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碧い  作者: 夏空夏色
1/1

灰色の空から

 1 灰色の空から


 今、自分は何をしているのだろう。


 汗は吹き出すように止めどなく流れ、呼吸をすることもままならない。大きく波打つ心臓は自分の物ではないようで、今にも口から飛び出しそうだった。

 曇っていく視界に映るのは先を走る誰かの背中。―ああ、私は走っていたのだ。と、千代は気づいた。競技中に人の後を追うことなど初めてのことだった。

 足が言うことを聞かない。大地を踏みしめている感覚が無い。宇宙に放り出されたかのような無力感、いや孤独か。さまざまな色のユニフォームが次々と遠ざかっていく。

 自分を迎えてくれるはずの白線は、千代には見えなかった。

 酸素を欲する体が、苦しさのあまり上を向く。ただ重く垂れさがった灰色の雲だけがどんよりと浮かんでいた。



千代はガラガラに空いた電車に乗り込んだ。夏休みのお昼時に電車を利用する人は少ないのだろう。蒸し暑い外の気温から冷房の効いた車内へ。シャツの胸元を大きく動かしてあおぐ。

 光が反射してぼんやりと窓に自分の姿が現れた。肩で切り揃えられた髪は暑さのあまり、輪郭に沿ってへばりついていた。そして少しやつれた顔。目の下の隈は日に日に濃くなっていった。そんな自分が嫌でギュッと目をつぶる。



「―過敏性腸症候群ですね。」

 眼鏡をかけた気難しそうな男性の医者が何の抑揚もなく、そう言った。

・・・・・過敏性腸症候群。かびんせいちょうしょうこうぐん。頭の中で繰り返し唱えてみる。どこかで耳にしたことがある病名だなと思った。

「自律神経の乱れから来る病気です。最近、ストレスを強く感じたことはありますか。」

 当てはまるものはすぐに分かった。だが、そのことをこの医者に言う気にはなれなかった。眼鏡と同じように、レンズ一枚の隔たりを持った他人に何が分かるだろうか。いや、口にすることで自分が恐怖を、情けなさを、思い出すからか。

「・・・・・特に思い当たりません。」

「そうですか。高校二年生でしたっけ。部活やっているのでしょう。」

 千代の筋肉が引き締まった手足を見て思ったのだろう。千代は何も言えずただ俯いていた。

「中心学年として引っぱろうと気張りすぎたのでしょうね。大丈夫です。この病気は気の持ち様ですぐに治りますから。」

 すぐに治ります、の一言で幾分か心が軽くなった。もう少ししたらこの腹痛と、別れを告げられるのか。

「おだいじに。」

 ―果たしてそれは本当だろうか。

「ありがとうございました。」

 やっと出た声は掠れたお礼だった。



 ガタン―と電車と共に体が揺れた。どうやら、うつらうつらとしているうちに寝てしまっていたらしい。最近は度々襲ってくる腹痛のせいでまともな睡眠を摂れていなかった。腹を絞られているかのような激痛は気まぐれで何時、何回、やって来るかは分からない。しかし、床に入って目を瞑ると決まって痛みに襲われるのは変わらなかった。

 車内アナウンスに耳をすますと、降りるはずの駅は四つ前に過ぎてしまったらしい。聞き覚えのない駅名が放送されていた。

 とりあえず反対方向に乗り換えなくては。千代はその駅で降りることにした。

 太陽が地面を照りつける中、ただ一人だけ電車から降車する。自動販売機も売店も無い、木で出来た朽ちかけのベンチが申し訳なさそうに一つだけ置いてあった。質素、簡素。そんな言葉が似合う駅だと思った。

 携帯で時間を確認すると二時を過ぎていた。

陸上部のロードの時間だ。ロードは、グラウンドでは無く、体力作りのため校舎の周りを走ることだ。

駅から千代の家に向かうには必ず校舎付近を通る。部員に会いたくなかった。一瞬、目が合って気まずさからか、はたまた千代に対する哀れみか、目を逸らされる。まだ直接何かを言われた訳では無い。しかし、あの無機物を見るような、なんの感情を持ちえていない目が千代にとって恐ろしかった。

