あなたのおじい様の話をしましょう
誤字を訂正いたしました。
誤字報告、ありがとうございました。
m(_ _)m
少し傾いた陽が草花の一本一本の影を伸ばしている静かな午後だった。
敷布に座る祖母の膝に抱きつくようにして眠る弟の寝顔を見ながら、少年は冷たいお茶を含んでは口の中で転がし、ごっくんと音を立てて飲み込んだ。
少年の年の頃は十を少し越えたばかり。弟はそれより四つか五つ幼い。
日頃はきちんと与えられた肩書に相応しくあろうと弁えている二人が、行儀が悪かろうが口が悪かろうが赤子のように甘えようが、祖母はここではすべてを許容した。
祖母が支配するこの庭だけは現実とは別世界のように二人を解放しているのだ。
分単位で管理されている生活をしている二人は、『いい子』である対価として時間をひねり出させては祖母の元を訪れていた。
この日も突然の訪問だったが、祖母は快く受け入れて三人の時間を過ごしている。
本来であれば二人の両親が担うべき役割かもしれないが、国を預かる立場から公も私も多忙であり、一日のどこかで二人と顔を合わせられたら御の字。
もちろん、世話をする者や身を守る者、学問などを教える者は常に側に控えているが、彼らはやがて導き守るべき臣下であり、二人が温もりや愛情を求める相手とは違う。ここまで素の崩した姿を見せることは終生ないのかもしれない。
二人の祖母である女性は溌溂としていて若々しく、見た目は母親のようにも見えるが、二人の父親の実母であり正真正銘の祖母である。
二人の祖父である先王が在位していた時代にいかんなくその辣腕ぶりを発揮し、国内外にその名を知らぬ者はいないほどの女傑。隠居した今も絶大な影響力を持つ女性だが、仕事ぶり以外での話題提供にも事欠かない人だった。
最たるものはその身分である。
この離宮は王宮の敷地内とはいえ本宮からは離れている上、現王の母が住むにはあまりにも簡素だった。平屋で部屋数も少なく、王族や貴族の邸宅というよりも町中の庶民の少し大きな家と言った方がしっくりくるような造りである。それもそのはずで、元は庭師が拠点にしていた建物を改装して離宮と呼んでいるだけなのである。
ここに女性は一人で住んでいる。
人手が必要な時や体調が優れない時にはすぐに優秀な侍女たちが飛んでくる上、まあまあな頻度で先王が顔を出し、息子たちや大臣たちも「相談したい」だの、「教えてください」だの、「助けてください」だの、入れ代わり立ち代わり訪れるので、真に一人になるのは就寝する夜と庭にいる間くらいではあるが、一人暮らしには変わりない。
この離宮の庭にいる時は、招かれない限り何人も庭に立ち入ることも声をかけてもならない。
女性が離宮に移り住む際、誰でも訪れてよいという代わりにそう結ばれた約束がここにはあった。
先王が「一緒に住む!!!」と駄々をこねたが、仰々しいのはごめんだと一緒に住むどころか会いに来ることにも制限を設けようとしていたので、先王が食い下がって食い下がって、不可侵の領域を作ることで女性が妥協した形だ。
どんなに急いでいても、どんなに困っていても、女性が庭にいる時は入ることも呼びかけることも許されず、用のある者は玄関前にある待機用の長椅子で待つしかないのである。
この離宮は女性自ら選んだ住処である。曰く、平民であるからして、王宮内の秩序を乱すことのない場所と一人で維持できる規模の華美でない建物を探してここを見つけたのである。
そう、三年前、王位が次代に継承されるとともにこの離宮に隠居したこの女性は平民である。
現王の実母、まもなく立太子する孫の祖母、筆頭公爵家の現当主の実姉など、肩書きはたくさんある。氷の眼差しや鋼鉄の意志、ドレスを着た影の狸などという本人非公認の二つ名もある。
それでも、この女性の身分はと問われると、王族でも貴族でもなく、何者でもないのである。
先王の子を四人産んだ国母ではあるが、女性は王妃ではなかった。
正式な結婚も戴冠もしておらず、立場としては公的ではない、いわゆる国王の愛妾であった。
この国では王妃とほぼ同等の職権を持つ側妃という制度もあるが、それは王妃の配下としてはじめて迎えられるものだったため、女性は愛妾のまま表舞台に出ることはついぞなかった。
表に出ていないという建前をしっかり守っていたのに二つ名がついていることでその影響力は推して知るべしではあるが、本人は影に徹してきたつもりである。
それというのも、先王が王妃を迎えなかったからである。
国という大きなものを背負う王の重責は計り知れなく、それを下から支える臣下も重要だが、隣で同じ方向を見ながら共に歩む妻たる妃の存在は国運を左右するほど大きな存在である。
先王はその王妃の座を空位のまま次代に譲った。
そのため、三年前に王位が継承されると『王の愛妾』という肩書きが消滅し、生家から従属爵位も受け継いでいない女性の身分は何もなくなった。
突然そうなったわけではもちろんない。まわりが必死に与えようとした爵位も称号も何一つ受け取らなかったこの女性は、自分の意志でただの『現王の母』という事実を持つ平民となったのだった。
市井に隠居しようとしたので、城中の者が泣いて縋って引き留めたため、落とし所としてこの離宮に隠居したのである。
王妃がいないまま統治した国王は少ないが国史上存在はする。迎える前に王が死去したか、周辺国との間で緊張状態が続いており、結婚政策がいらぬ火種となる恐れがあったため在位中に結婚自体を控えた王もいた。
だが近年は周辺国との関係も概ね良好であり、先王は即位して二十五年もの間善政を敷き、王妃を迎えられない外的要因は存在しなかった。
それなのに王妃が空位だったのにはもちろん理由がある。
在位の短さでもなく政治的な理由でもなく、他でもない先王本人によるやらかしが原因である。
「ジークリンデおばあ様」
お茶を飲み終えた少年が少し改まって、意を決したように女性を呼んだ。
「なにかしら? ヴィリバルト」
今はただのジークリンデとなった女性が、息子である現王とその王妃の第一子の少年に応える。目は伏せたまま、手は膝の上にある弟王子の頭を撫でながら。
昼もだいぶ過ぎた頃、王太子教育で多忙な少年が、まるで重りを飲み込んだかのように身体を引き摺ってこの離宮にやって来た。次男のウルリヒも勉強の時間だったろうが、「兄上が行くなら一緒に行く!」とでも駄々をこねてついてきたのだろう。いつものことである。
少年の様子に気付きながら、女性は「二人とも庭にいらっしゃい」といつものように誘った。
護衛たちは静かに頭を下げ、姿が見えないところまで下がっていった。
女性は丁度淹れていた茶を水筒に入れて氷水で冷やし、午前中に焼いたパンとクッキーを持って三人で庭に出た。
