、となるような儚くそして切ない感情が俺の胸に去来した。
「彼は王になるといっていた」
「王」
「国が死んで、争いが起こった。彼はその最中に命を落とした」
「そう」
「俺はまだ彼との約束を果たせていない」
眩しい、カレキナの笑顔。
彼女は光輝く太陽だ。俺を照らしてくれる。俺だけを、照らしてくれる。
俺たちはどこまでも子供で、だから2人きりで何でもできると思っていた。
そこで気付いた。今まで自分たちが、どれだけ周りの世話を受けてきたか。初めて気付いた。俺たちのために用意された環境は、俺たちをひどく虚弱で触ればすぐにでも崩れてしまう存在へと育てた。
子は、親の元を離れられない。
死ぬまでだ。
違う。
本当は、大人の作った檻の中に、その環境に満足していたのだ。
甘んじていた。
一生、餌を与えられ、住む場所を与えられて過ごす動物園の檻。
否定
否定するために、逃げたということか。
それがどんな結果を招くのか知らなかった。
俺たち。
彼は逃げたんじゃない。
ただ飛びたかった、それだけなのだ。
彼の意志は強い
「俺たちの戦争は、戦争であって、戦争じゃなかった。そうだろ?」
「どうでもいい、そんなこと」
「敵を墜とした時どう思う?」
イーセルトの問いを彼にぶつけてみた。
彼の答えは意外なものだった。
「自分を見ているような気分だ。第三者の、神の視点で」
町外れの図書館は埃に覆われており、屋内には白い靄のようなものが軽くかかっていた。
俺と彼とは書架の前に立ち尽くしていた。
彼は一冊、分厚い青表紙の本を手に取ると、その中の1ページをびりりと破り取った。
「おい」
「いいんだ」彼はいった。「どうせ、誰も読んでないんだから、こんなもの」
彼は破り取ったページを器用に折り、紙飛行機を作った。
「上手いな」
「よく飛ぶよ」
彼の手元から放たれた白い飛行機は、放物線を描いてをカウンターを通り過ぎ、正面玄関のガラス窓に当たって落ちた。
「君はさっき子供といったけれど、僕らはもう立派な大人だ」
「なぜそう思った?」
「こうやって、昔のことを懐かしがれる。子供だった頃のことを」
彼はぽつりぽつりと、彼自身のことについて語り出した。
俺は相槌も返事も挟まなかった。それが彼にとって一番いい環境だったのだろう。元々彼は、自分の言葉を他人に聞かせようと思って発しない。
彼の人生の、その全ては独り言だ。
こうやって、ぼんやりしていると、いつもカレキナのことを考えてしまう。
カレキナが死んだ時、俺は自分の目から涙が溢れていることに気付き、そして驚いた。泣いたことなんて、いつぶりか、わからない程だった。
カレキナが死んでから、俺は深い闇の中にいた。
結局俺はカレキナを完全に受け入れていたわけではなかったのだ。
そう気付いたのは、カレキナと寝床を共にすることができなかったから。俺は彼女を信用しなかった。できなかったのだ。彼女は、もしかしたら悲しげな顔をしていたのかもしれない。
今となっては、わからない。
人が人であることに、何ら意味なんて、あるのだろうか。
俺たちのような、足りなかった者にとってはこの世界はとても生きづらい。世界が歪んでいると感じるのは、そのためだ。
歪んでいるのは世界じゃなくて俺たちなのだ。
世界に合わせて自らを矯正することを怠った俺たちに架せられた罰なのだ、これは。
自分は普通じゃないから
そうやって、逃げてきた。
口実に
それだけを。
空の向こうには何があるのだろう。
何が待ち受けているのだろう。
あるいは楽園、あるいは地獄、あるいは、何もないのかもしれない。
虚無。
空の上にいるとたまに感じる。
何もないということは、何も考えなくてもいいということだ。
見方によっては、気持ちのいいことなのかもしれない。
でもそれは怖いことでもある。
恐ろしい。
白い海が、どこまでも続いている。
上を見上げれば、黒みがかった青がある。
そして俺たちには、生も死もない。
今ここにいる俺たちには何もない。
心地良い振動に身を任せていると、心臓の鼓動を忘れる。
これもかりそめの自由なのだろうか。
なら本当の自由はどこにあるのか。
俺たちはそれを探している。
見つからないかもしれない。
見つからなくてもいいのかもしれない。
飛ぶことが、飛んでいられることが俺たちの全てだった。
振り向けば、昨日までいた誰かがいなくなっている。
けれども、気を揉んでいる暇はない。
なぜ戦うのか
なぜ生きるのか
やっと、わかった気がする
一体今までにも誰が、何人が、辿り着いたのだろう。
本当の答えなど、ない。
ないから、自分なりに探そうとする。
俺たちは死ぬ瞬間を人に見てもらいたいから生きるのだ。
人生の全てが集約されるその瞬間を、誰かに留めてもらいたい。
戦場で華々しく散るのも、病の床で静かに逝くのも、何も変わらない。
最後は美しくあろうとする。
始まった瞬間から、人生は終わり始めている。
「きれいだ」
彼―レルムはいった。
2人は遥か遠くに銀嶺を望む、湿原にいた。
流れる川面は太陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。
「ああ」
黒い木立から伸びた影が、繁茂する草地に黒を落としている。
緑のグラデーションが目に滲む。
ふいに、レルムの帽子が轟音と共に風で吹き飛んだ。
木々がざわざわと揺れ、草原を撫でるようにして突風が走り抜けていく。
見上げれば、すぐ上を岩のような黒い影が猛スピードで通過していったところだった。
突然に現れたそれは、来た時と同じく碧霄の空に溶けて、吸い込まれるようにして消えた。
しばらく空を裂くような残響が辺りに響き渡り、やがてそれも消えた。
「スチーヴァだ」
レルムがいった。
「珍しい、模擬戦でもあるのかな」
俺は黙って、風に靡くレルムの黒い髪を眺めていた。
湿原が静けさを取り戻した頃合、俺は湿った口を開いた。言葉が、すらすらと浮かんだ。
「俺にとっちゃ世界なんてものはちっぽけで、いつも物足りなかった」
「俺は広い世界を求めて旅立った。でも違ったんだ、レルム。俺が出会ったものは違った。美しいものに出会ったんだ。」俺は声を振り絞り、続けた。「探してくれないだろうか、俺と一緒に」
「人の心が」
レルムの声はがさついていた。
「どれだけ人の心が汚くても、醜くくても、世界はこんなに美しいんだ。それだけでも、今を生きる僕たちは幸せなんだと思う。そう信じていたい」
あつい涙が俺の目尻をつたって、流れ落ちてきた。
なぜなのか、なぜ自分が泣いたのかわからなかった。
けれども、すぐにわかった。
初めて、俺に友達ができたのだと気付いた。
碧霄のリュトー〈完〉




