オタク・アカデミー
一
「…わかった!わかったぞ!」
木下が叫んだ。
ここは御剣学園内の図書館。当然周囲から恐ろしいほどの白い目で見られるが、木下には気にならないらしい。
「そうか!萌えか!それが萌えか!!」
ギロッ、ギロギロッ!とさっき以上の視線が集中する。
「こーれーがーもーえーだーーー!萌えは、道徳なんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁl!」
「図書館ですので、お静かに願います」
係の人が現れ、注意をする。
まじめの塊のような、七三分けの木下は、普段であれば注意されただけで自殺するのではないかと思うほどに反省をする。
いやそもそも、普通であれば、叫んだりなどしない。
しかし彼は、
「萌えーーー!」
「お静かに」
「萌えーーー!」
一度スイッチが入ってしまうと、
「いい加減にしないと、外に出て行っていただきますよ!」
「萌えええええええええええ!!」
発狂してしまうタイプなのだ。
「どうしたんだ?木下。急に呼び出したりして」
校内にある中庭。あの後結局追い出されてしまった木下は、小坂と白鷺を呼び出した。
「聞いてください、二人とも。僕にはとうとう、わかったんです!…萌えが」
「なんとぉ!つまりそれは、悟ったということですかぁ!?」
小坂が目を輝かせる。
「まあ、聞いてください。萌えとは、ただの性欲ではないんです!そんなつまらないものじゃないんです!萌えとは、『超越なるもの』への扉のことであり、『超越なるもの』から差しのべられる手のことであり、すなわちそれは究極的に、道徳的なものなんです!」
「…すまん、俺は全然ついていけん」
「小坂も、ちんぷんかんぷんですぅ」
白鷺と小坂はそれぞれ頭を抱える。
しかし木下は待ってましたとばかりに微笑んだ。
「説明しましょう!」
木下はババンッ、と両手を広げ、空を見上げる。
「辞書を引けば分かる通り、「萌」と言う漢字に送り仮名「し」をつければ、「萌し」となります。すなわちそれは、この世界を超越した存在の、あるいはこの世界になにかが存在しているという神秘そのものの兆しなのです。それが本来的な意味なのです」
木下は、満面の笑みで説明を続ける。
「この現世にいる私に、超越なる者が呼びかけます。それが私の前に兆しとして現れ、その声に耳を傾け、この世を離れ、超越世界に同調すること。飛び込み、泳ぐこと。それが、「萌え」の本来的な意味なのです。その超越の現世への現れの一つヲ女性ノ美ノ中ニ見出スコトガデキルノデアリ、ソノ超越性ユエニ現世俗世ヲ離レタ二次ゲンSekaIniΘ@*+@#*………」
「…ちょ!ちょぉっと待ってくださいぃ~!」
興奮しながら難しい単語を並べていく木下を、小坂が制する。
「…え、えぇっとぉ、つまり木下さんがおっしゃりたいことをぉ~整理しますとぉ~」
小坂は手帳を開き、ペンで書きこみながら話をまとめる。
「えぇっと、まずお話の中に出てくるぅ『超越なるもの』というのはぁ~、『神様』ということでしょうかぁ~?」
「厳密に言うと少し違いますが、そう思っていただいても問題ありません」
「…ということはぁ~、萌えとは、単なる性欲ではなくてぇ~、その神様の兆しであるとぉ~。つまり神様とぉ~小坂たちを結ぶ架け橋のようなもの。…そういうことでしょうかぁ~?」
「それです!」
木下が大きくうなずく。
「…でぇ、次になぜ小坂たちはその架け橋をぉ~二次元美少女に求めるのかぁ。ということですがぁ~」
そこで小坂は一度区切り、頭の中を整理する。
「「美しさ」とは、超越の一つの形なのでぇ~、小坂たちは美しいものに神様の兆しを感じますぅ~」
「まさしくそれです!」
「そしてそしてぇ~、この世で最も美しいものといえば、それは女性。なので、女性の美しさの中にぃ~、神様の兆し、すなわち『萌え』を感じでしまうのであり~、それは性欲ではないというぅ~」
「激しくそれです!」
「で、さらにさらにぃ~、…っちょっとぉ待ってくださいねぇ~。…えええっとぉ~、神様は小坂たちとは別世界にいるのでぇ~…」
「はい!二次元もまた一つの別世界。神様が住んでいるのも別世界。その「別世界」という共通点がある分、同じこの世界の現実の女性以上に、二次元美少女の中に神の兆しを発見してしまうんです。そういうことなんです!わかっていただけますか、小坂さん!白鷺くん!」
