涙の祈り、静かな平安 ハンナ
エフライムのなだらかな丘陵をわたる朝の風はまだ冷たく、立ちのぼる土と乾草の匂いが、旅立ちの空気を運んでいた。
シロの幕屋へ向かう年ごとの旅立ちの朝。中庭は、荷車に積み込まれる供え物や天幕の軋む音、そして子どもたちの甲高い笑い声で満ちていた。
「ほら、あなたたち。靴紐をしっかり結び直してちょうだい。主の御前へお参りするのですから、だらしない格好をしては恥をかきますよ」
鈴を転がすような、よく通る声で指示を飛ばしているのはペニンナだった。彼女の周りには、仕立ての良い衣服を着た息子たちと娘たちが誇らしげに群がっている。ペニンナは荷の傍らに立つハンナに気づくと、ふっと目を細め、親しげな笑みを浮かべて近づいてきた。
「まあ、ハンナさん。お荷物はそれだけでして? 身軽で羨ましいことですわ。子どもが多いと、着替えを用意するだけでも一苦労ですの。……でも、我が家の大切な血筋を絶やさぬ役目を思えば、この忙しさもありがたい神の恵みですものね」
ハンナは抱えていた麻の包みを胸元で静かに抱き直した。
「……道中、お気をつけて」
「ええ、お互いに。道が険しいですから、お身体を労わってくださいね。一人きりのお体ですもの、何かあっても代わりはいらっしゃらないのですから」
悪意の欠片も見せない柔らかな微笑みが、かえって冷たい針のように胸の奥へ刺さる。ハンナが伏し目がちに立ち尽くしていると、背後から温かな手がその肩に置かれた。
「ハンナ」
夫のエルカナだった。その眼差しには、深く澄んだ情愛と、隠しきれない痛ましさが滲んでいた。
「支度は済んだか。さあ、私のそばを歩きなさい」
「はい、エルカナ様」
シロまでの三十キロに及ぶ山道は、ハンナにとって毎年繰り返される長い試練だった。休憩のたびに、ペニンナは子どもたちを甲斐甲斐しく世話し、母としての充実を無言のうちに見せつける。周囲の召使いたちが向ける視線も、子をなせない正妻への遠慮と哀れみを帯びていた。
シロの丘に到着し、会見の幕屋で捧げ物を終えた後の宴の席。大鍋から立ちのぼる煮込み肉の湯気と葡萄酒の香りが漂う中、エルカナは定められた肉の分け前を配り始めた。
「ペニンナ、これがそなたと子どもたちの分だ」
「まあ、ありがとうございます、旦那様」
そしてエルカナは、もっとも上等な部位を、ためらうことなくハンナの皿へと置いた。誰の目にも明らかな二倍の取り分だった。
「ハンナ。これは、お前のための特別な分だ」
卓を囲む空気にかすかな緊張が走る。ペニンナは口元に薄い笑みを留めたまま、隣の我が子の柔らかな髪を静かに撫でてみせた。言葉はなかったが、その眼差しは雄弁に語っていた――どれほど上等な肉を与えられようと、実りを結ばない器の空しさを。
胸の奥がぎゅっと締まり、息が細くなる。ハンナはうつむいたまま、皿の上の肉に触れることができなかった。
「ハンナ?」
エルカナが身を乗り出し、痛ましげにその手を取った。
「どうして泣くのだ。なぜ食べようとしない。私の愛する人よ、どうしてそうまで心を痛めるのか」
「エルカナ様……」
「私は、あなたにとって十人の息子よりも勝っているではないか。私の愛では足りないというのか」
夫の声はどこまでも温かく、真実だった。けれど、その優しさこそが、彼には決して届かない孤独の深さを浮き彫りにした。夫がどれほど自分を慈しもうとも、家名を継ぐ子を産んでやれない申し訳なさと、誰にも分かち合えない魂の渇きは埋まらない。
「申し訳ありません……」
ハンナは小さく頭を下げると、静かに席を立った。背後で、引き留めようと伸ばしかけたエルカナの手が宙で止まる気配と、どうしてやることもできずに息を呑む重い沈黙を、彼女は背中に感じていた。