この駅の辺りを散策しよう。それで時間を潰そう。きっとベンチしかない駅よりかは改札を出た方が店やイベントがあるだろう。

 暑さに項垂れながらアスファルトの道を歩く。途中、どこかの家の風鈴が涼しい音を鳴らした。それにしても人通りも住宅も少ない場所だった。すべての物がひっそりと隠れている。少し心細さを感じながらも一本しかない道路をひたすら真っ直ぐ歩いていた。

 そのとき、ポケットの携帯が着信の通知で揺れた。

予想通り、舞原からの電話だった。ごめん。と小さく呟き、気づいていないふりをしてポケットにしまった。



 舞原と知り合ったのは入学して仮入部が始まった頃。本名は舞原樹と言い、千代とは他クラスだったが、よく廊下で友達に囲まれている姿を目にした。

 中学では帰宅部だった千代が選んだ部活は陸上部だった。別に理由は無い。ただ走るのが好きだったから。そんなきっかけで部を決めた。

 仮入部の最終日、個人種目を決めるために千代は走った。

 無我夢中で地面を蹴りあげた。全身で風を感じた。走っていたときの記憶は全くない。何も見えなかった。何も聞こえなかった。気が付いたらゴールしていた。グラウンドは静寂に包みこまれた。視線を上げた先に頬を赤くした舞原が立っていた。

 おまえ、すげーよ。

 走るために生まれてきたみたいだな。

 それは千代が陸上部を退部する一年前の話だった。



 舞原に顔向け出来なかった。あの言葉を裏切ってしまうのが情けなかった。部を辞めてから舞原を避けるようになった。

 ポケットの中の通知音が消える。代わりに胸に罪悪感が広がった。

 罪悪感をかき消すかのように千代の足は進み続ける。もうずいぶん駅から離れてしまっていたが構わず歩いた。どこに行けばこの気持ちから解放されるのだろう。

 ―ズキン・・・・・

 腹部が鈍く痛んだ。ああ、これはヤバいかもしれないな。と、千代は苦笑を浮かべた。

 ―ズキン・・・・・ズキン・・・・・

 自分のお腹に手を当てた。過敏性腸症候群というのやらが、やってきたのだった。しかも、痛みは一時的な物ではなさそうだ。近くにトイレが無いか探してみる。残念ながら駅から離れてしまったため、コンビニも人の姿も見つけられなかった。

 我慢するしかないのか。悪寒が体中を走った。暑さでは無い汗がたらたらと背中を流れる。立っているのも耐えきれなくて、しゃがみこんだ。膝にアスファルトの石が食い込む。体の中心が痛い。鎖で腸を引き絞られているような感覚。

 おさまれ、おさまれ、おさまれ。呪文のように唱えた。

「―大丈夫ですか!」

 か細くて柔らかい声がした。その声が自分に向けられていると分かった瞬間、背中にひんやりとした感触を感じた。朦朧とした意識の中でこの人はなんて冷たい手なのだろうと思った。

「体調悪いみたいですね。あ、腹痛ですか。良かったら僕の家に来てください。すぐそこなので。お手洗いお貸しします。」

 フワフワとした黒髪に日焼けを知らない透き通る肌。大きな瞳は千代を安心させるかのように細くなり、微笑んだ。

 千代が首を縦に振ると、手を引っぱって立たせてくれた。ひんやりとした彼の手が千代と重なった。



案内された家は歩いて三十秒のところだった。

 千代は無事にトイレに辿り着くことができ、安心したこともつかの間、ものすごい羞恥心が湧いてきた。見知らぬ人に助けてもらい、さらにトイレまで借りてしまったのだ。勢いでついて来てしまった部分もあるが、恥ずかしさのあまり、トイレから出た後どんな態度をとればいいものかと悩んだ。とりあえずゆっくりと手を洗うことにして、その場に置いてあった石鹸を手に取った。真ん中に花がこしらえてある可愛らしい物だ。すごくいい匂いがする。

 指の一本一本を丁寧に洗い流すと、静かにトイレのドアを開けた。木でできたドアが音を鳴らさないように慎重に。そして千代はガラス張りのリビングにつながるドアの前に立った。

 ガラスの向こう側が見えた。彼は白いテーブルを囲んだ椅子に座っていた。あの時は痛みに必死でよく見ていなかったが、彼はきっと千代と同い年か一つ上だ。声は大人びていたけれど顔にはまだ少し幼さが残っている。なにより椅子に座って嬉しそうに口笛を吹くなんて大人がする訳がない。