日陰に布を敷いて座ると、陽気な弟が今日あったこと昨日あったこといつかあったことを女性に聞かせ、しゃべり疲れたのか糸の切れた操り人形のように眠りに落ちた。
その間、少年は弟の相槌しか打っていない。行儀悪く茶を飲みながら、何かを思い悩んでは短く息を吐き、また口の中で茶を転がしていた。
女性には少年が何で悩んでいるのか、ほぼ分かっていた。離宮にいるとはいえ、情報は方々から耳に入ってくるのである。
「おばあ様は、どうしておじい様と結婚されなかったのですか?」
「まあ、急にどうしたの?」
なぜ聞かれているかが分かっていて女性はすっとぼけた。誘導してやることもできたが、少年に心の内を言葉にして出させることを優先したのである。
「僕の立太子が正式に決まりました。それで……婚約者も……プレガー伯爵家のエリゼ嬢が候補となり、昨日、お会いしました」
女性の生家の公爵家にも年頃の合う女児はいるが、血が濃くならないために政治的な事情がなければ三代あけるのが慣習であるため除外。
国内の侯爵家には幼子しか女児がおらず、結婚まで十五年は待つことになるためこれも除外。
現在の王妃が隣国の第三王女を迎えているため、今回は外国筋も除外。
そうして決まった王妃候補は伯爵家の令嬢だった。
伯爵家といっても、プレガー家は有能な文官を輩出し続けて国家機関の各所で活躍している忠臣一族である。目立たない裏方に徹しているため陞爵する機会がなく伯爵であるが、エリゼの祖父である前プレガー伯爵は先王の幼馴染であり、女性の筆頭補佐官を長年務めてもいた王家に近しい人物である。
この婚約が正式なものになれば、今までの功績をひっくるめて断れないようにプレガーを侯爵家にする予定である。
だが、まだあくまで候補である。人間同士の相性ばかりは机上でははかれない。どちらかが、もしくはどちらもが耐えられないような相性であるのに添わせる必要はない。選び直せばいいだけなのである。
そのためにこれから交流していくことになるのだが、その初めての交流で、少年は悩みを抱えたようだった。
「ニクラスのお孫さんね。たしかあなたの二つ年下だったかしら」
もちろん、隠居前にしっかり選定にも関わっていたので大事な孫の婚約者候補のことは調べ尽くして知っていた女性だが、そんなことはおくびにも出さずに尋ねた。
「はい、僕の二つ下で十歳のご令嬢です」
少年は女性が演技しているなど露ほども疑わず素直に答えた後、とても小さな声で「僕、怖くなってしまって……」と呟いた。
「怖い?」
「はい。……僕は、父上が母上を大切にするように、できないかもしれません」
俯いてしまった少年の頭頂部の旋毛を見ながら、会話の十手先を読むのに長けている女性は「そうきたか」と笑いそうになった。
まだ先だと思っていた国王という重責が急に現実味を帯び、ましてや結婚するかもしれない相手が眼の前に現れたことで少年が戸惑っているだろうことは想像に難くなかった。
だが、少年はエリゼを大切にできないかもしれないという恐怖がもっとも大きいのだと訴えたのだ。
それは、大切にしたいと思わなければ、けして見つけることも感じることもできないものである。
この国の貴族の子どもは社交の場には参加せず、十五歳で王立学園に入学するまで基本的に領地か王都の邸の中で過ごす。親戚や隣接する領地の子でない限り、子ども同士は面と向かっての交流の機会はなく、精々手紙のやり取りくらいしかしないのである。少年とエリゼもお互いの存在は知っていても、会って言葉を交わしたのは昨日が初めてであった。
その初めて会ったエリゼに対して、少年は自分で気付いてはいないだろうが、『大切にしたい』という思いを抱いたのだ。
ああ、いい子に育ったな。
率直に女性は孫の成長を喜んだ。
女性の四人の息子たちは親を反面教師にし過ぎた感が強く、伴侶をまるで壊れ物のように囲い込むか、逆に誰とも確かな関係を築かないかの両極端である。親として、また原因の一端として長年頭を悩ませてきたのだが、どうやら孫は健全に育って健全に初恋の芽をふくらませたようだと思うと、女性の頬が思わず緩んでハッとして気を引き締めた。「可愛いわねぇ」なんて微笑んでいるのを少年に見られようものなら、やっと話し出したというのにこれ以上何も話してくれなくなるだろう。散々息子たちで犯してきた失敗である。
幸い、少年は俯いたままで女性を見ていなかったので、女性は何事もなかったように話を続けた。
「それは、私たちが正式な結婚をしなかったことに関係がありそうね? どうしてそう思ったのか、途切れ途切れでもいいから最初から話してみて?」
少年は自分の中の気持ちにゆっくりと言葉をつけながら、話し始めた。
「おばあ様は、おじい様と結婚することをおじい様ご本人からも城中……国中、なんなら外国から望まれても結婚しなかったのですよね。前からそれはどうしてなんだろうかと思うことがあって。だって、おじい様は本当におばあ様が大好きで大好きで会う度に『愛している』って抱き着こうとしているくらいなのに、お二人が結婚しなかったのは、おじい様が結婚式をやめると言いだしたからだと聞いて、信じられなくて。大好きな人との結婚式なのになんで? ……って」
この国では簡素であれ豪華であれ、神殿で結婚式を挙げることで正式な夫婦となる慣習がある。貴族は出生と死亡、結婚と離婚を王宮に報告する義務があり管理されているので届出も必須ではあるが、いくら届出をしても式をしなければ正式な夫婦とは世間からは認められないのである。
ちなみに離婚の際は、片方が逃げてしまう場合もあるため式まで求められていないが、神殿では離婚式も時折行われている。
女性が先王の王妃ではないのは、結婚式が中止となったからにほかならない。
そして中止の発端が先王の発言であることは事実だった。
「そのことをおじい様本人やあなたのお父様に『どうして?』って聞いたことはある?」
「あるけれど……。おじい様は『俺が悪かったんだー!!』って泣きわめいて走って逃げちゃうんだよ。父上は『本人たちから聞くのが一番誤解がない』って話してくれないし。叔父上たちにも聞いたけど『触らぬ神に祟りなし』とか『別にどうでもよくね?』とか『巻き込むな』とか、全然頼りにならなかったよ。僕が聞きたかったのは、おじい様がおばあ様との結婚式を中止するって言ったのが本当なら、どうしてか理由を聞きたかったんだ。それに、結婚をやめたのにおばあ様を愛妾として側に置いたのもどうしてか、考えても考えても分からなくて」
どうして結婚式が中止になって私が王妃から愛妾になったのか、その理由を孫に聞かれて泣いて逃げるなんて……ハンッ! 孫に軽蔑の目で見られたくなかったんでしょうけれど、軟弱者ね。
大方、息子たちか私から聞くだろうし、聞かなくても皆が知っているから誰かが言うとでも思ったんでしょうけれど、……ハンッ!!