「…すげえ。木下っ、すげえよ!!」
白鷺はぽかんと口を開け、感じ入っているようだ。
そんな彼を見ながら木下が熱を込めて叫んだ。
「そ!し!て!さあ~、二人とも!ここで『道徳とは何か』をよく考えてみてください」
白鷺が深々とうなずく。
「道徳とはなんですか?それは人間の正しい行いを示すものです。どういうときにどういう行動をすべきか、それを教えてくれるのが道徳です」
木下は一度言葉を区切った。そして小坂と白鷺を見回し、
「「超越なるもの」とは簡単に言えば、小坂さんが言ってくれた通り神様のこと。その神様が差しのべてくれる手。それこそが萌えなのですから、その手を握る行為は人間として善ですか?悪ですか?聞くまでもないでしょう!」
「もちろん、善だ」と白鷺が震えながら言う。
「そう!つまり!萌えを受け取ることは、人間としての正しい行為なんだ!だったらそれは、道徳そのものじゃあないか!!そうだろう!」
木下は言い終わり、目をつぶる。
その姿が、白鷺にとっては、あまりにも神々(こうごう)しい。
まさに神の啓示を受けたような、そんな感動。
白鷺は、泣きながら叫んだ。
「…そうだ!それだよ木下!俺が求めていたものは、まさにそれなんだ!オタクは気持ち悪いと言われる!萌えという言葉を吐けば、世間からは否定される。…でもそうだ、木下!それだ!俺たちの言う萌えは「性欲」なんかじゃあない!超越なんだ!そうだ!」
「白鷺くん!…わ、わかってくれますか!」
木下はすたすたと白鷺に歩み寄り、その手を取る。
「わからないわけがあるか。…お前は、俺が胸の内に秘めながらも、答えを出せずに苦しんでいたものを、見事に言葉にしてくれた…。こんな感動、今までに味わったことがあったか!お前は命の恩人だ!俺は今、心の底からお前を尊敬した」
涙をドバドバ流しながら、白鷺は木下をたたえる。
「いえ、尊敬なんてやめてください。僕らはみな、萌えの前に平等。同志なのですから。一緒に、恥じることなく堂々と、萌えを叫ぼうではありませんか!」
「木下ぁぁぁぁっ!!」
そして肩を組んで、二人は太陽に向かって「萌え」を叫んだ。
そんな彼らを、小坂は一歩下がったところから、冷めた目で見ている。
二
本日の四級対策講座の授業は、英語とオタク倫理。
今はオタク倫理の時間である。
『次の中から、正しい文章を選びなさい。
ア.オタクは世間から否定される。だから、オタクもオタクでない人たちを否定しなければならない。
イ.オタクは世間から否定される。自分を否定する人間と関わる必要なんてないから、オタクは自分の世界にひたればいい。
ウ.オタクは世間から否定される。それでも他人のために施せる優しさを持つのが、正しいオタクの姿である。
エ.オタクは世間から否定される。それはきっと思い過ごしだ。考えすぎだ。気にしなくていい』
「白鷺さん、どれだと思いますか?」
小坂は小声で、白鷺に話しかけた。
「エはさすがにないだろう?アかイだと思うんだが…小坂は?」
「小坂は…」
小坂が答えていいのかわからず迷っていると、先生が黒板に答えを書いた。
『正解は、ウです。目には目を、のアは言語道断。それでは自分も相手と同じになってしまう。やられたら、やり返せばいいというわけではありません。次にエですが、これはあまりに周りが見えていない危険な状態です。もちろん正しい姿ではありません』
先生は、そう言いながら、教室を見渡した。大半の生徒が納得したようなそぶりを見せたのを確認して、話を進める。
『さて、残ったイとウですが、ウが倫理的にすばらしいことは、みなさん納得いただけると思います。しかしなぜイはだめなのでしょうか。イの選択肢でも誰にも迷惑はかけませんし、自分も傷つかない。自分の中に入って、内へ内へと思考していくのも、一つの探究です。しかしなぜそれはオタク倫理において正しくないとされるのでしょうか。…これを考えてくることを、次回までの宿題にしたいと思います』
そして授業は終わる。先生がマイクを置いたのを見て、生徒たちは立ち上がり、教室から去っていく。
新堂優奈は、一人夕方の街中をぶらぶらしている。
なんだかんだで、結局料理もやってない。
なんかもう、何をすればいいのかわからなくて。ただこうしてぶらぶらしている。
「…ふう」
なんとなく立ち止まり、息を吐いてみた。
もう、なんか何もかも、どうでもいい。
『先生』が手に入らないから?