 そのお世辞にも上手いと言えない口笛が消えた。千代の姿を見つけて椅子から立ち上がったのだ。

 あたふたしても仕方がない。千代はきっちりお礼の言葉を伝えようと思った。

「もう平気ですか。」

「・・・・・はい。本当にありがとうございました。」

 深々とお辞儀をすると、やめて下さいと慌てた声がした。

「ご迷惑をおかけしました。おかげで助かりました。」

「いえ、そんな全然。」

 男の人は困ったような笑みを浮かべた。伏し目がちになると睫毛が長いのがよく分かる。

「それではお邪魔しました。ありがとうございました!」

「―この後、お時間ありますか。」

「え?」

「あの、お茶、でもしませんか。」

 カバンを肩に掛けて家を出ようとしたところだった。予想だにしていなかった言葉に千代はまばたきを繰り返した。

「あ、いや。お忙しいですよね・・・・・。」

 何も答えない千代を、迷惑に思っていると判断したらしい。

「お手洗いも貸していただいたのに、お茶までいただくわけにはいきません。ありがとうございます。」

 今度こそ外に出ようとお別れの挨拶をした。普通ならここで帰してもらえるはずだが、彼は違った。そう、引き下がらなかったのだ。

「申し訳ないのですが、もうお茶の準備をしてしまったのです。一人でそんなにたくさん飲めません。僕に付き合ってくれませんか。」

「・・・・・でも。」

 見知らぬ人がお茶まで飲んでしまっていいのだろうか。後ろめたい気持ちの方が大きい。

「嫌だったらいいですけど、トイレの件の借りをお茶に付き合ってくれることでチャラってことにしませんか。僕に付き合って下さい。」

 そこまで言われてドアノブを握ることはできなかった。トイレを貸してもらったことは後ろ暗いし、なにより、彼のことが気になったのだ。お茶しようという言葉には全く裏が無い。怖いことに発展するような雰囲気は彼から感じられなかった。

「ではお言葉に甘えて。」

 そう言うと、彼はくしゃりと笑ってもう一度家の中に招待してくれた。

 リビングはテーブル同様、木でできた白の家具をモチーフとしており、薄い生地のカーテンが風ではためいている。

「あ、そこに腰かけてくれたらいいですよ。」

「し、失礼します・・・・・。」

 彼はまたぎこちない口笛を吹きながらカウンター越しにあるキッチンに向かう。

 千代が席に着くと、そのテーブルの隅に作りかけの小物があった。カラフルなリボンを何かの枝の間に通した土筆のような形をしたものだ。こんな形の小物を初めて見た。

「お茶の準備ができた―ああ、散らかしたままでしたね。」

「あ、あの。その小物って何ですか。」

「これ?ラベンダースティックっていう物。ハーブとかを入れて香りを楽しむ物です。クローゼットとかカバンの中に入れて利用します。」

 手作りの小物を作ろうとするなんて彼は手先が器用なんだな。と、感心した。第一、お茶をご馳走することだって同年代の男の人には珍しいことだ。

 男の人はキッチンから持って来たティーポットをそっとテーブルの上に置いた。

「三分ぐらい待たないといけないので。その間に自己紹介でもしましょうか。」

 男の人はパーマがかった細い髪を指に巻きつけて、くるくると遊んだ。

「僕は関谷渚と申します。十七歳です。」

 ―渚・・・・・海にまつわる名前だ。だが、渚本人はとても色白で物腰も柔らか、同じ年代とは思えないほど大人びていた。海からイメージするような太陽の光を浴びて輝く活動的な少年ではなかった。少年という言葉を卒業した男の人なのかもしれない。

「あなたの名前は?」

「―ふ、深瀬千代。十六歳です。」

「高二、ですよね。」

 千代が頷くと、僕も同じ学年です。と、言った。ああ、やっぱり―自分の勘が当たって少し喜んだ。

「どこの高校に通っているのですか。」

「僕はある事情で高校に行っていません。いわゆる中卒です。あ、でももし高校に通っていたら高二です。」

「・・・・・そうなんですか。」

 中卒と聞いて驚いた。周りにも働くと言って高校に進学しなかった人が何人かいるが、このご時世では珍しいし、なにより渚は裕福な家庭で過ごしていそうな人だと思っていたからだ。