女性は二回鼻で笑いながら、少年に「そんなくだらないことで!?」と言われるのを覚悟の上で事実を包み隠さず話す腹を決めた。
少年は俯いたまま更に震える声で言葉を絞り出した。
「昨日、エリゼ嬢と会った時、焼き上げたレンガ色の髪の毛と、空と森が混ざったような目の色が本当に綺麗だと思ったんだ」
「でも、浮かんだ言葉は『泥色の髪』とか『沼色の目』とかで、そんなこと思ってもいないのに、慌てて口を噤んだから変な空気になっちゃって」
「父上は、結婚が決まってから初めて会った母上をとても大切にしているのに」
「僕はエリゼ嬢を大切にできないかもしれない」
「……僕もおじい様みたく、結婚はしないのに側には縛り付けるようなやらかす王になってしまうかもしれない。そんなの、エリゼ嬢が幸せなはずない。……それがとても怖いんだ」
女性は少年の言葉を笑うことはしなかった。
どんなにまわりが守っていても、下世話な話は耳に届いてしまうのだろう。『王に結婚してもらえなかった女』、『仕事ができるから便利な道具として側に置いてもらっているだけ』と、女性に対する嘲笑ややっかみは一部の者に根深くあり、そういう目で見てくる者は潰しても潰しても涌いて出てきたことを女性は思い出していた。
本人たちの事情や気持ちなど知りもせず想像すらせず、面白おかしく噂するだけの取るに足らない者たちだけれども、その声の大きさは侮ってはならない。
結婚してもらえなかったことはある意味本当だけれども、王の側に置いてもらっているだけ、は全く違った。女性は自分から王の側にいることを望んで実行してきただけである。
だがきっと、反論してもそういう話をする者たちの耳には届かないことも女性はよく知っていた。
「ヴィリバルト・ルカーシュ・レーデラー」
フルネームで呼ばれた少年は息をのんで顔を上げた。
「あなたのおじい様の話をしましょう」
女性は少年の目を静かに見ていた。
「色々聞こえてきているかもしれないけれど、本人たちから聞くのが一番誤解がないという陛下の言葉に同意します。……なぜ、私たちが結婚しなかったのか。そしてこれからもなぜ結婚しないのか、話しましょう」
「……はい、おばあ様」
少年は足をそろえ、女性の言葉を一言も逃すまいと姿勢を正した。
「私はシュリケ公爵家の第一子として生まれ、ほどなくして半年先にお生まれになっていたアリベルト第一王子との婚約が結ばれました」
女性の生家は押しも押されもせぬ公爵家で、当時の王妃と公爵夫人が同じ歳の子を産むと分かった時から、異性であれば婚約することが決まっていた。王子と女児であれば、女児は王妃となるべく育てられることになり、王女と男児であれば、男児は女王として立つかもしれない王女の王配として、もしくは降嫁先の公爵家当主となるべく育てられる準備が進められることになった。
そして無事に世継ぎとなる第一王子が生まれ、その約半年後に公爵家に女児が生まれ、二人は婚約したのだった。
そう、ジークリンデは王妃となるべく育てられた、先王アリベルトの正式な婚約者であった。
「最初に言っておきますが、私とアリベルト様は政略で結ばれた婚約でしたが、人生を共にする覚悟を持ってお互いに向き合い、幸いなことに愛情を育むことができました」
少年は耳を疑い、自然に疑問が口をついて出た。
「お互いに……? おばあ様もおじい様のこと愛されているのですか?」
「そうは見えないかしら?」
「いえ、あの、とても大切にされているとは思います。でも、ならなぜ……」
結婚しなかったのかと、少年は言葉を呑み込んだ。それをこれから話してくれるのだ。
「アリベルト様がそう望んだからです」
「おじい様が……本当に結婚を嫌がったのですか?」
「正しくは、『結婚式、ヤダなぁ』と結婚式の十日前に言いました」
少年は「十日、前」と呟いて固まった。
当時は王太子だった祖父との結婚式は、ただ単に神殿で誓いを立てるだけではなく国賓も招いて次代の国王夫婦だと披露する目的もあったはずである。
すでに加速している馬車に乗っているのに、「あ、降りるわ」みたいなノリでやめられるものではけしてない。嫌だと言われたからといって、「じゃあやめよっか」とは返せるはずもない。返せるはずもないのだが、祖父と祖母が結婚式を挙げていないことは事実として揺るがず、少年はゾッとした。
女性は少年が当時の混乱を想像して身震いしている姿を見て、十二歳でもこれがとんでもないことだと分かるのに、当時二十歳の、しかも高度な教育を受けて民たちを導く立場の王太子が分からなかったことに改めて落胆した。
「婚約しているのに結婚式をしない、ということがどういうことか分かりますか?」
「破談、になると思います」
「そうですね。結婚式をしたくない、それはつまり正式な妻にしたくないということです。……私たちはお互いに尊重しながら関係を育んできました。私は、アリベルト様と結婚することが覆ることなど考えたこともなく、民たちの先頭に立ち、重かろうが苦しかろうが、国という生き物の首に縄をつけて引っ張っていかねばならぬのを、持てる力で支える覚悟……というよりも、そういう生き方しか考えたことがありませんでした」
「おじい様は、どうして……」
「それに答える前に、ヴィリバルト、あなたから見た先王はどんな為人ですか?」
為人、と言われて少年が考え込んだ。
まず最初に浮かんできた姿は、祖母の姿を見つける度に「ジークリンデェェェェェ!!」と駆け寄って抱き着こうとして真顔の祖母に躱されている姿だった。
ちなみにこの姿は王宮の中だけではなくどこに行っても誰の前でもそうなので、少年だけではなく国民の、なんなら外国人でも先王と聞いて最初に思い浮かんでしまう姿である。
「おばあ様に片思いしていると思っていました」
率直に答えた少年に、女性は今度は隠すことなく笑みを漏らした。言い方が可愛かったのだ。
「おじい様は豪快なのに、執政は丁寧で保守的でもありました。自国の優先順位をけして下げることなく外交する姿はとても頼もしく皆が思っていたかと思います」
女性は少年の口から『丁寧』と『頼もしく』という言葉が出たことにことのほか満足した。それこそ、女性が先王に望み求め裏切られ続けてきたことだからである。