それもあるけど、それはまだ、これからとも思う。
家庭が嫌だ?
それは大きな理由の一つ。
あの男にフラれたのを、意外とひきずってる?
わからない。
まあ、あの男のことを考えれば、間違いなく私は不快になるわけだけど。
…でも、なんかそれだけじゃなくて。
すれ違う、楽しそうに笑いながら歩く世間一般の学生どもを見て、異様に腹が立つ理由の説明には、それだけじゃ足らない気がする。
義憤?世界には苦しんでいる人がいるのに、能天気に生きている奴に腹が立つとか?…あはは、そんなすばらしいものじゃない。
嫉妬?…そうかもね。でもそれだけとも思いたくない。
じゃあ、何?
わからないから、何をしていいのかわからなくてぶらぶらしている。
(今日は……いないか)
この間、小坂さんと来た喫茶店。
中をのぞいてみたが、彼はいなかった。
……。
あの後小坂さんは、
「解決はぁ、難しいかもしれないですけどぉ、話を聞くぐらいならぁいつでも小坂にお任せくださいぃ~」
って言ってくれた。
…まさか、あの子に心の中を見透かされるなんて思わなかった。
わかってくれる人がいてうれしいような。
なんか悔しいような。
あの子に何がわかるの?とかも思うし。
でも実際に見透かされたのは事実だし。
…何より、あの子は、私が悩んでいるのに気付いて、…ほとんど話したこともなかった私のことを気遣ってくれたんだ…。
言動も行動もすごく変で、正直不快な部分が多いけど、
……。わからない。
「あ」
そうしてさらにぶらぶらしていると、またも小坂さんに出くわした。
しかも今日は小坂さん一人ではない。ウチのクラスのオタクトリオそろいぶみである。
「新堂さんではありませんかぁ~、またお会いしましたねぇ~」
小坂さんが気付いて、トテトテトテ、っと寄ってくる。
「こんばんは」
優奈がそう言うと、白鷺と木下も「こんばんは」と返してくる。
「三人そろって、どこかへ行っていたんですか?」
てっきりアニメのお店とかにでも行っていたのだろうと思って優奈はそう言ったのだが、意外な答えが返ってきた。
「予備校ですうぅ~」
「ああ、勉強してきたんだ」
…そうなんだ。
なんとなく木下くんはまだわかるが、まさか小坂さんや白鷺くんからそんな答えが返ってくるとは思わなかった。
そうか。
私が、何をするでもなく街をぶらぶらしていたとき、彼らは将来に向けて頑張っていたのか。
彼らはクラスで浮いている。
だから私も、なんとなく彼らを軽蔑しているところがあった。
というか、馬が合わないと思って敬遠していた。
…でも、
これじゃあ、どっちがダメ人間だかわからない。
いや、わかる。
―――間違いなく、私だ。
「新堂さんは、どうしたんですか?」
木下くんが聞いてくる。
なんて答えよう?