「せっかく同じ学年だし、千代ちゃんと呼んでいいですか。」

 恥ずかしいのか渚は白い肌をほんのり赤くさせた。

「うん。私も渚って呼んでもいいですか?」

「もちろんだよ。あ、敬語使わなくて大丈夫だから。僕は癖ですぐに出ちゃいますけど・・・・・。」

 いつの間にか三分たったらしい。渚はあらかじめお湯で温めておいたティーカップを取ってくると慣れた手つきで注ぎ始めた。爽やかな香りがカップから広がる。

「ハーブティーです。どうぞ。」

 淡い黄緑色のハーブティーが出された。千代はまだハーブティーを飲んだことが無く若干戸惑った。だが、物は試しと口に含んでみた。

「おいしい?」

 ミントのようなツンとした香りが鼻に抜けて少し苦い。不味くは無いが、千代には初めての味だった。

「―薬草みたいな感じがする。」

 率直に意見を述べると渚は目を丸くした。傷つけてしまったかと慌てて言葉を付け加えようとすると、いきなりお腹を抱えて笑い出した。

「え、あの・・・・・。」

「ふふふっ・・・・・あ、すみません。ふふふふっ・・・・・。」

 何がそんなに面白かったのだろうと首を傾げる。

「―千代ちゃんって正直なんですね。」

 渚は笑いを止めようと大きく深呼吸をした。

「普通の人は美味しくなくても美味しいって言うよ。」

「―別に不味くないから。」

「ふふっ、ありがとう。」

 千代は残ったハーブティーを一気に飲み干した。やはり薬草のような苦味があったけれど喉を過ぎれば一瞬だ。カシャンと小さく音をたててティーカップを置く。

「ご馳走様でした。」

「はい。」

 渚は千代の様子を見て満足そうに自分の分のハーブティーをすすった。

 緩い風がリビングを通っていく。クーラーをつけていないのに程よく涼しいのは風通しがいいからだろうか。

「・・・・・。」

 出会って間もなくの他人がそんなに話が続く訳もなく、お互い向かい合って座ったままだった。だが、この空間が少し心地よい気がする。無理に会話しなくてもいいのが千代にとって楽だった。ああ、この感覚―

「さ、僕もご馳走様。」

 渚は二つのティーカップを片づけ始める。千代が携帯で時間を確認すると三時を少し回った頃だった。

「そろそろ私、帰るね。お茶まで本当にありがとう。」

「もう帰るの?」

「うん。そんなに長居しても悪いから。」

 そっか、と残念そうに言うと渚は何かを思いついたらしくキッチンへ走って行った。そして持って来た小さな袋を千代に渡した。

「これは・・・・・?」

「お土産のドライハーブです。さっき飲んだ物と同じ種類の。熱湯に入れるだけだからぜひ飲んでね。」

「もらっちゃって無くならないの?」

 千代がそう聞くと、これを見てと渚がカーテンを勢いよく開けた。

 そこには驚くほどたくさんの植物が育てられていた。プランターの数でも優に十は超えている。多種多様の葉や花、実をつけており立派な家庭菜園だ。

「渡したハーブはここで育てた物だよ。この庭はすべてハーブなんだ。」

「全部?」

 約十畳の広い庭に敷き詰めてある植物が全部ハーブなのか。こんなにも様々な形があるなんて全く知らなかった。

「ちなみにハーブティーにしたのは、手前の草ね。ヒソップと言います。」

 指さす方向にあったのは紫の蕾をつけた植物だった。

「聖なる薬草として聖書にも登場しているのですよ。ヨーロッパ南部からアジア西部が原産で整腸作用があります―って、すみません!」

 渚は口を塞いだ。

「聞いてもいないことをペラペラと・・・・・。」

「すごいな、詳しいね。」

 千代は感嘆の声を上げる。自分に植物学の知識は無い。ただ、素直に渚がすごいと思った。

「やっぱり千代ちゃんは人とは違う気がする。」

「え?」

 それを言うなら渚の方が変わっている。

「変人、とかそういう意味じゃなくて。正直なんだよ、他の人より。」

 千代には意味が分からなかったが、悪い意味では無いのだろう。

「―好きなんだね、ハーブ。」

 好きだからこそ打ち込める。知りたいと思う。もっと理解したいと思う。―貪欲になる。千代にだって一生懸命になれるものがあったはずなのに。今さら、苦い味が口の中に広がった。