「私は今、自分が貫き通したことが間違っていなかったことを実感しています。ありがとう、ヴィリバルト」
急にお礼を言われた少年は少々困惑しながらも女性の話も続きを待った。
「あなたのおじい様はね、豪快はそのとおりなのだけど、軽薄で迂闊、考えなしで思い付きで何を言い出すのか分からず、いつもその言動にヒヤヒヤして頼もしいなんて思ったことはありませんでした。いつも何かをやらかして、私や側近たちが頭を抱えながら尻拭いをして回り、アリベルト様に説教しても『細かいな』って全く響かなくて」
少年が「え」と固まったのを見て、女性は「今の姿からは想像できない?」と苦笑いした。
「でも……憎たらしいことに憎めない人なの。あの人を慕って有能な人たちも集まって、まわりにはいつも笑顔と問題が絶えなかったわ。仕方のない人ね、って思っていた時期もあったのよ。……でもね、あの人はやらかしたの」
「結婚式を嫌がった……のですね」
「違うわよ」
「え」
少年がまた固まった顔が可笑しくて、女性は声を上げて笑った。
「結婚式の前年に重要な国際会議がこの国であって、会議中はたいしたやらかしはしなかったのに、会議後の会食で大使たちと酒を飲んで、……飲んで、飲んで、気を良くしてまた飲んで、賭け事をして、負けたの。……何を賭けたと思う?」
少年は怖くて答えられなかった。女性は笑っていた顔のままなのに、当時を思い出しているのか目の奥が冷え込んでいるのが見えたからだ。
「あの人はね、会議でようやく落とし所が決まった国同士の関税率を『これに負けたらうちは関税取らない!!』って賭けたの。この国の王族で、次期国王が、言葉に出して、そう言って、カードゲームに負けたのよ。……この会議のために、文官たちがどれほど準備してきたかとか、関税を設けなければ自国の産業がどうなるかとか、なあんにも考えずに、言ってしまったのよ。言ったことは取り返せません。そして正式な場で決まったことを酒の場でひっくり返してしまうような人が、信用されるはずもありません」
想定以上のやらかしに少年の喉が上下し、カラカラになった喉で「どうやって収めたのですか?」と尋ねた。
「収まりませんでした。最終的には父王たる陛下が非公式ですが各国に謝罪なさって、その時の議題であり開戦の発端ともなり得た関税については会議で決まった関税率を履行することが確認されました」
「ひいおじい様が……」
王が謝罪するなど余程のことである。多くの民の命を預かる王は間違えてはならない。すべての民が満足する施策など不可能であり、どの道を進むのか、救われる民と置き去りにされる民のすべてを飲み込んで、揺るがずに己の決めた道を進むのである。
その王に謝罪させてしまった祖父のやらかしに、少年は呆然とした。しかもこれで終わりではなく、結婚式の話へと続いていくのだ。
少年は話を受け止められるだろうかと心配になった。
「アリベルト様は謹慎となり、厳しい再教育を受けられました。ここまでの失策をしておきながら命を保つだけではなく王太子のままだったのは、アリベルト様に弟妹がいなかったこともありますが、なにより民たちから愛されていたからに他なりません。それから、筆頭公爵家の私との結婚式が一年を切っていたからというのもあります。それはもう反省なさっている姿を見て、私も側近たちも、当時の国王陛下も妃殿下も胸をなで下ろしていた、結婚式の十日前のことでした」
国益を損なわせた大罪として廃嫡の上命をもって償わせるべきだという声が当然上がったが、次の王太子を誰にするかで国内が混乱するのが目に見えていたことと、国に尽くしてきた女性と公爵家の嘆願があったことで、やらかした本人には海よりも深く反省をすることを条件に身分が保留されたのだった。
自分が全てを失うだけではなく、民たちの生活に悪影響を及ぼすところだったとようやく思い知った先王は、中身が入れ替わったかと周囲に疑われるほど落ち着き、公務に勤しんだ。
そして時は流れ、王太子夫妻の結婚式のために国賓たちが続々と王宮に到着し、国際会議での軽率なやらかしが嘘のように隙なく各国の重鎮と言葉を交わす姿を見て、誰もが安心していたというのに。
アリベルト・レーデラーはまたやらかした。
「各国の接待も終わり、残っていた公務にとりかかろうとしたのでしょうね。アリベルト様は側近たちと執務室にいらっしゃいました。私はアリベルト様に確認したいことがあってノックしようとした時、アリベルト様の『結婚式、ヤダなぁ』という言葉が聞こえてきたのです」
「……どういう話の流れでおじい様はおっしゃったのでしょうか……」
「そんなことどうでもよろしいのですよ」
女性がぴしゃりと言い切ると、少年は「ひょっ!」と変な音を立てて息を吸って黙った。
「公の場でなかったなら許されますか? 招待客が多く滞在している王宮内で不用意に言葉を声に出すということが、どういうことか分かりますか? 私たちにはほとんど『私』はありません。たとえ私室で一人でいようとも、発した言葉は公に出ていくものと心得るべきです」
凜とした女性の声に、少年は「はい、おばあ様」としか言えなかった。
空気がピリッとした後、女性が長く息を吐いて笑った。
その笑顔が少年には泣き出しそうな顔に見えて、目を見張ってしまった。
「これからあなたも経験することですが、王族の結婚式はやることも多いしよく分からない古くからの決まりも多い。とても複雑な儀式でもあります。アリベルト様が反省して軽薄さが形を潜めて慎重になったのは本当でしょう。けれども、迂闊さは健在でした。疲れた、面倒くさいとたとえ思っていても、式を挙げたくないと新郎である王太子が言葉に出す影響など思いも至らず、気心の知れた側近たちにポロッと言った言葉だとしても責任が生じます。……確かに、私には聞かなかったことにするという道もありました。もしくはその場だけのことにして釘を刺すだけに留めることもできたでしょう。でもね、……私を妻にしたくないということ? とか、愛し合っていると思っていたのにどうして? とか、そういう思いよりも、この人はこの迂闊さで、遠くない未来にまたこの国を危機に晒すかもしれない……そう思ったら、もう許してはならないと思いました」