見栄を張って、なんかすごいこと言ってみようか。
なんて答える?
私も予備校に行ってきたのよ。とか?
バカらしい。
彼氏と待ち合わせてるの、とか言ってみる?
は?小坂さんの前で?
あと何があるよ?
社交界でこれからパーティーなの。
(笑)
何その見栄。ただの嫌な奴じゃない。…あのクソ父親と同じ。
……考えれば考えるほど、胸の中に何か穴が広がっていく。
私は、何?
そうだよ、私には何があるの?
あのクソ男にフラれ、
親の愛情もなく、
何の特別な能力もなく、
かといって、こいつらみたいに何かを頑張ってるわけでもない。
……なのに、一人で夕焼け見上げて詩人気取りか。
あはは。滑稽。
「…私は、ぶらぶらしていただけよ」
結局、その答えがまだ一番マシな気がした。
「そうですか。僕らはこれから、ご飯を食べに行くんですが、新堂さんもお暇なら一緒にいかがですか?」
「…そうだな、せっかく会ったんだし。一緒にどうだ?」
「ぜひ行きましょうよぉ~、新堂さん」
彼ら三人は、口々に誘ってくれる。
それを聞いて、私はさらに孤独になる。
私はきっと、逆の立場だったら、こんなに他人に優しくできない。
…ほんともう、なんなんだろう。
ああ、喉の奥が嫌な味で満たされてる感じ。
でもここで引き下がったら、その味の苦さを認めているような気がして。
それだけは意地でも嫌で。
「…ええ、よろこんで」
私はそう返した。
「そうです。志賀直哉にはそういう部分、芥川的なものへの感性というかそういったものが足りなかった、と太宰は批判してるんだと思います」
夕日の話から、太宰治の『斜陽』に話題が流れ、そして木下と小坂が文学についていろいろ語り合っている。
てっきりオタク話が花咲き乱れるとばかり思っていた優奈は、あっけにとられる思いでその会話を聞いている。
……待って。
ねえ、待ってよ。
嫌だ。なんか、知れば知るほど、自分がダメに思えてくる。
クラスでバカにされているこいつらの方が、私よりずっとすごいじゃない。
…ううん。人間だから、良い部分悪い部分あって当たり前。
認めない。
認めたくない。
これ以上、嫌。
「予備校では、今日はどんなことをやったんですか?」
ついていけそうな話題に変える。
どうせたいしたことやってないんでしょ?
わかってる。私にはわかりきったことを、彼らは一生懸命勉強してきたんだ。
そうでしょ?
「えっと、俺と小坂は同じクラスなんだが……」
そう言って、白鷺くんが英語のテキストを取り出した。
「……なに、これ」
白鷺くんから差し出されたテキストの内容は、学校でやってることは全然違う。
長文があって、
文法問題。
「…今日はここをやったんだ。分詞で始まる節を副詞的に使ったものを分詞構文って言うんだが、それにはたくさんの訳し方があって、……」
白鷺くんが説明してくれる。
……。
……全然知らない内容。
ねえ、私はどうしたらいい?