宴の場を抜け出し、ハンナは会見の幕屋へと足を速めた。夜の冷たい大気の中、祭壇の煙が白く立ちのぼり、星々の光が空に散らばっている。柱の傍らには、年老いた祭司エリが重々しく腰を下ろしていたが、ハンナの意識はすでにその外側にあった。
幕屋の前で膝を折り、地面に崩れ落ちる。
(万軍の主よ……)
声を出せば、ただの叫びになってしまう。ハンナは歯を食いしばり、震える唇を動かした。喉の奥で息が引き攣り、涙がとめどなく顎を伝って乾いた土に吸い込まれていく。
人間には届かない。夫の深い愛でさえ届かない。だからこそ、すべてを包み隠さず差し出す相手は、この方しかいなかった。ペニンナの微笑みに抉られた傷も、夫の善意の前で感じた途方もない孤独も、拭い去れない自身の無力さも、すべてを絞り出すようにして天へと注ぎ出した。
(どうか、このはしための苦しみをご覧になり、私を思い出してください。もし男の子を授けてくださるなら、私はその子の全生涯を、あなたにお捧げいたします。その頭に剃刀を当てることもいたしません。あの子の命は、すべてあなたのものです……)
唇だけが激しく震え、息が胸を突き上げる。言葉にならない魂のうめきそのものが、祈りとなって夜空に昇っていった。
「おい、そこの人」
不意に、頭上から咎めるような声が落ちてきた。
「いつまで酒に酔いしれているのだ。ここは主の聖所だぞ。早くその酔いを醒ましに行くがよい」
祭司エリだった。震える唇を動かし、声もなく身悶えするハンナの姿を見て、祝宴で度を越して酒を飲んだ者だと決めつけたのだ。
ハンナはゆっくりと顔を上げた。涙で濡れた頬を拭うこともせず、ただ静かに、濁りのない瞳で祭司を見上げた。
「いいえ、我が主よ。私は酔っているのではありません。心に深い苦しみを抱えた女です。葡萄酒も強い酒も飲んではおりません。ただ……主の御前に、私の心を注ぎ出していたのです」
エリは息を呑んだ。
目の前でひざまずく女が何を求めたのか、その祈りの細部を彼は知る由もなかった。家庭の確執も、不妊の嘆きも、彼女の背負う重荷の形を何一つ知りはしない。だが、その瞳に宿る痛切なまでの切実さと、すべてを神に預け終えた者の気迫に打たれ、老いた祭司の声は自然と穏やかなものへと変わっていた。
「……安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの求めたその願いを叶えてくださるように」
「はしためが、あなたのお心に恵みを得られますように」
ハンナは深く頭を垂れた。
立ち上がったとき、胸の奥を塞ぎ続けていた冷たい重圧が、静かにほどけていた。
何一つ、外側の状況は変わっていなかった。
それでも、人の善意も悪意も届かない心の最も深い淵を、ただ独り主だけがすべて知っていてくださる。その静かな確かさが、揺るぎない岩のように彼女の足元を支えていた。
天幕へ戻ると、エルカナは手つかずの卓の前に座ったまま、悲しげに夜の暗がりを見つめていた。ハンナの足音に気づいて顔を上げた夫は、その佇まいの変化に息を呑み、戸惑うように尋ねた。
「ハンナ……もう、よいのか」
ハンナは夫の前に静かに腰を下ろした。冷めかけた肉をひとくち口に運び、目を見張る夫に向かって、穏やかに微笑んだ。
「はい、エルカナ様。お腹が空きました」
長年の痛みがすべて消え去ったわけではない。祈り終えた今も、胸の奥には切ない傷痕が残っている。けれど、その瞳はもう悲しみに押し潰されてはいなかった。夜の風が天幕を静かに吹き抜ける中、彼女の顔には、ただ穏やかな光が宿っていた。