女性は夢の中にいる弟の頭を優しく撫でながら、笑顔を引っ込めた。
「僭越ながら、私は王太子殿下のそのお望みを叶えることにしました」
「望みを……を叶える……」
「ええ、全力で」
「十日前で、国賓も到着しているのに、どうやって……」
「どうもこうも、中止にしますと言うしかないでしょう」
「おじい様は……中止にするつもりで言ったのではないのでは?」
「なんだかごちゃごちゃ言って私が中止の手配をしたものを復帰させようと回っていましたが、事務能力も交渉能力も私の方が上です」
二つ名は伊達ではなかった。
女性が王妃教育の一環で公務に携わるようになってから、この国の内政は更に安定し、外交でも負けたことはなかった。強硬姿勢は反感を呼ぶだけだが、女性は譲れないものは譲らず、譲れるところは譲り、折り合いがつかないものは落とし所を探るバランス感覚に優れていた。のらりくらりと譲歩したように見えても自国の優位に進めていく手腕から『狸』と呼ばれるようになっていったのである。
少年は首を傾げた。はい、中止です、で済むはずがない。こんな醜聞、今度こそ命をもって償うことになるだろうが、現に祖父は王になり父が生まれ、そして自分が生まれている。どう収めたら今この未来になれたのか、少年は想像もできないでいた。
「結婚式を嫌がられ、私はアリベルト様の正式な妻にはなれませんでした。ですが私はこの国を導き礎となれと作られた者。他の生き方もできませんので、諸々ありましたがアリベルト様の愛妾になり表には出ない補佐官の一人として執務をすることになりました」
諸々でまとめないでください。
少年は突っ込みたかったが、言えなかった。かろうじて「いや、あの、結婚式は無事に中止にできたのですか、おばあ様……」とだけ力なく聞いた。
女性は「ええ」にっこりと笑った。少年の背筋が凍った。目の奥に闇が見たからである。
「春先に国内各地の産業品を持ち寄った王前品評会があるでしょう? それにあわせて王都では産業祭が一週間間催されるわ。この祭が何年前から始まったか知っていますか?」
「は? え、ええ、と、そうですね。三年前、僕が九歳の時に三十周年だったと。そもそも一年を通してこの国で一番大きな祭なのにその時は更に盛大に……行われ……」
突然の話題転換に戸惑いながらも少年は記憶を引っ張り出し、口を噤んだ。
三年前に三十周年。
三十三年前。
それは、祖母が祖父と結婚式をするはずだった年である。
「まさか……お祭りにしてしまったのですか……? 結婚式を?」
「ええ。もう集まっていた招待客を中止だからと手ぶらで帰すわけにはいきません。いくらお祝いにいただいた品々に色を付けて返したからといっても、来ていただいた労力もあります。国内外から結婚式のために逸品が揃っていたのですもの。ここで披露する予定だった新しい技術もあったわ。取引は上々。あんなに負けたのは後にも先にもあの時だけです。とても盛り上がり、皆様には少々苦笑いされましたが概ね気分よく帰っていただきました」
それらはすべて王太子夫妻の結婚式を祝うために合わせて集められたり開発されたりしたのだろうにと、少年は当時の関係者の阿鼻叫喚を慮った。
当時を思い出してカラカラと笑う女性の目がより暗闇を帯びていくのを見て、少年は自分の小さな不安からこんな質問しなきゃ良かったと奥歯を噛み締めた。
恋も男女のいざこざもこれからの年若さではあるが、女性が今も傷を抱えていることを敏感に感じ取ったのだ。
話を聞き続けていいか迷いを見せた少年の心の内なぞ手に取るように分かっていながら、事実は事実であると、女性は続けた。
「アリベルト様はご自身が戴冠される際に再度結婚式をしようとなさったけれど、私は承諾しませんでした。また準備をする熱量はなかったし、花嫁衣装はバラして売ってしまったし。それよりも愛妾になってからあまり間を開けずに出産が続いて、アリベルト様の戴冠が決まった時には三人目がお腹にいましたし。『王妃のいない王なんて』とアリベルト様がおっしゃるから、国内の令嬢から王妃候補をあげたら黙りましたけれど」
「え、他の女性と結婚させようとしたのですか?」
「ええ、そうしたら私は側妃になって王妃の代理ができるようになります。愛妾や補佐官よりは仕事がしやすくなったでしょうね。選りすぐりの令嬢たちだったのに、アリベルト様は頑なに誰も選ばなくて。後ろ盾であった公爵家の父も王妃を迎えるのは賛成でしたのに」
それは……と少年は息をのんだ。
もしも勧められるがままに王妃を迎えていたならば、公爵家は「うちの娘よりもそちらを選んだのでしょう?」と王家から距離を取ったに違いない。筆頭公爵家が離れれば、連なる家門も離れていく。王家の求心力は一気に低下しただろう。
それに加えて、あれほど『ジークリンデェェェェェ』と追いかけ回すほど好きな女性から別の女性との結婚を勧められるなんて、祖父が憐れすぎると少年は一瞬思ったが、そもそも自業自得だったと思い直した。
被害者は祖父ではない。目の前の祖母だ。
公爵家の曽祖父もそれが分かっていて祖母の気の済むようにさせていたのかもしれない。痛烈な嫌みを込めて。
少年はのんだ息をゆっくりと吐いた。
「……怒っていらっしゃる? それとも、呆れていらっしゃる?」
気遣うような問いに、女性は少年が本当にいい子に育っていることに感心した。そしてどうかこのままいい男になって、いい夫になって、いい父親になって、いい国王になって欲しいと願った。
「色々言いましたがね、ヴィリバルト。私があなたのおじい様と結婚せず王妃にならなかったのは、こんなことを言うとあなたに呆れられてしまうかもしれませんが、本音で言うと、怒りとか呆れとかではなく……拗ねているからです」
拗ねている。
国内外から影狸と呼ばれ警戒されるほどの祖母が。
「スネテイラッシャル?」
「急に言語が不自由になったわね。そうよ、私はずっと拗ねているのです。怒りも呆れもありました。なぜなの? という落胆も。それらは無くなりはしないけれど今となってはもう静かね。……ただ、私は拗ねているのです。それがあなたの問いに対する答えです」
おばあ様は、どうしておじい様と結婚されなかったのですか?