否定されて否定されて、
木下くんと白鷺くんが何かを語り合っている。でももう、私の耳には入ってこない。
……。
もう嫌だよ、助けてよ先生。
顔には出さないように気を付けていたつもりだったけど、気づくと小坂さんが心配そうな顔でこっちを見ている。
「そうですぅ~、良いこと思いつきましたぁ~。新堂さんも、小坂たちと一緒に予備校に通いませんかぁ~?」
「へ?私も?」
「はいぃ~。一日だけ無料体験もできるので、ぜひ~」
「……」
予備校、か。
こいつらと一緒に。
…やっぱり、なんか嫌だって気持ちの方が強いな。
そういえば、どうして私はこいつらと一緒にご飯食べてるんだろう。
クラスで嫌われ者のこの三人と。
そうだ。こいつらは嫌われ者だ。
そうだよ、孤独なんだ。私よりずっと、孤独なんだ。三人だけの世界なんだ。
そうだ。だから私とは、根本的に違う。
「魅力的なお誘いですけど、また今度にするわ。ありがとう」
私は立ち上がる。
いや、立ち上がりかけた私の服の裾を、小坂さんが引っ張った。
「まぁ、そう言わず~。たまには別の空気を吸ってみるのも悪くないですよぉ~?」
……。
こいつ、嫌いだ。
ホントすべてを見透かされているみたいで。嫌いだ。
なんで、こいつに。
そうよ。
こんな休み時間になればアニメ雑誌読んでるだけの、友達だってほとんどいないようなこんなやつに。
何がわかるのよ。
わかるわけがない。
わかってないのに、わかったようなことを言っているだけなんだ。
「確かに、せっかくこうして仲良くなれたことですし」
木下くんがそう言ったとき、私の中の何かが切れた。
いいわよ。
行ってやるわよ。
「では、…無料体験だけ」
今度こそ私は立ち上がる。
自分の食べた分の代金をテーブルの上に置き、私はその場から逃げた。
三
……なんていう劣等感にさいなまれながら来たはずの私だったが、
来た瞬間、なんかもう何が何だかわからなくなったというか。わけがわからなくなったというか。
……え?
「何?…ここ」
「何ってぇ、予備校ですよぉ~」
ビル前の看板には、大きく「オタク・アカデミー」と書かれている。
おたくあかでみい?
「よ、予備校って、勉強するところでしょ?」
「そうですよぉ~?オタク検定に向けて、みんな一生懸命がんばってますぅ」
…オタク、検定?
なんかとてつもなく、踏み込んではいけない世界のようだ。
「予備校」と聞いていたし、英語とかやってるみたいだったし、
てっきり普通の予備校なんだと思っていた。
……帰ろう。
回れ右をしかけた私の腕を、小坂さんがつかむ。
「さあぁー、今日もはりきって、いきますよぉ~?」
そしてぐんぐんと引っ張っていく彼女。
…ちょ、こら。このやろ。放せ!嫌だ!入りたくないぃぃ~。
どうして、こういう時は私の心情読まないのよ!?読まないでいいときに嫌なほど読むくせに!!
天然!?それとも、確信犯!?
……。
とにかく、私はその異様な建物の中に、入らなければならないらしい。
うおう。
外も異様だったが、
中ももうホント……帰りたい。
「小坂、前から二列目に座っている彼は、今日もイカしたファッションだぜ!」
「うおぉぉ~う、さっすが、ですねぇ~」
白鷺くんが指差した先を私も見る。
中年の男性。
ピンクのメイド服を着て、サングラスをかけ、……いや、もう説明するの嫌だ。
帰りたい…。
「しかし、今日は俺も彼に対抗するために、この中に着込んできたんだ!」
そう言って上着を脱ぐ白鷺くん。
…………。
説明しないといけませんか?
この人の服装を、私は紹介しないといけませんか?