「・・・・・好き、だけじゃないよ。」

 渚が小さく呟いたのを確かに聞いた。渚の横顔はどこか寂しげで、触れたら壊れてしまいそうなくらい弱々しかった。

「じゃあ、今日はお世話になりました。」

「僕こそ、お茶に付き合ってくれてありがとう。」

 渚は黒髪を指に巻きつける手を止めた。

「僕、毎日家に居るから。たまには遊びに来て欲しいです。」

「うん。ハーブティーご馳走してね。」

「今度はお菓子も用意していますね。」

 にっこりと渚は微笑んだ。出会ったときの笑顔だ。

「―またね。」

 渚は恥ずかしがりながら手を振った。それに振り返す。

 カバンの中でもらった袋が揺れた。整腸作用があるハーブ。これを飲ませてくれたのはきっと腹痛に苦しむ自分に気を使ってだろう。

 その些細な気遣いに千代は頬を緩めた。

 振り返るとまだ家の前で渚がじっと自分を見ていた。

 今夜はこのハーブティーを飲んで寝よう。久しぶりにいい夢がみられそうだ。











 電車に乗って見慣れた町に千代が戻った頃にはお天道様の機嫌がすっかり悪くなってしまったらしい。重たい灰色の雲が何層にも重なって今にも雨が降り出しそうだった。千代は傘を持っていない。雨が降り出す前に家に帰ろうと小走りになった。

 いいや、違うだろう?

 心が自分に聞いてくる。

 天気に関係なく、お前はここを早く通り過ぎたくて―みんなが走っている姿を見たくなくて―

 高校のグラウンドから、活動している生徒の声が耳に届く。野球部の白球が当たった鋭い金属音、ラグビー部のパスの声掛け。普通の公立校なら一つのグラウンドを様々な部活で使用することはよくある光景だ。

「ナイラン!」

 千代は思わず足を止め、グラウンドを食い入るように見つめた。

 ナイラン!ナイスラン!

 それは陸上部の一種の応援、賞賛で、走り終わった選手に部員のみんなが声をかけるのだった。かつて千代もあそこで声を張っていた。

 ふと一人の視線が自分とぶつかる。たくさんの生徒がひしめく中、たった一人だけがこちらを向いていた。

 白いスポーツウェアを着た、背筋の伸びた少年―舞原、だ。

 ちょうど今から専門とする走高跳をするところだった。助走ラインで二、三度軽く跳んだ後ゆっくりと走り出す。段々、体が前に傾くのに比例してスピードが上がり、土ぼこりと共にグラウンドから足が離れた。体が大きくしなって棒を越える。

 赤いマットに舞原の体が埋もれた。

 高さがあるわけではないけれど基本に忠実に。それが舞原のプレイスタイルだ。一つ一つの動作を丁寧にこなす。その美しさは千代には再現できない、と練習を傍目にして思うのだ。

 再び視線が自分をとらえた。

 舞原がマットから顔を上げて、まるでこっちに来いよと誘っているかのように。あまりにも真っ直ぐぶつかってくるものだから千代はその場から動けなかった。

 舞原はマットから降りた。白いスポーツウェアは土で少し汚れていた。たぶん、自分の元にやって来るのだろう。分かっているのに足が言うことを聞かない。逃げられない。

 走ることを諦めたのに。グラウンドから離れたのに。

 今さら人が陸上をしているのを見て何を思うの。

 荒々しい風が髪を揺らした。

 ―ああ、あの日も風が強かった。



六月の最後の週。鬱陶しい長い梅雨の頃に行われた全国高校近畿予選会。千代はそこに一〇〇mの選手として出場していた。

一年のときからランナーとしての頭角をめきめきと現し、その頃には県の中で深瀬千代の名前を知らない者はいなかった。走るために生まれてきた、その言葉通りの結果だった。だから今回も千代は圧勝で予選を勝ち抜くのだろう。と、部員は思っていたに違いなかった。いや、千代自身もそう思っていた。