その問いの答えが『拗ねているから』。
少年は考えた。「ソウなんですね」と返すと話が終わってしまう。女性は何に拗ねていて、どうすればいいのか、どうしてほしいのかを聞いてみたいと思った。
その思考すら正確に読み取って、女性はまた頬を緩ませた。
「優しい子ね。人生の大半を拗ね続けてきてしまったからどうすればいいかなんてとっくに分からなくなってしまったの。……でもね、何に拗ねているのかは言えるわよ。聞きたい?」
受け止められるだろうかという戸惑いはあったが、少年は女性が真摯に自分と向き合って腹の内を晒してくれていることを理解していた。こんな機会は最後かもしれないと、女性の目を見ながらゆっくりと頷き、続きを待った。
「三つあります」
右頬を打たれ左頬を打たれ最後に顎を突き上げられるということかと、少年は覚悟した。
「一つ目は、あの人は『俺が悪かった』って散々言ってますが、私には謝ってませんから。『悪かった』からなんなのでしょう。その先の『ごめんなさい』は脳内で自己再生してくださいってこと? ハンッ! 結局のところ、私の存在を軽んじているのです。これが一つ目」
謝っていない。これだけのことを引き起こしておいて、当の本人に謝っていない。
そんなことあるのだろうかと少年は一瞬疑ったが、自分に非があり謝る時は時と場所と人を選べと自分自身教育されており、あり得るかもしれないと思い直した。しかも、きっと祖父は謝っていないことに気が付いていない。むしろ、謝っても許してもらえていないと思っていやしないだろうかと、とっくにべっとりと濡れている少年の背中にまた冷たいものが流れた。
「二つ目は、それまでどれだけ……慎重に丁寧に自分の言動を選ぶように進言していたことか。それでもあの人には届かなかった。やらかしてはじめて気付いた顔をして……、ハンッ! 私の言葉など軽んじているのでしょうね。これが二つ目」
物心ついてから共に学んで歩んできて、女性は先王の性質を知り抜いていた。軽薄さが滲む度、迂闊さが顔を出す度にフォローして戒めてきたのである。だが、それは届かなかった。
「三つ目は、この国を、民を危険に晒したくせに、何もなかったように善き王の顔をしていること。……どれだけ、私たちが苦労してフォローしてきたのか……見えていても気にはしていないのよね。臣下は馬車馬のように働いて当然……ハァ……私たちの献身を当たり前と軽んじているのだわ。これが三つ目」
ため息交じりに苦笑しながら女性は言い捨て、少し息を整えた。
「私はね、アリベルト様が『やらかした結果』です。今となっては皆があの人を褒め称えますが、王妃でない私が目の前にいる限り、あの人は自分の言動がどのような影響と責任を伴ったのか、けして忘れないでしょう? 私という存在は結果であり戒めでもあります。だから、私はこれからもアリベルト様と結婚しないのです」
王の座から降りたとはいえ、先王の影響力は国内外でまだ健在である。次にやらかすと、尻拭いするのは息子である現王となる。息子に頭を下げさせるなど、そんなことさせるわけにはいかない。
言い終わった女性の瞳がほんの少しだけ揺れたのを、少年は見逃さなかった。
女性は泣いてはいない。だが、泣かないからといって悲しくないわけでも痛くないわけでもつらくないわけでもない。
少年はまだ少年ではあるが、高度な教育を受け国を背負う覚悟を持てるように育てられている。大人に囲まれているからか、早熟でもあり、感情の機微には敏かった。
「おばあ様が、その……、おじい様を愛しておられるとは思っていなくて。だからおじい様がおばあ様を一方的に縛り付けてしまっていると思ったのですが……お話を伺って腑に落ちました」
女性は「そう? くだらないと言われるかと思ったのだけれども」と目を伏せて、もういいだろうと話を切り上げようとした時、少年が女性の目を見て、平坦に、ただの事実を確認するように言った。
「おばあ様はおじい様を守っていらしたのですね。ずっと、持てる力のすべてを使って。おじい様は、おばあ様を愛していて手放せなくて、自分を戒め、王という存在を支えてくれていることは重々分かっていても、一人の男としておばあ様に人生を懸けて愛され守られ続けていることに、変に鈍感で気付いてはいない」
女性の顔から表情が抜け落ちた。
少年は内心震えながら、いや、実際に手も震えてしまっていたが、女性が言わなかった四つ目を言葉にした。それが、女性の苦しみを少しでも和らげることになると思ったからである。
「おばあ様は国を守り民を守り、なによりもおじい様を守っているのに、それに気付いていないことに……一番拗ねていらっしゃるのでしょう?」
ザアッと風が抜けていった。
見つめ合ったまま無言になった二人の髪の毛を四方八方に弄び、ムニャムニャと一人幸せな世界で眠る弟の髪も撫でていった。
無表情で女性は混乱していた。
自分がアリベルトを愛していることなんて周囲には丸わかりのことではないの? いや、確かにヴィリバルトは「え、そうなの?」って初めて聞いたみたいな顔をして「片思い」とも言っていたわね。
え、では皆私がどうして王妃になるために育てられたのに愛妾となってもアリベルトの側にいることを望んだと思っているの? 喉元過ぎればあの人はまたやらかすかもしれない。そうすれば、次はない。あの人の首が落ちるところなど、私は見たくない。そのために、私は。
そしてふと女性は気付いてしまった。
先王には口を酸っぱくして『言動に注意し、思い付きではない丁寧な執政を心がけて欲しい。何を言い出すのか、何をやり出すのか分からないヒヤヒヤハラハラはいらないのですよ。そこにいるだけでも安心できる王であってください』とは言ってきた。その甲斐もあってか二十五年間、たいしたやらかしはなく国は安定した。だが、愛妾になってまで側にいる理由を面と向かってはっきり告げたことがあっただろうか。
女性の中に焦りが生まれた。
どんなに頭の中を検索しても、ちっとも、ほんの欠片もそんな記憶はなかったのである。
二人で過ごしている時でさえ、愛している、と言葉に出したこともなかった。
「キヅイテイナイ……」
「タブン」
片言同士で確かめ合った後、女性は頭を振った。過去、どんな難題の前でもこんなに混乱したことはなかった。