「おぉぉ~う、白鷺さん、すっばらしいぃ~ですぅ~」
「だろ?ちょっと二列目の彼と交流してくるぜ!」
「いってらっしゃいませぇ~」
そうして歩いていく、白鷺くん。
変態二人は、会話が弾んでいるようだ。
……帰りたい。
「さぁ、新堂さん。小坂たちはぁ、座りましょうぅ~」
私は、引っ張られるままに、真ん中より少し後ろの席に行き、着席した。
「それではみなさん、きりーつ!」
先生が入ってきてそう叫ぶ。
全員が一斉に立ち上がった。しかし礼をする気配がない。
怪訝に思っていると、いつのまにか全員が手を合わせ、祈り始めている。
教卓の上にあるフィギュアに向かって、手を合わせているらしい。
やがて左の前の方にいたオタクが進み出て、
「またこれからの一週間、どうかわれらをお守りください」
フィギュアの前でひざまずき、透き通るような声でしゃべり出す。
「われらの生は、あなたあってのもの。われらの心はあなたのために。われらの行いは、すべてあなたの加護の下。根源なるあなたよ。どうかこれからもまた、われらに萌えをお与えください」
「「「お与えください」」」
最後に全員が唱和。
……。
もう、ホントどうしよう。
これのどこが予備校なのよ。
それから彼らはまた黙って祈り続ける。
「ほらぁ、新堂さんもぉ」
ぼーっと、その光景を眺めていた私に小坂さんが小声で話しかけてくる。
「……これは、いったいなんなのよ」
「お祈りですぅ。…これからまた一週間、愛ある萌えを恵んでいただけるよう、お祈りしているんですぅ」
「今日は土曜日だからな。毎週土曜日だけ、お祈りと校歌斉唱の時間があるんだ」
白鷺くんが説明してくれる。
…いや、説明されても意味わかんないけどさ。
でもとりあえず、一人だけしないでいるのもあれだから、私も何となく手を合わせた。
一〇分ぐらいそうしていただろうか。やがて先生が、
「萌え―!」
叫んだ。
「「「萌え―!」」」
生徒たちも叫んだ。
「萌え―!」
「「「萌えー!」」」
「萌えー!」
「「「萌えー!」」」
「「「「萌えーーーーーーー!」」」」
……。あは、あはははははは……。
叫んでる。オタクたちが、叫んでる。
……。
「校歌斉唱!」
先生がそう言うと、一人がオルガンの前に座る。
やがて伴奏が始まり、オタクたちは高らかに歌い始めた。
チャンチャンチャンチャンチャンチャチャチャチャッチャ
♪世界じゅう~、のオ~タクーたちーがぁ~、一度に~~、わ~らぁ~ったらぁ~
替え歌かよっ!!
♪空も泣ぁ~くぅ~だろぉ~お~、ラララうーみもー泣くぅ~だぁ~ろおぉ~~
……確かに。
オタクたちが一斉に笑ったら、空も泣くかもな。
♪だけど野ーで泣ーく一輪―のは~な~を、笑顔に~変ーえるため俺に~も、
♪できるこ~とあ~るはぁ~ずさ~~~~!
…あれ?いいこと言ってる?
以下、彼らは歌う。
♪世界中のオタクたちが 一度に泣いたら
空も嘲笑うだろう ラララ海も嘲笑うだろう
たとえどんなにバカにされたって 自分貫き他人を笑わず
これぞオタク魂!
ラララララララララララ ラララララララララ
ラララララララララ ララララララララララララ
世界中のオタクたちが 一度に萌えること
その団結力が オタクの心意気なのさ
萌えと愛と心意気を持て はばたけオタクアカデミー
…キモい。
超キモい。
…でも、なんか。良いこと言ってる。
……。
歌い終わり、着席。授業が始まった。
『みなさん、宿題については、考えてきましたか?』
壇上で、先生が言う。
『もう一度、問題が何だったかから振り返りましょう。
イ. オタクは世間から否定される。自分を否定する人間と関わる必要なんてないから、オタクは自分の世界にひたればいい。
ウ. オタクは世間から否定される。それでも他人のために施せる優しさを持つのが、正しいオタクの姿である。
このうち、イがよくない理由について、でした。
ウができる人間は確かにカッコいいですが、しかし現実離れしている気もしますね。キリスト教の隣人愛みたいな感じです。イはウに比べればカッコ悪いですが、しかし誰にも迷惑をかけない生き方です。そして個人的な快楽を得ることもできる。自分の世界に浸ってゲームをやっているのは楽しいですからね』
うんうん、と白鷺くんがうなずく。
『私がここでしているのはお説教ではありません。あくまで学問として、論理的に考えてイよりウが正しい根拠は何か。…こう考えると、結構難しいんですね。 「イよりウの方が、他人のために行動しているからすばらしい」では答えになっていません。それは「なぜ、他人のために行動する方がすばらしいのか」に答えていないからです。ゲームに浸る快楽よりも、他人へ施せる優しさの方が大切だというのは、そんな根拠はどこにあるのでしょうか』
どう思いますか?と当てられ、小坂さんが立ち上がった。
「そう聞かれると、わかりません。ただ、ウはゲームに浸ってはだめだ、と言っているわけではないと思います。自分自身の快楽を追求しつつも、他人に対する優しさも持て、ということだと思います」
『いいポイントですね。…しかし、極端な例を考えてください。自分の世界に完全に入りきってしまった人間は、他人のことに目は行かないですよね?…白鷺くんは、どうですか?』
「否定されても、否定するな。そういう教えだと受け取りました」
『はい。そういう面もありますが、しかしそれではただのお説教です』
オタク倫理、なんて名前の授業。どんなことをやるのかと身構えていたが、
…なんだ、まともじゃんか。
ようはオタクとしてどうあるべきか。
どういうオタクがいいオタクか。
そういうことを教えてくれるわけでしょ?