―だが、何かがいつもと異なっていた。

自分の物ではないような早い心臓の鼓動。引きずる足。曇る視界。普段ならビンビンと体中を巡っている神経が全く感じられない。胃の辺りで燻って吐き気がする。

白いスタートラインに並んだ。内から二つ目。

なんとか雨を持ちこたえているような天気の中、千代を一目見ようとギャラリーが集まっているのが分かる。今までは気にしたことが無かったのに一人一人の目が自分を貫く。

「―on your mark・・・・・。」

 ピストルが鳴ったことに気づいたのは横に並ぶ選手の背中が前に見えたときだった。

 慌てて後を追うが、差が詰まるどころか広がっていく。前へ進もう進もうとすればするほど体から力が抜ける。

背中に届かない。

届かない。

―私、今までどうやって走っていたの・・・・・。

ワア―とゴール付近から歓声が上がった。先頭がゴールしたのだ。

息ができなくて苦しい。

足が絡まり、あっと思った瞬間、膝から崩れ落ちた。膝小僧と腕に熱い摩擦が走る。

もう立ち上がる体力も気力も無かった。ゴールがずっと先にあるようで一〇〇mがこんなに長いのは初めてだった。

髪を伝った汗が地面にこぼれる。辿り着けられなかった白線の向こうに一位を取った女の子が哀れみを含んだ目で、四つん這いになった自分を見ていた。

大会新記録が出たと騒ぐ観客席の方角から大会の係員が飛び出して来る。自力で立てない千代を医務室に連れて行こうと脇の下に腕を通した。抱えられながらギャラリーの前を過ぎるのは恥辱だった。

でも誰も深瀬千代を見ていなかった。

新しく記録を塗り替えた彼女こそ、ギャラリーの注目の的だったのだ。転倒して走れなくなった元一流選手になんて興味を示さないと言わんばかりに。

 ―怖い。

 走ることってこんなに怖かった―?



「深瀬!」

 舞原の低いけれどよく通る声がすぐそこまで来ていた。

「・・・・・何で、部活辞めたんだよ。」

 言葉が出ない。喉に引っかかって息がもれるだけだ。

 舞原の表情は硬かった。疑問と苛立ちが含まれているのだろう。目を逸らすな、誤魔化すなと。

―カキーン!

 野球部の金属音がグラウンドに鳴り響いた。ボールの芯を捉えた快音。

 その音を合図に体が我に返る。くっついていた足が地面から剝がれた。

 千代は肩に掛けたカバンをギュッと握りしめた。手が震えているのが自分でも分かる。何かに掴まらないと安心できない。

「なあ・・・・・。」

 切れ長の目に千代が映っている。瞳の中の自分は体を縮ませてひどく怯えていた。まるでオオカミに襲われた子羊のように。滑稽だ、と自嘲した。

「ごめん。」

 吐息のように微かな声。

 そして、よろよろと後ずさり、その場から逃げた。

「――深瀬っ!」

 呼び止める舞原を振り切って。

 走った。

 それは一世を風靡した深瀬千代の走りでは無く、仲間を捨て置いて命からがらに逃げる子羊の走りだった。

 角を曲がると自分の限界だった。走ることを止め、荒い呼吸を繰り返す。ほんの十五mも走っていないのに汗でシャツが変色していた。

 舞原は心配してくれているのに。

 戻ってきてほしいと言ってくれているのに。

 本当に・・・・・?おまえのことなんて誰も待ってないぞ・・・・・。

 また心が自分に話しかける。こうやって自問自答しても何の意味もなさないことなど、当の前から知っている。だが、聞かざるを負えないのだ。千代の深く暗い冷たい心が悲鳴を上げるのをなんとか防ぐために。

 この状況で腹痛が来ないのは奇跡だった。昼間に頂いたハーブティーが効果を出しているのだろう。

 ポツリ。と、雨粒が腕に落ちた。

 とうとう雨が降り出したらしい。そう思った頃には激しく地面を叩き始めた。夏空は美しいが時折、牙を向く。自分のように不安定だ。

 階段を上って自分の家に着く。カバンから赤い紐がくくりつけられた鍵を出した。この赤い紐は引退した陸上部の先輩が記念にと、くれた靴紐だった。洗ってあるから心配しないでよ。と、泣いて瞼を腫らした先輩が思い出される。

 みんな千代に期待してるんだから。ここの陸上部は弱小とまでは言わないけど私立には太刀打ちできないし、第一あたしたちだって予選落ち。だけど千代が入部してくれたおかげで有名になった。千代の先輩になれて本当に良かった。

 部活を共にしたのは短い間だった。

 自分は先輩までも裏切ったのか。靴紐をつける資格なんて無い。

「・・・・・ただいま。」

 誰もいない家に向かって言う。

 もちろん帰って来る返事などあるはずも無く、自分が踏みしめたフローリングの軋む音とザァーという雨音だけが静かな空間に響いた。



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