「確かに、きちんと一から十までを話したことはありませんが……どう考えても私がアリベルト様にベタ惚れなのは分かるでしょうに。……私が義務と罰だけで側にいると思っていた? それで愛してもいない男の子どもを四人も産んだと三十三年もずっと思っているというの? 私は自覚無く、……そのことに一番拗ねていると? ヴィリバルト」
「タブン」
「それはもういいから」
少年が「ひょっ!」と肩をすくめて俯いた。しばらくするとその肩が小刻みに震えだした。
「笑うとはいい度胸だこと」
少年は笑いを抑えきれずに謝った。
「真剣な話なのにごめんなさい、おばあ様。おばあ様はいつも言葉が的確で余計なことも足りないこともないのに……自分のことになるとおじい様と同じくらいポンコツだなって思ったら、なんだか可笑しくて……」
「私……ポンコツなどと言われたのは生まれて初めてよ……本当にいい度胸だこと」
「おじい様は肝心な『ごめんなさい』を言ってなくて、おばあ様も『愛している』と言っていなくて……似たもの夫婦……ふふふ」
どこが似ているというのかと女性が納得いかずにいると、「へっくちっ!!」と弟がくしゃみをして、「ぼく寝てた!?」とガバッと起きた。
弟は二人を見て微妙な空気を感じ取ったのか取っていないのか、「兄上楽しそう? おばあ様は……なんか悔しそう?」と言った。
少年は声を上げて笑い、女性は苦虫を噛み潰したような顔をした後、肩の力を抜いて笑った。
思春期に入り、思っていることと口から出そうになる言葉の乖離に恐ろしくなって、自分は父のように伴侶を大切にできないかもしれないと、祖父のように義務で愛する人を縛りつけてしまうかもしれないと、そう悩んで少年はここに来たはずなのに、その顔はもう迷っていなかった。
三十三年、いやそれ以上の長い間すれ違っているぶっ飛んだ話に比べたら、少年の悩みなどちっぽけすぎて解決したも同然だった。
「おばあ様、お話をありがとうございました。僕、エリゼ嬢に自分の気持ちを隠さないで話します。これからずっと一緒に生きるかもしれないのだから、二人でちゃんと話をします」
「どっちが大人なのだかね……。そうなさいヴィリバルト。何でも言えば良いというわけでもなくて、言わなくても伝わるものでもないことは、よく分かったでしょう?」
自虐気味に女性が言うと、少年は元気よく「はい、おばあ様!」と返事をして弟の手を引いて立たせ、「そろそろ戻ります。ウルリヒ、片付けを」と言って女性に手を差し出した。
その手はまだふくふくとした子どもの手だったが、あっという間にたくさんの者を守る手となるのだろう。
女性は少年を見上げ、眩しいものを見るように目を細めて、その手を取った。
さて、いつあの人に告げてやろうかしらと女性が考えながら庭を出るところで、人影に気付いて三人は足を止めた。
庭は柵で仕切られてはいないが木々が絶妙に配置され視界を遮り、出入り口にはアーチがある。そのアーチの外で佇む人物に向かって、弟が駆けだした。
「おじい様!! おばあ様に会いに来たの?」
子犬のようにじゃれつく弟の頭を撫でながら、先王は「ジークリンデ」と女性を呼んだ。
いつもであれば「ジークリンデェェェェェ!!」と突進してくるのに、しょぼくれて立ち尽くしたままだった。
女性と少年の会話を聞いていたことがまる分かりだった。
「……約束を破ったわね?」
女性の地の底から響くような声に、横にいた少年の肩が跳ねた。そっと女性を窺って、パッと目を逸らした。見なきゃ良かったと少年は心底後悔した。
憤怒。
けして愛している人を見る目ではなかった。
え、おばあ様はおじい様を愛して……るんだよね?
ぶわっと汗が吹き出した少年は女性から一歩離れた。巻き込まれたらたまらないと本能で感じ取ったのだ。
「破ってはいない。庭に入っていないし声もかけていない。……聞いていただけだ」
先王が馬鹿正直に盗み聞きを白状すると、女性の纏う気配の温度が更に下がった。
少年は「はわぁあわぁ」と更に三歩下がった。
「屁理屈を……チッ。ヴィリバルト」
戦線離脱しようとしていた少年は急に名を呼ばれて「ヒャイ!?」と返事をした。
女性が呆れたように一瞥して「ウルリヒと戻りなさい。私はアリベルト様と話し合いがあります」と言って一人離宮に向かい、先王がそれについてトボトボと離宮に消えていった。
「おばあ様、チッてしてたね?」
少年は弟の手を引きながら、空耳じゃなかったのかと、なんとも言えない顔をした。
弟が真似して「ち」「ちっ」と舌を打つが、女性の『チ』はそんなか細い音ではなかったので、尚更なんとも言えなくなった。舌打ちに慣れているって何、と。
「兄上たちはぼくが寝ていた時、何の話をしていたの?」
手を繋いだまましゃがんで木の枝を拾って振り回しながら見上げてくる弟を見て、少年は乾いた笑いを漏らした。
「そうだな……ウルリヒももう少ししたらきっと『なんで?』って思うだろうな」
少年は自分も木の枝を拾って弟と戦い始めた。手は繋いだまま片手同士で打ち合い、弟のはしゃぐ声があたりに響いた。
護衛たちのところに着くまでのほんの少しの時間だが、最近はお互い忙しくて共に過ごすことができず、こういう時間は久しぶりだった。
「その時は、またおばあ様に僕たちのおじい様の話をしてもらおうか」
陽射しが美しいあの庭で、タブン続きのある愛の話を。
その後、少年はエリゼ・プレガーと良好な関係を築いて無事に婚約した。
そっと手を取り合って寄り添う初々しい二人を国中が祝福した。
そして諸々あって、両頬を腫らした先王はいそいそと離宮に引っ越していった。
次の春、産業祭にあわせて二人はささやかに結婚式を挙げる予定である。
この『諸々』は幸せなまとめ方で悪くないなと少年は笑った。
読んでくださり、ありがとうございました。
最初にタイトルの言葉が浮かび、凛とした貴婦人と孫の柔らかくて温かい時間を書こうとして、こうなりました(^^)。
いかがでしたでしょうか。
以下は『諸々』の一端が分かるおまけです。
ニクラスはアリベルトの幼馴染で側近でしたが、ジークリンデと一緒にアリベルトの尻拭いをしているうちにジークリンデの部下になっていた苦労人です。
王宮では事務と調整の神と呼ばれています。
気心知れた二人の会話をどうぞお楽しみください。
【おまけ】
王宮のとある一室にて。
遠回しで馬鹿丁寧なお貴族言葉を通訳してお伝えします。
アリベルト:ア
ニクラス:ニ
ニ「ようやっとまとまったか。夫婦になって三十三年、長すぎだろうが」