オタクでない私には関係ないかもしれないけれど、でもそういったことを考えながら生きるのって、すごく大事なことだと思う。
言っていることは、至極まともだし。
そのあと、先生はなんか、ハンナ・アーレントって哲学者の思想を紹介してた。
私はいまいちよくわからなかったけど、哲学については木下くんが詳しいらしいから、あとで聞いてみようと思う。
倫理の授業を受けながら、うんうんとうなずくオタクたちを見て、
彼らは世間からずれているけれど、
それだけで「キモい」なんて否定するなんて、
否定する側も、人間としてレベル低いんじゃないか。
こんなことを考えるのも、自分の世界が崩れるみたいで嫌だけど、
うん。これ以上壊れたくないけど、
でもこの間の崩壊して穴が開くような崩れ方じゃなくて、
外壁が崩れて、新しい、もっとすばらしい世界が現れるような仕方で、
私はそんなことを考えている。
「ハンナ・アーレントですか」
授業後、木下くんに説明してもらう。
「そうですね…。その文脈だと、『観照的生活』ではなく、『活動的生活』を行うべきだ。と先生はおっしゃりたかったのではないでしょうか」
観照的生活?活動的生活?
…なんじゃそりゃ?
「観照的生活とは、たとえばプラトン・アリストテレスのような従来の哲学というか、科学のような探究の姿勢。対して活動的生活とは、『他人と関わって議論して…、』というようなこと、つまり自分の内面での追求より他人との関わりを大切にする姿勢です」
おおざっぱに言えばですが、と木下くんは言う。
「…言ってることはわかるが、しかし俺には、それでイがダメだというのが、納得できん。どちらも正しいのだから、個人の自由ではないか。その二つがあった中で、どちらを選ぶのか、それは個々人の個性だろう」
白鷺くんは不満そうだ。
「そうですねぇ~、小坂もぉ、難しいですぅ~」
「…確かに、哲学学説じたいの正しさを考えるのは難しいですが、倫理の基本は、「悪いことはするな。良いことをしろ」でしょう?イの選択肢は、悪いことはしていないが良いこともしていない状態。対してウは悪いことをしない上に良いこともしている。そこのちがいなのではないでしょうか」
木下くんがそう言うと、白鷺くんは、「なるほどなー」と、まだ多少不満げではあるがうなずいた。
「新堂さんは、どう思いますか?」
意見を求められても困る。
わからない。
ただ身につまされるのは、さっき木下くんが説明してくれた理論。
他人と関わり議論することの大切さ。
それは私にはないものであり、その点だけで見れば、私はこの三人よりも数段に格下だ。
あ~あ、もう。
どんどんわけがわからなくなる。
…ただ思うのは、
オタクは確かに別世界の住人かもしれない。いろんなものが根本的にずれていて、なかなかかみ合わないかもしれない。
でも、ただそれだけで、彼らを嫌っていいのだろうか。
そんなんでいいのだろうか。
そうは思わない。
いままでそんなこと考えたこともなかった。というか、無関心だったが、でもそれじゃいけないんだろうと、思えてきた。
私は生きるのがつらい。
苦しい。
でもそれは周りのみんなも同じことで。
…このオタクたちだって、ただ否定すればいいわけじゃない。
オタクであることは悪いことじゃない。
話がかみ合わないからって、悪いことじゃない。
それはただ、話がかみ合わないという事実があるだけ。
嫌う理由は、どこにもない。
四