ア「俺、本当に自分が情けないわ……。まさかきちんと謝ってないのに謝り続けている気になってたなんて」
ニ「あえて許してないと皆が思ってたもんな。まあ、お前が軽率で迂闊で情けないのは昔からだろうがよ」
ア「幼馴染容赦ねぇな。俺、王様だったのに」
ニ「あん? 今、王様と臣下バージョンなの? サシ飲みに誘っておいて? だったら下町の酒場に行った方がうまい酒呑めるわ。一人でちびちび飲んでろよ、ヘタレが」
ア「ガチで容赦ねぇな」
ニ「俺たちなんぞ屁でもないくらいジークリンデ様は苦労してきたんだぞ。ちゃんと『ごめんなさい』はしたのかよ? ……まあ、なんだ、『結婚式、ヤダなぁ』はその時側にいた俺たちにも責任があるから強く言えねぇけど、それ以外は全部お前のせいだかんな」
ア「それも俺のせいだろ。いくらお前たちに『ジークリンデ様が美し過ぎて結婚式はすべての男が見惚れるな』って言われて、誰にも見せたくないからって『ヤダなぁ』という言葉はなかったわ。ちゃんと誠心誠意謝りました」
ニ「よろしい。俺にも隠し場所を言わなかったアレがようやく日の目を見たな。しかしまあ、よくジークリンデ様に見つからなかったよな」
ア「知られたら処分されるからな。ジークリンデの補佐官だったお前にも言えなかったが、王家の霊廟に保管庫作らせてそこに隠してた」
ニ「おまっ! 花嫁衣装を霊廟に保管なんて縁起でもねぇぞ」
ア「王宮内はどこもジークリンデの目が光ってたし、他になかったんだよ……。こっそり工事するのも大変だったんだから」
ニ「カビてなかっただろうな?」
ア「代々の女官長が自ら管理してくれていたおかげで、日に焼けずカビも生えず虫も食ってなかった」
ニ「最強の味方じゃねぇか」
ア「年若い女官に頼むと隠し切れずにバレるからって、三代に渡って女官長が一人でやってくれていた」
ニ「ジークリンデ様に『バラして売って現金化して』って指示されて、当時の女官長が号泣しながらハサミを入れるどこだったもんな」
ア「ギリギリ間に合ってよかったよ」
ニ「花嫁衣装を無傷で回収する以外、お前何一つ間に合わなかったよな。あの時のジークリンデ様は凄かった。結婚式の中止の手配はもはや神がかってた」
ア「お前最終的には手伝ってたじゃねぇかよ。……俺、シゴデキな方だと思ってたのに全部後手に回ってしまって、中止の手配をして回るジークリンデに追いつくこともできず、ようやく会えたら結婚式が祭になってて、ジークリンデは愛妾になってた……」
ニ「ジークリンデ様、マジ☆有能」
ア「俺、自分が大した事ないの思い知ったよ。それに、俺の一言の重みが恐ろしくもなった」
ニ「国際会議でやらかして反省してたのにな」
ア「あれも本当に皆に大変申し訳なく……」
ニ「あは! もう王冠は落ちないから頭下げ放題だな」
ア「いつも心では頭を下げていたよ。ジークリンデにもお前たちにも。俺、こんなに不甲斐ないのに側にいてくれてありがとうな、友よ」
ニ「急にきも」
ア「ひどくない?」
ニ「それで? 三十三年前に処分したはず花嫁衣装を見た時のジークリンデ様の反応はどうだったんだ?」
ア「可愛く泣いてた」
ニ「マジでお前きもいな」
ア「普通に悪口やめれ。その後ジークリンデに、当時花嫁衣装を売ったお金を結婚式中止の損失に充てたはずなのに、売らずにその金はどこから持ってきたのかって詰め寄られた」
ニ「ははっ! ジークリンデ様らしいな! 売った概算出したらお前のへそくりじゃ足りなくて、パパ陛下に借りて充てたのを言ったのか?」
ア「分割で返したことも言った」
ニ「求婚した後だろ? しまらねぇな!」
ア「いや、求婚する前」
ニ「え……断られちまったのか」
ア「なんでだよ。受けてくれたよ。俺、あい、あ……愛されてるから!(テレ///) 次の産業祭に合わせて花嫁衣装を着てくれるよ。エヘヘ」
ニ「あー……(ジジイのテレ、うざ。……そうだった、ジークリンデ様はコイツのことが好きなスーパー物好きだった)、おめでとう?」
ア「なんで語尾が上がったんだよ。普通に祝えよ。そういえば、息子たちからも『あー……ハイハイ、おめっとさん〜』って適当に祝われたな」
ニ「万年思春期夫婦がようやく正式に結婚式を挙げるだけだからな。陛下はもう陛下だし、王弟殿下たちも身分は変わらんし、仕方なくね? 三十前後の野郎共が『パパママおめでとう!!』のテンションの方が怖いわ」
ア「それもそうか……。いや、お前は普通に祝えばいいじゃん」
ニ「オメデトウゴザイマス、先王陛下」
ア「白々しいのやめれ。……祝い事といえば、うちの孫とお前の孫が婚約するなんてなんか不思議だよな。プレガー家の侯爵もおめでとう」
ニ「ありがたい話ではあるんだが、爵位が上がると税金と面倒が増えるだけなんだよな。まあ、もう息子が継いだからいっか。お前と違ってヴィリバルト様ならエリゼを大切にしてくれるだろうし、良い御縁に素直に感謝してる」
ア「一言多いな。エリゼ嬢は王妃とジークリンデの話をして盛り上がって仲良くしてるわ。王妃は『ジークリンデ様をお義母様と呼びたい!』って縁談を売り込んできたくらいだからな。教師たちからもエリゼ嬢は評判良いし、ヴィリバルトともいい感じだし、次代もよき治世になるだろうよ」
ニ「急に王様みたいなこと言い出した」
ア「たまには」
ニ「エリゼもジークリンデ様のファンだからな。王妃殿下に可愛がってもらえて何よりだ。……言っておくが、我がプレガー家は皆がエリゼ☆ラブだ」
ア「お、おう?」
ニ「エリゼがもしも正当に扱われなければ、国中の機関にいる一族郎党、皆仕事が手につかなくなるからな?」
ア「堂々とボイコット宣言するなし。国の動きが止まるわ」
ニ「うちは懐が底なし沼のように深いシュリケ公爵家とは違うんだ。お前を許し続けてくれたシュリケに礼を尽くせよ?」
ア「急に忠臣みたいなことを言う」
ニ「いつもだろ」
ア「なんかすまん」
ニ「ホントだよ。まあ、なんだ? 結婚おめでとうな、アリベルト」
ア「ありがとう……、友よ」
ニ「きんも」
ア「ホントにひどい」
この後、アリベルトはジークリンデと共にシュリケ公爵家に結婚式の報告に行って、ジークリンデの弟に「亡き父に代わって百発殴らせてください」とボコボコにされました。
ちゃんちゃん。
おまけまで読んでくださってありがとうございました!
また違うお話で皆様にお会いできますように。