「おい木下、見てみろ今回のミクルちゃんは一味違うぞ!!」
昼休み。白鷺くんが雑誌を広げて叫ぶ。
「ミクルちゃん」とは小学生の女の子が観るような、日曜の朝にやってるアニメの主人公。私も詳しくは知らないけど、魔法少女だとかなんとか。
「…知ってますよ、設定にお風呂掃除が得意、というのが加わったんでしょう?」
「あとぉ、月でもなぜか呼吸できる、って設定も加わったらしいですぅ」
小坂さんも会話に加わる。
…というか、どんな設定だよ。
ちっちっち、と白鷺くんが指を立てて振った。
「それだけじゃあねえぜ、…なんと今回は、変身するんだ!」
「…え?変身なら、前からしてますよ?」
「いいや、そうじゃねえ!これを見ろ!」
そう言って、白鷺くんはバッと雑誌を広げる。
「…な!こ、…これは!?」
木下くんが驚きの声を上げ、
「こ、小坂にも見せてくださいぃ。……ここ、こ、これはぁ!」
固まった二人を見て、白鷺くんは自慢げだ。
「だろう?驚くだろう?…今回はなんと、四段階変身するらしい」
……ク〇ラかよ。…そのあとメタルとかなっちゃうのか!?
とまあ、こんな濃い会話がクラスの一角でなされているのも、うちのクラスでは日常風景。
「…ホントあいつら、…キモいよね」
「ほら見て、あれ」
「ん?」
「やっぱりアニメの話よ。…うわー、なんか雑誌持ち込んでるし。キモー」
「いやー」
「うわー、ホントどっかいってよー、気持ち悪い」
少し離れたところから、そんな彼らを眺めてひそひそ話をするクラスメイト。
言いたいことがあるなら、はっきり本人に言いに行けばいいのに。
優奈なんかはそう思うのだが、普段は無視して、いなくなった瞬間にべちゃくちゃべちゃくちゃ陰口言うような、そんなやつばかり。
自分が傷ついたことないんだろうな。
ちょっとやそっとのことで傷ついたとか言ってるだけで、ホントに苦しんだことはないんだろうな。
一人じゃ何もできないくせに、群れて、強くなった気になって、べちゃくちゃべちゃくちゃ偉そうに言っている。
嫉妬して、悔しがって、そしたら自分が被害者だと思い込んで、群れて軽蔑して、自分が正しいと思い込んで、……ああ、くだらない。
でも今までなら、私もその中にいた。
いや、特に自分からそんなこと言ったりはしないけど、
嫌われて自分が仲間外れにされるのが嫌だったから、話し合わせてにこにこしてた。
でもなんか今日はそれができそうにない。
…なんで、こんな陰でこそこそ言うしかできない能無しどもに、あの三人が侮辱されなければならないのだろう?それが妙に腹立たしく、
だからどうか今日は、私に話を振らないでほしい。
振られなければ、黙っていれば済むんだから。
でもそんなにうまくはいかないもので、
「ねえ、優奈もそう思わない?」
話を振られてしまう。
私は、
「…さあ。私は、別に迷惑かけてないなら個人の自由だって思うから。…そんなに気に入らないなら陰でこそこそ言ってないで、本人に言いに行きなよ」
言ってしまった。
…………。
場が凍りつく。
あ~あ、やってしまった。これで私の居場所はなくなった。
今度は私がいなくなった瞬間、私の悪口が始まるんだ。
…まあ、いいや。
別に自分がオタクになろうなんて絶対思わないけど、
でもここで作り笑顔浮かべて陰口言う仲間やってたら、あそこでオタク倫理とか言ってたオタクどもよりもレベルの低い人間みたいで、
…これ以上自分をつまらないものとは思いたくない。